EP89. 紅華の空と、天使の宣言
記録者:紅条リリアン(紅華女学院 生徒院長)
——“二日間の祭り”って聞いたとき、わたくし、正直こう思いました。
**「じゃあ、空も二日間ぶっ通しで可愛くするしかないじゃない♡」**って。
天城と影村が Dual Lumen なんて哲学っぽい名前をつけて、
Day1 と Day2、二つの十五時に怖くてカッコいい演目を詰め込むのなら——
空域担当としては、その上に**「ちゃんと呼吸できる空気」と「逃げ道になる光」**を、
二日分、ちゃんと敷いておきたくなります。
去年のわたくし達は、はっきり言って「やりすぎピンク」でした。
視界ゼロのピンク霧。
可愛いけれど、あれでは“勝ち負け”どころか“安全基準”も吹き飛ばしてしまいます。
そして今年は、その反省会の延長で——
“紅華におけるアスミ様信仰”が、一段階進化してしまいました、
数日前、天城の“光の観測者”こと矢那瀬アスミ様が、
紅華女学院の生徒院長室までお越しくださいました。
花びらの廊下、ピンクのカーペット、全校拍手の花道、
そしてわたくしの、少々……いえ、だいぶ行きすぎた抱擁と忠誠の宣言。
(あの瞬間のわたくしを、“冷静”と呼べる人類は一人もいないと思いますけど)
でも、その日アスミ様が下した“空の条件”は、
わたくし達にとって、祝福であり天命でした。
「ピンク単色ジャックは禁止」
「香料ゼロ」
「視界ライン十五メートル以上を確保」
「“影村の空”じゃなく“祭りの空”として飛ぶこと」
それらを、わたくしは“誓約のしるし”と一緒に、胸のいちばん奥にしまいました。
だから今年は、**“二日間、美しく並び立つ”**が目標。
天城の紺、影村のグレー、紅華のピンク。
三つの灯りが、同じ空を分け合うためのアップデート。
この Act.2 に記録されているのは、
Day1 の朝に、わたくしが“誓約のしるし”を胸に抱えながらアスミ様へお届けした“空からの決意表明”と、
その少しあとの時間に、天城の“天使”が中庭に落としてみせた境界条件のお話。
地上でどれだけ難しい議題が動いていても、空のほうからできる応援がある。
——紅華という“空の OS”が、この二日間だけは、
天城と影村とに、全力で肩を並べてみせるのだという記録です。
では、Day1/07:50
アスミ様が受信した私の通話ログからご覧くださいませ。
紅華女学院からの“朝挨拶” Day1/07:50
矢那瀬アスミ視点
——「お色気は朝から全開で(ただし二日間有効)」
中庭側の渡り廊下は、朝イチ特有の“未完成な賑やかさ”で満ちていた。
まだ屋台は半分も開いていないのに、
木枠を組む音、ダンボールを引きずる音、ガムテの千切れる音が、
ランダムなリズムで反響している。
その騒音から、少しだけ離れた柱の影で、私は COE 用の備品リストを確認していた。
•カップ&ソーサー:24
•予備カップ:6(※サツキ会長突発来店時の被害想定込み)
•砂糖:3kg
•電解質多めドリンク粉末:5袋(※Day2 の夕方まで見据えて増量)
•可愛いカウンタ用センサ:4台
•黒メイド一式:サイズ別チェック済み(Day1/Day2 ローテーション想定)
……最後の行を見るたびに、羞恥心がわずかに蠢く。
でも、羞恥は既に“紅華行き”の過去ログにしたはずだ。
あの女学院の薔薇の廊下を歩かされた時点で、
普通の羞恥心はだいたい初期化されている。
今日はもう、運用フェーズ。しかも二日間連続。
ポケットの内側には、薄いカードの感触があった。
紅条リリアンから渡された、“誓約のしるし”。
——正直、ホラーと紙一重の重みだけれど、
空域交渉の成果としては、これ以上ない担保でもある。
そんなふうに自分に言い聞かせていたとき——
ポケットのスマホが、震えた。
画面に表示された名前を見て、反射的にため息が出る。
紅条リリアン。
紅華女学院・空域支配担当。
去年、天城の中庭の空を「愛と勝利のピンク地獄」に変えた張本人。
そして数日前、紅華の生徒院長室で
「アスミ様ぁぁぁ♡」と叫びながら酸欠しかけ、
チイロ先輩の腕の中で命をつないだ“自称・百合信者の女帝”。
……いや、命の恩人はどう考えてもチイロ先輩なんだけど。
その“恩人”に焚きつけられて、なぜか私に忠誠を捧げている人。
「……嫌な予感しかしない」
小さく独り言を挟んでから、通話ボタンを押す。
「はい、矢那瀬です」
『あああああアスミ様ぁぁぁぁ♡♡
おはようございます〜〜〜〜♡』
鼓膜が、物理的に撓んだ気がした。
朝の渡り廊下に、
**“お色気に全振りした音圧”**が炸裂する。
紅華の廊下で全校拍手を浴びたときと、音圧の質が同じだ。
あのときは逃げ場がなかったけれど、今日はまだ通話終了ボタンという文明の利器がある。
……押さないけど。
「……こんな時間からテンションが夜なんだけど」
『だって今日は双灯祭 Day1 ですよ〜?
“天城・影村に、わたくしたち紅華のピンクという第三の灯り”が
二日間揃うのをお手伝いする祝祭 Daysデイズなんですよ〜?
魂の波長が、もう二十四+二十四時間コースで臨界突破です♡』
この人の辞書には、“ボリューム調整”とか“近隣への配慮”とか、
そういう単語が根こそぎ欠落している。
紅華の廊下で「推してます♡」と囁いてきた十二人分の声が、今ここに集約されている感じだ。
周囲のクラスメイトが、何人かこちらを振り向いた。
「今の何?」という顔をしている。
違う、私じゃない、向こうが勝手に騒いでいるだけ。
「昨日までに、バルーン演出の条件は全部確認したはずだけど。
——何か変更でも?」
『違いますの違いますよ!
今日は、“変更届”じゃなくて“決意表明”コールです!
アスミ様♡』
“アスミ様”と呼ばれるたび、背筋がむず痒くなる。
紅華女学院では、彼女は完全無欠のカリスマ女帝だ。
生徒会長であり、チアリーダーであり、空域を支配するバルーン女王。
彼女が指先をひらりと振れば、校舎の上にハート形ドローンが十機は出撃する。
その女帝が、なぜか私には絶対服従モード。
そして、その原因が“尊さで酸欠”という物理的バグだと知ってしまっている現在、
世界のエラー表示はむしろ悪化している。
『去年、天城は影村に美しく負ける形になってしまいましたでしょう?』
リリアンの声が、ほんの少しだけ落ち着く。
お色気フィルタが5%だけ薄くなる。
『だから、今年は“美しく並び立つ”って、
アスミ様とお約束いたしましたよね?
——紅華の生徒院長室で、“誓約のしるし”までお渡しして』
「……したわね」
去年の双灯祭。
紅華バルーン打ち上げ暴走事件。
中庭が視界ゼロのピンク霧に覆われたあのカオス。
そして今年の事前交渉。
薔薇の花びらの廊下、全校拍手、謎のスローガン、
「美は法、光は秩序」と刻まれた扉、
開口一番の抱きつきと忠誠宣言、
そして机の上に飾られていた、知らない角度から撮られた“私の写真”。
——あれを“交渉”と呼んでいいのかは、まだ判断を保留している。
『ですから今年は、
**“天命レベルで条件守るモード”**で二日間を走ります。
それをアスミ様ご本人に、直に宣言しておきたくて♡』
“天命レベルで条件を守る”って、
新手の宗教ワードみたいな表現やめてほしい。
紅華の子たちが言うと、わりとガチで“教義”に聞こえるから怖い。
「香水ゼロ、ピンク単色ジャック禁止、視界十五メートル以上確保、
横断幕は三校連名まで——
全部、“天命モード”で Day1 も Day2 も守ってくれるのよね?」
『もちろんです♡
だって今年の双灯祭は、“誰が一番可愛く勝つか”の二日間じゃなくて——』
リリアンの声が、一拍だけ真剣に沈む。
『**“誰が二日間ちゃんと可愛く生き残るか”**の二日間、なんですから』
心臓の鼓動が、半拍遅れて跳ねた。
……この人、たまに、危ないところを正確に刺してくる。
紅華の院長室で、
「アスミ様に傷をつける人は紅華で生き残れませんの♡」と
笑顔で脅してきたときと、同じ温度の声だ。
「……“生き残る”って単語の選び方、悪趣味よ」
『アスミ様、ごめんなさい!
でも、わたし、ニュースくらいは見てますよ?
影村側の“EXIT:CODE Safe Phase/Core Phase”とか、
天城側の“Dual Lumen Sync Day1/Day2”とか。
**“怖いほうの議題”**を二回分抱えていることくらい、
紅華の空からでも見えますから』
バルーンとドローンで、
上空から他校の動向を観測している女学院って何。
そしてきっとその観測ログには、
御影シオンの名前も、岡崎ユウマの名前も、
“アスミ様の周囲にいる要注意人物リスト”としてタグ付けされているのだろう。
……考えたくないけど、容易に想像できるのが嫌だ。
『ですけど——』
リリアンは、軽く笑う。
さっきまでより、少しだけ柔らかい声で。
『紅華女学院は、“諦めが悪い女の子たち”の集合体ですから、
一度推したものは、最後まで推し倒す。
一度決めた“推しの安全”は、Day1 の夜も Day2 の夕方も、最後まで守り抜く。
——それが、わたしたちの美学です♡』
「推し……?」
口から出た瞬間、自分でツッコみたくなる。
——いや、知ってる。
紅華の門を出るまでに十二人に「推してます♡」って囁かれて、
三回握手を強要されたの、忘れようとして忘れられてない。
『もちろん、“アスミ様”のことです♡』
即答だった。
スマホの向こうで、きっと今、
両手を頬に当ててクネクネしているに違いない。
『ですから二日間、天城と影村が
どれほど“怖いほう”のプログラムを走らせても——』
声が、少しだけ低くなる。
『わたくしたちは、わたくしたちのやり方で、
“空のほうから”祝福いたします。
ちゃんと呼吸できる空気と、ちゃんと抜けられる空域を、二日分プレゼントします』
……この人の比喩は、
いつもお色気とポエムと戦略がごちゃ混ぜだ。
けれど今の一文には、
多分、彼女なりの本気が含まれている。
——呼吸できる空気。
——抜けられる空域。
EXIT:CODE で、もし誰かがパニックを起こしたとき。
Dual Lumen で、もし何かが閾値を越えたとき。
“上”にいる紅華のドローンとバルーンが、
避難誘導の目印として使えることは、
紅華の院長室での交渉の時点で、もう合意済みだ。
(空の OS、紅華女学院。
地上の OS、天城と影村と NOX)
世界はときどき、意味不明な分業をする。
私は、スマホを耳に当てたまま、
渡り廊下の窓から空を見上げた。
まだ何もない、薄い青灰色のキャンバス。
今日と明日の午後には、そこにバルーンとドローンと、
三校分の“祈り”が浮かぶことになる。
そのどこかに、紅華の女の子たちの
**「アスミ様を傷つけるヤツは許しませんの♡」**という
過剰な正義感が紛れ込んでいるのだと思うと、少しだけ背筋が冷える。
「……了解したわ。
紅華側の“天命モード”、二日間ぶん信用するわ」
『きゃあ〜〜〜〜アスミ様に信じていただけたぁ♡
これで今日一日、いえ二日間で、何万個でもバルーン膨らませられます♡』
「膨らませすぎないで!
視界ライン十五メートル、忘れないでよ? Day1 も Day2 も」
『存じております!
ピンクの悪夢は去年だけで充分。
今年は、“二日間まとめてピンクの救済”にしてみせます♡』
さらっと危なっかしいキャッチコピーを作るのやめてほしい。
“救済”と“ピンク”を同じ文に入れると、宗教色が濃くなるから。
『じゃあ、わたくしもアスミ様たちの“天命モード”を、
空の上から二日間、楽しみにしております』
「“楽しむ”対象じゃないんだけど」
『EXIT:CODE も、Dual Lumen も、
“誰も死なせない”んでしょう? アスミ様』
そこだけは、一切ふざけていない声だった。
紅華の院長室で、
ユウマの悪口を百合フィルタ付きで垂れ流しながらも、
最後の最後で「あの人にも礼儀を覚えさせて差し上げますわ」と
妙な方向の“保護欲”を見せたときと同じ種類の真剣さ。
私は、応えるように息を整える。
「当然。
——死ぬ自由は、この二日間の双灯祭メニューには入ってないから」
『ふふっ……そのセリフ。カッコいい……っ!!
“死ぬ自由は、双灯祭二日間の提供を停止しております”——
アナウンスに使わせていただいてもよろしいですか?』
「やめて。本気で流したら保健委員会に怒られる」
『じゃあ、わたくしの心の中の校内放送にだけ、
特別に保存しておきますね♡』
どこまでも迷惑な保存先だ。
『それではアスミ様、
Day1 のご健闘と Day2 までのご武運と、そしてご無事を、
この紅条リリアン、紅華女学院を代表してお祈り申し上げます。空より愛を込めて——♡』
「その最後の一文で全部台無しにする才能、どうにかして」
『才能ですもの♡』
通話が切れた。
画面には「紅条リリアン(通話時間 04:12)」と表示されている。
……四分以上、朝からお色気電波と百合信仰ミームを浴びていたのか。
この二日間の精神力リソースが、予定より5%は削られた気がする。
私はスマホをポケットにしまい、
手帳を開いて一行書き込む。
〈紅華バルーン&ドローン:本日“天命モード(2days)”宣言〉
→空域:避難・導線用サブチャンネルとして運用可能
(※信用度 70%/紅華の百合熱を考慮しても最大 85%が限界)
“信用度100%”と書けないあたりが、
私の小ささであり、慎重さでもある。
手帳を閉じて、再び空を見上げる。
紅華の薔薇の香りが、まだ髪のどこかに残っている気がした。
「……本当に、宇宙ってバカ」
W1 も、Dual Lumen も、EXIT:CODE も、
紅華バルーンも、二日間開催も、百合も、信仰も、全部ひっくるめて。
こんなめちゃくちゃな世界の上で、
それでも“誰も死なせない双灯祭(二日制)”をやろうとしている私たちも、
かなりのバカだと思う。
でも、こういうバカさは——
「そこまで……嫌いじゃない」
小さく呟いて、私は備品リストの続きを確認し始めた。
黒メイド一式の行を見て、ほんの少しだけため息を混ぜながら昨晩のことを思い出す。
昨夜のミーティングの後、備品リストを確認し終え、私は黒メイド一式のサイズタグをぱらりと指でめくっていた。
Day1 用、Day2 用、それぞれローテーション。
鏡の前に吊り下げられた黒布は、光の角度によって微妙に濃淡が変わる。
……落ち着け。
これは業務であって、羞恥ではない。羞恥など、紅華の廊下で既に置いてきたはず。
「アスミー、メイド服のチェックもう終わった?」
振り向くと、チイロ先輩がポケットに手を突っ込んだまま、靴音軽めで歩いてくる。
いつも通り、悪魔みたいに笑っている。
「終わりっていうほどじゃないけど……サイズの最終確認をしてる」
「へぇ。ほんとに着るんだ?」
「着るしかないでしょ!! 議案通過してるから。
文句ある!?」
「あるわけないよ? ただ——」
チイロ先輩が私の横をすり抜け、鏡に映った黒メイド服の裾をひょいとつまむ。
「アスミ先輩がこれ着るって、紅華近辺の“理性 API”が一斉に死ぬと思うぞ」
「やめろ。変な言い方しないで」
「ううん、褒めてるんだけどね〜?」
チイロ先輩がニヤニヤしているから、反論するのも疲れる。
ため息を一つ――その瞬間、スマホが震えた。
これは……着信じゃない。通知だ。
〈訪問者ログ:紅華女学院 来校権限“ピンク第3層”〉
〈識別:紅条リリアン〉
〈到着予想:1分以内〉
「………………………………は?」
すぐ横でチイロ先輩が盛大に吹き出した。
「来たね。“アスミのメイド服、見たい欲”の化身」
「いや、なんで来る必要が……!!???」
「構造的に正しいから……か」
「先輩まで紅華語やめて!!」
言ってる間に、渡り廊下から聞こえてくる。
バルーンのリボンが揺れるような、軽い靴音。
——来た。
「アスミ様ぁぁぁぁ♡!!」
扉がノックもなく開く。
勢いだけで空気を押しのけて入ってきたのは、もちろん紅条リリアン。
巻き髪を揺らし、息を弾ませながら、
**“あ、メイド服だ……(尊い)”**って顔になって固まった。
沈黙、0.8秒。
「そ、その……で、Day1 の事前視察に参りました!
決してっ! メイド服を……見たくて来たわけではっ……ありませんから!??」
語尾が震えている。嘘が秒でバレる震え方。
「リッ……リリアン。来校通知、ちゃんと入ってたけど……何しに来たの?」
できるだけ事務的に尋ねる。
お願いだから宗教温度を上げないでほしい。
リリアンは胸の前で両手をぎゅっと組み、
キラキラした瞳のまま、まっすぐ答えた。
「アスミ様がメイド服に袖を通す“可能性のある時間帯”と
紅華の観測アルゴリズムが一致しましたので、来校いたしました♡」
「観測アルゴリズムって何!?」
「我が校の一年が一晩で書きましたわ♡
“アスミ様の尊さのピーク時間予測モデル”ですの♡」
「一年生に何してるの紅華……」
横でチイロ先輩が肩を震わせながら呟いた。
「やっぱり紅華のリリアン、好きだわ……才能の使い方が破壊的」
「先輩、笑ってないで止めて……!」
リリアンは鏡の前の黒メイド服を一瞥した瞬間、
胸に手を当てて小刻みに呼吸し始めた。
「こっ……これは……くはあぁ……ん
アスミ様が、これを……これを……っ♡
紅華に降り立つ“光の観測者”が……っ♡」
「呼吸して!? リリアン!! ここで倒れたら二回目になるから!!」
「だって……だって……
アスミ様の黒メイド……黒メイド……黒……っ」
(あ、これ危ないやつだ)
私は急いでリリアンの肩に手を置いた。
「落ち着いて。まだ着ないから。本番は明日」
「アスミ様の黒メイドが……明日……!?
その尊さで朝と夜の境界が崩壊しますわ!!!」
「崩壊しないで!?????」
リリアンは深呼吸をし直し、なんとか落ち着いたあと、姿勢を正した。
「では、本題をお伝えします!
空域バルーン調整、予定通り“天命モード”で完了しました♡
それをアスミ様に、直に報告したくて参りました!」
「……そう。わざわざありがとう」
「いえ、“わざわざ”ではありませんわ。
“アスミ様に近づく権利を行使しただけ”です♡」
「その権利、誰が発行したのよ……」
「もちろん紅華です♡」
チイロ先輩が後ろで爆笑している。
「うん。好き。紅華のその意味わからなさ、ほんと好き」
「先輩!!」
リリアンは最後に、控えめ——のつもりなのだろう——な声で言った。
「明日……ほんの一瞬でもよろしければ……
アスミ様の黒メイド姿……観測させてくださいませ♡
視界五メートル以内で♡」
「やめて条件つけないで!?!?」
こうして、リリアンは風のように去っていった。
香りと熱量だけが残され、私は膝に手を当てたまま深呼吸。
「……はぁぁぁぁ……疲れた……」
チイロ先輩は、肩を揺らしながら一言。
「明日から、無事に双灯祭済めばいいな」
「なに、なんか別の意味で言ってない…!?」
⸻
さあ、今日から頑張ろ……。
⸻
天城総合学園 開会セレモニー Day1/08:30
——「天使と、二日間の境界条件」
中庭の人混みは、もう完全に“学園祭当日”の密度になっていた。
焼きそばのソースの匂い。
クレープ屋台の甘い生地の匂い。
ステージリハのスピーカーから漏れる音割れ気味の BGM。
空は薄い灰色で、どこか眠そうなのに、
地上だけが異様に覚醒している——そんなコントラスト。
私は、ステージ脇の関係者スペースから、その全部を俯瞰していた。
視界の端では、紅華女学院のバルーン隊が
まだ“ウォーミングアップ高度”でふわふわ浮いている。
ピンクと白のバルーンの群れは、今日は驚くほど控えめだ。
——昨日と今朝、何度も「天命モード(2days)」を誓約させた成果だと思いたい。
影村側のシャトルバス第一陣はすでに到着していて、
灰色のブレザーがちらほら混ざっている。
胃嚢と真空の制服が、同じ空気を吸っている光景は、
何度見てもまだ現実感が薄い。
ステージに視線を移すと、放送部の生徒がマイクチェックを終え、深呼吸を一つ。
「それでは——
天城総合学園・双灯祭 Day1、開会セレモニーを始めます。
まずは、生徒会長・二階堂サツキさんからご挨拶をいただきます」
そのアナウンスに、
中庭のノイズがすっと一段落ちるのが分かった。
視線のベクトルが、一斉にステージ中央へ向かう。
——歩いてくる。
二階堂サツキ。
天城総合学園 生徒会長。
紅茶被害の加害者。
ティーカップ重力崩壊の常習犯。
破天荒と混沌の歩く震源地。
いつもの王冠風カチューシャ。
いつもの笑顔。
いつもの制服。
……の、はずなのに。
今日の彼女は、どこか“角度”が違っていた。
ステージの中央までの数メートル。
その歩き方だけで、空気の密度が変わるのが分かる。
さっきまで、屋台の売り子と客と一年生たちが
好き勝手に発していた雑音が、
彼女がマイクの前に立った瞬間、
“聞き取り可能なざわめき”のレベルまで一気に収束した。
——あ、これ、天使モードのやつだ。
ユウマがよく言っていた比喩が、頭の中をよぎる。
でも、私はまだ、その実物を Day1 まで見たことがなかった。
いつも私の目の前に現れる二階堂サツキは、
紅茶をこぼすか、ホログラムを爆発させるか、
「増やしませんわよ〜?」と言いながら議題を増やす生き物だったから。
マイクの前で、彼女は軽く一礼し、顔を上げる。
「——みなさん。
天城総合学園 生徒会長、二階堂サツキですわ」
最初の一声で、
私の脳内の「いつものサツキ」が、すっと書き換えられた。
声の高さも、テンションも変わっていないのに、
響き方だけが、全く別物。
浮つきがゼロ。
冗談の予兆もゼロ。
音そのものが、澄んだベルみたいに会場を貫いていく。
「今日は——いえ、この二日間は、“双灯祭”という名前の通り、
天城と影村、それから紅華女学院をはじめとした、
たくさんの“灯り”が、ここに集まっています」
背後では、控えめ高度のバルーン群が
風に合わせてゆっくり揺れた。
紅華のピンク。
天城の紺。
影村のグレー。
それぞれの制服の色が、
ステージから遠くまで続くモザイクを作っている。
「灯りは、ときどき喧嘩をします」
サツキが、ふっと微笑む。
「まっすぐ進みたい光と、曲がりたい光。
優しく照らしたい光と、激しく燃えたい光。
——でも、どちらも“暗闇を嫌う”という点では同じですわ」
会場のどこかで、小さな笑いが起きる。
“二階堂サツキ”という名前に紐づいた、
いつもの破天荒なイメージが、
彼女の言葉の端々に透けて見えるからだろう。
だけど、その笑いはすぐに収束していく。
笑いながらも、耳はしっかり彼女の言葉に向いている。
——これが、生徒会長。
私は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
「去年、私たちは“一つの灯りとして負ける”経験をしました」
その一文に、
胸の奥で何かがちくりと痛んだ。
去年の双灯祭。
紅華女学院による“ピンク空ジャック”。
天城の屋台が、影村との連携も含めてうまく回りきれなかったこと。
あの時の生徒会室の、少しだけ悔しそうで、でも楽しそうでもあった空気。
「でも、その負け方は、とても美しかったと、私は思っていますわ」
その評価が、あまりにもサツキらしいと思う。
勝敗を、単純な“勝った/負けた”で切り分けない。
**「負け方の美学」**を、ちゃんと物語として語れる人。
私には、そういう視点が欠けている。
私はどうしても、“結果”と“構造”から世界を見てしまうから。
「だから今年は、“並び立つ”ことを選びました。
Day1 も Day2 も」
サツキは、視線をゆっくり会場に走らせる。
天城生徒。
影村から来た生徒。
紅華からの来賓。
保護者。
近隣住民。
「天城も、影村も、紅華も。
それぞれの光が、それぞれの色で照らし合えるように」
——ああ。
その瞬間、私は理解した。
なんで二階堂サツキが生徒会長なのか。
“生徒会長っぽいから”なんて、
そんな表層的な話じゃない。
休み時間ごとに紅茶をこぼす人間。
会議でしょっちゅう爆発する人間。
破天荒で、計画性があるんだかないんだか分からない人間。
でも彼女は——
勝ち負けの上に、もう一段階高い階層を置ける人間だ。
「勝つ」とか「負ける」とか「引き分け」とか、
その全部をひっくるめたうえで、
「どう物語として終わらせるか」を二日間単位で考えられる人。
私が数学と理論で世界を分解するなら、
彼女は物語と言葉で世界を再構成する。
「今年の双灯祭二日間のテーマは、ただ一つですわ」
サツキは、両手を広げた。
その仕草は、演劇の主演みたいでありながら、
変に芝居がかってはいない。
**場数を踏んだ人の“必要最小限の大げささ”**という感じ。
「『最後まで、ちゃんと生きて笑うこと』」
私は、無意識に息を止めていた。
「どれだけ奇抜な出し物でも、どれだけ怖い演目でも、
Day1 の夜に、そして Day2 が終わったときに、
ちゃんと笑っていられること。
それを、生徒会が保証しますの」
“保証する”。
軽々しく口にしていい言葉ではない。
でも、彼女はそれを真正面から言った。
逃げずに、冗談に逃がさずに。
昨日の会議で、
EXIT:CODE の Safe Phase と Core Phase のプロトコルを何度も読み合わせしていたとき、
彼女は確かに言っていた。
——「恐怖ではなく“救済角”の演目として受け入れますわ」と。
あれは単なるポエムじゃなかった。
今ここで言っている「保証しますの」と、線で繋がる宣言だった。
ステージ前から、さっきよりも大きな拍手が起きる。
後列の生徒たちは、
多分そこまで深く意味を考えてはいないだろう。
**“なんか会長がカッコイイこと言った”**くらいの認識かもしれない。
でも、それでいい。
それで充分だ。
意味を噛み砕くのは、裏方側の仕事だ。
「そのために、私たち生徒会と N.O.X. と、
たくさんの先生方と、裏方のみなさんが、
昨夜まで頭を抱えてくれましたわ。
Day2 のことまで含めて、ですわね?」
……やめて、その言い方。
昨日、ログのタイムスタンプが
02:37 で止まっていたことを思い出してしまうじゃない。
控えスペースの後ろで、
トウタが「俺たちの頭痛をネタにすんな」と小さくぼやく声が聞こえた。
ミサキが「はいはい」と肩を竦めている気配。
でも、会場にはその軽口は届かない。
届くのは、
マイクを通した“生徒会長・二階堂サツキ”の声だけだ。
「だから——どうか、みなさん」
サツキは、わずかに声のトーンを柔らかくする。
「この二日間、目一杯、楽しんでくださいませ。
怖がっても、笑っても、泣きそうになっても構いません。
ただ、その全部を“ちゃんと生きて持ち帰る”こと。
Day1 の終わりにも、Day2 の終わりにも。
それだけは、お約束ですわ」
その瞬間——
彼女の輪郭線が、私の視界の中で、ほんの少しだけ“発光”した気がした。
さらに、その上に、“何か”が一枚重なった。
——あ、これ、多分。
“天使”って、こういうのを指すんだろうな。
宗教的な意味じゃなくて。
物語の中の、“物語を前に進めるために降りてくる使者”としての天使。
誰かが決めたルールでも、管理職が作ったマニュアルでもなくて。
“ここでこの言葉が必要だ”と、誰かが、どこかで、世界のために判断した結果としての存在。
「それでは、天城総合学園 双灯祭——」
サツキは、マイクからほんの半歩下がる。
「Dual Lumen Day1、開幕ですの!!
Day2 も続きますの!!」
最後の一文だけは、
いつもの“二階堂サツキ成分”が全開だった。
語尾に付いた「ですの」が、
ちゃんと天城っぽいお祭り感を添える。
歓声。
拍手。
誰かの「うおおおお!」という叫び。
紙吹雪代わりのホログラムが、
中庭上空にふわりと立ち上がる。
細かい光の粒が、バルーンの間をすり抜けて、
雲の手前でゆっくりと消えていく。
ステージ前の一年生たちが、
スマホで必死に録画ボタンを連打している。
——この景色を、
あとで何度も見返す人がいるのだろう。
“楽しい学園祭だったね”と。
本当の意味で、この二日間がどういう日か知らないまま。
ステージ脇で、ハザマが小さく呟く。
「……大舞台だと、会長は“ああ”なるんですよ」
「“ああ”って?」
思わず聞き返すと、
彼は少しだけ口元を緩めた。
「私には会長が時折、天使にみえます。
天城には天使がいるんです。
日常時の“ティーカップ重力崩壊モード”とは別人格と言ってもいいくらいです。
そんな会長だから、私は二日間分まとめて、彼女をサポートしてます」
「分類が容赦ないわね」
「ログ上の事実ですので」
そう言って、さりげなく端末に何かを書き込んでいる。
〈二階堂サツキ:モード分類/日常時→TC崩壊、公式時→天使(2days 対応)〉
とか絶対書いてる。
でも——否定はできなかった。
ステージ上のサツキは、確かに、学園に降り立った天使みたいだった。
日常の破天荒さやドジっぷりを全部知っている私ですら、
今ここでは、それを一旦棚上げしたくなるくらいには。
そして私は、ようやく腑に落ちる。
なんで、この人が生徒会長なのか。
能力とか、成績とか、弁舌とか、そういう次元じゃない。
「終わらせ方」を二日間スケールで言葉にできる人だから。
勝ち負けの先にある、
“ちゃんと生きて笑って終わる”という最終条件を、
遠回りせずに、まっすぐ口にできる人だから。
私には、それができない。
私は手順とプロトコルとリスク分散で世界を守ろうとする。
でも、最後に人を動かすのは、こういう“バカみたいに真っ直ぐな宣言”だ。
(……二階堂サツキ。
あなたが“前”を引き受けてくれているなら——)
私は、その後ろで、
“最悪のシナリオ”を折り畳む仕事に集中できる。
二回分の 15:00。
EXIT:CODE Safe/Core。
Dual Lumen Sync Session。
御影シオンとの宣戦布告。
それら全部に、“この開会宣言”を先に貼り付ける。
——『最後まで、ちゃんと生きて笑うこと』。
彼女がステージで定義した、
今年の双灯祭二日間の境界条件。
私は胸の内で、小さく呟いた。
(了解、会長。
前線の天使がそこまで言うなら——
後ろの悪魔も、二日間ちゃんと仕事をするしかないわね)
観測者として。
干渉者として。
そして、N.O.X. として。
私は視線をステージから外し、
スマホの画面に新しいログタイトルを打ち込む。
〈観測ログ_W2_102〉
双灯祭 Day1 開幕宣言:二階堂サツキ“天使モード”確認
——二日間の境界条件『最後まで、ちゃんと生きて笑うこと』
画面を保存し、ポケットに戻す。
喧騒は、もう完全に“祭り”のそれになっていた。
でも、その一番最初の一文——
「Dual Lumen Day1、開幕ですの!!」だけは、
きっと今日も明日も、何度も何度も脳内で再生されるのだろう。
二回分の 15:00 を越えたあとも。
——無事に、再生できることを祈りながら。
記録者:野々村ハザマ(天城総合学園 生徒会・制御系)
——運用ログ担当として、少しだけ補足を。
Dual Lumen_Act.2 に記録されている時間帯は、
システム的に言えば「二日間イベントの初期条件確定フェーズ」です。
•07:50:空域 OS(紅華女学院)“天命モード(2days)”起動
•08:30:地上 OS(天城・影村・NOX)境界条件宣言「最後まで、ちゃんと生きて笑うこと」
この二つが揃った時点で、双灯祭二日間の**“解の許容範囲”**が決まりました。
EXIT:CODE の Safe Phase/Core Phase、
Dual Lumen Sync Session Day1/Day2、
その他諸々の“怖いほうの議題”は、
この境界条件の内側でしか解を取り得ない——
そういう前提を、会長と矢那瀬さんたちが言葉として世界に書き込んだ、ということです。
ああいう宣言は、論理的にはバグです。
「保証します」なんて、現実のシステムでは簡単に言ってはいけない単語です。
ですが、それでも、会長は言いました。
紅華の空の人は、「死ぬ自由はメニューにありません」と言いました。
N.O.X. は、「二日間、誰も死なせない」と円陣で宣言しました。
——運用担当としては、そういう“バグ”を前提に、
あらゆる最悪ケースを折り畳んでいくしかありません。
でも正直に言うと、
あの天使モードの開会宣言がない状態で、
同じ EXIT:CODE と Dual Lumen を運用しろと言われたら、私はお断りします。
境界条件を言葉で引いてくれる人が前に立っていて、
空から「呼吸できる空気」と「抜けられる空域」を保証すると言う人がいて、
そのうえで初めて、制御系は“冷静でいられる”のだと思います。
この Act.2 は、
そういう意味で「二日間のバカげた真剣さ」の記録です。
もしこれを、
どこか別の世界で双灯祭を設計しようとしている誰かが読んだなら——
できれば一つだけ、真似してほしいことがあります。
「先に、二日間ぶんの“終わらせ方”を宣言しておくこと」
それがどれだけ非合理でも、どれだけバグっぽくても。
それをやってくれる天使を揃えてから、怖い議題を動かしてほしい。
運用者としての、ささやかなお願いです。
——以上、制御系より。




