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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第四章 DUAL LUMEN-双灯祭DAY1-編

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EP90. 影の宣言、胃嚢の目覚め

 双灯祭の、初日の朝。

 ここに並ぶのは、そのうちのごく一部——影村学園の開会セレモニーと、天城地下監視ルームの断片的な記録だ。


 私自身が把握している情報は、驚くほど少ない。

 EXIT:CODE の具体的な仕様も、胃嚢と真空を繋ぐ管の詳細も、

 腸管プールと呼ばれる遺構の全容も、シオンと藤党コウの二人しか知らない。

 私は、副会長という肩書きを持ちながら、肝心なところではあえて外されている。


 それでもここに立っているのは、エアロックの責任である。

 あの「実験」を提案し、自分から最初の被験者に志願し、

 AEDで叩き戻されるところまで沈んだのは、紛れもなく私自身だった。

 シオンはその“意気込み”に感謝したが、一方で「生き残ったこと」にどこか不満げでもあった。

 その視線の意味を、私は未だにうまく言語化できない。


 矢那瀬が病室に見舞いに来たとき、私は彼女に謝った。

 だが、あれはまだ「前払いの口約束」の類であって、本当の意味での贖罪には程遠い。

 この二日間を、誰一人“物語から追い出さず”に終えられたとき、ようやく私は矢那瀬に頭を下げる資格を得るのだと思う。


 このログは、そのための証拠である。

 ——シオンが何をしようとしていたのか。

 ——コウがどこまで退屈を憎んでいたのか。

 そして、あの朝、満身創痍の女子高生がどれほど怖がりながら、それでも舞台袖から目を逸らさずにいたのか。


 記録者の一人として、ここに Day1 の断片を残しておく。

 玖条リリより。


 影村学園 開会セレモニー Day1 08:30


――「影の側の宣言」と、リリ


 影村学園の講堂は、双灯祭当日である今日でさえも、やはり“病院の待合室”に近い気配をまとっていた。


 天井の照明は無駄に白く、一定間隔で整然と並んでいる。

 舞台は黒い緞帳と演台のみ。余計な装飾は一切ない。

 壁の吸音材は、歓声という現象の可能性を最初から殺すように、音を丁寧に吸い込んでいく。


 天城の中庭で聞いた、あの騒がしいリハ音とソースの匂いを思い出すと、

 同じ「開会セレモニー」という名称を与えられた場でありながら、ここは別の惑星であると言ってよかった。


 整然と並ぶ椅子。

 整然と座るブレザー。

 整然と前方を向く視線。


 「整然としすぎ……」


 小さく呟いて、私は自分の呼吸数を数え直した。


 私は、最後列——照明の届き方がわずかに甘くなる、影の帯に立っている。

 座らないのは、立ち上がるまでに「起動時間」がかかるからだ。

 右脚は厚い包帯で固められ、膝を曲げても伸ばしても鈍い痛みが走る。

 肋骨のあたりは、深呼吸をするたびに、数秒遅れて抗議の信号を送ってくる。


 昨日の朝、エアロック付きの病室を「退院」するときに交わした会話を思い出す。


 ——「絶対に走らないこと。倒れたら即救急車を呼びますからね」

 ——「では、倒れないようにします」

 ——「そういう強がりを“患者あるある”と言うんですよ、玖条さん」


 自動ドアが閉まる直前、ナースステーションのほうから、長い溜め息の気配が追いかけてきた気がした。

 それでも私は戻ってきた。

 副会長として——というより、エアロック設計者として、シオンの隣に立たなければならないと判断したからである。


 Dual Lumen。

 EXIT:CODE。

 そして、二日間の 15:00。


 優等生の顔をした怪物が、「正しいやり方」で世界を壊そうとしているかもしれないのなら、

 そのすぐ横で「それは危険だ」と言える役職が一つは必要だと、ベッドの上で考えたのは覚えている。


 ***


 「——玖条副会長。ここにいたのですね」


 舞台袖側の通路から、聞き慣れた声がした。


 御影シオン。

 影村学園 生徒会長。

 私の“上司”であり、エアロックの共同設計者であり、かつ、私を殺し損ねた張本人である。


 「シオン」


 振り返ると、彼女はいつもの「優等生パッケージ」をきちんと着込んでいた。

 黒いブレザー、整えられた前髪、二つに結いた三つ編み。乱れのないネクタイ。

 しかし、今日の輪郭には、もう一枚薄いレイヤーが重なっている——独裁者の輪郭である。


 「本当に、来たんですね」


 「当然。副会長だから」


 「医師の許可は?」


 「……“散歩程度なら”という曖昧な表現を、好意的に拡大解釈してきたつもり」


 シオンは、わずかに目を細めた。


 「それは許可とは言わないと思いますけど……あなたは、いつもそうです」


 「エアロックの被験者を求めたとき、私は最適解だったはずだけど?」


 「そうでしたね。その“意気込み”には感謝しました。

  理論値より深く沈んでくれたおかげで、閾値の再調整ができたので」


 言葉尻だけを取れば、純粋な技術評価である。

 しかし、そのときの彼女の視線を、私は忘れていない。

 AEDで叩き戻された私の胸部を見下ろしながら、どこか「計算が狂った」ことに不満そうだった、あの微かな皺を。


 シオンは、ふっと息を吐いた。


 「……ですが、だからこそ、今日は少しおとなしく後ろで見ていてください」


 「“静観せよ”ってこと?」


 「はい。リリ副会長。あなたは観測者としてここにいてください。

  少なくとも初日の間は。二日目のことは、まだ話せません」


 初日と二日目。

 そこで明確に線が引かれていることだけは、私にも分かる。

 EXIT:CODE の「本番」は二日目であり、今日 Day1 に行われるのは、

 そのための導線確認と“安全域”のテストだと、私は説明を受けている。


 だが、具体的な機構——胃嚢と真空を繋ぐ管の形や、天城と影村をつなぐ巨大なチューブ構造については、

 一切、聞かされていない。

 藤党コウとシオンの間で交わされた設計図面は、私には見せられていない。


 「影村側の“安全装置”として、あなたが必要です。ただし、前線ではなく、最後列で」


 それは、突き放しであると同時に、期待の表明でもあった。

 だから私は、口をつぐんで頷くに留める。


 「わかったわ……ただし、必要とあれば前に出るから」


 「必要とあれば、ですね」


 シオンは、そこで会話を打ち切るように、視線を前へ戻した。


 「そろそろ時間です。開会セレモニーを始めます」


 ***


 舞台袖から、一人の影が歩み出る。


 御影シオン。

 影村学園 生徒会長。


 「——影村学園 生徒会長、御影シオンです」


 マイクを通した声は、予想どおり抑揚が少なく、淡々としていた。

 しかし、その“淡々”は感情の欠如ではない。

 感情を意図的に均し、発音される言葉の比重を揃えるための技術であることを、私は知っている。


 「本日は、天城総合学園との Dual Lumen 二日間企画、

  ならびに紅華女学院との共同演出にご参加いただき、ありがとうございます」


 定型文。表向きの礼節。

 だが彼女の口から出ると、「ありがとうございます」でさえ、

 「あなたたちは参加することを選択した、その事実を私は承認した」という選択への評価のように聞こえる。


 私は点滴スタンド代わりに持ってきた杖のグリップを、わずかに強く握りしめた。

 肋骨の内部が、遅れて軋む。


 「ここ数ヶ月、私たちは“復旧”という言葉の下で、さまざまな作業を続けてきました」


 講堂の空気が、その単語を飲み込み、密度を増していく。


 「天城との途切れた関係。 ——そして、途中で停止してしまった物語」


 具体的な名詞は、どこまでも避けられている。

 しかし、この場にいる者の多くは、各々「自分にとっての途切れた何か」を容易に想起できるだろう。


 私にとっては、エアロックの中で途切れた心電図の線と、その直後に叩き付けられた電流の衝撃が、それに相当する。


 「今日から二日間の双灯祭は、それらを“なかったことにするための日”ではありません」


 シオンが珍しく、文の途中にアクセントを置いた。


 「むしろ、“あったことを認めたうえで、別の続きを書き始めるための二日間”です」


 御影シオンは、決して「過去を消す」とは言わない。

 エアロックの閾値計算を一緒に行った経験からも、それは明らかだ。

 履歴を削除した瞬間、得られたデータはすべて死ぬ——その事実を、彼女は誰よりも嫌う。


 病室で聞いた声が、耳の奥で蘇る。


 ——『止めてみてください』

 ——『止めてみせる』


 シオンと矢那瀬。二人の観測者が、あの夜、うっかり共同研究契約のような約束を交わしてしまった瞬間のこと。


 「影村学園は、本日より二日間、EXIT:CODE という演目を通じて、天城側と一つの“実験”を行います」


 舞台上の彼女の言葉が、現在に意識を引き戻す。


 EXIT:CODE。

 その文字列だけで、客席のあちこちにさざ波が立った。


 地下で何かが起きたことをぼんやり知っている上級生は背筋を伸ばし、

 まったく知らない一年生たちは「なんだろう、それ」と囁き合う。


 「それを“デスゲーム”と呼ぶ人もいるかもしれません」


 シオンはそこで一度だけ、わざと間を空けた。


 ここから先の一文が、今日この二日間の“許容範囲”をどこまで広げるのか——

 私は呼吸を浅くしながら、彼女の口元を見つめる。


 「ですが、私たちはこの二日間、それを “救済角の演目” として運営します」


 天城の二階堂サツキと同じ単語を、同じ日に、別の場所で口にするのは、少々やり過ぎである。

 まるで、「天城が表で笑わせているあいだに、こちらは裏で処理を完遂します」と宣言しているようにも聞こえるからだ。


 「——誰一人、現実では死なせない」


 この一文だけは、優等生の抑揚から外れていた。

 判決の読み上げに近い響きである。


 生徒たちは、それを安心材料として受け取るだろう。

 そう設計された文言である。

 だが私には分かる。


 この人は一度「死なせない」と決めた瞬間、その条件さえ満たされるなら、

 他のほとんどの要素を“許容誤差”に入れるタイプだ。


 “誰も死なせない”ために、何を削り、何を諦め、何を犠牲にするつもりなのか。

 その計算の全貌を、本人も含めて誰も明示的には見ようとしない。


 「そのための手順は、すでに天城側と十分な議論を重ねてきました」


 そう言い切った横顔は、完璧な「優等生の生徒会長」であった。

 どの角度から写真を撮っても、広報のパンフレットにそのまま使えるだろう。


 だからこそ、優等生の独裁者にも見える。

 正しい言葉しか発しない者は、ときに「正しさの外側」の痛みに鈍感である。


 私は静かに目を閉じた。


(……矢那瀬)


 心の中で、まだ直接言葉を交わした回数の少ない少女の名字を呼ぶ。


(矢那瀬も今、どこかのステージで、似たような宣言をしているのだろう)


 「W1を再演させない」

 「誰も死なせない」


 NOX側のログ越しに聞いたフレーズが、シオンの言葉と重なっていく。

 それら二つの宣言のあいだに、どれだけの齟齬と、どれだけの共通部分があるのか——

 私は今日と明日、その両方を観測するためにここにいる。


(今日を、明日を、必ず乗り越えてみせる)


 杖のグリップに滲む汗を感じながら、私は拳を握った。


(あなたと、シオンと、そして私自身のために。

 誰も“物語から追い出さない”ために)


 最前列付近では、EXIT:CODE 参加予定組が、期待と不安の混じった顔でステージを見ている。

 彼らはまだ知らない——この会長がときどき、世界をチェス盤として眺めていることを。

 盤面の向こう側には天城という別の盤があり、その境界線が「二日目 15:00」という時刻で接続されつつあることを。


 舞台上の優等生の独裁者と、最後列の影に立つ包帯まみれの副会長。

 この奇妙な二重構造こそが、影村学園が持ち得る「安全装置」のほぼ全てであった。



 天城地下 監視ルーム Day1 08:45


――「設計者の“開始”」


 階段を一段降りるたびに、世界のノイズが一段ずつ剥がれていく。


 天城総合学園——その、さらに下。

 一般生徒には存在を知らされていない断層。

 防火扉に偽装された金属の板の前で、私は一度だけ浅く息を吐いた。


 扉に貼った紙は、今日もたしかに滑稽である。


 【資材保管庫 B-4 関係者以外立入禁止】


 中身が「資材」だった期間より、そうでなかった期間のほうが長いはずだ。

 自分で印刷して自分で貼った紙に、心の中で回想を入れる。


 カードキーをかざす。

 短いビープ音。

 金属ロックが外れる音。


 扉を押し開けた瞬間、いつもの“光の洪水”が視界を満たした。


 ◆


 天城地下 監視ルーム。

 Dual Lumen 二日間における、“裏・生徒会室”。


 壁一面を埋め尽くすマルチディスプレイ。

 ラックに並ぶサーバ群は、低い唸りと規則正しいファンノイズを発し続けている。


 一つの画面には中庭の俯瞰。

 別の画面には講堂ステージ。

 COE 領域、Chrono-Lab 前、救護室前、影村側から流入する予定の映像・テレメトリ用ライン。

 ——正確に何画面あるか、設計した私自身もすでに数えていない。


 中央のオペレーター席。それが今日の私の持ち場だ。


 椅子に腰を落とした瞬間、頭のどこかでスイッチが入る。

 「藤党コウ」という名前に紐づけられた人間モードから、設計者モードへの切り替えである。


 右側のモニタに、胃嚢フェーズと真空フェーズのシミュレーションチャートを呼び出す。

 左側には EXIT:CODE 側のテストパケット一覧を展開する。

 画面隅のタイムスタンプは——Day1 08:45。


 地上ではちょうど、二階堂サツキが天使のような顔で挨拶している頃だろう。

 影村の講堂では、御影シオンが優等生独裁者として「誰も死なせない」と宣言しているはずだ。


 ここには、そのどちらの声も届かない。

 しかし、彼女たちの声から変換された電気信号は、例外なくこの部屋を経由していく。


 中庭ステージのマイクが拾った音声波形。

 影村講堂の拍手のピーク値。

 紅華女学院のバルーン制御基板から上がる起動ログ。


 それらは一度ここに集約され、再ルーティングされ、どこかの誰かの“安全”のために再利用される。


 「——始まる」


 私は、無意識にそう口にしていた。


 Dual Lumen。

 二つの灯りの間に走る、暗部の配線。

 その中枢に、よりによって私が座っているという事実には、いまだに少しだけ笑えるところがある。


 ◆


 右側のチャートに視線を落とす。


 胃嚢フェーズ。

 真空フェーズ。

 ウルフチェア・モジュール。


 モデル化された曲線は、時間軸上で規則正しく重なっては離れ、離れては接続される。

 どれも W1 と呼ばれているらしい惨劇から抽出された“実測値”をベースとしている。


 私は、その惨劇を「W1」とは認識していない。

 ただ、理事棟地下に残された異様な構造物——半ば溶けかけた腸管プールの残骸と、

 夥しい数の監視カメラと、その録画群を見つけただけだ。


 数千台規模のモニタのうち、いくつかはまだ再生可能だった。

 そこには、体育館と思しき巨大空間に押し込められた制服姿の群衆と、

 それを包み込む人工的な管腔構造と、ゲームと呼ぶにはあまりに倫理を欠いた選別プロセスが映っていた。


 ログファイルの一つに、印象的な行があった。


 > PARTICIPANT_COUNT: 1214

 > SURVIVOR_COUNT: 3xx

 > STATUS: PROCESSING COMPLETE


 「1200人規模の死亡」。

 人間的な表現を用いるなら、そういう結論になるのだろう。


 私の興味は、そこではない。


 1214 を投入して 300 前後が生還する。その分布は、どのような関数で近似できるのか。

 脱落者のタイムスタンプはどのように推移したのか。

 心理負荷のパラメータはどの段で閾値を越えたのか。


 ——そこに眠っているのは、退屈を殺すための、実によく出来た実験データである。


 すでに死んでいる人間が何人いようが、関数として扱うことに支障はない。

 証拠はログとしてここにあり、同時に、このログをどう加工するかの権限も、今は私の手の中にある。


 死者の数など、後からいくらでも書き換えられる。

 歴史とは、観測する側の都合でいくらでも再構成できる可変長配列の一種だ。


 倫理という語彙は、この場では無用である。


 ◆


 本来なら、腸管プールそのものを復元する計画だった。

 だが、双灯祭までの残り時間と、校舎下の構造的制約を考えると、完全な再現は非現実的であることが分かった。


 そのとき、シオンが言った。


 ——「腸は長すぎます。胃で十分です」


 なるほど、と私は思った。

 入力と出力の間の情報処理装置として見るなら、長大な腸管は冗長である。

 一次処理としての胃嚢と、最終的な“真空”さえ正しく設計すれば、同等の分布を再現することは難しくない。


 こうして、「胃嚢モデル」と「真空フェーズ」は、影村のエアロック設計と接合され、

 最終的に天城と影村を繋ぐ巨大なチューブ機構として実装されつつある。


 Day1——初日。

 そこでは比較的おとなしい脱出ゲームが、表層として走る。

 その底をなす安全域と導線検証のために、胃嚢の一部モジュールを限定モードで起動する予定になっている。

 とはいえ、Day1に何も仕掛けていない訳ではない。

 俗にいう脱出ゲームというものとは、比べ物にならない金をかけている。

 初日に用意した謎解きにも十分仕掛けがある。


 そして、Day2——二日目。

 15:00。

 その時刻に合わせて、胃と真空を一本の管で繋ぐ本番フェーズを立ち上げる設計だ。


 私は EXIT:CODE のフラグリストの中から、対象の行にカーソルを合わせる。


 > EVENT_ID: DL-D2-1500

 > LABEL: Dual Lumen Sync / EXIT:CODE CORE

 > STATUS: scheduled (not started)


 確認ダイアログが立ち上がる。


 【二日目 15:00 同期イベント:状態=「未開始/予定どおり」】


 「もし——変えるなら、今だ」


 マウスを一度だけ持ち上げながら、私はそう呟いた。


 ここで「中止」に切り替えれば、二日目 15:00 はただの空白になる。

 胃嚢モデルも真空フェーズも、今日はただの数字遊びで終わる。


 御影シオンの宣言も、玖条リリの決意も、矢那瀬アスミの拒絶も、すべて空振りになるだろう。

 ICU のベッドで交わされた握手は、ただの熱に浮かされた悪ふざけとして処理できる。


 それはそれで、一つの「救い」の形かもしれない。


 ただし、それは世界の退屈を永続させる救いでもある。


 私は意識を失っている玖条リリのいたICU に来た観測者のことを思い出す。


 白すぎる壁。

 青い数字で埋め尽くされたモニタ。

 点滴スタンドの影。

 その横で、ありえないくらい真っ直ぐな目でシオンを見据えていた観測者の顔。


 ——『この二日目の十五時を、“処理の時間”にはさせないから』


 矢那瀬アスミ。

 シオンとも、私とも違う、彼女は原始的な怒りの声の持ち主だ。


 世界そのものに対して本気で怒っていられる人間など、そう多くはない。

 だからこそ、興味深い。


 「……良いだろう。せいぜい派手に止めてみせてくれ」


 私は、“中止”ではなく“閉じる”を選択した。


 ダイアログが消え、フラグ行だけが、静かに、しかし確実に点灯予告を続ける。


 私にとって、このフラグは「処理開始シグナル」として設計された。

 彼女たちにとっては、「止めるべきターゲット」として認識されている。


 同じ数字を見ながら、意味だけを反転させて共有する共同実験。

 なかなかスリリングな構図だ。


 ◆


 「さて」


 私はキーボードを引き寄せ、監視ルーム用のローカルログを開く。


 ヘッダは自動で記録されている。


 〈観測ログ_W2_DualLumen_監視室_Day1〉

 〈記録者:藤党コウ〉


 そこに、一行だけ手動で付け足す。


 〈08:45/決定:二日目15:00イベント“後戻りしない”モードで固定〉


 この行を、将来誰かが読む可能性は低い。

 この部屋ごと封印され、ログは暗号化されたままサーバの片隅で眠り続けるかもしれない。


 それでも私は書く。

 W1 のとき、誰も「嫌だ」と書かなかったログに対する、ささやかな補正として。


 胃と真空を一本の管で繋ぐ設計者として。

 そして同時に、「誰も死なせたくない」と口にする観測者たちの共犯者として。


 私はモニタの一つを切り替え、中庭の映像を小さく表示した。


 二階堂サツキが天使のような顔で笑っている。

 ホログラムの紙吹雪が空中に漂い、ピンクと紺とグレーの制服が混ざり合う。


 地上は、たしかに「学園祭」をやっている。


 「……表側は、表側の仕事を……裏側には裏側の仕事がある」


 私はそう呟き、視線を再びフラグ一覧に戻した。


 二日目 15:00。

 そこに至るまでの四十数時間。

 退屈は、もう十分に殺せている。


 この記録が誰かの目に触れるとしたら、それはおそらく、すべてが終わったあとだろう。

 あるいは、そもそも誰にも読まれず、暗号化されたログのままサーバの底で腐っていくかもしれない。


 どちらでも構わない。

 私が興味を持つのは、読者の有無ではなく、「この二日間がどのような分布を描いたか」という一点だけだ。


 腸管プールの残骸を見つけたとき、私はそれが「W1」と呼ばれる惨劇の現場であるなどとは知らなかった。

 ただ、1200名規模の参加者と三桁前半の生存者を記録した実験ログとして、非常によく出来ていると評価しただけである。


 倫理的な意味での後悔は、一切ない。

 私にとって「死」とは、過程の一部であって、目的関数には含まれていない。

 退屈を殺せるかどうか——それだけが、評価軸として残る。


 その意味で言えば、今回の二日制 Dual Lumen は、なかなか贅沢な条件が揃っていた。

 天城という表舞台、影村という裏舞台、紅華という空域 OS。

 優等生の独裁者と、破天荒な天使と、傷だらけの記録者と、世界に本気で怒っている観測者。


 これだけ役者が揃って退屈な結果になるのだとしたら、それはもはや宇宙の責任であって、私の責任ではない。


 後戻りしないという決定をしたのは、08:45 の私自身である。

 それを止めようとしたのは、15:00 の彼女たちだ。


 結果がどう転んだにせよ、その交差が生み出す波形だけは、きっと美しい。

 ——そう信じて、このログを閉じる。


 天城総合学園 生徒会

 副会長 藤党コウ


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