EP95. DAY1:昼は休憩時間という幻想
昼というのは、本来いちばん安全な時間帯だ。
人は食べると落ち着く。座ると考える。噛むと攻撃性が下がる。
血糖が戻り、交感神経のピークが落ち、前頭前野が「理性の席」に座り直す。
心理学でも生理学でも、だいたい一致した見解だ。
——少なくとも、普通の場所では。
COEの昼は違った。
午前の熱を冷ますどころか、圧縮して再点火する時間帯だった。
原因は明確だ。午前中に作ったものがある。
列。スレ。推し文化。集団心拍。
そして何より——「矢那瀬アスミ」という“観測対象”が、すでに学園内の共有メモリに焼き付いている。
休憩は取れなかった。
取れる構造じゃなかった。人間の流量が、設備の仕様を超えている。
だから私とチイロ先輩は、
「客と一緒に食べる」という、
秩序側としては最悪、現場判断としては最善の選択をした。
客席に座れば、場が“家庭化”する。
家庭化は熱を下げる。推し文化を「日常」に戻す。
——理論上は、そうなる。
それが13時以降の事態を呼び込んだのだとしたら。
私はきっと、後悔と納得を同時に抱えることになる。
これは、
昼ごはんが戦場になった話だ。
ちなみに私は、今日すでに二回「死ぬ」を現実的に想像している。
……この変態世界の安全設計、どこに置いてきたのよ。
13:00/COE・集中営業開始 ――「午後の部:再起動」
「——はい、COE 午後の部、再開しますわ!」
サツキ会長の声が、教室に落ちる。
午前より静かで、しかし確実に重い。
軽い明るさを装いながら、声帯の奥に“統治”を仕込んでいる——あの、天真爛漫なお嬢様がたまに見せる「笑顔の行政」。
午前の騒ぎで空気は一度“焼けた”。
午後はその余熱を、規制と設計で“管理可能な火力”に戻すフェーズだ。
壁面モニターが切り替わり、ホログラム掲示板が淡く光る。
フォントは可愛く、内容は軍事。
《COE Day1 午後:集中営業プロトコル》
・入場制限:継続(教室内30+スタッフ)
・整理券:再配布(推し指定/枠の分散)
・導線:三重化(Order/Chaos/救護)
・緊急合言葉:「甘いのストップ」
・転売:無効化(QR照合/本人確認)
・クールダウン:水・糖・座位を確保
・実況:音圧制限(※努力目標)
……理論上は完璧だった。
ここで言う理論は、接客マニュアルじゃない。
群集流体力学と臨時避難設計と心理的トリガー管理の混成モデルだ。
午前のCOEは“自由対流”だった。
人が勝手に集まり、勝手に温まり、勝手に臨界に近づく。
午後は“強制対流”に切り替える。風向きは運営が決める。熱の逃げ道は先に作る。
スモールループ(入口→Order→会計→退店)と、ラージループ(入口→Chaos→救護→退店)を分離し、交差点を減らす。
要するに——人間を「混ぜない」
サツキ会長は、掲示板の下に、さらに一行付け足した。
《追加:午後は“昼”ではありません》
《集中営業:熱量のピーク処理時間です》
……宣言が怖い。
でも、怖い宣言ほど、現場では効く。
会長が小さく息を吸う。
そして、いつもの明るさで言い切る。
「それでは皆さま、午後のCOEへようこそですわ!
“可愛いは暴力”——しかし暴力は、ちゃんと規制しますの!」
笑顔。拍手。
客席が一瞬「安心」の顔になる。
——この0.5秒が、午後の生命線だ。
……ただし。
問題は、人間が理論どおりに動かないことだけだ。
そしてCOEに来る人間は、だいたい理論に従う気がない。
“推し”という概念は、ルールの外側で増殖する。
禁止されると燃える。規制されると攻略したくなる。
学園祭という免罪符が、それを加速させる。
午後の扉が開く。
空気が一段、濃くなる。
私は(アスミ)、黒メイドの裾の重さで自分を支えながら、頭の中で再確認する。
午後は再起動じゃない。
午後は、午前のログを抱えたまま走る“継続稼働”だ。
⸻
13:05/アスミ視点:秩序側の“疑似休憩” ――「等エントロピー食事」
「アスミ、座って」
チイロ先輩が、Order席の一角を指差す。
その指が軽いのに、現場の空気を動かす。
ミーム女子の指差しって、どうしてこんなに権力があるの。
そこにはすでに、一般来校者と紅華の生徒、天城男子が混ざって座っていた。
混成部隊。
しかも視線の角度が全員“観測者”寄り——被写体を見る角度じゃない。所有を夢見る角度。
「……ここ、客席ですけど」
声が、思ったより落ち着いて出た。
午前の酸欠で、私の緊張のキャパシティは一回壊れている。
壊れたあとは案外、冷静だ。人間、そういうふうにできている。腹立つ。
「うん。だから一緒に食べる」
チイロ先輩は迷わない。
迷わないのに軽い。
その軽さが、現場では最強の“鎮静剤”になる。
「は? 休憩では?」
「疑似休憩。栄養補給と心理緩和を同時にやる。
“推し”を“日常”に戻す儀式。 あと、私も飢える」
言い方が雑なのに、内容がガチ。
心理学的にも理屈は通る。
推し対象を「遠い舞台」から「同じ机」へ落とすと、興奮は“神格化”から“同席の礼儀”へ変換される。
崇拝は距離で育つ。距離を潰せば、暴走は減る——はず。
……ただし、距離を潰すと、別の種類の暴走が始まる。
それが午後のCOEだ。
客席に座ったメイドは、もう“展示物”じゃなくて“同席者”になる。
同席者は会話が生まれる。会話は熱を上げる。熱は——死ぬ。
結論:現場はいつも最悪の方向に最適化される。
私は黒メイドのまま、トレーをテーブルに置き、同じランチプレートを前に座った。
今日のランチは「エントロピー弁当」。
内容は普通。名前だけが狂ってる。COEはそういう場所。
弁当の中身——
・量子卵焼き(ただの卵焼き)
・シュレディンガー唐揚げ(生でも死んでもないわけがない)
・熱容量ポテサラ(腹持ちが良いという意味で)
・秩序の漬物(味が薄い、つまり秩序)
……ふざけてるのに、ちゃんと栄養バランスがいいのが腹立つ。
ミサキ監修だ。絶対に。
「アスミちゃんと同じもの食べていいですか!?」
紅華の生徒が、尊いものを見る目で言う。
その目、午前中に“告白”を撃ってきた子と同系統だ。怖い。
“尊い”って言葉、距離を詰める免罪符として使われがちなのよね。
私は、反射で背筋を伸ばす。
姿勢は防御。言葉より先に身体がプロトコルを立ち上げる。
「はい。今日は“等エントロピー食事”なので」
言ってから自分で思う。
何それ。意味がわからない……と。
たぶん“みんな同じもの食べて落ち着こうね”って言いたかっただけ。
でも、こういう謎ワードは効く。
オタクは“用語”に弱い。
「等エントロピー」という単語が、彼らの脳内に“解釈の宿題”を発生させる。
宿題が発生すると、興奮が思考に変換される。
思考は、叫びより静か。
——つまり、今の私は静かに治安維持をしている。
(すごく嫌な才能。)
箸を取る。咀嚼する。
咀嚼の回数を意識しない。意識した瞬間、負けだ。
なのに——
……視線が、近い。物理的に。情報的に。
近い視線は、言葉より速く皮膚に触れる。
皮膚は正直だから、心拍が上がる。
心拍数、微増。
(落ち着け。これはただの食事。これはただの食事。これはただの——)
「アスミ先輩って、噛む回数まで美しいんですね……」
最悪の観測。
最悪のデータ収集。
お願いだから、私の咀嚼を評価関数に入れないで。
「うるさい……観測しないで」
反射で言ってしまう。
紅莉栖モデルの口調が、勝手に口から出る。
冷たく刺して、すぐ後悔するやつ。
(何よそれ……もう私は“秩序メイド”じゃなくて“ツッコミ装置”なの?)
——でも、ここで優しくすると、別方向に燃える。
厄介の芽は、優しさで育つ。
だから刺す。刺して、線引きをする。
紅華の生徒が、しゅんとする。
そこでチイロ先輩が、真顔で頷いた。
「はい“観測禁止”入りました〜。罰として水飲んで〜」
罰が優しい。
優しい罰は、場を壊さない。
でも優しいぶんだけ、罪悪感が残らない。
罪悪感が残らないと、またやる。
……最悪。完璧な“優しさの罠”。
私は横目でチイロ先輩を見る。
「先輩、それ“再犯率”上がります」
「うん。上がる。
でも今は“静かにさせる”のが目的で、
再犯は夜の私が処理する」
夜の私……じゃなくて夜の先輩。
言い方がホラー。ミーム女子、たまに怖い。
そのとき、天城男子が小声で言う。
「……等エントロピー食事って、つまり、
推しと同じ熱量を共有するってことですか……?」
おい。やめろ。勝手に美しい意味を付けるな。
私の雑な言い訳が詩になると、面倒が増える。
「違います」って即答しようとして——
やめた。
否定は燃料になる。
肯定は誤解を育てる。
最適解は、別の話題へ逸らすこと。
「あの……唐揚げ、冷めますよ」
現実。
唐揚げは冷める。人間も冷めろ!
その一言が効いて、テーブルが一瞬だけ“食事”に戻る。
私は小さく息を吐く。
危ない。危ない。午後はまだ始まったばかり。
そして私は理解する。
この疑似休憩は休憩じゃない。
これは、近距離戦の開幕だ。
13:10/チイロ視点:Chaosは昼も元気 ――「供給過多?いいじゃん」
「は〜〜い! Chaos側もランチタイムで〜〜す!!」
私はマイクを置いて、フォークを持つ。
——という“動作”だけは、ちゃんと人間っぽい。
でも、フォークを持った手が止まらない。止まれない。
指先が、配信者の筋肉記憶を覚えてる。怖い。手が勝手に“尺”を測ってる。
午後のChaosは、午前のChaosと似てるようで違う。
午前は「祭りの勢い」で走る。
午後は「午前のログ」が燃料になって走る。
つまり——客が強い。
みんな“履修”して来る。
壁のホログラムには、午前のスレまとめがすでに貼られている。
《午前の名シーン切り抜き(非公式)》
・秩序メイド、告白でCPU 100%(尊)
・ミサキ先生、一行萌えでHP全回復(伝説)
・可愛いカウンタ、上限に触れる(物理)
……ねぇ、誰がまとめたの。トウタでしょ。
本人は今ごろ「声が死ぬ」って言いながらも手は動かしてるはず。典型的なスレオタク。
「ねぇ先輩、ピンクメイドがご飯食べてるのって、
ミーム的に“供給過多”じゃないですか?」
天城男子が言う。顔が赤い。
赤いのに目は真剣。そこがいちばん怖い。
“供給”って言葉を、生命活動に使うな。
「うん、完全にアウト。でも今日は押し切る日なんだよ!
いいじゃん、いいじゃん、一緒食べよ?」
私は笑って、口にご飯を運ぶ。
咀嚼。飲み込み。
——よし、生きてる。
客と同じテーブルで、笑って、食べて、突っ込まれて。
“接客”と“日常”が溶ける瞬間。
この瞬間は、メイド文化で言うところの**「距離の再定義」**だ。
メイド喫茶って、本来は「近いふりの遠さ」を設計する文化なんだよね。
言葉は甘く、距離は近く、でも線は引く。
観客に“参加”の錯覚を与えつつ、現実の所有は許さない。
つまり、**疑似親密性(parasocial)**のハンドリング。
——なのに今日は、その線をわざと溶かす。
危険。けど必要。
午前の熱をいったん“日常に落とす”ためには、同席が効く。
ただし。
そのとき、気づくべきだった。
視線の質が変わっていることに。
午前の視線は「かわいい!」で終わる。
午後の視線は「かわいい……(所有)」に近づく。
ぐむむ。しか、違いは小さい。
でも、その差は速度になる。
“所有”が入った瞬間、感情は自律走行を始める。
推し文化が、ユニコーン化する境界。
ここを間違えると、学園祭は宗教になる。
私は“神”じゃない。
……いや、神っぽい扱いは受けてるけど、神は管理コストが高すぎる。
神って、信者の期待で死ぬんだよ。
私は、フォークを一回置いて、笑顔の角度を「接客」に戻す。
声のトーンを一段、軽くする。
「キミたちさ、供給過多って言うけどさ。
私がご飯食べないと、午後の“ミーム接客”が途切れるでしょ?
それは、嫌じゃないのかな?」
客の数名が「それは困る」って顔をする。
よし。
**“私の生存=みんなの娯楽”**に変換できた。
所有ではなく、運用に落とす。
これ、心理戦というより、治安維持。
「だから、“供給”じゃなくて“燃料補給”ね。
神は燃えると死ぬから。燃やしすぎ禁止」
笑いが起きる。
笑いは安全。
笑いは空気を柔らかくする。
でも笑いは、油にもなる——扱いが難しい。
視線の“所有”が増えたとき、笑いは逆に増幅装置になる。
だから私は、もう一段だけ“線”を引く。
「あとさ。ピンクメイドは“時間限定”だから尊いの。
限定って言葉で心拍が跳ねた人、はい!! 水飲め!」
自分で言って、自分で思う。
やってること、救護班の言い回しじゃん。
ミサキが移った?
でも効く。
客が水を飲む。
水を飲むと、いったん口が塞がる。
口が塞がると、余計な台詞が減る。
午後のChaosは、こういう“細い鎮静”を積み重ねるしかない。
——そのときだった。
入口側が、ざわつく。
空気が一段、冷える。
笑いが止まるときの冷え方。
来た。
午後の本命。
午前の熱を“別ベクトルに曲げてくる連中”。
⸻
13:15/新手オタクの襲来 ――「ユニコーン」「厄介」「ミーム履修済み」
午後の来客は、午前と違う。
午前は、群衆だった。
午後は、プレイヤーだ。
午前は「初見の熱」。
午後は「攻略の熱」。
・「守る」気がないユニコーン
・空気を読まない厄介
・“ミーム履修済み”を武器にする新参
・そして最悪:“自分ルールを正義だと思ってる人”
入口で、すでに衝突が起きていた。
「俺、午前から待ってたんだけど?
アスミ先輩枠、最優先っしょ!!!」
——ユニコーン。いや、コイツは厄介ユニコーンだ!
言葉づかいは普通。に見えて我が強い。
理屈も一見通るように見えて、通っていない。
根っこが違う。
“推し”を自分の権利に変換してるタイプ。
サツキが、笑顔で切る。
笑顔なのに刃物。さすが会長。かわいいのに怖い。
「最優先は安全ですわ。あなたの優先順位は主観ですの!!」
丁寧語で殴ってる。
お嬢様言葉って、攻撃に向くんだよね。
上品な語尾は、逃げ道を塞ぐ。
ユニコーンが一瞬ひるむ。
そこで別の男が、低い声で言う。
「チイロちゃんは、俺の人生変えたんで。
……だから“他の男客と”喋るの、やめてもらっていいですか?」
——厄介の上位互換……!!
これは、所有の言語。
“お願い”の形をしてるけど、内容が命令だ!!
空気が一瞬、氷みたいに冷える。
推し文化の暗いほうの顔。
この顔が出た瞬間、現場は「接客」から「治安」になる。
私は、瞬間的に思考を二層に分ける。
①この場の温度を落とす
②相手の“正当化”の足場を壊す
怒鳴るのはダメ。晒し上げもダメ。
“敵”にすると燃える。
燃えると周囲が巻き込まれる。
だから——論理で刺す。短く、冷たく、逃げ道のない形で。
私は(※ここはアスミ側の反射が混ざる瞬間、という演出で)、口が先に動く。
「それ、あなたの人生を変えたのはチイロ先輩じゃなくて、
あなたの脳内の“都合のいい物語”よ。現実に干渉しないで」
……言ったあとで、しまったと思う。
刺さりすぎる。
でも刺さるべき人には刺さる。
そしてこの場には、刺さるべき“線”が必要。
ユニコーンが「え?」って顔をする。
厄介が目を細める。
周囲が息を止める。
この“静止”の瞬間は危険。
沈黙は、次の言葉を増幅する。
そこで、私が入る。
マイクは使わない。
マイクは“公開処刑”になる。
ここは小声で、柔らかく、でも撤退線をはっきり示す。
チイロは、笑う。
笑い方が、昼のそれじゃない。
“神っぽい”ほうの笑い。
「ユニコーンさん、落ち着いて。
ここは“推しを守る店”じゃなくて、
**“推しで自分を壊さない店”**だよ?♡」
言い換える。価値観の枠を変える。
“推しを守る”って言うと、相手は英雄になれる。
でも“自分を壊さない”にすると、英雄じゃなくて患者になる。
患者は、戦えない。
これは心理学というより、言語の外科手術。
厄介が口を開きかける。
そこでサツキが追撃する。
天真爛漫な笑顔のまま、最終通告のテンションで。
「それでもなお“やめてください”が出る方は、
COEの規約により——お水を飲んで、深呼吸して、外で並び直しですわ!!」
丁寧に言ってるのに、強制力が強い。
「出てけ」じゃない。「並び直し」。
救済の形をしてるから、反論しにくい。
うわ、会長、政治が上手い。
厄介は一瞬、言葉を失う。
その瞬間に、周囲の“普通の客”が動く。
水を飲む。笑う。話題を戻す。
空気が再び、接客に戻る。
……よし。
午後の第一波、なんとか凌いだ。
ただし、私は知ってる。
こういうタイプは、引き下がったフリをしてログを取る。
スレを立てる。仲間を呼ぶ。
“正義”として再侵入してくる。
だから、ここからが本番だ。
午後のCOEは、熱量の再点火じゃない。
熱量の武装化だ。
私はフォークを持ち直して、笑顔のまま言う。
「はい!ランチ続行〜!
“推しを壊さない”って言ったからね!
壊す人は、私がミームで沈めちゃうぞ?♡」
笑いが戻る。
でも私は、笑いの裏で確認する。
——次に来るのは、もっと厄介。
“ミーム履修済み”の顔をした、攻略勢だ。
13:20/トウタ視点:声が死ぬ ――「喋る代わりにスレを立てる」
「……っ、はい! COE午後も、混沌指数、上昇中で〜〜す……!」
うぐっ……声が、裏返りかける。
いや、裏返る手前で“割れる”。声帯って、割れるんだな。
今日知った。
盤上干渉戦の実況で削り、COEでさらに叫び、叫び……。
俺の喉は今、「紙やすりで磨いた後にレモン汁を塗る」みたいな状態だ。
けど、現場は待ってくれない。
混沌は「弱ってる実況者」を嗅ぎ分けて、より繁殖する。
——たぶんミーム生物学。
だから俺は、喋るのをやめる。
喋る代わりに、“書く”。
COE掲示板。学園祭ローカルBBS。
リアルタイムに流れるログ。
いわば、盤上干渉戦で言う《SUPPORT HUD》の亜種。
盤面の外側で勝負を決める装置。
そして俺は、そこに逃げる。
文字なら、声帯が死んでも生き残れる。
そう信じて。
《スレ1:COE午後、様子がおかしい(Part1)》
《スレ2:秩序メイド昼食イベント目撃(同席権ではありません)》
《スレ3:ピンク神、疲労デバフ入ってる説(HP: 73%)》
《スレ4:ユニコーン出没情報(角折れ注意)》
《スレ5:厄介オタク対策テンプレ(保存推奨)》
《スレ6:ナース降臨まだ?(やめろ)》
《スレ7:会長が今日も強い(政治))》
《スレ8:空がピンク(合法、だが圧))》
《スレ9:告白イベント、今日多すぎ(仕様外)》
《スレ10:可愛いカウンタ、上限近い(吸収しろ)》
……いや、立てすぎ。
でも仕方ない。情報が多すぎる。
COEは現実の密度が高い。
現実の密度が高いと、スレが増える。宇宙の法則だ。
狙いは二つ。
①情報を分散させる(混乱を薄める)
②注意を掲示板に逃がす(客の視線の圧を下げる)
——理論上は、これで治安が回復するはずだ!
問題は、掲示板が“燃料”として機能することだけだ。
書き込んだ瞬間、通知が弾ける。
スレが、呼吸する。
文字が、熱を持つ。
> 1:スレ立てすぎwww
> 2:実況が文章になると余計燃えるやつ
> 3:秩序メイド昼食って何それ同席権?(違います)
> 4:ユニコーン草 角折れ
> 5:厄介テンプレ助かる(助かってない)
> 6:ナースまだ?(やめろ)
> 7:会長の言葉、たまに政治家
> 8:トウタ、喉死んでるのに手は動くの草
> 9:空のピンク圧で心拍上がるんだが
> 10:COE、喫茶店じゃなくて実況コンテンツ
俺はスマホを握りしめて天井を見る。
喋れない。だから書く。
書くと燃える。
燃えると現場が荒れる。
荒れると実況が必要になる。
実況しようとすると喉が死ぬ。
——無限ループ。
熱力学で言うと、永久機関。
現場運用で言うと、地獄。
「俺、今日“声”じゃなくて“文字”で死ぬかも」
呟きは、かすれた空気の音になる。
その音すら、誰かが拾ってスレにする。
《速報:トウタ、喋らずに“書き実況”へ移行》
《喉の代わりに指が燃える》
……おい。誰だ。俺だ。
自分で自分を燃やしてる。完全にスレオタクの自傷行為。
そのとき、背後から、いつもの軽い声。
チイロ先輩が、平然と俺のスマホ画面を覗き込む。
「ねぇトウタ。スレ、増やすより“テンプレ整備”の方が治安良くなるよ?」
「先輩……それモデレーターの発想……」
「神はね。世界を燃やすだけじゃなくて、世界の火元も管理するんだよ」
言い方が怖い。
でも正しい。
俺は素直に、テンプレを開く。
喉は死んでるけど、理性はまだ死んでない。
《厄介オタク対策テンプレ v1.2》
1) “推し”を理由に命令する人は、救護横の椅子へ誘導
2) 水→深呼吸→座位(手順を崩さない)
3) 会話が長引く場合は会長にパス(政治が強い)
4) ユニコーンは“規約”で殴らず“現実”で止める(※アスミ式)
5) 晒さない、煽らない、燃料を与えない
6) どうしても無理なら合言葉:「甘いのストップ」
テンプレを書いてると、妙に落ち着く。
実況って、結局“秩序化”だ。
——俺、秩序側の才能あるのかもしれない。いやない。
そして、次のログが飛び込む。
《速報:ミサキ、白衣を脱いだ》
《ナース参戦フラグ》
……やめろ。
その“速報”が現場を一段荒らすんだよ。
でも俺は、止められない。
俺の指が、すでに“次スレ”のタイトルを入力している。
《スレ11:ナース降臨(※お願いだから座れ)》
——俺は今日、文字で殉職する。
⸻
13:25/ミサキ視点:ナース参戦 ――「安心とフェチは同時に来る」
「……これは、雰囲気を変えないと無理ね」
私は、救護コーナーのモニターを見てそう言った。
匿名心拍推定。平均は上がってる。危険域に触れかけてる。
でも、怖いのは“数字”じゃない。
数字の裏で、視線の質が変わっている。
午前の熱は、笑いに抜ける。
午後の熱は、所有に向かって凝固する。
——凝固は事故る。集団は固まると押す。
白衣を脱ぐ。
ナースキャップを被る。
“象徴”を変える。医療は象徴学でもある。
制服は、心理的な手綱になる。
でも、——失敗だった。
安心とフェチは、同時に来る。
医療班の予測モデルに入ってないタイプの同時到来。
心拍は下がらず、別の理由で上がる。
最悪。
「ナースさん! 心臓が!♡」
叫んでる子がいる。
私は即座に診断する。目の輝き、頬の紅潮、言語の崩れ方。
「はい、それは恋です。座って。水飲んで」
医学的には正しい。
現場的には地獄。
「……みんな、座るの。
“推し”は立って拝むと倒れる。座って拝みなさい」
命令形にする。
曖昧にすると、群衆は勝手にルールを作る。
ルールが乱立すると、圧死ラインが近づく。
だから、短く、強く。
効果は出る。
人が座る。
椅子が埋まる。
視線が落ち着く。——一瞬だけ。
「ナースって、今日限定ですか?」
その一言が、二次災害。
限定という概念が、欲望の導火線になる。
「限定です。依存しないで」
「依存したい」
「ダメだって、や〜めて」
少し真顔で切る。
それがいちばん効く。
私の真顔は、“冗談を許容しない医療者”の顔だから。
背後で、アスミが一瞬だけこっちを見る。
助けを求める目じゃない。
「その言い方、刺さる」っていう目。
……分かる。刺すのは必要なときがある。
さらに悪いことに、掲示板が回る。
“ミサキがナース”という情報は、治安を整えるどころか、客の目的を増やす。
目的が増えると、導線が歪む。
導線が歪むと、救護が救護じゃなくなる。
私は深呼吸して、運用を変える。
「はいはい、ナースは、ここから動きません。
動いたら救護が死ぬ。救護が死ぬと、全員帰れませんからねー」
“帰れません”は効く。
“推し”より強い現実。
群衆に対しては、欲望より“帰宅”の方が最終的に勝つ。
……よし。
そして次。
「あと、心臓が痛い人は“恋”でも“過呼吸”でもここへ来てね?
分類は私がやる。自己申告で盛らないように」
盛るな、って言うと盛るのが人間だけど、言わないと盛りすぎて倒れる。
こういう矛盾を抱えて運用するのが、学園祭の医療。
⸻
13:40/アスミ視点 空が割れる ――「紅華バルーン演出:条件は守った。だが派手」
えっ……?
窓の外が、まず“光”で変わった。
次に“色”で変わった。
最後に“圧”で変わった。
——紅華女学院、バルーン演出開始。
規定は守っている。守っているはずだ。
ピンク単色ジャック禁止。香料ゼロ。視界ライン15m確保。
ピーク演出10分まで。横断幕は三校連名。
なのに派手。
派手というより、“支配”が上手い。
単色じゃない。だから合法。
でも“ピンクの圧”は、単色より強い。
グラデーションは心理的占有率を上げる。
色彩心理学の悪用。完全に悪用。
ピンク→桃→薄紫→白に近い霞。
“可愛い”のスペクトラムで空を埋めてる。
眩しくない。視界は確保されてる。
でも、逃げ場がない。
——目が、空に捕まる。
これが一番厄介。
安全基準を守りつつ、精神を殴る。
私は窓から空を見て、呟いた。
「ちょっと……想像の三倍は派手なんだけど……」
その瞬間。サツキ会長の声が飛ぶ。
天真爛漫なお嬢様が怒ると、“明るい雷”になる。
「リリアン!! これは“盛りすぎ”ですわ!!」
すると廊下の向こう、窓際のバルーン指揮エリアから、リリアンの返事。
綺麗な敬語に、刃が混ざってる。切れ味が良すぎる。
「あら、会長。規定は守ってますわ?
“二日間ぜんぶ守る”と申し上げたでしょう? もちろん、天命レベルで!」
「あなたねぇ!! 天命って便利な言葉じゃありませんの!!」
「便利だから使っておりますの。
会長も“勝利角”を便利に使っておられますわよね?」
——刺した。
しかも上品に。
サツキ会長が笑顔のまま一歩前に出る。
笑顔の圧が強すぎて、周囲の空気が5hPa下がる。
体感で分かる。
「あなた、去年“ピンク空ジャック”で苦情が何件出たか覚えてますの?!
4987件ですわ!!! ほぼ、5000件ですわよーー!!!」
「ええ。覚えておりますわ。だから今年は混色にいたしましたの。
問題は“ピンク”ではなく“単色支配”ですもの」
「なるほど……! って違いますわ!!
論点のすり替えが綺麗すぎて腹立ちますわ!!」
お嬢様同士のバトルは、語彙が上品なのに殴り合いの強度が高い。
周囲が止められない。止めたら巻き込まれるタイプの戦争。
COEの教室内、客たちがざわめく。
空が騒ぐと、地上が騒ぐ。
そして騒ぎは掲示板に流れ、掲示板がさらに客を煽る。
トウタのスレが走る。
《実況:会長vsリリアン、開戦(空域)》
《バルーン:合法だが圧が強い》
《空が可愛い:心拍が上がる》
……だからやめろって。
実況が、“観測”を“干渉”に変える。
この祭り、観測が全部干渉になる。
そして、最悪の副作用が出る。
——空を見上げた客が、拍手し始める。
空に向かって拍手。
拍手が熱を上げる。
熱がCOEに戻ってくる。
COEがさらに荒れる。
空域演出が、COEの混沌に燃料を落としている。
リリアンはたぶん分かっててやってる。
“条件を守った上で、最大効率で盛る”。
あの人、天性の演出屋だ。怖い。
⸻
13:55/アスミ視点 チイロ、被弾 ――「対岸の火事だと思っていた」
Chaos卓の端で、紅華の女子が立っていた。
制服のリボンが揺れてる。手が震えてる。
目が真剣で、逃げ道がない目。
「……雲越先輩」
声が小さいのに、教室の空気が変わる。
この“変わり方”は、午前に見た。
私にあった告白イベントと同じ匂い。
「私、先輩のミーム接客に救われて……
それで……好きになって……」
——来た。
仕様外。
でも今日は仕様外が仕様。
COEの利用規約に「告白禁止」なんて書いてない。
書けるわけがない。
チイロ先輩が硬直する。
あんなに口が回る人が、言葉を失う。
神、沈黙。
いや、神じゃない。
神って呼ばれてるだけの、人間。
「……ちょ、待って」
それだけ。
声が小さい。
客席が一瞬静まる。
静まったぶんだけ、言葉の重さが増える。
私は遠くから見て、思わず——「……ふふっ……」
ニヤッとした。
……違う。笑ったんじゃない。
“やっと同じ土俵に立った”と思っただけだから!
性格が悪い?知ってる。助手みたいな性格してるから。
その瞬間、掲示板が最悪の速度で走る。
《速報:ピンク神、告白でフリーズ》
《秩序メイド、ニヤッ(※目撃情報)》
《会長とリリアン、空で殴り合い》
《ナース、治安維持に成功(ただし副作用あり)》
……ログを残すな。
黒歴史は、発生させるのは簡単で、消すのは難しいんだよ。
ミサキがナース姿のまま、チイロ先輩の背中を軽く叩く。
軽いのに、圧がある。医療の手。
「大丈夫。返事は今じゃなくていい。
“今は安全に帰す”が最優先。告白は救護案件」
救護案件。
言い方が強いのに、正しいのが腹立つ。
でも“救護案件”に落とすと、場が落ち着く。
恋が、事故にならずに済む。
チイロ先輩が息を吸う。
ミーム女子の仮面を取り戻す……んじゃない。
今日は仮面じゃなくて、地声に戻す。
それがたぶん正解。
「……えっと。好きって言ってくれてありがと。
でも私は、“みんなの神”じゃなくて“ただの人間”だからさ」
笑う。少しだけ。
そして続ける。
「それでも覚えてたら、また来て。
そのときは、ちゃんと“ミーム抜き”で話そ」
客席が、ざわっと温かくなる。
危うい熱じゃない。
“ちゃんと人間の熱”。
告白した子が、泣きそうに笑って頷く。
なるほど。これでいいのか。
告白は勝ち負けじゃない。
安全に着地できるかどうかだ。
そして私の方に、チイロ先輩が一瞬だけ目を向ける。
「笑ったな?」って目。
私は口角だけ上げて返す。
「対岸の火事じゃなかったでしょ?」って。
⸻
14:10/臨界:掲示板が“第三の客席”になる
トウタのスレが、現実の導線を支配し始める。
> 1:今から行くならOrder?Chaos?
> 2:ナースいるなら救護横が安定
> 3:会長vsリリアンは窓際が特等席
> 4:ピンク神告白フリーズ見たい(やめろ)
> 5:ユニコーンは入口で弾かれてて草
> 6:秩序メイドの“等エントロピー食事”とは
> 7:これもう文化祭じゃなくて観測実験
> 8:実況が現実を動かしてるの怖い
> 9:コメント欄=盤外干渉
> 10:COE、三層構造(喫茶+劇場+掲示板)
スレが、客を動かす。
客の動きが、現場を変える。
現場が、さらにスレを呼ぶ。
COEは、喫茶店+劇場+掲示板の三層構造に変質していた。
いや、四層目がある。
空。バルーン。
空が“背景”じゃなく“演出”になった瞬間、祭りは止まらない。
私は気づく。
「これ……盤上干渉戦と同じじゃない……」
盤外が強いと、盤上(将棋)が歪む。
ここでは、盤外は掲示板。
盤上はCOEの現場。
そして盤外は、もう止められない。
止めようとすると“言論弾圧スレ”が立つ。最悪。
だから止めない。
“使う”。
制御じゃなく運用。
ミサキがナース姿のまま、静かに言う。
「掲示板に“座って水飲め”を固定表示。
それと、“晒し禁止”を太字。今すぐ」
トウタが瀕死の声で返す。
「……了解……固定……する……(手が勝手に)」
この瞬間、COEの治安は、
掲示板を“敵”にするんじゃなく、
掲示板を“安全装置”に組み込む段階へ入る。
神が言う。
「ほらね。ミームは毒にも薬にもなる。
なら、薬として摂取させればいいだけ」
——怖い。
でも正しい。
この学園、正しさが怖い。
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14:25/終盤:休憩という幻想の回収
食べ終わっても、休憩にはならなかった。
むしろ、同席したことで“距離が近い”という新しい燃料を配ってしまった気がする。
でも、完全な失敗でもない。
ユニコーンは“現実の壁”にぶつかった。
厄介は“医療的正論”に沈んだ。
サツキとリリアンの喧嘩は、空を騒がせたが、地上の圧死を抑えた。
チイロ先輩は、告白で硬直しながらも、人間として持ち直した。
そして私も——
“好き”を受け止める練習を、ほんの少しだけした。
15時が近い。
笑いでは止まらない時間が来る。
だから今は、この熱を“データ”に変える。
生きてる熱は、守る方向にも使える。
それを証明するのが、私たちの午後。
私は窓の外のピンクの層を睨んで、小さく呟く。
「……この変態祭、ほんと、どこまで行くのよ」
——そして、どこまで行っても。
私たちは、止める側でいなきゃいけない。
14:30/転換:集中営業フェーズの締め ――「熱を“持ち越し可能な形”にする」
時計の針が、15時に向かって露骨に速度を上げた気がした。
COEの教室はまだ満席で、まだ熱い。
でも、さっきまでの“暴走”とは違う熱だ。
暴走は、方向がない。
方向がない熱は、人を押す。押される。倒れる。
そして倒れると、15時に行けない。——それだけはダメだ。
私はOrder側のカウンター裏で、タブレットの安全ダッシュボードを睨む。
・平均心拍:高い(正常範囲ギリギリ)
・脱水リスク:上昇(塩分と糖が要る)
・群集密度:安定(座位率が効いている)
・掲示板流量:臨界(固定表示が効いてるが燃える)
・空域演出:ピーク残り 3 分(“合法の圧”がまだ落ちない)
「……秩序、戻りかけてる」
口に出してから、自分で笑いそうになる。
秩序って“戻す”ものじゃなくて、“崩壊させないように仮固定”するものだ。
背後から、チイロ先輩が肩で息をしながら近づいてくる。
ピンクのエプロンは、もう“神”の衣装というより、戦闘服に見えた。
「アスミ〜……聞いて。今日、世界が私に告白してきた……」
「“世界”って言うと盛りすぎ。個人名を付けて」
「紅華の一年、仮名:アマネちゃん。
“ミーム抜きで話そ”って返したら、泣き笑いで帰ってった」
「……良い対応だったと思うけど」
私がそう言うと、チイロ先輩は目を細める。
いつもの、ふざけてるようで刺さる顔。
「え、褒めた? アスミが? 今? 記録していい?」
「掲示板に書いたら許さないから」
「こわ。秩序メイドこわ」
そう言いながら、先輩の声が少しだけ軽くなった。
良かった。
“神”が人間に戻るときの呼吸って、こういう音がする。
その頃、教室の真ん中ではミサキがナース姿のまま、座位誘導を最終段階に入れていた。
「はい、最後に水。
“推し”は尊いけど、尊死は医療班の仕事増やすから禁止」
笑いが起きる。
笑いが起きると、緊張が抜ける。
緊張が抜けると、押し合いが減る。
——これだけで、15時に行ける人が増える。
そして、悪い知らせ。
窓際でサツキ会長とリリアンがまだ火花を散らしている。
上品な敬語のまま、殴り合いのテンポだけが加速している。
「リリアン! “ピーク10分”って、あなたまさか、時計が読めないわけではありませんわよね!?」
「あらやだ、会長。ピークは“演出の密度”でして、時間ではありませんの。
つまり——短時間で濃縮すれば同等ですわ」
「それを一般に“屁理屈”と呼びますの!!」
「残念ながら、一般辞書は、紅華の空域には適用されませんわね?」
……最悪。
でもここで止めに入ると、観客が“対立”をコンテンツ化する。
コンテンツ化すると掲示板が燃える。燃えると現場が荒れる。
だから私は、別の方向で止める。
私はタブレットで“空域演出”の観客心理影響の簡易レポートを開き、サツキ会長の前にそっと差し出した。
「会長。今の空、視線誘導が強すぎて、教室内の心拍が 6% 上がってます。
このままだと“COE→15時”の移動で転倒リスクが上がる」
サツキ会長が、一瞬だけ言葉を失う。
天真爛漫の仮面が剥がれて、“統治”の目が出る。
「……リリアン」
声が、静かになった。
この会長は、本気になると音量が落ちる。
落ちるほど怖い。
「あなたの空は美しいですわ。
ですが——“美しい”せいで、地上が怪我をするなら、その美しさは罪ですの」
リリアンが、窓の外を一度だけ見上げる。
ほんの一瞬、迷いのようなものが目に走った。
すぐに、刃の笑顔に戻る。
「……会長。
“罪”の定義は、勝者が決めますの」
「なら私が勝者になりますわね。——今ここで」
会長がタブレットを掲げる。
画面には、運営合意済みの“二日間条件”と、ピーク演出の残り時間カウント。
「ピーク、終了。強制減光。
あなたの天命は、私の規約に従いますの!!」
……勝った。
いや、“勝った”じゃない。“止めた”。
空のピンクが、ほんの少し薄まる。
視線の捕縛が解ける。
教室の空気が、ふっと軽くなる。
その瞬間、掲示板が走る。
《速報:会長、規約で空を制圧》
《リリアン、顔は笑ってるが空は引いた》
《秩序、いま勝った(※勝ってない)》
《COE、これより“閉店準備”フェーズ》
……トウタ。
あなた、喉死んでるのに指が元気すぎる。
私は深く息を吸って、最後のアナウンスに移る。
秩序メイドとしてじゃない。
安全監査官として、最短の言葉で。
「——皆さん。
このあと、15時に向けて“移動”が発生します!
立ち上がる前に、水を飲んでください。
椅子を引くとき、後ろを見てください。
推しは逃げません。あなたが転ぶほうが危険です」
一拍。
客席が、ちゃんと頷く気配がした。
この瞬間だけ、COEは“喫茶店”に戻った。
飲む。座る。呼吸する。
人間が人間に戻る。
——集中営業フェーズ、締め。
はあ、疲れた……。
水を飲み干した、その直後。
壁の時計が、無慈悲な音で教えてくる。
14:47。
……ダメだ。
メイド服のまま15時に行くわけにはいかない。
EXIT:CODE。
観測と判断と倫理が剥き出しになる時間帯。
そこでこの格好は、
・心理的ノイズ
・誤認識
・最悪、士気の暴走
を同時に引き起こす。
結論:着替えが最優先タスク。
「——ミサキ、私に三分頂戴!」
「二分半で戻りなさい。走ると転ぶ」
「転ばない。転ぶ確率は計算済み」
バックヤードに飛び込む。
カーテンを閉める。
エプロン外す。
リボン解く。
——重い。メイド服、想像以上に重い。
(何この布量……
質量保存の法則どこ行ったのよ……)
ボタン、指がもつれる。
焦るとロクなことにならないと分かっているのに、
焦らないという選択肢が存在しない。
「落ち着け、私。
これは実験じゃない。
ただの着替え。
ただの——」
背中のファスナーが噛んだ。
「っ……この変態衣装……!!」
布に悪態をつく意味はない。
でも言わないと正気が保てない。
制服のシャツを引っ張り出し、
ボタンを上から下へ——いや下から上。
ネクタイ? いらない、今日は要らない。
スカート。
安全ピン確認。
靴下、左右逆——修正。
髪、まとめる時間はない。
最低限、視界だけ確保。
鏡を見る。
そこにいたのは、
さっきまで“秩序メイド”だった人間じゃない。
天城の制服を着た、いつもの私。
——戻った。
心拍、まだ高い。
でも判断は、ちゃんとクリアだ。
カーテンを開けると、
ミサキが腕時計を見て言う。
「二分二十秒。合格」
「女子の着替え……採点基準が厳しすぎる」
「15時前は、全部が実技試験だから」
廊下の向こうで、
COEの喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
代わりに近づいてくるのは、
静かで、冷たくて、
でも逃げ場のない“本番の空気”。
私は深く息を吸う。
——よし。
可愛いは、ここに置いていく。
混沌も、笑いも、昼の熱も。
15時には、止める側として立つ。
それが、今日の私の役割だ。
「……まったく。
文化祭でここまで着替えが命懸けになるなんて、
聞いてないんだけど」
小さく呟いて、歩き出す。
双灯祭は、
もう次のフェーズに入っている。
——観測を、続ける時間だ。




