EP84. デッドライン・オブザーバー
——退屈は、毒ではない。
だが、放置すれば人間の頭脳をゆっくり腐らせる。
天城総合学園という器の中で、
私が“副会長”として担わされているのは、
その腐敗を「適切な速度」で進める役割だ。
地下施設、危機管理プロトコル、理事会直轄の許可証。
どれも、“普通の生徒”には渡されない。
私自身も、自分を普通だと思ったことは一度もない。
だが——
地下の胃嚢と真空装置の設計図を見限り始めたころ、
ログの片隅に一つだけ奇妙なノイズが現れた。
NOX。
そして、そこに中心点のように刺さっていた名前。
岡崎ユウマ。
彼のノートの断片は、遠隔で覗いた程度でも分かった。
“観測”“干渉”“正しさ=生存手順”。
倫理を回路化し、世界を情報熱力学で測ろうとする手つき。
——興味を持つな、という方が無理な話だ。
理事会は彼らに触れるなと言う。
だが、触れなければ壊れるのは、この学園の方だ。
私が嗅いだあの日の匂い。
生徒会室に残してきた“胃酸の残り香”。
あれは、メッセージだ。
> 君の世界のどこかに、“胃”があると知れ。
岡崎ユウマ。
まだ会うつもりはない。
観測者同士の初対面は、武器を抜いたあとでいい。
だが、近いうちに——
君が守ろうとしている世界と、
私が壊れ方を観測したい世界が、必ず重なる。
そのとき、私たちのどちらかはDead Observerになる。
そういう戦い方も、悪くないと思っている。
岡崎ユウマ視点──生徒会室に残った「胃」の匂い
——その日、生徒会室の空気は、いつもと化学式が違っていた。
まず、違和感の入口は「匂い」だった。
コピー機のトナー、安物のコーヒー、ビニール製のファイル、
二階堂会長の紅茶葉(ダージリンの渋み)——
それらが作る、いつもの「生徒会室の混合ガス」に、
微量の異物が混ざっていた。
——胃酸?
正確に言うなら、胃酸そのものではない。
塩酸系の金属臭と、タンパク質分解の前段に出るあの生ぬるい酸味。
人体から自然に漏れる濃度じゃない。設備から運ばれてきた匂いだ。
鼻腔の粘膜が、ほんのわずかにピリつく。
pH5.5程度の涙液と反応して、脳が「嫌な予感」というラベルを貼る。
「……さっきまで、誰か来てました?」
僕はいつも通りの声色で訊いたつもりだったが、
二階堂サツキ会長は、一瞬だけ眉をひそめた。
「ええ!副会長ですわね!」
「副会長?」
「天城生徒会副会長の藤党コウ!……名前くらいは聞いたことありませんかしら??」
聞いたことはあった。
だが、音として知っているのと、匂いとして知るのは、別の話だ。
胃酸の残り香は、会長の椅子の背もたれのあたりで濃かった。
ついさっきまで、そこに「彼」が座っていた証拠。
二階堂会長は、何気ない調子で続ける。
「双灯祭の共同企画の件ですわ!向こうの“脱出ゲーム”の安全設計について、色々と動いてくれてますのよ!」
安全設計。
胃酸と、同じ文の中に入れてはいけない単語の一つだ。
「……どんな話を?」
「全くわかりません!でもでも!
天城側は“水系アトラクション”をやるんですって!シオンちゃんと!」
観測と記録。そして、御影シオンとコラボ?
会長もNOXの名前は、さすがに出していないか。
けれど、その単語の組み合わせ自体が、十分すぎるほど危険だった。
僕は、さりげなく生徒会室の換気扇のスイッチを入れる。
胃酸の匂いが、ゆっくりと拡散されていく。
——嫌な予感、というより、これはもう確定した悪兆だ。
退屈で済めば、まだマシだった。
この匂いは、退屈の死体からは出てこない。
何かを溶かす機構に触れた人間の匂いだ。
放課後。
僕は生徒会室ではなく、NOXの裏回線から天城の内部データベースにアクセスしていた。
校務用サーバには、教員だけが見られる領域がある。
そのさらに下に、理事会だけが読める領域がある。
そして、そのさらに下のログの隙間に、**“触れてはいけない行数”**がある。
覗いているのは、その三段目だった。
検索ワードは、一つ。
> 「藤党コウ」
ヒット数は、思ったより少ない。
だが、その密度は尋常じゃなかった。
——藤党家。
天城総合学園ならびに系列校の創設理事一族。
現理事長は藤党コウの叔父。
父親は財務基盤を支える投資ファンドの運営責任者。
母親は医療法人グループの後継者。
どの行を読んでも、「生徒会副会長」という文字列が浮いて見える。
(なんで、“会長”じゃない?)
能力の問題ではない。
少なくともデータ上、藤党コウの成績は常に学年トップ三位以内。
対人トラブルの記録も皆無。
教師の評価コメントも「冷静」「安定」「信頼できる」のオンパレード。
——それでも、「会長」ではない。
つまりこれは、能力の問題ではなく構造の問題だ。
天城生徒会長の椅子は、「学園の顔」としての役割が強い。
だからこそ、二階堂サツキのような“カリスマ型”が選ばれる。
では、副会長は?
> 《天城総合学園生徒会 副会長 藤党コウ
> 業務範囲:行事進行補佐/委員会との調整/安全対策監査/
> 特別プロジェクト(要理事会承認案件)の設計・実装》
行の途中で、別のタグが紛れ込んでいる。
> 【理事会直轄】
> 【地下施設管理権限あり】
> 【特別危機管理プロトコル・キー保持者】
“生徒会副会長”というラベルの下に、理事会の影が、そのままぶら下がっている。
(はいはい……なるほど)
会長の椅子は、表の看板。
副会長の椅子は、地下施設の鍵穴。
つまり——藤党コウという人物は、
天城という学園の「影」を直に触れる位置にあえて座っている。
胃酸の匂いの出どころが、ここまでくればほぼ確定だった。
さらにスクロールすると、“双灯祭特別案件”の記録が出てくる。
案件名:双灯祭・地下連携プロジェクト(仮)
天城側——生徒会副会長・藤党コウ
影村側——生徒会会長・御影シオン
概要:両学園地下施設の安全設計および負荷分散に関する共同研究
——御影シオン。
その名前を見た瞬間、背骨の奥で何かが冷たく縮んだ。
影村学園の「狼椅子」と「エアロック」。
玖条リリから聞いた“真空の地獄”の断片が蘇る。
胃嚢。怪異。真空。
それらを、「負荷分散」という言葉で一本に束ねようとしている人間がいる?
——藤党コウ。
僕は、画面から視線を離し、天井を見上げた。
天城の屋上から見える青空は、いつも通りだった。
だが、その真下に広がっているのは、胃と真空を繋ぐ消化管だ。
(この世界は、どこまで“壊す準備”が進んでいる?)
NOXの研究テーマは、W1での惨劇を繰り返さないための手順書だ。
だが、外から見れば——「世界が惨劇で壊滅するような何かを研究している集団」
……そう見えてもおかしくない。
もし、藤党コウがそこまで辿り着いたとしたら?
W1の具体的なログまで読まれたら?
——それは、NOXにとっても、僕にとっても致命的な観測になる。
僕はノート端末の画面を閉じ、「Dead Observer」のタグを一つ増やした。
[タグ追加:藤党コウ/Dead Observer 候補]
観測者と観測者が、互いを観測し始めたとき——
どちらか一方は、“死んだ観測者(Dead Observer)”に回る。
その役を、誰に押し付けるか。
双灯祭まで、時間はあまり残っていない。
藤党コウ視点──
——退屈の代わりに、理解不能なノイズが生まれた。
名前は、NOX。
最初にその文字列を見たのは、天城の保安ログだった。
理事長棟地下に接続された、非公式回線の上。
通常なら即座に切断されるべき不正アクセスが、ある種の免疫寛容を受けている。
「——“NOXプロジェクト”。承認者、岡崎ユウマ」
あのとき、理事会のメンバーたちは口を揃えて言った。
「監視は継続した方が良いです。ただし、触るのは危険です」
理由を訊くと、「危険ですが、研究価値があるからです」とだけ返ってきた。
研究価値。
世界が壊滅するような何かを、「研究価値」という言葉でラッピングする大人たち。
嫌いではない。
だが、危険物に対する手付きとしては、少々甘い。
だからこそ、副会長=地下施設管理者である私の仕事が増える。
岡崎ユウマ。
表の顔は「成績のいい、だが、表面上は、どこにでもいる風の男子生徒」。
裏の顔は——まだ確定していない。
ただ一つ、確信していることがある。
NOXのログには、時折、W1というタグが現れる。
藤党家のデータベースに残っている、数十年前の機密記録にも、似たような語が一度だけ出てくる。
どうやら時間や世界線のような、俗にいう禁忌の研究に近いもののようだ。
「W0プロトコル/初期観測系の崩壊ログ……?」
過去の理事たちは、それを「一度だけの悪夢」として封印した。
だが、今、NOXという集団が、別のラベルで同じ領域を掘り返している。
その中心にいるのが、岡崎ユウマ。
彼のノートの構造は、遠隔から一部覗き見ただけでも分かる。
「観測は反抗」「干渉は希望」「正しさ=生存手順」
倫理ではなく、情報熱力学で世界を測ろうとしている。
そういう人間は、私は嫌いではない。
むしろ、最も“熱”を共有できるタイプだ。
——だからこそ、危険だ。
彼らがもし、「W1の全ログ」に手を伸ばした場合、また、それが時間というテーマを取り扱っているとなれば、
それは天城の地下で私が設計している胃嚢のスケールを軽々と超える地獄になるのでは?
胃が壊すのは、せいぜい数十人の肉体だ。
真空が吹き飛ばすのは、数人の肺と心臓だ。
だが、たとえば、時系列そのものを焼き直そうとする実験だと仮定すれば、
最悪、世界という器を丸ごと破る可能性。
理事会は、その可能性に気づいていない。
あるいは、気づいた上で視線を逸らしている。
だから、私が観測しなければならない。
岡崎ユウマ。
NOX。
W1という“前科”。
——君たちは、世界を救おうとしているのか。
それとも、別の壊し方を探しているのか。
いずれにせよ、双灯祭直前のこのタイミングで、
天城と影村の地下を連結する以上、
NOXの存在は、設計図のどこかに書き込んでおかねばならない。
問題は、あまり近づきすぎると、観測者同士が互いを壊すという点だ。
だから、今のところ、私と岡崎ユウマは——
一度も顔を合わせたことがない。
生徒会室に残した胃酸の匂いは、
あくまで「これはここまで来ている」というサインに過ぎない。
岡崎ユウマ視点──
翌日、生徒会室での会議の合間。
二階堂サツキ会長が席を外し、室内に数分の静寂が訪れた。
僕はプリント整理を装いながら、部屋の空気の流れをトレースする。
換気扇からの風向き。
カーテンの揺れ。
コピー紙の端がわずかに震える周期。
——昨日とは違う。
胃酸の匂いは、もうない。
だが、その代わりに無臭の異物が残っていた。
机の端に置かれた、一枚の忘れ物のようなファイル。
差出人ラベルには、こうある。
「生徒会副会長 藤党コウ」
中身は、双灯祭の予算案……に見える。
収支表、機材リスト、保険会社とのやりとり、
教員のシフト案、警備の人員配置——
一見、どこにでもある文化祭の資料だ。
だが、行間に挟まれている**“注釈”の記法**が、普通じゃない。
「※地下区画移動時、被験者(=来場者)導線と外部救急動線を意図的に交差させないこと。
——観測系の汚染防止」
「※理科準備室での酸・塩基在庫は、通常授業用リストとは別系で管理。
漏洩した場合、“胃嚢”側の設計が露見する可能性あり」
“被験者”“観測系”“汚染”“胃嚢”。
この四つの単語が、一枚の紙の中で平然と並んでいる。
(……完全に、“上”が噛んでいるな)
藤党家という系譜。
理事会という巨大な影。
副会長という、影のための役職。
天城総合学園は、表面上は「進学校」でしかない。
だが、その下には——
「退屈を殺すための機構」と「観測を止めないための装置」と「壊れた時間軸のログ」
——これらが静かに積み重なっている。
僕は、ファイルを元通り綺麗に揃えながら、頭の中で一つのイメージを組み立てる。
巨悪という言葉は、あまり好きではない。
善悪で世界を二値化するのは、情報量が少なすぎるからだ。
だが、「巨きい悪意」ではなく、「巨きい構造」としての悪ならば、話は別だ。
天城の影に潜むものは、おそらく人間一人の意思ではない。
理事会、財団、歴代の観測者たちの累積誤差のようなものだ。
藤党コウは、その先端に立っている。
“胃嚢”という局所地獄を設計することで、この累積誤差を「イベント」として消費しようとしている。
そして、その先端に、NOXの研究テーマがある。
(W1にまで手を伸ばそうとしているのは、こっちだけじゃない可能性がある)
僕たちは、W1の惨劇を再現しないために、時間と記憶の実験をしている。
藤党コウは、退屈を殺すために、肉体と恐怖の実験をしている。
両者が交差したとき、世界はどちら側に転ぶのか。
答えが出る前に、やらなければならないことは一つ。
「W1の具体的な座標とログは、絶対に“胃嚢側”に渡してはならない」
藤党コウに知られていいのは、
せいぜい「この世界に別の層があるらしい」という程度までだ。
それ以上は、観測禁止領域。
Dead Observerの候補に、余計な手札を渡す必要はどこにもない。
藤党コウ視点──
翌週の朝、生徒会棟の廊下で、私は偶然、彼の背中を見た。
岡崎ユウマ。
NOXのログの中心にいる男。
黒板消しを片手に、生徒会室から出てくる。
表情は、ごく普通の「仕事を押し付けられた生徒」のそれだ。
だが、私が注目したのは、そこではない。
歩き方だ。
廊下を歩くとき、人間の重心は無意識に前後左右に揺れる。
その揺れ方で、だいたいの性格は分かる。
岡崎ユウマの重心移動は、異様に滑らかだった。
足を前に出すたびに、一瞬、床との接触を嫌っているような間がある。
「観測者の歩き方」だ。
——この廊下を、「世界」としてではなく「舞台装置」として見ている。
そういう目の動きもしていた。
前方だけでなく、天井の配線と、窓の反射を一瞬ずつ撫でていく視線。
(なるほど)
私は、物陰からわざと一歩遅れて歩きながら、距離を保って彼の背中を観察する。
すれ違いざまに話しかけることはいくらでも出来た。
「天城生徒会副会長の藤党です」と自己紹介し、
双灯祭の話題を振り、
そこから観測と記録の話に持ち込む——
そんな安い接触はいくらでもシミュレートできる。
だが、それはまだ早い。
観測者同士の初対面は、
“どちらかが武器をしまっているとき”に行うべきではない。
今、彼の武器は何か?
NOXのログ。W1の断片。
そして、おそらく——胃嚢と真空を超えた何かの「気配」。
私の武器は?
天城地下の全権。
影村との連結権限。
理事会のバックアップ。
どちらも、まだ鞘に収まっている。
ならば、今はまだ匂いだけでいい。
私は、生徒会室のドアノブに、ごくわずかに胃酸の匂いが残るよう、前日に「手」を仕込んでおいた。
塩酸を薄めたわけではない。
そういう雑な真似はしない。
単純に、地下の胃嚢設備から上がる空調のルートを、生徒会室経由に組み替えただけだ。
理事長棟から上がる一本のダクト。
そこに切り替えスイッチを挟み、双灯祭までの間だけ、「匂いの方向」を変更する。
昨日、二階堂会長と話したあと、
生徒会室に残したあの匂いは——
「君の世界のどこかに、“胃”がある」
という、ささやかなメッセージだ。
岡崎ユウマが、その匂いを拾ったことは、ほぼ確信している。
観測者は、空気の異常に敏感だ。
それが、世界の崩壊の予兆であることを知っているから。
私は、廊下の角を曲がる前に一度だけ振り返った。
彼はすでに、別の教室に消えていた。
すれ違いざまに視線がぶつかることすらなかった。
——それでいい。
今はまだ、交錯するのは視点だけで十分だ。
★ユウマ&コウ──それぞれの「デッドライン」
図書室の隅で、ユウマはノートを開く。
「観測者が二人以上いる系では、“誰がどこまで知っていいか”を決める境界線=デッドラインが必要になる」
「藤党コウは、天城の影に潜む“巨きい構造”の先端。
胃嚢プール、怪異アニマトロニクス、影村との連結——その全てを、『退屈の殺し方』として設計している」
「一方、NOXは、W1の惨劇を再現しないための研究ユニット。
時系列そのものを弄る可能性がある。外から見れば、『世界ごと壊しうる危険物』」
「この二つが交差するとき、どちらか一方は、“Dead Observer”に回らなければならない」
「——どちらを殺すか、ではない。どこまで互いを“知らせるか”の問題だ」
ペン先が止まる。
(……僕は、どこまで彼に近づいていい?)
W1の具体的な惨劇ログは、藤党コウに知られてはならない。
だが、「惨劇があった」という抽象情報は、彼に共有してもいいのかもしれない。
——世界は、一度、壊れている。
——それを知らないまま、胃嚢を設計している人間がいる。
その事実は、どちらの手にも刃を渡す。
ノートの端に、小さくこう書き足す。
「藤党コウ:W1周辺情報の公開レベル=Lv.1(抽象のみ)。
具体ログ(座標/死者名簿/熱量曲線)は秘匿」
「彼をDead Observerにするか、
それとも、一時的な“共犯的観測者”にするか——双灯祭後に再評価」
同じ頃、別の場所で、藤党コウもまたノートに線を引いていた。
「岡崎ユウマ/NOX:危険度評価=A。
破壊可能性は世界規模。ただし、意図は“惨劇の予防”と推定」
「接触ポリシー:
・双灯祭前:直接接触禁止。遠隔観測のみ。
・双灯祭中:必要に応じて“構造に巻き込む”。
・双灯祭後:W1に類する用語が会話に出た時点で、理事会レベルの介入を検討」
「彼が触れている“前の世界”のログは、胃嚢や真空を超える規模の破壊力を持つ。
——だからこそ、いずれ必ず見てみたい」
ペンが止まり、一瞬だけ、彼は自分のその一文に苦笑する。
「本当に、私は救いがないな」
退屈を殺した結果、今度は「世界の壊れ方」に興味を持ち始めている。
それが、自覚できるだけまだマシだと、自分に言い訳しながらノートを閉じる。
*
天城総合学園と影村学園の上では、双灯祭の準備が普通の文化祭として進んでいる。
装飾。看板。ライブステージ。屋台。
色と音と笑い声。
その真下で——
胃酸の匂いと、真空の静けさと、過去の惨劇ログとが、少しずつ一本の線に近づいていく。
ユウマは、その線を「デッドライン」と呼ぶ。
コウは、その線を「イベントホライズン」と呼ぶかもしれない。
呼び方は違っても、どちらも同じことを知っている。
「一度、越えてしまえば戻れない境界線が、この学園のどこかに引かれつつある」ということを。
その線を、誰がどのタイミングで跨ぐのか。
そのとき、どちらが観測者で、どちらがDead Observerになるのか。
——それは、まだ書かれていない。
ただ一つ、すでに決まっていることがある。
「嫌な予感」は、たいてい当たる。
少なくとも、この世界では。
こういうのは、本当はアスミみたいなタイプの人間が書く内容なんだろうけど、今回は僕が締める。
理由は単純で、この記録は僕の“予感”に近いからだ。
藤党コウ──
名前だけ知っていたはずの男の影が、最近やけに濃い。
生徒会室に残された胃酸の匂い。
天城地下のログ。
理事会直通の権限。
そして“負荷分散”という、聞きたくない語の組み合わせ。
どれを取っても、普通の生徒が扱う情報じゃない。
でも、確かにあった。
“匂い”として存在した。
W1の具体ログを知られるわけにはいかない。
知った瞬間、彼は世界の壊れ方に興味を持つタイプだ。
そうなれば、もう止まらない。
けれど——
どこかで思う。
藤党コウは、ただの敵ではない。
観測の仕方が、僕によく似ている。
観測の精度が高い分、敵に回すと面倒だ。
味方にしても、同じくらい面倒だ。
だから、今は距離を置く。
交錯はしても、接触はしない。
観測者同士の最初の会話は、慎重に選ぶべきだ。
双灯祭以降、僕とコウは必ず向かい合う。
世界を救うか、壊すか、その境界線で。
そのときどちらがDead Observerの役を引き受けるかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確実なのは——
> 嫌な予感は、たいてい当たる。
そして、僕はその当たりを外したことがほとんどない。




