表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY1-編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

86/94

EP91. DAY1:Cafe of Entropy 開店

 ——学園祭の朝は、もっと静かだと思っていた。


 COE(Cafe of Entropy)の暖簾を出す前、

 私は Order 卓の配置を点検しながら、

 「まあ、午前中は軽めに終わるでしょう」

 と、油断という名の誤った予測をしていた。


 ところが、ドアを開けた瞬間、空気がひっくり返った。


 紅華女学院の学生達、天城の男子、一般来校者。

 それぞれが “黒メイドの矢那瀬アスミ” という一文に

 どうしてあんなに火をつけられたのか、いまだに理解できない。


 整理券は瞬殺。

 廊下は渋谷のカウントダウン。

 転売屋まで湧く始末。


 私は物理的に押しつぶされ、

 ミサキは医療モード、

 チイロ先輩は神として覚醒し、

 トウタはミーム的実況で火に油を注ぎ、

 サツキ会長はついに入場規制宣言。


 ——何これ。双灯祭って、こういう祭?


 心拍は EXIT:CODE 本番より上、

 一瞬、**「15時のデスゲームを待たずに死ぬ」**と本気で思った。


 このログは、そんな午前の騒動の記録。

 可愛い、恥ずかしい、混沌、救護、物理的圧死ライン。

 その全部を含む、学園祭らしい馬鹿げた熱量のレポートだ。


 ……まったく、

 宇宙はバカだし、可愛いは暴力だし、

 それでも私はまた、店に立ってしまうんだと思う。


 ——それでは、本編へ。


 DAY1.08:55/アスミ視点 — 「秩序メイド、初期条件」


 開店五秒前、私は深呼吸を三回した。


 黒。

 高襟ロングメイド。銀糸のトリム。裾は重く、歩くたび小さく波が立つ。


 ——羞恥ピークは、試着会で済ませた。

 あれ以上はもう来ない。来ないはず。来ないでください。


 廊下の突き当たりには、手書きポスター。


 Cafe of Entropy

 ——可愛いは秩序を殺す——


 その下、小さく書き加えられた注意書き。


 ※ただし安全基準は生徒会と保健班の監査済みです


 殺す気はないらしい。 せめてもの良心。


 臨時教室のドアの内側、私はトレーを抱えたまま、最後のチェックを頭の中で走らせる。

 •EXIT:CODE 会場との導線分離、ヨシ

 •クールダウン用の水と砂糖、ヨシ

 •Misaki監修「感情過熱時の行動フローチャート」、ヨシ

 •非常時の合言葉:「甘いのストップ」→即退避


 Order側メイド・矢那瀬アスミ。役割:秩序の維持と紅茶の温度管理。


 「アスミ〜〜、表、そろそろ限界だよ〜〜!」


 カーテンの隙間から、チイロ先輩の顔がぬっと出た。

 今日の先輩は、同じ黒メイド……のはずだった。


 「ねえ……その色、どう見ても黒じゃないよね!!」


 「えっ?“黒に近い概念色”だよ。ダークピンク」


 どう見てもピンクだった。

 膝上フリル。袖ふわふわ。リボンが物理法則を舐めている。


 「先輩。ドレスコード覚えてます!? 高襟、ロング、露出控えめ!!」


 「高襟(※一応ある)、ロング(※気持ち的にはロング)、露出控えめ(※当社比)」


 「倫理委員会に出す!」


 「倫理委員会:私だ」


 ——くっ……論理構造が強すぎる。


 奥でハザマがタブレットから顔を上げた。


 「雲越先輩。Chaos側の衣装は“開店セレモニー限定”でそのまま通しますので、

  10:00 には規定黒メイドに着替えてください。

  安全計画の『ピンク時間帯』にちゃんと記載済みです」


 「え、ピンク時間帯って何?」


 「“視覚エントロピー急上昇フェーズ”ですよ。医療班にも共有済みです」


 ミサキが救護コーナーから親指を立てた。


 「はぁ、目眩起こした子はこっちに流してね〜。ピンクはだいたい循環器に来るから」


 ……私、今日、何の現場に立とうとしてるの。


 そんなツッコミが喉まで来たところで——


 廊下側から、音の壁が押し寄せた。


 「きゃああああああああああああ!!!」

 「いる!? まだ!? ちゃんと存在してる!? 生で!?」

 「矢那瀬先輩って本当に物理次元にいたんだ……!」


 女子の高い声。複数。かなり複数。


 チイロ先輩がニヤッと笑う。


 「——来たね。紅華側、“矢那瀬アスミ観測同好会”」


 「そんな同好会、公式には存在せん!」


 「非公式ほどガチなんだよ」


 ガラッ、とドアが少し開いて、外の列が一瞬だけ見えた。


 ピンクリボンだらけの制服の群れ。

 紅華女学院の生徒たちが、教室の前をほぼ埋め尽くしている。


 先頭には、髪を巻いた金紅のツインテール——紅条リリアン。

 手には「COE 本日限定 Special Guest:アスミ先輩♡」と書かれたうちわ。


 「宣伝してないですよね私これ」


 「リリアンさんに“来る?”って聞いたら、

  “行きます!♡”が瞬時に三十人分に拡散しただけですわ!!」とサツキ。


 「それのどこが“だけ”なのよ!」


 ハザマが、さっと受付フローを開く。


 「とりあえず、入場制限かけます。

  教室の最大収容人数は 30 名。スタッフ含めて 40 を超えたら安全基準違反です」


 ミサキが被せる。


 「紅華組はテンション高いからね。

  “矢那瀬アスミを視認した瞬間の集団心拍上昇” を前提にある程度余裕を残さないと」


 「そのパラメータでリスク計算されたくなかった……」


 09:00前、時計の針がちょうど二本揃う。


 サツキが、黒メイドエプロンの上から会長バッジを光らせて、扉の前に立った。


 「それでは、Cafe of Entropy——Day1、開店しますわ!」


 ドアが開いた瞬間、空気が熱を持つ。


 私は、トレーを抱えて一歩前へ。

 口上を、昨日から練習していた通りに。


 「——おかえりなさいませ。観測、開始します」


 悲しいことに、ちゃんと噛まずに言えた。


 その瞬間、廊下から歓声が炸裂した。


 「うわあああほんものだああああ!!」

 「しゃべった!! クール先輩がメイドでしゃべった!!」

 「尊死する! これ絶対、寿命削るやつ!!」


 ……COE 初日、開店五秒で秩序側の心拍数は安全基準の上限ギリギリに到達した。



 09:05/岡崎ユウマ視点 — 「ギャルゲー開始のお知らせ」


 COE 前の廊下は、既にダンジョンだった。


 紅華女学院ブロックが廊下右半分を占拠し、

 天城男子学生と影村からの遠征組が左半分で押し合い、へし合いしている。


 俺は、その間を器用にすり抜けて、整理券ボードを確認した。


 現在の待ち時間:40分。

 タグ:#COE初日 #アスミ先輩実装


 「いや、タグを公式で出すなよ……」


 呟いたところで、背後から声。


 「おや? おやおやおやおや岡崎くん。君も観測されに来たの?」


 振り向くと、影村の映画研メンバーが数人、カメラを首から下げて並んでいた。


 「“されに”って何。俺も一応スタッフ側だからね?」


 「その“スタッフ側の男”が、

  **“ヒロインのメイド姿をどう見るか”**っての、

  だいたいこういう学園祭シナリオの重要フラグなんだけど?」


 「誰がヒロインで誰がフラグだよ」


 言いながらも、廊下の向こうに視線を向ける。


 ドアの隙間から、一瞬だけ黒い裾が見えた。

 重い布の揺れ。銀糸の光。トレーを持つ細い指。


 観測してしまえば、それはもう選択だ。


 (あー……これは……)


 胃のあたりが、妙に落ち着かない。


 「次の三名様、Order 席ご案内しま〜す!」


 ドアのところで、トウタの声が弾んだ。


 「“Order 席”ってなんだよ」と男子の一人が言う。

 俺もそう思う。


 COE のフロアは、ざっくり二分されているらしい。

 •手前:Orderゾーン

 ——静かなティーラウンジ。

 礼法接客。紅茶とお菓子と会話。担当:アスミ。

 •奥:Chaosゾーン

 ——ミームとゲームと寸劇の渦。

 担当:チイロ先輩&トウタ。たぶん安全基準ギリギリ。


 「タナトスさん、どうします? Chaos 席行きます?」


 映画研の子がニヤニヤしながら聞く。


 「いや……今日は Order でいい。様子見」


 「様子見(=がっつり観測モード)ですね、わかります」


 メタ的解釈やめてもらっていい?


 順番が来て、俺は三人組の最後尾で教室に入る。


 中は、思ったよりも落ち着いていた。

 紅華組は、きちんと椅子に座って静かにしている。

 ……静かにしているのに、テンションが高いのが分かる、という新しい現象。


 壁の一角には、匿名フィード式の**「可愛いカウンタ」**が設置されていて、


 『本日の可愛い観測量: 128(単位:kawaii)』


 と表示されていた。さっき見たときよりもう増えている。


 ミサキが救護コーナーから、こっちに視線を流してきた。

 **“お前の心拍もサンプルだぞ”**という無言の圧。


 「お席はこちらになります〜。

  本日は Order 担当・矢那瀬さんがおもてなしします〜」


 トウタが意味深な笑顔で、俺たちを窓際の席に案内した。


 そこに、黒が立っていた。


 「……いらっしゃいませ。ご注文は、お決まりでしょうか」


 教科書のような完璧なイントネーション。

 表情はいつものクールアスミ。

 でも、黒メイド。


 紅華の子が左右で小さく爆発している。


 「マジで……本物だ……」

 「常温でこの破壊力、やばくない……?」


 俺は、変な笑いをこらえつつ、メニューを開く。

 •マクスウェルの悪魔フロート

 •エヴァネッセント・パフェ

 •推しは熱容量プレート


 「マクスウェル、三つで」と紅華の子が即決した。速い……。


 アスミが頷く。


 「かしこまりました。……悪魔三つ」


 言い方怖いww


 「で、ユウマくんは?」と、紅華の子に背中を押される。


 メニューの端に、小さく書かれた文言が目についた。


 本日のおすすめ:“観測者専用ティーセット — Schrödinger Blend”


 「……じゃあ、それで」


 「シュレディンガー・ブレンド、一つですね」


 アスミはほとんど表情を変えずにオーダーを復唱し、

 トレーを胸元で支えたまま、ふわりと裾を揺らしてカウンターへ向かった。


 似合ってる。


 思った瞬間、自分で自分にツッコミを入れる。


 (いやいやいや、落ち着け俺。

  これ、ギャルゲーの一周目の導入でよくあるやつだ。

  ここで「似合ってる」とか口に出したら、

  メインヒロイン+サブヒロインの好感度フラグが同時に動くやつ)


 窓の外では、紅華のバルーン班が空を整え始めていた。

 控えめなパステルが、雲の隙間に浮かぶ。


 机の上のメニュー端には、小さくこう書かれている。


 ※本店は「EXIT:CODE 安全監査協力店」です


 COE の喧騒と、地下に控える EXIT:CODE の静かな構造。

 二つの世界が、まだぎりぎり、別々に存在している。


 「——ユウマ」


 名前で呼ばれて振り向くと、

 黒メイドがすぐそばにいた。


 「……何かな?」


 「さっきから、メニューじゃなくて、

  **紅華のチアガール見て笑ってるの、バレてるから」


 「……観測精度、高すぎない?」


 アスミはほんの少しだけ、目尻を緩めた。


 「……ちゃんと楽しんで。

  午前中くらいは、“普通の”祭りでいていいから」


 それは、メイドとしての台詞じゃなくて、

 安全監査官としての、願いみたいに聞こえた。


 「——はいはい! Chaos 席、空きました〜〜!!

  ピンクの悪魔が全力でおもてなししま〜す!!」


 教室奥から、爆音のようなチイロ先輩の声が上がる。


 普通の祭り。

 どこからどこまでが普通で、どこからが異常なのか、

 もう俺には正直よくわからない。


 でも、とりあえず今は——

 シュレディンガー・ブレンドを飲んで、

 この黒い裾の揺れを、ちゃんと観測しておこうと思った。



 09:10/チイロ視点 — 「Chaos は今日も健康」


 ——Cafe of Entropy、Chaosゾーン。


 ここは、世界の誤差が集まるところ。


 私はカウンターの端に腰掛けて、

 “禁止色”のピンクメイドのまま、マイク付きカチューシャを頭に乗せていた。


 「いらっしゃいませ〜〜〜!!

  Chaos へようこそ〜〜〜!!!

  ここは、可愛いとバカと物理が混ざった“湯”で〜〜す!!!」


 男子たちのテンションが、一斉に一段跳ねる。


 「やば、雲越先輩、普通に店員してる……」

 「いや普通じゃない……色がもう……スカートの中、見えそう……」

 「こんなん EXIT:CODE 本番前に心臓鍛えに来る場所じゃん……」


 いいじゃん。心臓は鍛えといたほうがいい。


 Chaosゾーンのメニューは、Order よりさらにカオスだ。

 •「量子ババ抜き(負けた人、恥ずかしいポエム朗読)」

 •「ミームしりとり(R-15ワードは IRB 審査)」

 •「一分間即興ドラマ『もし推しがEXIT:CODEに参加したら』」


 今やっているのは「可愛いカウンタ実況」である。


 壁のディスプレイには、リアルタイムで数字が増えていく。


 本日の可愛い観測量: 428 kawaii


 「は〜〜い! ただいま、

  “矢那瀬アスミが紅華のお嬢様にティーカップを渡した瞬間”に

   +30 kawaii 入りました〜〜!!」


 「実況しないで!!」

 と、Orderゾーンから黒メイドの声。


 かわいい後輩だ。


 私はマイクを軽くタップする。


 「なお、ただいまの Order担当の羞恥温度は——

  “沸騰一歩手前”で〜〜す!!」


 ミサキが救護コーナーから顔を出す。


 「体温上昇してるなら水分ちゃんと摂らせてね〜〜。

  でも、アスミの場合は精神的発熱だから、

  可愛いで冷やしてあげて〜〜」


 「医療用語の乱用、ありがと〜〜!」


 Chaos ゾーンにも、紅華の子たちが何人か流れてきている。


 「雲越先輩、“アスミ先輩を観測してしまった罪悪感”をどう処理したらいいですか」


 「簡単だよ。

  **“観測”って言葉を“推し事”に置き換えなさい。

  心が楽になるから」


 「神〜〜〜〜〜!!」


 ミーム神、今日も信仰を集める。


 09:30ジャスト、Chaos ゾーン側の出入口がガラッと開いた。


 そこから、少し息を切らしたサツキが入ってくる。

 黒メイド+会長バッジ+タブレットという、情報過多な姿。


 「チイロさ〜〜ん!!」


 「なに? どうしたサツキ」


 「廊下の列が、もうすでに想定三倍なのですわ!

  このままですと、午前の枠に入りきりませんわ!!」


 「ふむふむ」


 私はマイクをオフにして、サツキの耳元で囁く。


 「整理券システム、第二形態に移行しよっか」


 「第二形態?」


 「“推し指定整理券”。

  入場時に“誰に接客してほしいか”を選んでもらうの」


 サツキが目を丸くする。


 「そんなことしたら、“矢那瀬アスミ”列に集中してしまいません?」


 「するよ。

  でもそれでいい。

  偏りが見えれば、そこにちゃんと導線とクールダウンを付けられる。

  安全管理ってね、“人気の偏りを可視化すること”から始まるんだよ」


 サツキは、一瞬だけ黙ってから——ふっと微笑んだ。


 「……やっぱり、あなたは上階層の神様ですわね!!」


 「神様っていうより、オタクだよ」


 私はペンをくるくる回しながら、タブレットに新しいフォームを追加する。


【COE 入場整理券・改】

 推しメイド(第一希望)

 □ 矢那瀬アスミ(秩序メイド)

 □ 二階堂サツキ(会長兼メイド)

 □ 雲越チイロ(ピンク時間帯限定カオスメイド)

 □ 亞村トウタ(実況メイド見習い)

 □ その他(自由記入)


 「“その他”って誰ですの」


 「未来のキャラ。フラグはいつでも開いておかないとね」


 サツキが笑って、タブレットを受け取る。


 「では、この“推し整理券”、全力で回してきますわ!」


 会長が出ていくのを見送って、

 私はマイクをオンに戻す。


 「は〜〜〜い!! Chaos からお知らせです!!

  ただいまより、COE は“推し指定整理券システム”に移行しま〜〜す!!

  あなたの一票が、メイドさんの心拍と導線を守ります!!」


 教室中から笑いが起きる。

 Order ゾーンからも、かすかに溜め息混じりの笑い声。


 ——うん、いい感じ。


 COE は、EXIT:CODE の前振りじゃない。

 でも、ちゃんと繋がっている。


 ここで集めた“可愛いのエネルギー”は、

 きっと 15:00 の“怖いほうのイベント”を、ほんの少しだけマシなものにしてくれる。


 私は、ピンクのエプロンの裾をひるがえしながら、

 Chaos ゾーンの真ん中でくるっと一回転する。


 「さあさあさあ!!

  可愛いは増える!

  観測は干渉!

  後悔はログになる前に、全部ここで笑い飛ばしていきなさ〜〜い!!」


 今日の私は、黒でも白でもない。

 ピンク時間帯の、一次相転移みたいなもの。


 ——COE Day1、午前の部。

 可愛いは順調に、秩序を壊していた。

 そして同時に、ちゃんと“守るためのノイズ”にもなっていた。



 09:40/アスミ視点 — 「告白イベント、仕様外です」


 ——シュレディンガー・ブレンド二杯目を運んだ戻り。


 Orderゾーンは、少しだけ落ち着いてきた…ように見えた。


 紅華女学院の子たちは、最初の悲鳴ラッシュを終えて、

 今は「観測モード」に入っている。

 ノートを開いて何かを書いている子までいる。何の観察記録?


 テーブル番号4番。

 リリアンのすぐ後ろの席の女子生徒に、紅茶を置こうとしたときだった。


 「……あのっ!」


 不意に立ち上がった子が、テーブルを挟まず、

 こちら側に一歩踏み込んできた。


 近い。物理距離が、想定より二歩ほど近い。


 「えっと……ご注文と違っていました?」


 礼法マニュアルどおりに聞く。

 違ったら作り直せばいい。問題は、物理的にも感情的にも安全に。


 「違いません! 紅茶は完璧です!!」


 完璧と言われるほどのことはしていない。


 彼女は、ぎゅっとスカートの裾を握って、

 視線を落としたまま、一気に言った。


 「わたし、矢那瀬先輩のファンで……!

  去年の講義で初めて見てからずっとで……!

  その……好きです!!!」


 ——世界の音が、一瞬止まった。


 Chaosゾーンのほうから聞こえていたチイロ先輩のマイクも、

 トウタのツッコミも、紅華のざわめきも、全部いったん遠のいた。


 え?


 「すすっすすす、好きって……??」


 言葉を反復しながら、脳内のマニュアルを全力で検索する。


 〈クレーム対応〉

 〈アレルギー対応〉

 〈体調不良時対応〉

 〈同姓からの突然の告白対応〉


 ——そんな章は、用意していなかった。


 「えええええあの、えっと、その……」


 語彙が、普段使いの冷静な日本語と、パニック時の幼児語の間でバグる。


 彼女はさらに続ける。


 「先輩のノートのまとめ方とか、講義のあとに

  質問しに行ったときの答え方とか、

  EXIT:CODE のホールで、

  誰より怖そうなのに誰より冷静なところとか、

  全部、好きで……」


 ——EXIT:CODE の話題は、ちょっと胸が痛む。


 「だから、このメイド服も……すごく、似合ってて……

  今日、直接言いたくて……!」


 言い終わった彼女の顔は、真っ赤だった。

 紅華の制服のリボンの色と同じくらい。


 ちょっと待って、これは何のイベント?


 「ここごごごご……ごめんなさい……!!……ああの、そのちょちょっと待って!!」


 気づいたら、その言葉が口から漏れていた。


 「あ、あのその違う、そうじゃなくて——」


 彼女の顔が、少し曇る。


 やばい。

 **“バッドエンドルート:開幕3分で振るパターン”**が脳内をよぎる。


 慌てて、言い換える。


 「違うの。驚きすぎて、

  “ごめんなさい”が先に出ちゃっただけで……」


 語彙レベルが壊れていく。

 私は、一度息を吸い直した。


 「私、あんまり、自分のこと“好き”って言われる前提で

  世界を設計してなくて……

  だから、どう答えたらいいか、パニックなんだけど」


 正直に言った。


 彼女は、きょとんとした顔をして——

 それから、少し笑った。


 「……パニックなんですね、今」


 「はい。ものすごく」


 「なら、成功です」


 「成功?」


 「先輩は私のこと本気で考えてくれています!

  一瞬だけパニックにさせることに成功する”っていうのちょとした目標だったので!」


 ミッション?


 「先輩の気持ち、わかりました。でも、返事は、今じゃなくていいです。

  双灯祭が全部終わって、15時も全部終わって、

  そのときにお答えもらえますか?」


 彼女は、ぺこりと頭を下げた。


 「今は、お客さんとして……紅茶、楽しみます」


 ——誰より礼儀正しい、告白だった。


 私は、トレーの上の予備ナプキンを一枚抜いて、テーブルにそっと置く。


 「そっ……それじゃあ、観測、続行で。

  紅茶、おかわりは何度でもどうぞ」


 それが、今の私の精一杯だった。


 背後から、Chaosゾーンのほうでトウタの叫び声。


 「はい出ました〜〜〜!!!

  【速報】秩序メイド、女子から公開告白されて

  観測不能状態に突入のお知らせ〜〜〜!!!」


 「観測不能じゃない!!」と思わず振り返る。


 「ちゃんと観測してる!! パニックなだけ!!」


 そう叫んだ瞬間、可愛いカウンタの数字が、ドンッと跳ねた。


 本日の可愛い観測量: 512 → 640 kawaii


 ……この世界の評価関数、本当にどうなってるの。



 09:50/チイロ視点 — 「ミーム接客は、今日も健康」


 ——告白イベントの空気が、Orderゾーンからうっすら届いてくる。


 いいねいいね〜〜〜。

 想定より二割増しで青春してる。


 Chaosゾーンでは、私も私で忙しい。


 「さ〜〜て!!

  こちら Chaos卓では、“一分間ミーム接客チャレンジ”をやりま〜〜す!!」


 マイク片手に、男子三人組のテーブルの前へ。


 「ルールは簡単!

  このカードから一枚引いて、

  書いてあるシチュエーションで、

  メイドさんが“萌え台詞”を一分間キープします!!」


 カードには、チイロ自作の地獄ワードが並んでいる。


 【幼なじみ】

 【研究室の後輩】

 【EXIT:CODE のログしか見てない監査官】

 【推しの推し】


 男子が一枚引く。

 出たのは——【EXIT:CODE のログしか見てない監査官】。


 「いいの引くねぇ〜〜!」


 私はくるっと一回転して、

 ピンクエプロンの裾をひらりと広げた。


 「それでは、“EXIT:CODE ログ監査官メイド”チイロ、入りま〜〜す!」


 咳払い一つ。


 「——いらっしゃい、参加者くん」


 少し、声色を落とす。


 「あなたのこと、全部ログで見てたよ?」


 男子たちが一気に固まる。

 肩がぴくっと揺れたのが分かる。


 「あなたが“怖いからやめようかな”って迷ってたのも、

  それでも一歩前に出たのも、

  心拍が一番跳ねたタイミングも、

  全部データになって、ここにある」


 胸元をトン、と指で叩く。


 「だから、今日だけは。

  怖くないほうの“選択”をしていい場所にいるって、ちゃんと覚えて帰ってね?♡」


 最後だけ、ふっと笑って見せる。


 男子の一人が、テーブルの上で顔を覆った。


 「待ってこれ、心臓もたないっす」


 「でも、ちょっと安心したでしょ?」


 「……した」


 私がニコッと笑ってみせると、

 Chaos卓の後ろで、トウタが飛び跳ねた。


 「はい出ました〜〜!!

  “感情ケアをミームの皮で包んで

  そのまま胃に流し込む系接客”!!

  これぞ COE の真骨頂で〜〜す!!」


 「言い方〜〜〜」


 カウンタの数字が、またじわっと増える。


 本日の可愛い観測量: 640 → 702 kawaii


 いいね。

 可愛いと安心と、ちょっとの怖さ。

 EXIT:CODE の影を、ここで先に“イジり倒して”薄くしておく。


 それが今日の、私の仕事。



 09:55/ミサキ視点 — 「カオス過多という贅沢な悲鳴」


 Chaos と Order の境目、救護コーナーのあたり。


 私はタブレットと心拍センサーを並べて、祭の熱量をモニタリングしていた。


 「……ちょっと待って。

  想定モデルから外れ始めてる」


 画面のグラフが、にょきにょきと伸びる。


 平均心拍、天城・影村・紅華、全体的に上昇。

 でも、危険域ってほどではない。

 ただ——


 「ここ。

  “告白イベント”直後に、

  全体の交感神経トーンが一段上がってる」


 「そりゃ上がるでしょ〜〜〜」


 椅子の背に逆さ向きで座ったトウタが、スマホを構えながら言う。


 「今のでスレ立ったレベルだよ?

  【朗報】秩序メイドさん、女子から告白されてパニクりながらもちゃんと受け止める【尊い】とか」


 「スレ立てないで」


 「スレは心の中ですでに立ってるんだよね〜〜」


 「EXIT:CODE 本番前に、こんなに感情を振り切らせる予定じゃなかったんだけど」


 トウタが首をかしげる。


 「え、でもさ、**“明るいほうで振り切っておく”**のって、大事じゃない?」


 「大事。でも、予定してた“明るさ”より、一段階オーバースペックなのよ、これ」


 私はタブレットをトントン叩く。


 「ほらここ。

  秦野(仮名)くん、

  EXIT:CODE 保護者説明会のときは

  “ちょっと怖い”って顔してたのに、

  今の心拍パターン、

  完全に“推しの現場”なのよ」


 「良いことでは?」


 「良いことなんだけどね!?

  医療班としては、

  “EXIT:CODEとのギャップで落ち込む”

  パターンもケアしたいの」


 トウタは腕を組んで、真面目モードで頷く。


 「じゃあさ、

  “今日ここで楽しかったことを守るためのEXIT:CODE”

  って言い回し、どっかで流す?」


 「……それ、いいかもね」


 「“EXIT:CODE は、

  COEで笑ってたみんなが、

  ちゃんと今日と明日も笑えるようにするためのゲームです”

  って感じで」


 「言い方が上手いの、ちょっと腹立つ」


 「ほめられた〜〜〜」


 そのとき、Chaosゾーンから再び歓声。


 「はい、次のチャレンジ〜〜!!

  “ミサキ先生、萌え台詞を一行だけ言ってくれませんか選手権〜〜!!”」


 チイロ先輩の声。

 私の肩が、ビクッと跳ねた。


 「ちょっと待って。何それ聞いてない」


 トウタが速攻でマイクを奪う。


 「はい来ました〜〜!!

  【緊急企画】

  “保健班のお姉さんに、一行だけ萌えを言わせて

  全員のHPを回復させよう”のコーナー!!」


 「聞いてない!!」


 でも、Chaos卓からは、

 「聞きたい〜〜〜!!」「先生〜〜!!」の大合唱。


 明るい熱量が、完全に想定を越えている。


 私は、ぐっと目を閉じて、数秒だけ深呼吸した。


 「……一行だけだからね」


 「やった〜〜〜!!!」


 トウタがマイクを差し出す。


 私はマイクを受け取り、

 恥ずかしさを誤魔化すように、医療的に整った姿勢で立った。


 「——えっと」


 会場の空気が、すっと静まる。


 「今日、ここで心臓がドキドキした人は、ちゃんと生きてる証拠だよ?

  だから、そのドキドキごと、大事にして帰ってね?」


 ……一拍の沈黙のあと——


 「「「うわああああああああああああ!!!」」」


 教室全体の熱量が、一気に2度上がった。


 可愛いカウンタが、悲鳴みたいな速度で増え始める。


 本日の可愛い観測量: 702 → 888 → 1024 kawaii


 やっぱり、やめておけばよかった……恥ずかしいよ


 「もう二度と言わないから!!」


 トウタが大喜びで叫ぶ。


 「はい今の録音、EXIT:CODE前説用BGMに採用で〜〜す!!」


 「絶対にやめて!?!?」


 ——COE Day1 午前。


 安全モデルが想定していた“明るさ”よりも、

 みんなは一段階上を走り始めていた。


 でも、そのオーバースペックな熱量が、

 きっと 15:00 のどこかで、

 誰かの足を止める力になってくれる——


 そんな予感だけは、医療班の勘として、間違っていない気がした。


 そして、トウタ

「ヤッベっ!!盤上戦いかねーと!!あと、頼んだ!!」


 少し、時間押してるねトウタ……がんばれ。



 10:30/COE・非常事態 ——『入場規制発動の回』アスミ視点


 「これ……もうデスゲームの前哨戦じゃない?」


 Chaos と Order の二相は、もはや相転移を起こしていた。


 ——廊下の向こうで、悲鳴がした。


 「整理券、いま何分待ちですか!?」

 「配布終了!?ウソでしょ!!」

 「転売 3000 円!?高っ……買うけど!!」


 ……え、転売?


 ミサキが慌てて飛び込んでくる。


 「アスミーーッ!!

  廊下がヤバい! リリアンちゃんのファンクラが隊列作って戦略的な並びし始めてる!

  あと、整理券、“アスミ枠”だけメルカリ価格ついた!!」


 「メ、メルカリ!?」


 整列のプロすぎる紅華女学院の集団が、ほぼコミケスタッフの手つきで列を捌いている光景が見える。


 双灯祭、文化祭じゃなくてフェスの最前列争いになってない?



 入場規制、発令サツキ


 「はいそこ!!走らない!! こらっ!! そこのあなた!!

  危険ですから……もうっ!! いったん 入場規制 をかけますわ!!」


 サツキ会長、拡声器を片手に凛然と宣言。

 ハザマが後ろで、神速でロープとコーンを設置している。


 だが。


 人波、止まらない。


 むしろ、「入場規制」と聞いて動きが加速している。


 法則:禁止されると、余計に燃える。



 「息……できない……!」


 Orderゾーンに押し寄せる人、人、人。

 紅華の子、天城の子、一般の来校者まで混ざって、“黒メイドが給仕する席” だけ異常な争奪戦。


 ミサキが叫ぶ。


 「はい、今現在、

  可愛い観測量、過去最大の “臨界点” に到達。

  このままじゃ店ごと崩壊しちゃう!」


 ユウマでさえ困惑している。


 「人多すぎだろ」


 そして私——


 「は、はい、次のお客様っ……

  あ、ちょっと、押さないで……!あの、本当に押さないでくださいっ……!」


 完全にもみくちゃ。


 肩に誰かの頭がぶつかり、腰に別の誰かの肘が刺さる。


 重心が一瞬ふらつき、私の視界が少し白くなる。


 (これ……15時のEXIT:CODE“前”に……)


 (私が死ぬ!!)


 EXIT:CODEどころではない。

 まさか、COEで命を落とす未来が一瞬よぎるとは……。



 ——「全員落ち着けぇぇぇぇ!!!!!」


 その瞬間、Chaos卓の奥が爆発した。


 チイロ先輩が、自作の“ミーム拡声器” を両手に構えたのだ。


 「はいそこッッ!!!!

  観測系が破綻してる!! 落ち着け下界共がァァァァ!!!」


 音が、空気を二段階で揺らす。

 まるで物理。


 観測濃度が高すぎると、

 チイロ先輩は本当に “神” みたいに見えるから怖い。


 「あなたたち、よく聞いて!

  今のアスミは“秩序メイド”相!

  あの姿の可愛さは 有限資源!!

  押し寄せたら、“絶対に” エントロピー破綻するからね!!!」


 群衆、一瞬静まる。


 ——そして沈黙の中に、誰かが言った。


 「……それ見たいかも」


 空気が再び揺れた。


 ミサキが絶叫。


 「やめてぇー!!エントロピー破綻しちゃう!!

  はい、アスミ、一旦退避!!」


 ミサキがするりと群衆を抜け、私の腕を掴んで引き寄せた。


 「だめ。これは医学的にアウト。

  あなたの心拍、さっきの告白の時より上がってる」


 「そ、そっちのデータ比較しないで!!」


 ミサキは容赦ない。


 「はい、非常導線からバックヤードへ。

  逃げて。というか避難して。

  EXIT:CODE の前に倒れたら、本末転倒だよ?」


 「私が死んだら泣くのはそこ!?」


 だが、逆らえず、私はバックヤードへ避難。


 廊下を抜けた瞬間、酸素がすっと肺に入った。


 「危なかった……

  ほんとに……死ぬかと思った……」


 ミサキはケロッと笑って言う。


 「大丈夫。

  倒れても、AED の使い方、アスミが一番上手いし」


 「私が倒れたら使えないでしょ!!」



 COE、天城史上初の“整理券ストップ”へ


 チイロ先輩がアナウンス。


 「は〜〜い!!ここで一旦!!

  COE、午前分の入場を締め切りま〜す!!

  誰が悪いとかではなく、“構造が強すぎた” のだ!」


 サツキ会長、拡声器で補足。


 「午後の営業は 13 時から再開いたしますわ!!

  転売は禁止!!ダメ絶対ですわ!!

  整理券の売買・交換は無効とします!!」


 廊下から「ええ〜〜!!!」の大合唱。


 チイロが実況風に。


 「はい!!出ました!!

  天城文化祭史上初の“メイド喫茶で入場規制”!!!

  記念すべき第1号は、もちろん我が後輩、矢那瀬アスミ!!」


 「それ誇らしくない!!」



 バックヤードのパイプ椅子に沈みながら、私は、額の汗を拭った。


 「……EXIT:CODE本番前に、本気で死ぬところだった」


 ミサキが隣で水を渡す。


 「アスミが死んでいいのは “物語の中” だけ」


 「言い方!」


 でも、その言い方が少し救いになった。


 まだ大丈夫。

 15時は、もっと怖いけど。

 でも、まだ——大丈夫。



 COE午前営業は、予想の3倍の来客数・予想の5倍の熱量・予想の10倍の混沌を記録して終了した。


 可愛いカウンタは——


 1024 → 2048 kawaii

(※システム警告:上限付近に到達しています。吸収してください。)


 このままでは午後、店が耐えられない。

 EXIT:CODE の安全監査以前の問題。


 でも。


 この“生きてる熱量”が、——誰かを、守るほうへ向かうように。


 そう思いながら、私は胸を押さえた。


 まだ死ねない。

 15時に、“ちゃんと止める側”でいなきゃいけない。


 そのために、まずは休む。

 それが、今の私の最重要プロトコルだった。


 終わってみれば、

 午前の COE は “想定外の熱暴走” だった。


 紅華の子に告白されて涙目になり、

 群衆に押されて酸欠になり、

 チイロ先輩は神の実証実験をし、

 ミサキは私を担いで撤退させ、

 トウタは混沌を言語化してさらに混沌を増幅させた。


 ——でも。


 バックヤードの椅子に沈みながら、

 私は少しだけ笑いそうになった。


 「こんな熱量でも、誰も死んでいない。

  むしろ、ちゃんと“生きてる”」


 EXIT:CODE の 15 時枠を守るために、私はこの午前の騒がしさを“データ”として受け取る。


 人が集まる場所では、観測は干渉になる。

 干渉は揺らぎを生む。

 揺らぎは、ときに救いにもなる。


 そして COE は、揺らぎそのものだ。


 午後も私は店に立つ。

 黒のメイド服と、まだ少し震える手で。


 あの混沌の熱が、どうか 15 時の“止める手順”へ繋がりますように。


 ——観測を続ける。

 今日はまだ、始まったばかりだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ