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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第一章 死の観測者編

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EP8. 残滓調査とデートパラドクス

 仮面をかぶっていれば安全だと思っていた。

 優等生モデルを演算し続けていれば、誰にも突っ込まれない。

 ……でも、矢那瀬アスミには通じない。

 あの観測眼の前では、僕の計算なんて無意味だ。


 だから今度は、素で挑む。

 誘うのは「調査実験」……けれど、本当の狙いはそれだけじゃない。

 彼女と並んで同じ波形を見て、同じ時間を過ごしたい。

 そんなこと、数式にできるはずもないのに。


 放課後。

 昇降口を抜けた先で、僕はひとり立ち尽くしていた。

 窓越しの夕陽は橙から赤紫へと変わり始め、床に長く伸びる影が、行き交う生徒たちを時間の分数式みたいに区切っていく。


 やがて、その流れの中にひとり、見慣れた姿が現れた。


 矢那瀬アスミ。

 黒髪を耳にかける仕草ひとつ取っても、どこか効率化されたアルゴリズムのように無駄がない。

 肩に下げたスリーブバッグの中には、きっとノートPC。研究道具は常に携帯。まるで戦場の兵士が銃を離さないように。


「……岡崎君?」


 声が届いた瞬間、視線が交わる。

 彼女の瞳はわずかに細まり、こちらを観測する顕微鏡のレンズみたいな鋭さを帯びた。


 優等生モデルでいくべきか、一瞬迷う。

 ——けれど、やめた。

 彼女の観測眼に、仮面なんて通用しない。


 僕は深呼吸ひとつ。笑顔の角度も整えず、声の抑揚も計算せず、ただ「自分の声」で言った。


「ちょっと、頼みたいことがあるんだ」


「頼みたいこと?」

 アスミは足を止め、首をかしげる。

 次の瞬間、口元にかすかな笑み。


「へぇ……やっと仮面を外したんだ。優等生モデル、毎日演算してたら疲れるでしょ?」


 胸が一瞬ざわついた。

「……気づいてたんだな」

「当たり前。あんなにパラメータを揃えた笑顔、逆に不自然だもの」

 声は少しからかうようで、それでいて妙に人間味がある。

「でも、今の方がいいよ。人間らしい」


 ——やはり、この人には嘘は通じない。


「実は、旧教会で拾ったガラス片の再現実験をしたくて。体育館で、君の協力をもらえないかな」


「音響残留……?」

 彼女の目が鋭く光る。


「そう。あの場所に残った“記憶”を、別の空間で測り直す。もし仮説どおりなら——」

「過去の声を再生できるかもしれない」


 僕の言葉を途中で奪い、正解を叩き出す。

 研究者特有の“答えに飛びつく”反射。

 その横顔は、クラスで見せる無表情とは違い、熱を帯びた光に照らされていた。


「……いいよ。協力する」

「ありがとう」

「ただし条件つき」

 アスミは薄く笑う。

「実験のあと、必ずデータを見せること。数字をごまかしたら承知しないから」


 科学者の瞳。けれどその口元には、ほんの少しだけ楽しげな揺らぎがあった。



 体育館


 重たい扉を押し開けると、内部はひんやりと冷たい空気に満たされていた。

 照明は落ちており、西の窓から差し込む夕陽がフロアをオレンジ色に塗りつぶしている。

 バスケットゴールの影は巨大な怪物の腕のように伸び、床の木目は無数の波紋を刻む。


 僕らの足音が、空っぽの空間を一つの楽器みたいに共鳴させた。


「……いい残響ね」

 アスミは器材を並べながら呟く。

「条件は整ってる。さて、君の仮説が正しいかどうか——確かめましょうか」


 体育館中央。

 三脚に固定されたマイク、ノートPC、そして旧教会から回収したガラス片。

 広すぎる空間が今夜は二人だけの実験場になった。


 アスミは無駄のない手つきでケーブルを接続し、端末に波形ソフトを立ち上げていく。

 その動きは舞台袖で道具を操る技術者のようで、普段の冷ややかな彼女からは想像できないほど生き生きしていた。


「岡崎君、ガラス片はそこ。角度30度……はい、ストップ」

「了解」


 研究者の声。

 その一言ごとに空気が熱を帯び、彼女の存在が少しずつこちらに近づいてくるように感じた。


 僕はふと、手を止め、息を整えた。


「……ねえ、矢那瀬さん」

「なに?」

「ひとつ、聞いてもいい?」


 怪訝そうに首をかしげる。

 その仕草が、わずかに柔らかさを含んでいた。


「僕のこと、いつも“岡崎君”って呼ぶよね」

「事実だから」即答。


「……その、もしよければ」

 僕は視線を逸らさずに言った。

「君のこと、“アスミ”って呼んでもいい?」


 一瞬の静寂。蛍光灯がジジ、と唸る。

 彼女は瞬きをひとつして、そして口元を小さく緩めた。


「……やっと素を出したと思ったら、それ?」

「ダメかな」

「別に。むしろ、“矢那瀬さん”って呼ばれるたびに壁を感じてた」


 心臓が一拍、速くなる。


「じゃあ、これからは……アスミ」

「うん。ただし」


 彼女は急に真顔に戻り、ガラス片を掲げる。

「調査中は“アスミ主任”。研究の現場だから」


 吹き出しそうになるのをこらえる。

 だが、蛍光灯の下で彼女の頬がわずかに赤く染まるのを僕は見逃さなかった。


「了解。アスミ主任」



 実験開始


「じゃあ、始めよっか」

 アスミは端末に指を走らせ、マイク入力を解放する。

「インパルス応答。拍手して、反射波形を取るわ」


 僕は両手を打ち合わせた。

 乾いた音が体育館に響き渡り、壁へ反射し、遅れて幾重にも重なって返ってくる。


 モニターには波形が描かれた。

 通常ならRT60(残響時間)は約2秒。

 しかしグラフが示したのは、1.3倍以上。


「……おかしい」アスミが呟く。

「建物の構造だけじゃ説明できない残響。あたかも“音が記憶を保持している”みたい」


 次の瞬間。

 ガラス片が蛍光灯の下でチカ、と震えた。

 同時に波形が異常な形を描く。


 ——ユウマ。


 それは確かに、声。

 いや、声に似た残響だった。


 背筋を冷たいものが走る。

 アスミの指も端末の上で止まっていた。


「……聞こえた?」

「……うん」


 二人の間に沈黙が広がる。

 ただの静寂ではない。

 ——失われた世界からの“干渉”。


 体育館の空気が重力のようにのしかかる。

 モニターには「声の残滓」が確かに刻まれていた。


 アスミが小さく息を吐いた。

「岡崎君。いえ……ユウマ。

 これ、もう“調査”の域を超えてる」


 僕は応えられなかった。

 ただ彼女の横顔を見つめる。

 その横顔は、冷たさと熱を同時に帯びていた。


 ガラス片の光が消え、体育館は再び静けさを取り戻した。

 けれど僕らの胸の中だけは、さっきの残響がまだこだましていた。


——ユウマ。


 自分の名を呼ぶその声は、幻聴か、あるいは記録か。

 どちらにせよ、ただのデータの異常波形とは呼べなかった。


「……っ」


 隣のアスミが、小さく息を呑む。

 画面を凝視していたはずの視線が泳ぎ、頬に赤みが差していくのがわかった。


「い、今のは……単なる反響の……偶然の……」

 言葉が急にしどろもどろになる。

 いつもの研究者モードなら、数式で即断即決するはずなのに。


 僕はその横顔に問いかけた。

「……“ユウマ”って、確かに聞こえたよな」


「き、聞こえてない!」

 彼女は慌てて首を振る。

「データの誤差よ、誤差!統計的に有意差がないから、はい、この話は終わり!」


 口調は必死に理屈を取り繕おうとしている。

 だが、指先がほんのり震えていて、端末のタッチ操作をミスしているのを僕は見逃さなかった。


「……アスミ」

 名前を呼ぶと、さらに顔が赤くなる。


「っ……だから、その呼び方……今はやめて」

 小さく俯いて、髪で表情を隠そうとする。

 蛍光灯の白い光の下、その仕草は妙に人間的で——可愛い、と言葉に出しそうになるのを僕は飲み込んだ。


「……主任、じゃなかったのか?」

 少し茶化してみると、彼女はギロリと睨み返す。


「実験中は主任! でも今は……今のは……」

「今のは?」

「……禁止ッ!」


 短く切り捨て、再びモニターに視線を戻す。

 だが耳の先まで赤くなっていて、冷静さを取り戻そうとする必死さが隠しきれていなかった。


 モニターに映る波形は、まだ余韻を残していた。

 通常なら即座にFFTをかけ、周波数特性を解析するところだが、隣の“アスミ主任”の手元はわかりやすく乱れていた。


「え、あれ? ……なんで? フーリエ変換が……っ」

 タップ音が立て続けに鳴り、グラフが何度もエラー表示に跳ね返る。


「変換窓関数、間違ってる」

 僕がそっと指を伸ばす。

「ほら、ここ。“ハニング窓”じゃなくて“Hamming”を選んでる」


「……っ!」

 彼女の肩がビクリと震えた。

「わ、わかってたから! ちょっと、ゆ、指が震えただけ!」


 けれど次の瞬間、誤って電源スイッチを押してしまい、端末が再起動のロゴを出す。

「きゃっ……!」

 普段冷静な研究者が、教科書に載せられない声を上げた。


 僕は吹き出しそうになるのを堪えながら、端末を受け取った。

「ほら、深呼吸。焦ると、余計に誤差が増えるよ」


「くっ……仮面かぶってたくせに、こういうときは冷静なんだから」

 悔しそうに睨んでくるが、その耳は真っ赤だ。


 再起動を終えた端末を僕が差し出すと、アスミは小さく息を吐いた。

「……ありがとう。……ユウマ」


 名前を呼ばれただけで、胸の奥が跳ねる。

 彼女もそのことに気づいたのか、すぐに画面へ視線を落とした。


 モニターの余韻波形をじっと見つめたまま、アスミが浅く息を吐いた。

 指先がトラックパッドの上で一拍だけ迷い、かすかに震える。


「……やっぱり。こうして確かめてしまうと、もう誤魔化せない」


 研究者の抑揚じゃない。

 誰かの“生き延びた側”の声色だ。


「ユウマ、言わなきゃいけないことがあるの。

 まだ……推測だけど、私とユウマは別の世界……つまり

 並行世界で同じ場所に……同じ空間にいた……」


 彼女は視線を画面から外し、体育館の高窓に溶けていく夕焼けを見た。光は橙から群青の縁へ。僕の身体のどこかで、音もないのに、何かが確かに減衰していく感覚を覚えた。


「私がいたのは影村学園。こっちの世界じゃなくて――おそらく別の」


「……影村学園?」

 どこかで聞いたことがあるような気がする……。


「そこではね、学園祭が“合同開催”だったの。この学校と」


 言葉の端が、わずかにひび割れる。

 彼女は続ける前に唇を結び、呼気を整えた。

 医療ドラマで見る“落ち着け”の呼吸じゃない。

 記憶を安全に取り出すための、再固定化プロトコルに近い。


「催しの目玉は“脱出ゲーム”。……でも、仕組まれていた。最初からデスゲームとして」


 体育館の空気密度が、一段重くなる。僕は声を挟めない。

 夕日で赤く染まったバスケットゴールの影が、床の木目をまたいで伸び、まるで“立入禁止”の黄色黒テープみたいに僕らの足許を区切った。


「最低でも、1000以上が死んだ」


 さらっと言った。けれど声の芯は凍っている。


「体育館の床も、廊下も、ぜんぶ血で……。張り紙は“共催:影村×天城”のまま。入退場管理のQRは“ロック解除”に置き換わっていて、非常口は塞がれてた。スプリンクラー配管は“演出”名目で外されて、天井のスピーカーから“あと◯分で終了です”って定期アナウンス。――終了って何の?」


 拳が膝の上で硬直し、白い指骨が薄皮越しに浮く。

 微細な震え――恐怖というより、怒りの残像だ。


「ステージ照明のトラスの下で、私は動けなくなった。逃げ場は“選択肢”として提示されるのに、どれも死ぬ導線になってる。……脱出ゲームを名乗った実装の地獄」


 一瞬だけ、いつもの皮肉が顔を出す。

 それでも目は笑わない。


「だから転校したの。フラッシュバックが酷くて。蛍光灯のフリッカーを見ただけで、あの天井が立ち上がる。配管の滴下音で、あの水音が戻ってくる。……でも結局、逃げ場じゃなかった。だって合同学園祭だったんだもの。この学校も、惨劇に組み込まれてた」


 僕は喉の奥が乾くのを感じた。

 これまで自分が見ていた残滓――ミサキが倒れている映像、血の匂い、割れたガラス、水音。

 バラバラだったピースに、枠がはめられる。

 規模。形。設計者の意図すら。


「……君は、そんなに鮮明に覚えてるのか」


「覚えているというよりは、“体験している”に近い。海馬の場所細胞が、条件の重なりで勝手に点火するの。アーチ天井、長い残響、群衆のざわめき、儀式っぽい照明――同じタグが揃えば、私の脳は“あの日”の再生を始める。忘れようとしても、忘れられない。だから私は――過去を変えたい」


 言葉の温度が一気に上がる。

 研究発表の口調のまま、喉の奥で炎が鳴った。


「あの事件を防がなきゃいけない。ユウマは、多分、その中に“あなた”もいた。……だから私は――」


 ふっと、語尾がほどける。


「あなたのことを、叫んでたんだと思う。

 っ……こ、この部分は忘れて……」


 真顔のまま言うな。それは僕に一番無理な依頼だ。

 思わず突っ込みかけて、飲み込む。彼女の耳がほんのり赤い。照明の色温度とは別のヒートマップ。


「ユウマ。残滓を観測できる君が羨ましい。でも同時に怖い。だって残滓が増えるってことは、また惨劇があなたに近づいている可能性にまで考えが及ぶから」


 胸骨の下で、何かがゆっくり沈む。

彼女の言葉は、冷や水じゃない。火のついた鉄を“真っ直ぐ”にするための打撃だ。


 僕は黙って頷くしかない。

 割れたステンドグラス。循環ポンプの水音。体育館の反響。

 僕の中で鳴っていた“場所の合唱”に、今日、歌詞が与えられた。


「……もう少し、具体を聞かせてくれるか」


 自分の声が、知らない大人の声に聞こえる。

 アスミは短く頷き、淡々と、それでいてひとつずつ丁寧に並べた。


「開会式は共催の横断幕の前。最初の“謎”は“非常灯の色の数”。でも非常灯は二系統に配線されていて、答えがどっちにも転ぶよう仕込まれてた。外周の校舎は片方向の導線、戻ろうとすると“逆走”警告。水族館の展示に似せたガラスドームは中庭に仮設。そこに“目玉演出”のカウントダウン。……誰も止めなかった。止められない設計だったから」


「設計……」


「うん。ゲームの言葉で言えば“詰み筋”。選択肢という名の無選択。観客を参加者に、参加者を被験者に。最後に“エンディング”と称した封鎖解除が来るはずだった。――“生き残れば”だけど」


 彼女はそこで言葉を切り、拳を開いた。ゆっくり、関節が解凍される。

 一拍おいて、いつもの皮肉が戻る。


「……今こうして語彙が冷静なの、我ながらムカつく。

 ほんとは“最低のクソ実装”って言いたい」


「言っていいよ」


「最低のクソ実装」


 即答。少しだけ救われる。

 硬い話の中に、やっと“人間の温度”が流れた。


 沈黙。

 僕は息を吸い、吐く。

 言葉を選ぶ時間が、体育館のRT60に乗って伸びる。


「ありがとう、話してくれて」


 陳腐でも、他に適切な台詞がなかった。

 でも彼女は目を伏せ、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「……喋ると、少しだけ軽くなる。記憶の再固定化ってやつね。語るたびに、縫い目が変わる。良くも悪くも」


 視線がまたモニターに戻る。波形はもう平静の海だ。

 さっきの“ユウマ”の残響は、もうに画面から消えていた。

 消えたのに、僕らの胸の内側ではまだ鳴っている。


「それで。さっきのは」


 僕が切り出すと、アスミは一気に耳まで真っ赤。


「き、聞こえてない! 統計的に有意差なし! はい、この話は終わり!」


「研究者モードの盾、便利だな」


「うるさい……っ。その呼び方、今はやめて」


 “アスミ”と呼びかけるのを先回りで封じられ、苦笑が漏れる。指先はまだ震えていて、ハミング窓をハニング窓に、逆をまた逆に選びなおそうとしている。再起動ボタンに親指が一瞬触れて、彼女は慌てて手を引いた。



 モニターを閉じる音が、体育館の広い空間に小さく響く。

僕らは機材をまとめ、ゆっくりと扉へ向かった。


廊下に出る瞬間、アスミがぽつりと付け足す。


「ねえユウマ。今日のこれは、調査で、実験で……」


「……で?」


「――……いや、なんでもない」


 最後の二語は、たぶん人間の言語じゃなかった。

 僕の残滓のどこか、嬉しいという名の未定義領域に、強く刻まれた。


「この教室、音の反響が……前の学校と違う」

 そして、転校初日の昼にアスミが言った言葉の意味がやっとわかった。



 データ整理を終え、校門を出るころには、空は群青に染まっていた。

 帰り道の角で、僕はふと思い出した。

「……そういえば、チイロ先輩が言ってたんだ。“脳は糖で動く”って」


 アスミがきょとんと僕を見た。

「は?」


「つまり、実験の後は糖分補給が必須。……近くに、固めプリンの店がある」


 その一言で、彼女の目がわずかに揺れた。

「プリン……?」

 冷徹な研究者のはずが、声にほんの少し熱が混じる。


「まさか……ご褒美の名目で釣るつもり?」

「釣りじゃない。統計的に有意差がある選択だよ」


「……チイロ先輩の入れ知恵ね」

 じとっとした視線を向けながらも、歩みを止めなかった。


 そして小さな声で、聞き取れるかどうかの音量で言った。

「……行っても、いいけど」


 僕は微笑んで頷いた。

 実験の余韻も、並行世界の声も、今は少し脇に置いて。

——たったひとつのプリンが、ふたりの距離を確かに近づけていた。


 カフェの窓際。

 木目調のテーブルに置かれた、琥珀色に揺れるプリン。

 銀のスプーンを差し入れると、かすかな抵抗を残してすぐに崩れた。


「……硬め。うん、これは当たり」

 アスミはひと口すくって、頬をほころばせる。

 研究発表のときですら滅多に見せない、無防備な表情だった。


 僕はその横顔を見ながら、思わず笑ってしまう。

「研究のときより嬉しそうだね」


「っ……う、うるさい!」

 スプーンを持ったまま、彼女の頬にじわじわと赤みが広がる。

「これは、脳のグルコース消費を効率的に補填するためで……!」


「つまり、ただ甘いものが好きってことだよね」

「違うっ!」


 言葉では否定するが、プリンはしっかり減っていく。



 そして——ふと。

 アスミは手を止め、カフェの窓に映る自分たちを見てしまった。


 並んで座る男女。

 柔らかい灯り。

 甘味をシェア。


 うん。……これ、どう見ても。


「……え? これ、デート……?」

 声にならない声が、アスミから発せられた。

 まるで心臓の鼓動にかき消さらそうな表情。


 どうやら次の瞬間、彼女の思考は暴走したようだ。


(まさかこれって、帰り道で手をつないで……いやいや!

でも“今日楽しかった”とか言われて、そのまま告白ルートに……!?

ちょ、ちょっと、まだ脳波測定の解析も途中なのに……!)


 自分の妄想に自分で動揺し、スプーンを取り落としかける。

「ひゃっ……!」

 慌てて拾い上げたとき、隣の席の女子高生たちがひそひそ声を漏らした。


「見て、あの二人……めっちゃ美男美女じゃない?」

「雰囲気カップルすぎでしょ……モデルみたい」


「!?」

 アスミの顔は、プリンよりも真っ赤に熟していた。


「ユウマっ……!じゃ、なくって……お、岡崎君っ、ちょっと席替わろ! いや、違う、今日は解散! はい、解散だからっ!」

 声が裏返り、研究者モードは完全に吹き飛んでいた。



 そんな様子を、少し離れた席から観測する影が二つ。


「……ふふ、尊い統計、またサンプル増えたわね」

 チイロがスマホを構え、何やらスプレッドシートを更新している。


「ちょっとチイロ先輩、盗撮はダメですよ〜!」

 ミサキが慌てて止めようとするが、目はきらきら輝いている。

「でも……ほんとにカップルみたい。アスミちゃん、あんな顔するんだ……で、でも、実験のおまけだもんね」

 ミサキが含みのある言葉を発する。


 チイロは口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ま、これは実験の副産物ってことで。——被験者Yと被験者A、順調に進行中」


 ふたりの声は、プリンの甘さに夢中なアスミと僕には届かなかった。



 ——それは確かに、研究ではなく。

 誰が見ても「デート」と呼ぶにふさわしい光景になっていた。


 あの体育館で響いたのは、ただの反射じゃなかった。

 確かに僕の名前を呼んでいた。……幻聴か、残滓か。

 でも彼女の頬の赤さまで、誤差のせいだとは言わせない。


 そして、固めプリン。

 あの小さなスプーン一口で、彼女の横顔がこんなにも変わるなんて。

 研究者モードを外した矢那瀬アスミは、僕にとってまだ未知の数式だ。


 調査はデートに、デートは調査にすり替わって。

 気づけば僕の中でひとつの解が出ていた。

 別の世界線では、僕達はどんな関係性だったのか。

 ——もっと、彼女のことを観測しなければならない。


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