第56話 男は大体、BARにいる
※これはれっきとした、異世界を舞台にした日常系カオスコメディです。ジャンルどうなってんだ…と思うかもしれませんが、しばらく混沌にお付き合いください。
これは梅原ナオたちが住まう世界『オームス』とは全く関係ない、とある世界線の話。
【とある夜の大都会】
雨が降っていた。
ビル群の摩天楼は夜空に届きそうなほどに聳え立ち、ネオンは街の闇をジリジリと焼いている。
濡れたアスファルトの上では光が滲み、赤や青の看板が水たまりに反射して揺れる。
高架を走る列車の轟音が頭上を震わせ、街を行き交う人々の雑踏が遠くでうごめく。そして時折、サイレンが街の奥から響いてくる。
大都市の路地裏。
人通りの途絶えた細い通路の奥に、地下へと続く階段があった。
その先に、一軒の小洒落たバーがある。入口の扉は重く、看板も目立たない。
扉を開ければ、どこからともなくジャズが流れている。薄暗く落とされた照明に、艶を帯びた重厚なカウンター。
空気の中には酒と煙草の匂いが溶け込み、ここだけが街の喧騒から切り離されていた。
そんな店のカウンターの端に、一人の男が座っていた。
顎髭にサングラス、紺のダークスーツと中折れハット。片手には、琥珀色の酒が注がれたグラス。
男はグラスを軽く傾け、氷の鳴る音を聞く。
そして、誰に向けるでもなく呟いた。
「女は時折、俺を裏切るが……」
間を置き、サングラスの奥の目を細める。
「バーボンは、俺を裏切らねえ」
カラン。
グラスの中で氷が鳴った。
バーテンダーがシャカシャカとシェーカーを振る音と、ジャズの音色だけが静かに店内を満たしている。
無駄にハードボイルドなその男は、何も言わずにバーボンを煽る。
その隣へ、バーテンダーが音もなく近づき、カクテルグラスをそっと差し出す。
男は無言でバーテンダーを見た。
バーテンダー「ドライマティーニでございます。……あちらのお客様からです」
男が示された方に視線を向けると、カウンターの端の席に女がいた。赤く胸元の開いた扇情的なドレス。スラリとした脚を組み、魅力的な笑みを浮かべながら、こちらに軽く手を振っている。
男は無言でグラスを受け取り、ほんの少しだけ口角を上げた。
「フッ……たまには、こんな夜も悪かねえ……」
男はマティーニのグラスを持ち、女の隣へ移動する。
女は艶やかな唇で問いかけた。
「ねえ? 私たち、以前どこかで会ってないかしら?」
男はマティーニから視線を離さず答える。
「会ったかどうかは問題じゃねえ。だが、雨の夜は人の記憶が朧げになるものさ」
「それ、要するに覚えてないってこと?」
男のサングラスが照明を拾い、キラリと光った。
ジャズの音が、妙に大きく聞こえる。
「……覚えてるかどうかも、問題じゃねえ」
女は呆れたように笑う。
「問題じゃないこと多すぎでしょ」
男はグラスを傾け、氷を鳴らす。
「今こうして君の隣にいる。それが全てさ」
女は口元をほころばせる。
「それ、口説いてるの?」
「フッ、どうだかな。俺は口説くために言葉を使うタイプじゃねえ」
「じゃあ、何に使うの?」
男はマティーニをぐいっと飲み干し、カン、とカウンターに空のグラスを置く。
「退屈な夜を、埋めるためさ」
「あら、私といるのは退屈?」
「退屈なのは君じゃなく、この街さ」
女は脚を組み直し、頬杖をついて小さく笑った。
「そんなあなたも、その退屈な街に住む一人なのに?」
それを聞いて、男は口角をほんの少しだけ上げる。
「俺は……ここに住んでるつもりはねえ」
女は少し驚いたように瞬きをする。
「じゃあどこに住んでるの?」
男は被っている中折れハットを、指で示した。
「ここさ」
女は一瞬きょとんとした。
しかしすぐに吹き出すように笑う。
「フフ……あなた、意外とジョークのセンスあるのね」
男のサングラスがまた、キラリと光る。
「ジョークってのはな……時に、笑って流せる形にした真実が混じるものさ」
女は小さく笑ったあと、身を寄せて囁く。
「ねえ。私、もう少しあなたと飲みたいかも」
サングラスの奥の視線が、静かに彼女を捉える。
「ここじゃなくてもいいの。あなたの行きつけとか……ないの?」
「あるさ……久しく顔を出してなかったがな」
そう言うと男は残りのバーボンも飲み干し、スーツのポケットから金を取り出してカウンターに置いた。
「……行くか。マスター、勘定は置いとくぜ」
バーテンダーは何も言わず、グラスを拭きながら小さく会釈する。
チリン、チリン。
扉のベルが鳴り、二人は外へ出た。
人混みの多い大通りへ向かう二人。雨はまだ、街を濡らし続けている。
女が尋ねる。
「あなた、傘は?」
「俺にはこれで十分さ」
そう言って男は中折れハットを軽く押さえた。
女は笑いながら首を振る。
「フフ、それじゃ風邪引くわよ? 夜はまだ長いんだから」
女は男の腕に絡み、自分の傘を手渡す。
「フッ……たまには退屈じゃねえ夜も悪くねえ」
男は黙って傘を受け取り、彼女が雨に濡れないように差しながら歩き出した。
大都会の喧騒、遠くで響くパトカーのサイレン、濡れた路面に滲む煌びやかな光。
二人の姿は、その中へ溶けるように消えていく。
雨はまだ、止みそうにない。




