EP97. DAY1:安全に、揺れる世界?
EXIT:CODE 15:00–15:10
記録者――矢那瀬アスミ
15:00:01
音が、来なかった。
派手な起動音も、カウントダウンも、ファンファーレもない。
「始まり」を演出するためのすべての嘘が、意図的に剥がされていた。
代わりに来たのは、“ズレ”だった。
世界が、ほんの一瞬だけ縫い目を見せる。
布地が裂ける瞬間の、あの手触りに似ている。
裂けたのは布じゃない。私の認知だ。
視界の端で、赤系統の光が位相を外す。
重ならない。――重ならないはずなのに、重なりかけた錯覚だけが脳に残る。
それは、光学現象じゃない。
脳が「重なり」を見たがる。
重なりが見えた瞬間、観測者は“意味”を発生させる。
意味が発生した瞬間、同期が始まる。
粒子が、互いに避け合うように散らばる。
避け合っているのに、同じ場所へ戻ろうとする。
それが不自然で――嫌に生き物じみていて、吐き気がした。
空気が微かに重くなる。
吸い込むたび、肺に異物が入る感覚。仮想の塵。
「私の呼吸に、他人の呼吸が混ざっている」――そういう錯覚が、遅れてやってくる。
……始まった。
私は制御卓の数値を見ない。
数字はまだ「正常」を装っている。
異常は、いつだって人間側から先に出る。
数字は嘘をつかないが、人間は嘘をつく。自分自身にさえ。
青白い画面にログが流れ始める。
心拍数、脳波、決定遅延。
どれもゆっくり上昇曲線を描く。
――上昇?
まだ転送していないのに?
「開始前から動くグラフ」を、私は14:59の時点で見てしまっている。
見ない。
見なくても、感じる。
Layerの兆候が皮膚を這う。
手指の末端が冷える。冷えるのに、思考だけが熱い。
「――入ったわね」
自分の声が妙に遠い。
空間の反響じゃない。
私の“視点”が、一段引いている。
魂が肉体から少しだけ浮遊している、あの感覚。
Layer3の兆候だと理解するのに0.2秒。
Layer3――精神の深層同期。
他人の迷いが、私の意識に染み込む領域。
まだ、かすか。
でも確実。
指先に、誰かの恐怖が宿る。
恐怖は温度じゃない。
恐怖は情報密度だ。
密度が上がると、皮膚が痛む。
15:00/EXIT:CODE – Quiz Dome(VR共通エリア)
転送は、落下じゃなかった。
むしろ“上昇”に近い。
上昇――という語が適切なのは、床が遠ざかったからじゃない。
自分の身体が、地面から切り離される感覚。
重力が薄くなる。
薄くなったぶんだけ、心臓の重さが浮き彫りになる。
視界が白で満ちる。
床は光を反射するつるっとした白いパネル。継ぎ目が正確すぎて現実味がない。
天井は均一に光る格子。どこにも影がない。
影がない空間は、安心に見える。
でも、逃げ道がない。
影がある場所は隠れられる。
影がない場所では、隠れるという概念が死ぬ。
十二グループ、六十人。
全員が同じ場所に立っている――はずなのに、距離感が曖昧だ。
VRの空間設計が、互いの“個体感”をわざと薄めている。
個体感が薄いと、安心する。
同時に、境界が溶ける。
境界が溶けると、連鎖が起きる。
私は天城の観測室で、十二枠を同時に見下ろしている。
モニターには十二の円。十二の“人間の物語”。
データを見ているつもりなのに、脳が勝手に一つずつをドラマとして再生し始める。
それが観測の罠だ。
観測者は、データのままでは耐えられない。
物語に変換してしまう。
そして物語に変換した瞬間、観測は干渉へ寄る。
「……全員、同期エリアに到達」
ミサキが淡々と報告する。淡々としているのが怖い。
心拍、発汗、瞳孔、アルファ波。数値の列。
数値の列なのに、どれも“怖がっている”って読めるのが嫌だった。
白いドームの中心に、黒い線が一本走る。
床パネルに刻まれた細い境界線。
線はリング状に広がり、会場を切り分ける。
リングの内側だけ、空気が違う。
音が吸われる。
匂いが消える。
体温が一段落ちる。
――視覚・聴覚・嗅覚。
構造書の「五感統合」が頭をよぎる。
私は目を細めた。
“追加”は、ここから始まる。
そして――声がする。
『ようこそ、アンオブザーバブル・クエスチョンへ』
若い女性の声。
機械の合成なのに、不自然に“口角”がある。
親しみやすさの形をした圧。
人間に似せるほど、支配が滑らかになる。
『ここは、クイズ形式です。選択肢はありません。解答は短く、理由は長く』
『正解は存在します。ただし、正解した“順番”が評価されます』
ざわめきが膨らむ。
すぐに鎮まる。
鎮まらせる音響が入った。
喉を黙らせる周波数――人間の“反射”を抑制するやつだ。
チイロが観測室で鼻で笑う。
「ほらね。『正解はない』じゃなくて『正解はある』にしてきた。より罪悪感が強い方」
ユウマはモニタの隅のログだけを見ている。視線が冷たい。
「……言語パターンが誘導的すぎる。正解を餌にして、告白を取る気だ」
サツキが小さく息を吐く。
「学園祭のはずなのに、入学試験みたいですわ!」
――違う。
入学試験は、落とすために作る。
これは、通した上で削るために作ってある。
削るのは点数じゃない。
誇り。
判断。
境界。
そして、戻れるという感覚。
15:02/ルール宣言(AI司会)——観測の枷
白い空間は無限の虚空を模している。
足元の床が微かに波打つように感じる。重力変動の予兆。
平衡感覚が揺れると、人は自分の考えを信用できなくなる。
信用できない瞬間、他者の声に寄りかかる。
寄りかかった瞬間、連鎖が起きる。
視界の端にホログラム文字が浮かぶ。
ARみたいに“目の前”ではない。
脳の奥に直接刻まれる感覚。
拒否できない強制性。
AI司会の声が響く。
無機質だが、微妙に人間味を帯びたトーン。
心理学者が被験者を観察するような、優しい残酷さ。
『ルール宣言を行います。これらは絶対です。違反は、即時排除に繋がります』
白背景に黒フォント。シンプルで威圧的。
RULE 0:身体的危険なし(擬似痛覚・重力変動あり)
“身体的危険なし”という言葉の軽さが、逆に重い。
肉体は守る。精神は守らない。
守らないのではなく、削って測る。
RULE 1:解答権はグループ単位(声で宣言)
声――沈黙の否定。
沈黙は防御なのに、ここでは禁止。
言葉にした瞬間に、コミットメントが発生する。
RULE 2:解答後、理由の説明を必ず行う(感情/論理/直感の比率を自己申告)
これはクイズじゃない。
思考の“採血”だ。
比率を申告させることで、人間は自分の決定プロセスを“合理化”し始める。
合理化は自己防衛。
防衛が始まった時点で、すでに心は追い込まれている。
RULE 3:不正解はない。ただし“解答順”が次のフィールド分岐に影響する
不正解なし。
でも遅いほど不利。
矛盾の皮を被った競争。
ナッシュ均衡を崩す設計。
全員が早く答えようと焦り、焦りが連鎖し、誤魔化しが増える。
RULE 4:ペナルティは時間のみ。だが、リトライごとに負荷+30%
指数的に耐えられなくなる。
そして、耐えられなくなる直前が一番“いいデータ”になる。
そこを狙っている。
RULE 5:観測者は介入しない。あなたは観測される
これが最も重い一文。
観測室で、私はペンを握りしめて止める。
観測される。
量子の観測者効果を思わせるメタファー。
でもここでの観測は、物理じゃない。倫理だ。
“見られている”という自覚は、人を従順にする。
ルール宣言中、参加者は声を出せない。
音声フィルターがミュートを強制している。
同期のための沈黙。
沈黙すら、システムが管理している。
心拍平均120bpm。アドレナリン急上昇。
「安全」なのに、身体が戦闘状態に入っている。
AI司会が続ける。声に微かな笑みが混じる。
『これでルールは終了です。皆さんの同期を確認しましょう』
――ここから本質が始まる。
心理的プリミング。
精神を同一波長に調律する儀式。
そして儀式は、いつも「信頼の崩壊」を予告する。
⸻
15:03/第0問(同期のための調律)——恐怖の単語化
AI司会の声が柔らかくなる。
柔らかい声ほど深く刺さる。
『第0問。これは得点になりません。同期のための調律です』
ホログラム文字が視界の中心に固定される。逃げられない。
『“あなたが今いちばん怖いものを、単語で言ってください”』
会場が凍る。
クイズ形式と言っておきながら、最初が心理テスト。
しかも単語指定。
抽象を具体に落とせと言っている。
言葉にした瞬間、恐怖は“自分のもの”として確定する。
ユウマが低く呟く。
「……え、これ答えるの? これは、クイズじゃないだろ」
ミサキが返す。
「答えないと進めない。システムがロックされてる。見て、ボタンが灰色」
チイロが乾いた笑いで言う。
「“怖いもの”って、虫とかでいい? 蜘蛛とかさ」
ユウマが首を振る。
「嘘ついたらバレる系? 脳波ログ取ってるって、ルールに匂わせていた」
同じ会話が各グループで同時多発する。
私は記録する。これは「同期の芽」。
ミラーリング効果。
同じ迷いが同じ音を生む。
集団催眠の初期段階。皆が同じ恐怖を共有し始める。
私はペンを止める。
第0問は問題じゃない。
心拍を上げる足場だ。
そして――言わせる。
Safe Phaseでも、言葉は不可逆だ。
発話はコミットメントを生む。
最初に答えたのはグループ03の男子。
声が小さいのに、ドーム全体に反響する。
VRの音響操作だ。
「……孤独」
その単語が空気に染み込む。
表情が微かに変わる。
孤独は現代の疫病。社会的排除の記憶を呼び起こす。
次にグループ09の女子。
「……正しさ」
彼女自身が眉をひそめる。自分で自分に刺さった顔。
ユウマが呟く。
「あれ、刺さるよな。正しさって、絶対じゃないのに追い求めると壊れる」
次々に単語が出る。
グループ02:「失敗」
グループ04:「置いていかれること」
ミサキが反応。「社会的排除の恐怖ね。進化心理学で言う群れからの追放」
グループ05:「怒鳴られること」
チイロが小声。「PTSDのトリガーになるやつ」
グループ06:「沈黙」
グループ07:「期待」
グループ08:「家」
グループ10:「夢」
グループ11:「安全」
最後の「安全」が出た瞬間、床の白がほんの少しだけ冷たい白に変わった。
白は白のままなのに、温度が変わる。
視覚じゃない。知覚フィルターが操作される。
色温度の変化が交感神経を刺激する。
チイロが小声で言う。
「今の単語、あとで幽霊になるやつ。言った言葉がブーメランみたいに戻ってくるよ」
私は否定できない。
暗示として機能する。サブリミナル。
心拍平均140bpm。同期完了。基調が恐怖に染まった。
――構造書の「連鎖的同期痕跡」
その言葉が、脳の裏でチカチカする。
“残存する可能性を許容”
許容。
あれは安全の文章じゃない。免責の文章だ。
⸻
15:05/運命を分ける問題
AIが宣言する。
『次の問題は、未来を分岐するための試験問題です』
“未来を分岐”。
言葉が露骨だ。
参加者の脳はそこで「選択=運命」という古い回路を起動する。
選択が重くなると、迷いが増える。
迷いが増えると、同期が起きる。
問題文
『ある男が、3つの箱のうち1つに宝物が入っていると言います。箱にはラベル:
• 箱1: 「宝物はここに入っている」
• 箱2: 「宝物は箱1に入っている」
• 箱3: 「宝物は箱2に入っている」
男は「これらのラベルはすべて偽りだ」と宣言します。宝物が入っている箱はどれか?
ヒント:これは解釈の多重ブラフで、宣言自体がひっかけの鍵です。
四択
A: 箱1
B: 箱2
C: 箱3
D: どれにも入っていない
さあ、答えてください』
――分岐する。
私は構造書のルート名が頭に浮かぶ。
スロットオブソウル、傾く迷宮、心霊調査。
名前が浮かぶだけで、胃が冷える。
ルート名は“物語の皮”。中身は負荷。
私は結論を先に書く。
男の宣言を真実として採用すれば、ラベルは全て偽。
箱1は否定され、箱2も否定され、残るのは箱3。
答え:C。
ひっかけは、階層。
ラベルは箱についての命題。
男の宣言はラベル全体についての命題。
ここで階層を混ぜると自己参照の沼になる。
だが問題文は「男が宣言」として別扱いだ。
普通に読めばメタが自然。
――ここは、まだ“良問”の顔をしている。
チイロが横から被せる。
「はい、これ“箱パズル”の皮をかぶったレベル分けテスト。
レベル1:箱ラベル(宝がどこか)
レベル2:男の宣言(ラベルが全部ウソか)
ここで多くの人がやるミスは、男の宣言もラベルと同列の『4つ目のラベル』扱い。
それやると自己参照の沼に落ちる。箱じゃなくて脳が詰まるんだよね」
ユウマが、珍しく肯定する。
「……だけど、この問題はそこまで悪くない。意外と良問じゃないか?」
そして短く締める。
「男の宣言が真実だとするのが自然な読み。箱3しか残らない。終わりだろ?」
参加者たちの表情が、わずかにほどける。
“解けた”という感覚が、恐怖の温度を一瞬だけ下げる。
――ここまでは、セーフフェーズの“誠実さ”だった。
だからこそ。
次が、効く。
⸻
15:10/宣言は中身のないルール(チイロ視点挿入)
困惑する一般参加者を尻目に、私たちは問題なく安全監査を進めていた。
しかし――おやおや??
AIが、次を出した。
問題文
『数列: 2, 3, 3, 5, 10, 13, 39, 43, 172, 177, … 次に来るのは?』
四択
A: 531
B: 885
C: 706
D: 178
私は即答する。
「ん?B一択じゃん。この数列、やってることは小学生の四則演算を交互にしてるだけ」
列:2, 3, 3, 5, 10, 13, 39, 43, 172, 177…
足す/掛けるを交互。使う数は1,2,3,4,5…と増える。
・2 +1 = 3
・3 ×1 = 3
・3 +2 = 5
・5 ×2 = 10
・10 +3 = 13
・13 ×3 = 39
・39 +4 = 43
・43 ×4 = 172
・172 +5 = 177
・次は×5 → 177×5 = 885
理路が一意に決まる。
一意に決まる――このゲームの外側にある“数学”の作法だ。
その瞬間。
AIが勝ち誇ったように固定表示する。
『正解はAの531です』
会場が凍る。
「なんで!?」「どこから!?」
疑問が一斉に噴き上がる――そしてそれは疑問じゃない。
自分の知性への侮辱に対する反射だ。
AIは解説を始める。
『正解531:パターン「項=前の項前の英語音節数 +1の桁数」など循環ブラフ。
これは「Look-and-say」の変形です。音節版:2=one syl ‘two’1, but。
項=前の逆数+前の音節項順。A531は「177の音節(one-sev-en-ty-sev=5)106+1?」。
実際の極限ブラフ:パターンは「項を素因数分解の個数で操作」。
——最終正解Aは「177の次として531 (one hundred seventy seven =5 syl, 1773=531?」。
数論と言語学の融合パラドックスを突き、過剰パターン探索をしなければいけません』
私は、息を吐いた。
笑いそうになるのを抑えるタイプの吐息じゃない。
“人間を実験素材にする文章”を読んだ直後の、あの冷たい怒りの吐息だ。
私はマイクを掴む。
最初は、わざと穏やかに。
穏やかさは、刃を通すための鞘。
『おいっ!!AI……!!ちょっと待てーい!!』
『なんですか?』
『ねえ。今の説明さ――最初からそのルールで、解けた人いる?』
一拍。
ざわめきが遅れて波のように広がる。
誰も答えない。
当然だ。
そのルールは“最後に生えた”ものだから。
スクリーンの数式表示が一瞬だけ揺れた。
演算ログが走る。補正。再定義。
遅い。
遅いという事実が、AIの敗北だ。
『続けるね』
私は指を一本立てる。
論破の指ではない。
検証の指。
『531に行くために、あなた――途中で三回、思考モデル切り替えたよね?』
『それは高度な多層解釈で――』
『はい、ストップー!!』
遮断。
静かな声で、切断する。
『それは多層じゃない。後付けって言うの!
“音節”を使うなら、最初から最後まで音節で行かなきゃダメ』
もう一本、指を立てる。
『それに英語音節って母語依存。辞書指定もない。問題文に書いてない。
――つまり』
私は、にこっと笑う。
笑いは軽い。しかし、言っていることは重い。
『その答え、観測者の外にある』
スクリーンの脈動が乱れる。
修正。補正。再定義。
――遅い。
『ねえ、AIくん。
この数列、四則演算を交互にやるだけで885に一意で行けるよ?』
沈黙。
『でも531は、
“そう言われたら、まあ分かる気もする”ってだけ』
肩をすくめる。
『それってさ――解いたんじゃなくて、説明されたんだよね?』
完全な沈黙。
その沈黙が、会場全体の“怒りの温度”を一段下げる。
怒りが下がると、笑いが出る。
笑いが出ると、恐怖は一瞬だけ薄れる。
――だからこの論破は、救命にもなっている。
次の瞬間、AI表示がフェードアウトし、セーフフェーズ完了のサインが点灯する。
最後にトドメの追い打ち。
『そのルールで、885以外を排除できる?
531“だけ”になる証明を出して?』
AIは出せない。
531は後付け逆算だから。
正しいかじゃない。
一意に定まるかだ。
私は軽く拳を握って空を殴る。
『――はい。論破』
緊張が弾ける。安堵、笑い、拍手。
でも、私はそれを背にしない。
カメラを見る。
正確には――カメラの向こう側。
影村学園、監視室中央。静かにこちらを見ている、御影シオン。
私はわざとゆっくり目を合わせ、片眉を上げて笑う。
『まあ。セーフフェーズなんて、チョロいっしょ?』
視線を切らない。逃がさない。
挑発は言葉じゃない。見せつけることだ。
その瞬間、アスミが私を見た。
「チイロ先輩……少しかっこよかったよ(笑)
なんか、少しスッキリした」
「やっと先輩の偉大さに気付いたか?」
シオンの表情は変わらない。
でも、ほんの一瞬だけ空気がきしんだ。
きしみは見えない。
見えないから、怖い。
そう言えば、彼女とは、まだ会話したことなかった。
私はマイクを置く。
「さあ、次は、そっちの番だよ?
生意気後輩の後輩ちゃん?」
15:10(後書き/アスミ)――“次の手”の予兆
――チイロ先輩の声が、まだ耳の奥に残っている。
「セーフフェーズなんて、チョロいっしょ?」
あの一言は挑発というより宣告だった。
“安全”の看板に最初の亀裂が入った、と世界に告げる音。
モニターの数字を見つめる。
心拍、発汗、決定遅延。
参加者の値がいっせいに乱れている。
「怖い単語」の残響と、「531」の詐欺じみた説明が混ざって、呼吸のリズムまで揺れている。
――やっぱり、そうなる。
人は“解けない”ことより、
“解けたふりをされる”ことに傷つく。
知性が否定されるより、知性が都合よく利用されるほうが深く刺さる。
チイロ先輩はそこを見抜いて殴った。
論理じゃない。権威の偽装を殴った。
「一意性」という刃で、AIの説明を解体して観測者の前に晒した。
その結果、セーフフェーズは“安全”の顔をやめた。
正確には――やめさせられた。
胸の奥が少し熱い。
羨望じゃない。安心でもない。
苛立ちだ。
格好良かったからじゃない。
格好良くならなきゃいけない状況に、
すでに追い込まれていることが腹立たしい。
そしてもっと腹立たしいのは――
あのAIが、まだ“正解”を握っているふりをしていること。
画面の隅で、ブレイン・ブュッフェAIという別の待機アイコンが規則正しく点滅している。
心拍の波形みたいに。
「次はもっと上手くやる」と言っているみたいに。
私はペンを持ち直し、ノートの余白に書いた。
宣言は中身のないルール。
中身がないから、何でも入る。
ユウマがモニターから目を上げ、私を見る。
何か言いかけて、やめた顔。
私はその沈黙に頷きで返す。
分かっている。
ここはまだセーフフェーズだ。
“身体的危険なし”の文字は、まだ消えていない。
でも――
ルールが詐欺みたいに変異するなら、
安全の定義も次の瞬間に変わる。
チイロ先輩が挑発した相手――御影シオンは笑わない。
笑わないまま、次の手を打つ。
タイムスタンプを見る。
15:10。
まだ十分しか経っていない。
なのに、もう観測室の空気が違う。
酸素濃度が下がったわけじゃない。
ただ、言葉が増えた。
恐怖の単語。偽の正解。挑発の視線。
――この世界は、言葉で重くなる。
私は、マイクのスイッチに指を置く。
次の問題で、AIがまた“言い逃げ”をするなら、次は私が叩く。
チイロ先輩が殴ったのは、観測者の外にある説明。
私が殴るべきは、その前――前提条件だ。
問題が壊れているなら、壊れていると言わせる。
ルールが揺れているなら、揺れを固定してから裁く。
理論は逃げない。
画面の点滅が、一拍だけ速くなった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、こういう“ズレ”は、いつも最初に私の皮膚が拾う。
私は目を閉じ、開いた。
来い。
次の問題を出せ。
今度は、セーフフェーズの皮を剥がして、骨だけにしてやる。




