EP93. DAY1:歌姫と観測の海、そして血のインク
記録者:火宮レイカ
プロローグ:境界線上のハミング
舞台に立つとき、私はいつも二つ数える。
一つは、「自律的な息」。
もう一つは、「強制的な視線」。
息は私の中のプライバシー。視線は外側から私を削り取り、定義しようとする暴力だ。
今年の双灯祭は、例年よりずっとタチが悪い。
観客の視線そのものが、舞台の“現実”をリアルタイムで分岐させるシステム
――Chrono-Scope 教育版 [Type-G] が実装されたから。
「演劇が分岐する」なんて、言葉にすれば魅力的だ。
しかし、その実態は観客の無意識という巨大な質量に舞台を委ねる博打だ。
だから私たちは、この物語を二日間に分断した。
• Day1(前編): 観測の開始。重なり合う二つの影。
• Day2(後編): 干渉の極致。事象の崩壊、あるいは再構成。
私の役は、歌姫リナ=シュタイン。
美しく死ぬのが私の役目。けれど、この舞台に関わる「現実の人間」は、誰一人生き残らせてみせる。
喉も、心も、照明も、そして彼らの未来も。
舞台袖のシステム・チェックと静かな熱狂。
そこは物理的な空間ではない。情報と緊張が交差する、一つの「特異点」だ。
足元をのたうつ極太の光ファイバー。インカムから漏れる、電子の囁き。
舞台監督席のモニター群には、異常なデータが並んでいる。
【照度・音圧・客席心拍コヒーレンス・視線密度ヒートマップ(動的抽出)】。
観客を個として見ず、群れという「波」として測る。これがこの劇場の、残酷なまでの合理性。
白衣を纏ったミサキが、私の喉をライトで照らす。彼女の瞳には慈愛ではなく、データへの信頼が宿っている。
「レイカ、声帯の粘膜が0.02ミリ薄い。のど飴、二粒。三粒目は許可しない。
それは保護ではなく、脳への欺瞞プラセボに過ぎないから」
「……相変わらず、お守りの言葉が冷たいわね、ミサキ」
「恐怖は筋肉を硬直させる。でも、適度な不安は音域を広げる。
今はそのまま、少しだけ震えてて。その震えが、今夜の『観測値』を安定させるから」
その時、インカムに技術主任――ミナトの声が割り込む。
『技術部、各局へ。プリセットA、照度マイナス2%。前列の瞳孔反応が想定より早い。
観客はすでに“飢えて”いる。……レイカ、聞こえるか』
「バッチリよ、ミナト。あなたの“神経系”はどう?」
『最悪だ。NOXの出力が不安定だ。W1の残滓がノイズとして混じっている。
……だが、俺がすべて押さえ込む。お前はただ、安心して波の上で演じろ』
彼は舞台内の役名と同じく、現実でもこの舞台の「オルフェ(導き手)」だ。
そして、暗がりの奥。
漆黒の重い衣装に身を包み、光を吸い込む男が立っている。ファントム役、岡崎ユウマ。
「……レイカ。喉、まだ生きてるか?」
「うん、死ぬまで歌うのが私の仕事よ。ユウマこそ、その『仮面』は重くない?」
私は、彼の首元に覗く**【イレイザー(観測消去装置ver)】**の金属光沢を見つめた。
舞台の嘘を守るために、彼は現実の武装をしている。
「改良しても……これは重い。でも、これがないと何かが起きた時、対処が間に合わなくなる。
この講堂からは、W1の匂いがする。ただ……レイカ、俺が君を隠してやる。記録の外側へ」
彼の目が、一瞬だけファントムの狂気と、ユウマの優しさを同時に宿す。
その瞬間、生徒会長サツキが、奇跡的に溢れさせていない紅茶を掲げて現れた。
「皆様! 主演は光! 脇役は影! 私はそのすべてを包む舞台そのものですわ!
さあ、観客の心拍を――エレガントに、かつ芸術的に跳ね上げてちょうだい!!」
――開演のベルが、重低音で鳴り響く。
本編:舞台『シュレディンガーの仮面』前編
Scene 1:序曲 ―― 重なり合う観測(Superposition)
(暗転。心臓の鼓動に似た超低周波が地面を揺らす)
(センターに浮上する、銀色の仮面。照明が当たるたび、笑い、泣き、そして消える)
リナ(レイカ):
「歌は、記録される。でも、記録された私は、もう私じゃない。……ねえ、あなたは私を『誰』として見ているの?」
(スポットライトが激しくリナを照らす。ドレスは光の反射を計算され、観客の視線を強制的に一点へ収束させる)
ファントム(ユウマ):
(舞台の闇から)
「歌姫。君の声は、美しすぎる『誤差』だ。
観測されるほどに、君の輪郭は固定され、自由を失う。……俺は、それが耐えられない」
リナ:
「固定されても構わない! 誰にも見られない暗闇で一人で歌うくらいなら、
私は千の視線に貫かれて、ここで結晶になりたい!」
(ここでChrono-Scopeが作動。観客の集中が「寒色」の照明を誘発する。
舞台は一気に冷徹な実験室のような空気に包まれる)
Scene 2:オルフェの計測 ―― 愛という名の干渉
(技術主任オルフェ(ミナト)が登場。手には舞台の制御端末――を模した小道具、あるいは本機)
オルフェ(ミナト):
「リナ、出力を落とせ。君の心拍数はすでに140を超えている。
これ以上の共鳴は、舞台の『階層』を破壊する。……これは警告ではない、物理法則だ」
リナ:
「物理法則なんて、歌で書き換えてみせるわ!」
オルフェ:
「……不合理だ。だが、その不合理が観客の心拍を同調させている。……見ていろ。世界が揺れ始める」
(舞台背景のホログラムが、ノイズのように歪む。
観客の「好き」という感情が、Chrono-Scopeを通じて舞台の演算負荷を押し上げているのだ)
Scene 3:断絶、連れ去り、そして「特異点」の形成
舞台が鳴動している。
それは単なる演出の音響ではない。
観客数の視線が集約され、Chrono-Scopeの演算が飽和状態に達したことで生まれる、現実の「軋み」だ。
つまり、オーバーフロー。
私の背後に、ファントム(ユウマ)が立つ。
彼の纏う黒は、もはや布ではない。AR(拡張現実)レイヤーが重なり、
彼の輪郭から**「黒いノイズの触手」**が這い出し、舞台の床を侵食していく。
ファントム(ユウマ):
「君の声が、この箱の解像度を上げすぎた。……リナ、君を愛する者はもう、君の『細胞の震え』まで視認できてしまう。
それは愛じゃない、残酷な解剖だ」
リナ(レイカ):
「解剖されるのが私の運命なら、その刃を歌で研いでみせる!
隠さないで、ファントム。私は、この視線の濁流の中でしか、自分が『ここにいる』と証明できないの!」
(舞台中央に、巨大なARホログラムが出現する)
それは、かつて消失したとされる伝説の歌姫の「残滓」。実在しないはずの**仮想人格「ステラ」**。
リナの動きと完全同期しながら背後に浮かび上がる。
観客には、リナが二人に、あるいは数百人に分裂していくように見える。
オルフェ(ミナト):
(制御端末を叩きつけながら)
「総員、網膜保護プロトコル! 観測値が臨界を突破した!
リナ、ステラを切り離せ! その擬像は観客の無意識を吸って、実体化しようとしている!」
リナ:
「切り離さない! 彼女も私! 観測されなかった『別の可能性の私』なの!」
(ファントムがリナの喉元に、イレイザーを内蔵した「白銀の爪」を突き立てる)
物理的な接触はないはずなのに、私の皮膚に電子的火花が散る。
ファントム:
「……なら、世界ごと連れていく。記録の外側、事象の地平線の向こう側へ。
……リナ、息を止めろ。ここから先は、酸素ではなく『意味』で呼吸する場所だ」
(リナが最高音――ハイ・ソプラノを放つ。その瞬間、全ての安全装置が物理的に破断する)
【Event: Total Resonance】
• 音響: Band3が強制解放され、講堂全体の空気が一瞬で真空になったような静寂のあと、
鼓膜を震わせる「宇宙の産声」が爆発。
• 視覚: 天井の巨大シャンデリア(ARと実物の混合)が、観客の頭上で**「結晶化して砕け散る」**。
破片の一片一片が観客の眼前に迫り、消える。
• 物理: 舞台床が中央から左右に裂け、そこから**「逆流する滝」**のような光の柱が噴き出す。
私は、ワイヤーに吊られ、その光の柱の中へと引きずり込まれる。
足元では、ファントムが私のドレスの裾を掴み、共に虚空へと身を投じる。
ファントム:
「……見たね。なら、もう戻れない。君も、この観客たちも。
……今、この瞬間に『君たちが信じた物語』だけが、唯一の現実になる」
(暗転。直後、講堂の壁一面に、観客自身の「数秒前の驚愕の表情」が数千ものウィンドウで埋め尽くされ、
それらすべてがガラスのように粉砕される音と共に消滅する)
カーテンコール:深淵からの帰還
明転。
だが、そこは「元の世界」ではないような錯覚に陥る。
観客席は、総立ち(スタンディングオベーション)だった。
しかし、その拍手は祝祭のそれではない。
事故現場で、生き残った者同士が互いの体温を確認し合うような、必死で、重苦しい、生存のビート。
私は、震える足で舞台袖に滑り込んだ。
ドレスはボロボロになり、ARの残滓が火花となって私の肩でまだ爆ぜている。
「……ハァ、ハァ、……ミサキ、生きてる?」
ミサキが、見たこともない形相で私に飛びつき、首筋にバイタルスキャンを叩きつける。
「心拍185! 血中酸素濃度低下! レイカ、今の『超高域』、どこから出したの!?
喉の毛細血管が半分死んでるわよ!」
「……わかんない。でも、歌わなきゃ、あの光に飲み込まれると思ったから……」
そこへ、ユウマが戻ってくる。
彼のファントムの仮面は、右半分が熱で溶け、イレイザーの基盤が剥き出しになっていた。
「レイカ……無事か。……最後の瞬間、ARのステラが俺の手を握ったんだ。
あれは、プログラムじゃない。観客の『確信』が、一瞬だけ幽霊を実体化させたんだ」
「ユウマ、あなたの台詞……『君も、この観客たちも』って。あれ、客席を共犯者にしたね」
「ああ。……あいつらはもう、ただの観客じゃない。俺たちの『崩壊』を観測してしまった、共犯の目撃者だ」
モニターの前で、ミナトが震える手でヘッドセットを外した。
彼のコンソールには、**【System Stability: 0.02%】**という絶望的な数字が点滅している。
「……Day1で、この舞台の『寿命』を使い切った。……レイカ、ユウマ、ミサキ。聞こえるか。
明日(Day2)は、もはや演劇にはならない。……これは、現実との戦争だ」
「……上等よ、ミナト」
私は、血の味がする唾を飲み込み、不敵に笑ってみせた。
カーテンコールが終わり、観客が退出を始めるその僅かな間。
私は舞台の端で、割れるような拍手の残響を全身に浴びていた。
その時だった。
数千人の観客という「群れ」の中に、一点だけ。
「観測」ではなく「捕食」の質を持った視線が、私の喉元に突き刺さった。
客席中央、最前列から少し下がった「特等席」に、その男は座っていた。
周囲の学生や保護者が興奮で顔を紅潮させ、涙を流している中で、彼だけが深海のような静寂を纏っている。
仕立ての良いスリーピースのスーツ。
40代半ばだろうか。整えられた指先を口元に添え、彼はただ、私を「見て」いた。
羨望? 違う。
賞賛? それも違う。
彼の視線が私の肌を撫でるたび、私は自分が歌姫リナ=シュタインであることも、
火宮レイカという人間であることも忘れ、ただの一塊の**「良質な肉」**に成り下がったような錯覚に陥った。
まるで、熟成を待つワインのラベルを眺めるような、あるいは解体される前の獲物の骨格を愛でるような――。
エレガントで、知的で、そして決定的に「人間を等価に見ていない」冷徹な眼。
彼と目が合った瞬間、背筋に氷を流し込まれたような戦慄が走った。
Chrono-Scopeの心拍モニターが、劇中よりも鋭い警告音を私の耳元で鳴らす。
【Warning: Abnormal Heart Rate Spike】
「……レイカ? どうしたの、顔色が真っ白よ」
袖に下がった私に、ミサキが駆け寄る。
「……あそこに、誰かいる」
私が指差そうとしたときには、その席はすでに空席だった。
ただ、その空間だけが真空になったかのように、温度が数度下がって見えた。
楽屋に戻る導線でも、その視線の感触が消えない。
まるで、目に見えない糸で首筋を繋がれているような錯覚。
彼がその気になればいつでも私の喉を「摘み取れる」と告げられているような。
「ユウマ、さっきの客席……変な人、見なかった?」
仮面を外し、イレイザーの熱を冷ましていたユウマが顔を上げる。
「変な人? ……いや、俺はNOXのノイズを抑えるのに必死で。
ただ、確かに一瞬だけ、舞台全体の『揺らぎ』が完全に止まった時間があった。
観測者が一人で、数千人の意識を塗りつぶしたみたいな、圧倒的な固定力。
……そいつが、そうなのか?」
「わからない。でも、あんなに『絶望的』な視線は初めて」
歌うことは、さらけ出すことだ。
見られることで、私は光になれると思っていた。
けれど、あの男の視線は違った。
彼は私を愛でているのではない。
私の歌が、私の喉が、私の絶望が、**「いかに美味であるか」**を品定めしていた。
鏡のように滑らかな瞳の奥に、血の匂いのする食卓が見えた気がした。
舞台床は砕け、空中へ連れ去られ、私は生き延びた。
でも、本当の恐怖は演出の外側にあった。
あの紳士風の男。
彼がもし、明日もあの席に座っていたら。
私は、歌姫として最後まで美しく立っていられるだろうか。
彼に見つめられることは、スローモーションで食い殺されることに等しい。
それでも、私は明日もあの場所で歌わなければならない。
喉が、震えている。
武者震いじゃない。
これは、「捕食者」の前に引きずり出された生贄の、本能的な拒絶反応だ。
「……ミナト。明日のChrono-Scopeの感度、最大まで上げて」
私は、システムの影に隠れるようにして呟いた。
「どうした、レイカ。安全マージンが消えるぞ」
「いいの。……そうしないと、私の心が先に『喰われて』消えそうだから」
Day2、後編。
ファントムとの愛の逃避行の裏で、私はあの「静かな怪物」と対峙することになる。
舞台の熱気がまだ肌にへばりついている。
私は、鏡の前で舞台衣装のファスナーを下ろした。
ボロボロになったリナ=シュタインのドレスが、脱ぎ捨てられた抜け殻のように床に横たわる。
制服に袖を通し、現実の自分を繋ぎ止めようとしたその時、控えめな、けれど確実なノックが響いた。
「レイカさん、お疲れ様です。……あの、これ」
入ってきたのは、後輩の演劇部員だった。
彼女の手には、学園祭の雑踏には似つかわしくない、厚手の和紙のような上質な封筒があった。
「さっき、出口で紳士的な男性に預かって。
レイカさんのパフォーマンスに、どうしても言葉を残したいとおっしゃっていました」
受け取った瞬間、指先に**「冷気」**が走った。
封筒には差出人の名はなく、ただ銀色の蝋封が施されている。
その紋章は、どこか肉を裂く鉤爪のようにも見えた。
震える手で封を切り、中の便箋を開く。
そこに並んでいたのは、驚くほど流麗で、鋭利な筆致の万年筆の文字だった。
「親愛なる火宮レイカ、あるいは芳醇なるリナ=シュタインへ。
今夜、私はこの古びた講堂で、稀に見る『収穫』に立ち会えたことを光栄に思う。
君の声帯が奏でる振動は、単なる音響ではない。
それは、恐怖と高揚が完璧な比率でブレンドされた、最高級のコンソメのようだ。
特に、Scene 3の絶叫。
君が自らの存在を削り、観測の深淵へ身を投げたあの瞬間。
君の精神から滴り落ちる『絶望』の香りは、私の舌を心地よく痺れさせた。
恐怖に歪む声帯、収縮する平滑筋、そして逃げ場のない瞳。
君はまだ自覚していないようだが、君という存在は、完成された一皿の芸術品だ。
明日、君がさらに『崩壊』し、その魂から最も甘美な苦みが抽出される瞬間を、心待ちにしている。
その喉を大切に。私は、君のすべてを味わう準備ができている。
――事象地平の食卓にて」
錯覚:解体される私
読み終えた瞬間、楽屋の視界がぐにゃりと歪んだ。
文字が、生きた虫のように這い出し、私の腕を登ってくる。
手紙の行間から、**「ナイフとフォークのカチャカチャという音」**が聞こえてくる。
(ああ、食べられる――私)
制服の下の肌が、まるで透明なメスでなぞられているような、冷たく鋭い感覚。
鏡の中の自分を見ると、私の首筋に、見えないフォークが突き立てられているような幻影が見えた。
彼は感想を述べているのではない。
彼は、私の「絶望の味」を予習しているのだ。
私は便箋を突き返し、ゴミ箱に捨てようとした。けれど、指が動かない。
この手紙そのものが、彼の視線の延長線――逃れられない**「呪いの観測」**そのものだった。
「レイカ? ……それ、ファンレター?」
鏡越しにミサキが覗き込む。
「……ううん。……ただの、お品書きよ」
私は乾いた声で答え、手紙をカバンに押し込んだ。
心臓が、獲物を前にした小動物のように、狂ったような拍動を刻み続けていた。
寮の仮眠ベッドに入っても、シーツの感触が、あの男の指先のように感じられて眠れない。
舞台は、演じる側が観客を圧倒するものだと思っていた。
でも、あの男は違う。
彼は観客席という「安全な檻」の外側にいて、私のすべてを、内臓の奥の震えまでを、テイスティングしている。
『君の精神から滴り落ちる絶望の香り』
『その喉を大切に』
思い出すだけで、喉が絞められるように熱い。
Day1で、私は「記録の外側」へ逃げようとした。
でも彼は、その「外側」で口を開けて待っている怪物だ。
明日、Day2。
舞台は崩壊し、観測は極限に達する。
システムは持たないかもしれない。
ユウマの仮面も、私の声も、砕け散るかもしれない。
けれど。
もし私が「食べられる側」なのだとしたら、その喉に、毒を仕込んででも彼を道連れにしてやる。
美しく死ぬのは舞台の仕事。
でも、食い殺されるのは、私の趣味じゃない。
私は、喉を潤すための冷めた水を飲み込んだ。
水の味が、妙に鉄臭く感じた。
――明日の開演で
怪物に、最高のメインディッシュを届けてあげるわ。




