EP9. 水族館とデートパラドクス
日常は、安定解に見せかけた近似解だ。
——どれも観測すれば“ただの青春”に収束するはずだった。
それでも、の青の中で不意に差し込む赤い残像(W1)は、僕の関数にノイズとして残る。
今日は“調査”の外側——手を伸ばせば届く笑顔と、手を伸ばしても届かない過去。その両方を観測しに行く。
アスミを見送ったあと、今さら思い出したみたいに、頭の奥に“映像”が浮かんだ。
チイロとアスミ
二人は最初から冷たく対立していたわけじゃない。
むしろ逆だったらしい。出会いは学会。某シンポジウムで、二人は同じパネルに座っていた。
「閉鎖空間における群集ダイナミクス」っていう、今から思えばこの世界の予言みたいなテーマ。
アスミはその場で“観測の揺らぎが過去の記録を書き換える可能性”を発表していて、チイロは質疑応答で「そのモデル、ゲーティングの条件が甘い」とかバシバシ突っ込んでたらしい。
当時の写真を見せてもらったことがある。
ポスター前で二人並んで笑っているスナップショット。
チイロはまだギャルみたいな髪型で、アスミは今より髪が短く、ショートボブで柔らかい表情をしていた。
あの二人が喧嘩をしている未来なんて、想像できないくらい自然な笑顔だった。
……けれど、変わったのは“あの言葉”だったと、僕は聞いている。
アスミがある日ぽつりと言ったのだと。
——「過去を変えられるなら、私は迷わず変える」
あまりにもストレートで、あまりにも彼女らしい言い方。
その時、チイロは反射的に笑って、けれどその笑顔の奥で“線”を引いたらしい。
チイロにとって“過去を変える”は、ただの思考実験じゃない。
観測と記録を守ることが、あの人にとっては“生存戦略”そのものだから。
“勇気だけでシステムに穴を開ける人間”を、彼女は信用しない。
だからチイロは距離を置いた。
そのあと、連絡を最小限にし、共同研究も保留にし、“今の距離感”になっていたのだと。
ある日のラボで、チイロがぼそっと呟いた時だ。
「——答えが見えると、間を飛ばす人って、怖いんだよね」
その声が、不思議なほど優しくて、同時に鋭かった。
そして別の日、アスミが教室でプリントを閉じながら言った。
「——本気で世界を変えたいって言った瞬間、みんな黙るの。怖いよね」
二人の言葉が、別々の時間で、偶然重なった。
僕はその時やっと、あの二人の間に流れている空白が“対立”じゃなく、“恐れ”と“焦燥”のすれ違いだと理解した。
——その空白は、まだ埋まっていない。
けれど、こうして今、僕らが同じ場所にいる。
あの日、写真の中の二人が並んでいたように。
ただ今は、間に僕がいるだけだ。
翌朝の教室は、朝のSHRよりも騒がしかった。
僕が椅子を引いた瞬間、前列から声が飛ぶ。
「岡崎! 昨日のカフェデート、見たぞ!」
黒板に残るチョークの数式を背景に、教室の空気が一斉に爆発する。
「やっぱ付き合ってんのか!?」
「いやいや、隠しきれてないから!」
「プリンで口説くとか……シンプルに強い」
「いやいや、ただの調査で……」
必死に否定するが、返ってくるのは笑いと囃し立てだけだ。
視線が自然と隣へ滑る。
アスミはペンを走らせながら、顔を上げない。
けれど耳がほんのり桃色に染まっているのは、どう見ても誤魔化せていなかった。
周囲の女子が小声で叫ぶ。
「やだ〜! アスミちゃん耳赤い!」
「普段クールなのに反応してる!」
それに耐えかねたのか、アスミがペンを置いた。
淡々とした声で言う。
「……別に、昨日のは“楽しかった”けど」
教室の空気が一瞬で凍り、次の瞬間、大爆発した。
「おおおおぉぉぉぉっ!!!」
「本人から“楽しかった”発言きたー!」
「公式カップル確定ー!」
「ち、ちがっ……違うから!」
アスミは慌てて手を振り、真っ赤になりながら叫んだ。
「今のは“楽しかった”って、えっ……と、データ上の評価であって……その……恋愛的な意味じゃなくて!」
早口で必死に訂正するが、時すでに遅し。
クラス全体は「はいはい照れ隠し〜!」と大合唱だ。
そのやり取りを見ていたミサキが、そっと顔を上げた。
小さな声で、しかしはっきりと。
「……いいな」
「え?」「は?」
僕もアスミも同時に振り返る。
ミサキはペンを握りしめ、頬を赤くしたまま、まっすぐこちらを見ていた。
「……ずるいよ。ユウマ。
アスミちゃんだけじゃなくて、私だって……一緒に行きたい」
教室の空気が再び騒ぎ立つ。
「え、これ修羅場フラグ?」
「三角関係……発生した!?」
「岡崎……お前、学園ラブコメの主人公かよ!」
僕は机に突っ伏したい衝動を必死に抑えながら、心の奥で悟った。
——どうやら僕の日常は、もう完全に“観測”の対象どころか、群衆劇の主役にされてしまったらしい。
「でたぁぁぁ! 二人目のヒロイン参戦!」
「これマジで三角関係じゃん!」
その声に、レイカが待ってましたとばかりに椅子から飛び上がった。
手を天に掲げ、勝手にナレーションを始める。
「見よ! 青春という名の修羅場!
ひとりの優等生を巡って火花を散らす乙女たち!
ああ……これこそ、舞台の神が与えた運命のシナリオ〜!」
無駄に通る声が教室全体に響き渡り、拍手と笑いが巻き起こる。
「いやいや! 今ここで芝居始めるな!」
僕は慌てて突っ込むが、もう誰も聞いちゃいない。
さらに後方からトウタがスマホを掲げながら声を張った。
「はいスクショォォ! “アスミ vs ミサキ・恋の陣”スレ立て確定ー!」
「タイトルは【速報】岡崎ハーレム説wwwで決まりだな!」
「お前ら全員まとめサイトのコメ欄か!」
クラス中が笑いと囃し立てで埋まる。
僕は机に突っ伏したい衝動を必死で抑えた。
「ち、違う! 本当にただの調査だって!」
声を張り上げるが、逆効果だった。
「出た〜、ラブコメ主人公の常套句!」
「“ただの調査”って、“ただのデート”の言い換えでしょ〜?」
女子たちのツッコミが一斉に飛んでくる。
ちらりと横を見ると、アスミは真っ赤な顔でノートを盾に隠している。
その後ろで、ミサキは唇を結びながらも決して目を逸らさなかった。
チイロの小さな声が、最後に追い打ちをかける。
「ふふ……尊い統計、データ爆増ね」
「なんでチイロ先輩がいるんですか!」
アスミが突っ込みを入れる。
チイロは、まるで意に介さずという表情。
——ああ。完全に僕の教室生活は、もはや実験室じゃなくて「舞台」になってしまった。
「はいはい〜!」
トウタが机をバンバン叩きながら笑う。
「この瞬間をスクショォ! 『クラス公認デート』タグ付きでトレンド入り確定〜!」
「いや、だから違うって!」
僕が叫ぶも、クラス全体は完全にお祭りモード。
「次はどこ行くんだ? 水族館? 映画? それとも神社デート?」
「日曜空いてるんでしょ? はい決定〜!」
「岡崎、デートプラン練っとけよ!」
教室中の声が次々と重なり、抗弁は完全にかき消された。
アスミはノートを閉じて、机に額をつけたまま動かない。
耳の先がさらに真っ赤になっていた。
一方、ミサキは勇気を振り絞ったように僕の方を見て、もう一度言った。
「……ユウマ。今度、わたしとも一緒に行ってくれる?」
視線が絡む。
拒否すれば彼女を傷つける。
承諾すればまた囃し立てられる。
——けれど。
「……わかった」
僕は小さく頷いた。
その瞬間、教室が爆発した。
「よっしゃぁぁ! 次のターゲットはミサキちゃんだー!」
「岡崎、羨ましすぎだろ! 何イベント発生させてんだよ!」
「青春だな〜、爆発しろ!」
拍手、口笛、歓声。
完全に「次のデート」はクラス公式イベントとして認定されてしまった。
——僕の意思なんて、どこにも存在しない。
ただ、観測の流れに押し流されるだけ。
そして、ミサキは凄く嬉しそうにしていた。
⸻
斜め後ろ。
チイロはスプレッドシートに新しいセルを打ち込んでいた。
「被験者Y × 被験者M、次回観測対象。
尊い統計、マルチサンプル化……っと」
その隣で、アスミは顔を上げないまま小さく呟いた。
「……ユウマ、ほんとに……バカ」
すいません。
他に方法が思いつかなかったんだ。
⸻
休日の校門前は、部活の声と蝉の音が入り混じっていた。
そんな中、僕の視界に飛び込んできたのは、制服姿とはまるで違う霧島ミサキだった。
「……ユウマ、待った?」
白いブラウスに淡い水色のカーディガン。
スカートはふわりと広がるベージュ……かと思いきや、丈は少し短くて、光を浴びるたびに生脚のラインがきらりと強調される。
足元は歩きやすそうなスニーカーで、いかにも「水族館デート向き」な実用性。
「いや、今来たとこ」
反射的に出たテンプレ回答。自分でも呆れるくらい。
ミサキはふっと笑った。
「なんか、ほんとにデートっぽいね」
「え、ちょ……これはあくまでも調査だから」
「調査って言い訳、便利すぎない? はいはい調査調査。で、次は“観測実験です”って逃げるんでしょ?」
……開始五秒で、すで謎の波動砲を直撃され、僕の脳波は乱れていた。
⸻
ガラスのゲートをくぐった瞬間、冷たい空気と青い光が降り注ぐ。
頭上を悠然と泳ぐエイ、壁一面を埋める魚群。
青がすべてを塗り替え、現実の境界をぼやかしていく。
「わぁ……やっぱり、いいな」
ミサキの瞳が水槽の光を映して、きらきら揺れた。
「小さい頃から水族館、大好きだったんだ」
「へぇ、そうなんだ」
「うん。ほら、クラゲ。ずっと見てるとね、悩みとか全部どうでもよくなるの」
子供みたいに笑って、僕の腕を軽く引く。
その瞬間、ふわっとスカートの裾が揺れ、白い太ももが視界に入り、心臓が余計な仕事を始める。
ぐっ……ミサキ、こんな精神攻撃をいつのまに……!
「……ユウマ?」
「な、なんでもない」
——危ない。これは調査じゃなくて、試練だ。
⸻
「見てユウマ、ペンギン! ペンギン歩きかわいすぎ!」
ミサキは両手をぱたぱた揺らし、ちょこちょこ歩いて
——ごっつん。
「いったぁ……」
ガラスに頭をぶつけ、涙目で頭を押さえる。
思わず吹き出した。
「ごめん。でも今のは完璧にペンギンだった」
「むぅ……じゃあユウマもやって!」
「僕も!?」
後ろの子供たちまで「お兄ちゃんもやれー!」と大合唱。
仕方なく小刻みに歩く僕。
「ふふっ、ほら、似合うじゃん」
「似合ってないから!」
「ううん、かわいい」
「かわいいって言うな!」
周囲のカップルがくすくす笑い、僕の顔は真っ赤。
完全に公開処刑状態だ。
ミサキは口元を押さえながら肩を震わせ、わざとらしく呟いた。
「ふふ……“かわいい”って言葉、結構似合ってるよ。
ペンギン ユウマくん」
「……やめろ」
耐えきれず頭を抱える僕の横で、彼女のスカートが揺れて、さらに羞恥心が加速する。
⸻
観客席に並んで座ると、ミサキはポップコーンを抱えていた。
「ひとつ食べる?」
「ありがとう」
差し出された手を取ろうとすると、
彼女はわざと引っ込めた。
「え、今の、まさか……」
「はい、“あーん”」
「いや、それは」
「断るの? せっかくのショーなのに」
イルカが大ジャンプした瞬間、僕の口にポップコーンを突っ込む。
観客から拍手と笑い声。
「やったー! ユウマ、餌付け成功!」
「僕はイルカか!」
「ちがうよ、ペンギン♡」
「やめてくれ……」
「ユウマ、私も食べさせてほしいなぁ」
「おい、なにを言って……」
周囲の「お似合い〜!」の声に、僕は顔が熱い。
でも隣を見ると、ミサキの耳も真っ赤。
——攻めてくるくせに、自爆してるぞ。
⸻
青い光のトンネル。魚の群れが頭上を流れ、僕らの影をゆらゆらと映す。
「ねえユウマ」
「なに」
「ここ、カップルの聖地なんだって」
「はっ……初耳だけど」
「そういう噂。だから……」
彼女は一歩寄ってきて、小声で。
「手、つなぐ?」
心臓が跳ねる。
「え、い、今?」
「……だめ?」
小首を傾げる仕草。視線はまっすぐで、頬は赤い。
僕が返事に迷っていると、後ろからカップルの冷やかし。
「きゃー! お似合い〜!」
「!?!?!?」
ミサキは顔を真っ赤にして否定。
「ち、違いますからっ! 別にそういうんじゃっ!」
と言いつつ、指先は僕の手を掴んだまま。
彼女の掌の温度が、確かに伝わってくる。
⸻
夕暮れの水族館を出る。
土産コーナーで買ったペンギンのキーホルダーを、ミサキは大事そうに握っていた。
「今日は楽しかったね、ユウマ」
「僕も」
「また一緒に行こ?」
「うん」
笑顔で頷いた彼女は、ふいに真剣な顔になった。
「ねえユウマ……私さ、前にここで——」
ペンギンのキーホルダーが、彼女の指で小さく鳴った。
その微かな金属音をきっかけに、世界のピントがずれる。
――まず、光が変わった。
水族館の青じゃない。体育館のオレンジとも違う。
“共催:影村 × 天城”の布バナーに西日が滲み、印刷インクの匂いが鼻に刺さる。
次に、音が重なる。
PAの女声アナウンスが“ここではないどこか”から薄皮一枚で聴こえてくる。
――『あと十五分でエンディングが始まります。会場内を巡回し、ヒントを集めてください』
エンディングって何の。
視界の端で非常灯がチカと瞬く。緑白の楕円。
「非常灯の色の数」という“最初の謎”を思い出した瞬間、僕のこめかみが脈打つ。
あの回路は二系統に分岐していて、答えがどっちにも転ぶ細工――詰み筋の布石だ。
足元に“矢印”。
床へ貼られた誘導テープは片方向。
戻ろうとして踏み越えると、天井スピーカーが甲高く告げる。
――『逆走警告。指定の導線にお戻りください』
逆走? 誰が決めた導線だ。
誰が、僕らの逃げ道を。
光がさらに青に偏光する。
頭上の強化ガラス――中庭に仮設した“水族館風のドーム”が立ち上がる。
クラゲに似せたLEDオブジェがゆっくり脈動し、アーチ天井の反響が長く尾を引く。
RT60が伸びる。音が“戻ってこない”。
――『残り十分。エンディングの準備を始めます』
バスケットゴールの鉄むき出しのトラスと、仮設照明のトラスが二重写しになる。
西教会の聖水盤から滴る水音/循環ポンプの駆動音/体育館のフラッターエコー――
三つの“場所タグ”が同時に点火し、海馬の中で相互参照が始まる。
汗が冷えるより早く、背筋に電流。
ガラスが蜘蛛の巣状に開く“未来の音”が、すでにここにいる。
「……ユウマ?」
現実のミサキの声は、水の向こう側から聞こえるように遠い。
ふと、正面の水槽ガラスに指先を当てる――
自分の指が“W1の指”と重なり、震動の周波数で識別できるほど同じだと悟る。
『……ユウマ! 戻って!』
別の声が混ざる。PAの女声じゃない。
これは、きっとあのときの――
“ユウマ”と僕を呼んだ、体育館の、誰かの、声。
アスミ……?……アスミなのか……?
鉄が軋む。照明トラスのピンがひとつ、抜ける。
強化ガラスに走る初期亀裂。
カウントダウンの数字が、LEDで“きれいに”ゼロへ向かう。
0:05――
ミサキの手首に巻かれている(巻かれていた)紙のリストバンドが、QRの格子を晒す。
“ヒント”は嘘。
それは位置管理で、導線固定のためのタグだ。
0:04――
非常口の板が“演出置き”のパネルで塞がれる映像。
掲げられた注意書きは、まっすぐこちらを向いていた。
『エンディングまで出入りできません』
0:03――
足音の密度が跳ね上がる。群集ダイナミクス。
人は“出口らしき方向へ”加速し、ボトルネックで圧力が発生する。
教科書で見た図が、足裏の触覚で現実に置換される。
0:02――
アーチ天井で反射した警報音が耳の骨を叩く。
残響が重なって意味がほどけ、“ただの痛み”に変わる。
0:01――
ガラスが“鳴る”。
ピッチは金属音、成分は悲鳴。
骨伝導で脳が震え、視界に白が散る。
やめろ……
0:00――
割れる。
厚いはずの水が、驚くほど速く、低い音で、すべてを呑む。
LEDのクラゲが本物のクラゲに見え、
青に“赤”が混ざる。
その中心で――
「ミサキ!――」
声が喉で千切れた。
水と血と光の干渉縞の中、彼女が倒れている“像”だけが強制的に高解像度で固定される。
濡れた髪、切り傷、開いた瞳孔。
助けに伸ばした僕の手は、殺意のある水流と水圧、そして漂流物と化した人の流れに押し戻される。
足下で砕けたガラスが、靴底越しに“砂”の音を立てる。
――だれか、止めろ。
――だれが、これを“エンディング”と呼んだ。
――だれが、誰が!
「ユウマ、見て。4で吸って、7で止めて、8で吐く――」
現実のミサキが目の前で、僕の手を握っていた。
呼吸の拍を合わせる。
青いトンネルの天井に、もう亀裂はない。
代わりに、彼女の指の温度がある。
「……戻ってこれる?」
頷こうとすると、喉が砂を噛む。
それでも、頷く。
指先を絡め返し、4で吸って、7で止めて、8で吐く。
PAはイルカショーの案内に戻り、非常灯は役目を思い出したように静かだ。
僕は震える声で言う。
「ここはW2だ。今は、現実……だ」
ミサキは小さく笑って、でも瞳の奥は真剣だった。
「うん。だから――帰ってきて。ちゃんと“今”に」
水音が、ゆっくり“ただのポンプ音”に戻っていく。
“共催:影村 × 天城”の布バナーは、ここにはない。
あるのは、ペンギンのキーホルダーと、彼女の手の温度だ。
それでも、耳のいちばん奥には残っている。
『あと十五分でエンディングが――』という、あの声。
非常灯の緑白。
逆走警告の電子音。
仮設ドームに走る初期亀裂の、鋭い響き。
W1の声は、まだ消えていない。
でも今は、指の温度と同期を取る。
4で吸って、7で止めて、8で吐く。
噛み合う歯車の音が、ゆっくりと現在時制に戻る。
僕は、彼女の掌をもう少し強く握った。
「……大丈夫。今は、ここにいる」
ミサキは“信じる側”の微笑みで頷いた。
その笑顔が、W1の“エンディング”という名の地獄の上に、かろうじて架かった一本の橋に見えた。
――必ず守る。
僕は胸の奥で、はっきりと言語化する。
“観測”でも“記録”でもない、もっと原始的な誓いとして。
青いトンネルの魚群が、再びただの魚に戻った。
僕らはトンネルを抜け、照明の白へ出る。
背後の水音はBGMに、前方の喧噪は日常に――
そして、僕の掌の温度は、ここにある現在の証明になった。
僕はミサキの笑顔を守らなければならない。
胸の奥で強く誓う。
もはや調査や観測の枠を超えた、もっと根源的な誓い。
彼女を二度と「失われた世界」の犠牲にしてはいけない。
ユウマという存在の根幹に刻まれたミッションのように、その決意が焼き付いた。
⸻
夕陽に照らされ、ミサキのスカートがふわりと揺れる。
膝上のラインは光を反射し、白い脚が赤紫のグラデーションに染まっていく。
一歩歩くごとに、影がアスファルトに伸びて重なり、まるで未来の軌跡を描くグラフのようだった。
彼女の横顔は笑っていた。
しかし、その微笑の奥にある“言えなかった何か”は、確かに存在していた。
「ユウマ…また行こうね」
「うん、もちろん」
——これはただの休日の光景。
並んで歩く少年少女。
通りすがりの誰もがそう思うだろう。
だが僕の目には、それは「観測される未来の残響」と重なって見えていた。
惨劇のフィードバック。
世界線の狭間に染み出したノイズ。
——W1の声は、まだ消えていない。
僕らは夕暮れの街を歩いた。
背後には水族館の青が遠ざかり、
前方には赤く揺れる未来が広がっていた。
彼女の「また行こうね」という言葉が途絶えないように。
ペンギン歩きと“あーん”に笑っているうちは、世界は易しい。
でも、あの水族館でのフラッシュバックは、W1からの恐ろしい惨劇のエコーだった。僕は、彼女を一度失った可能性を無視できない。
楽しかった——は真実で、怖かった——も真実だ。
どちらかを捨てた瞬間に、また何かが崩れる。
次は、笑いのまま終わらせない準備をする。
データを詰める。仲間を巻き込む。
そして、彼女の「また行こうね」を、二度と“未完了タスク”にしない。
心に誓った。




