EP83. 胃嚢と真空のクロスリンク
双灯祭の裏で何が動いていたのか——と問われたとき、
もっとも“熱”が高かった一点だけを抜き出すなら、この会合になるだろう。
天城総合学園の地下に沈む「胃嚢プール」。
影村学園の深部で、真空と電流で信頼を焼いた「狼椅子」と「エアロック」。
それぞれが完結した地獄として成立していた装置同士を、
一つの系として連結するという提案。
動機は単純だ。
——双灯祭という名の「祝祭」において、二つの学園の“処理能力”が著しく落ちていたからだ。
影村の黒沼カイトは、怪異アニマトロニクス群の壊滅的損耗で出力低下。
玖条リリ副会長は、エアロックの“実測データ”の代償として集中治療室送り。
その穴を、私は「接続」という手段で埋めたかった。
私自身の退屈を殺し、同時に——
御影シオンという観測者の、熱源をもう一段階引き上げるために。
これは、その交渉の記録だ。
胃と真空を、一本の消化管に見立てた日のこと。
——連絡が入ったのは、双灯祭の五日前の夕方だった。
「影村、戦力崩壊中。黒沼カイト、アニマトロニクス群の大半を喪失。
玖条リリ、副会長、エアロック実験後にICU。意識は戻ったり戻らなかったり」
その非公式ログは、どれも“熱源”の匂いがした。
胃袋の設計に夢中になっている間にも、向こうの地下では真空が肺を爆ぜさせていた。
誰かの肋骨が折れ、誰かの血がガラスに散り、そして——要となる二人が、使い物にならなくなった。
数十名の死者の清掃依頼がそれを物語る。
戦力の欠損。
普通の生徒会なら「中止」の理由になる。
だが、御影シオンという存在を知っていると、その発想は真っ先に除外される。
熱源を得た機構は、簡単には止まらない。
むしろ、欠損を構造そのものに組み込もうとする。
ならば、先にこちらから提案するべきだ。
「補填」ではなく、「拡張」として。
私は、自分のスケジュールから双灯祭準備会議を一つ潰し、影村学園へのルートを開いた。
*
影村学園の地下実験区画に足を踏み入れた瞬間、
空気の密度が、天城の地下とは違うことを肺が理解した。
天城の地下——胃嚢プールのある理事長棟の底は、塩素と血とゴムの匂いが支配している。
一方、影村の地下は、オゾンと焼けた金属と医療用消毒液が絡み合っていた。
電流と真空でついた傷の匂いだ。
案内も兼ねて、簡易用の電子錠を開けたのは影村生徒会の書記だった。
彼は私の顔を見るなり、わずかに目を伏せた。
「あの……御影会長は、少し、お疲れなので。
くれぐれも、短時間でお願いできますか、藤党副会長」
疲れている、ね。
装置が一つ完成した後の観測者は、例外なくそう見える。
燃え尽きと高揚が同居する顔だ。
私は「もちろん」とだけ答え、電子錠の奥にある扉をくぐる。
そこに、御影シオンがいた。
白い実験服に、影村の制服のスカート。
襟元は少しだけ緩んでいて、鎖骨に青白い蛍光灯の光が輪郭を描いている。
彼女の手元には、例のウルフチェアの設計図と、改訂を繰り返したエアロックの仕様書。
瞳は、眠れていない者特有の赤みを帯びていたが——
光そのものは、まったく衰えていなかった。
そして、恐ろしいほど真紅の瞳。
「ようこそ。天城総合学園生徒会副会長、藤党コウさん。
直接お会いするのは初めてですね。それと……ウルフチェアとエアロックの後始末……助かりました」
いつもの丁寧な敬語。
だが声音が、半音ほど低い。興奮の残滓で声帯が荒れているのだろう。
私は軽く会釈を返す。
「とんでもない。当然のことをしたまでです。
それに、御影会長。お忙しいところ恐縮です。私は、直接あなたに会ってみたかった。
それにしても、——地下の空気が、随分と“よく燃えそうな組成”になっているようですね」
シオンの口元が、わずかに弧を描く。
「褒め言葉として……受け取っておきます。
こちらは、そちらの“胃袋”に比べれば、まだ粗い構造ですよ」
胃袋。あのプールのことだ。
互いに、相手の地獄をコードネームで呼ぶあたり、すでに私たちは同じ領域の住人か。
私は室内を一瞥する。
解体途中のウルフチェア。焦げたフレーム。交換予定の電極。
壁際には、真空ポンプの予備ユニットと、追加の圧力センサーが並んでいた。
そして、一枚だけ、最近記録されたであろうモニターの静止画が貼られている。
エアロック内、拘束台の一つに縛られた玖条リリの姿。
時刻表示と、同期率1.00のログ。
——いい試験だったのだろう。
装置としては、完成度が高いことが、その一枚で伝わってくる。
だが同時に、それが影村側の人員配置に致命的な穴を開けたのも、明らかだった。
「本題から入りましょうか」
私は設計図の束をデスクに置き、椅子を勧められるままに腰を下ろした。
距離は、机一枚分。
この距離感が、機構設計者同士の“適正値”だと、経験的に知っている。
「御影会長。率直に申し上げます。
——影村は、このままでは双灯祭に間に合わない」
シオンの睫毛が、かすかに震えた。
彼女自身、そのことはとっくに理解している顔だった。
私は続ける。
「黒沼カイト。怪異アニマトロニクス群の稼働率……現在、どれくらいです?」
「名目上は、60パーセント程度。
ですが、実質は四割を切っています。制御系の破損と、演算サーバーの負荷過多で」
声音だけ聞けば、ただの冷静な報告だ。
だが、言葉の端々に**“惜しむニュアンス”**が乗っているのを、私は聞き逃さない。
「玖条副会長は?」
「意識はあります。ただ、当面は装置に乗せるのは禁止。
呼吸と循環が不安定で、真空系は論外です。電流も、医師から止められています」
「つまり——」
私は、あえて言葉を区切る。
「——影村は現在、二つの系——怪異アニマトロニクスとエアロック——の片方を欠いた状態。
双灯祭という“共同観測イベント”において、ウルフチェアだけでは出力が足りていない」
シオンは、短く息を吐いた。ため息というより、現状認識の同期だ。
「……耳が痛いですね。はい、その通りです。
カイトくんは、機構の再編に手を取られている。リリさんは、データを取られすぎました。
私一人では、とても双灯祭の“ノルマ”を満たせません」
ノルマ、という単語の選び方が、実に彼女らしい。
彼女にとって「学園祭」は、文化行事ではなく観測回数の目標値だ。
私は、ここで少しだけ笑ってみせる。
「だからこそ、提案があります」
シオンの視線が、わずかに鋭くなる。
設計者特有の、「次の構造」を嗅ぎ取った時の目だ。
「——御影会長。
天城の胃嚢と、影村の真空系を、一つの“連結デスゲーム網”として運用しませんか?」
*
提案の骨子は、単純だ。
1. 天城地下の胃嚢プールを“入口”として扱う。
2. 生存者および一定条件以上の“観測値”を残した個体を、影村へ排水する。
3. 影村側では、残存するウルフチェアおよびサブセットのエアロック機構を、「二次処理」として共用する。
4. 双灯祭期間中、二つの学園の地下を「一つの消化管」と見なし、一方の欠損を他方の余剰で補う。
私は、持参した簡易フローチャートを机上に広げる。
「こちらをご覧ください」
紙面には、胃のシルエットから真空チャンバーまでを一本のパイプで結んだ図。
途中に複数の分岐と、観測者ノードが配置されている。
「天城の胃嚢は、“攪拌と選別”に特化しています。
パニックの伝播率、電撃による裏切り誘発、消化率。
ここで得られた生態を、そのまま文字通り影村側に“投げる”」
私は指先で、図上の一点をとん、と叩く。
「このノードで、影村生徒会の選別アルゴリズムに接続する。
ウルフチェアは、信頼度の配分ベクトルを可視化する装置。
エアロックは、そのベクトルを時間軸に沿って爆ぜさせる系」
シオンは、図を覗き込みながら、腕を組んだ。
「……つまり、副会長さんの案はこうですか」
彼女は、一度言葉を噛み砕いてから、きちんと再構成してみせる。
「天城側の胃嚢で“群れ”を物理的に攪拌し、影村側に流す。
そこで得た『裏切り傾向』『恐怖耐性』『生存執着度』などのパラメータを抽出。
そのうえで、影村側の真空系に“投げ入れ”、時間と信頼をテストする最終段として処理する」
「ええ。その通りです」
私は頷き、もう一枚の紙を差し出す。
そこには、「負荷分散」という文字が躍っていた。
「現状、御影会長は人員不足で、祭当日にフルスケールのエアロック運用は難しい。
ですが、部分的な真空負荷と電流負荷なら、装置を壊さずに回せるはずです。
それを天城側で一次的に“削って”から送ることで、影村側の負荷を制御する。
黒沼カイトの怪異アニマトロニクスに補助演算を回す余裕も、多少は生まれるでしょう」
数字をいくつか示しながら、私は続ける。
「胃嚢プールのテストでは、十人投入で生存者が三人。
そのうち、精神的に“使える”のはほぼ一人でした。
残り二人は、肉体は生きていても、データ的にはノイズが多すぎる」
「そこで、一人を影村に直接流し送る。
影村の真空や電流で“仕上げる”。
こうすれば、天城と影村、双方の“処理能力”を最大限に引き出せる」
シオンの指先が、机上のチャートをなぞる。
その動きは、胃の蠕動にも、真空メーターの針にも似ていた。
「……なるほど。
あなたは、私たち二つの系を“直列”ではなく“直列+並列の複合回路”として扱おうとしている」
彼女の言語は、機構エンジニアのそれだ。
私は、少し口角を上げる。
「双灯祭ですから。灯りは、一つだけより二つのほうが、影を深く落とせる」
——ここまでが、理屈の部分。
この程度なら、彼女は断らない。
問題は、その先だ。
「人」への影響と、「観測者」への負荷。
私は、紙をもう一枚、静かに差し出した。
そこには、二つの名前が記されている。
黒沼カイト。
玖条リリ。
「……あなた、本当に失礼ですね、副会長さん」
紙に目を落とした瞬間、シオンの声色が少しだけ低くなった。
怒り、ではない。
急所を突かれた時の、反射的な防御音だ。
私は、あえてそこから目を逸らさない。
「彼らの状態は、情報として知っています。
黒沼カイトは、アニマトロニクスの損耗で“自責の沼”に沈んでいる。
玖条リリは、エアロックの中で時間と真空に追い詰められすぎた」
「どちらも、双灯祭当日の“運用者”としては欠格レベル」
シオンの手が、紙をぎゅ、と掴む。
細い指の関節が白く浮かび上がった。
「……それを、笑いに来たんですか?」
「まさか」
私は、首を横に振る。
「私が笑うのは、“退屈”だけです。
彼らの損耗は、“熱源の消失の危機”です。笑う要素は、一つもない」
言葉を選びながら、私は続ける。
「だからこそ、彼らを“使わずに済む構造”を提案しに来た」
沈黙が、数秒だけ部屋を満たす。
真空ポンプの試運転音が、遠くで低く唸った。
「——詳しく、聞かせてください」
シオンは、そう言った。
声の温度が、少しだけ戻っていた。
*
「まず、黒沼カイトについて」
私は、紙の上に簡易フローチャートを描き足す。
「彼のアニマトロニクス群は、双灯祭本番に“完全復旧”させる必要はない。
むしろ、不完全なまま運用したほうが、データとしては美味しいでしょう」
「どういう意味です?」
「片翼をもいだ怪物は、それだけで優れたストレステストになります」
私は指先で、壊れたアニマトロニクスの絵を描く。
指の欠損した手、チューブを引き裂かれた耳、センサーの死んだ足。
「天城から送られてくる“胃嚢生き残り”たちを、黒沼カイトの不完全な怪異にぶつける」
「これらの怪異は、完全な制御下にはない。だからこそ——」
言葉を区切って、彼女の目を見る。
「——運用者のメンタル負荷を、装置側に肩代わりさせられる」
「黒沼カイト自身が“完璧な監督者”でいる必要はない。
むしろ、彼は客席に退避させてかまわない。
不完全な怪異が、胃嚢で削られた被験者たちに何をするかを、ただ観測していればいい」
シオンは、顎に指を当てて考え込む癖を見せた。
「……つまり、怪異アニマトロニクスを“自律分散系”と見なし、黒沼くんの意思決定から切り離す、と」
「彼が“壊した”わけではないことを、構造で証明する」
私は短く言い切る。
「彼が壊したのは、せいぜい予算と、いくつかの倫理規定だけです。
怪異そのものは、構造的な暴走を前提としたプロトタイプ。
ならば、その暴走を、胃嚢と真空の連結実験の一部として観測に組み込む」
シオンの唇が、わずかに緩む。
「……それなら。カイトくんは、“観客席”からでも充分貢献できますね」
「ええ。彼には、“壊した責任”ではなく“見届ける責任”を配分するべきです」
私は、今度は玖条リリの名前を指で示す。
「次に、玖条副会長」
「彼女は、すでに“最終エアロック試験”の被験者として、充分すぎるデータを残しました。
これ以上、真空に晒す必要はない」
そこで一呼吸置き、あえて視線を逸らさずに続ける。
「御影会長。
——あなたは、玖条リリを“もう一度中に入れたい”と思っていますか?」
シオンの瞳が、一瞬だけ揺れた。
それは、彼女にしては珍しい「動揺」の波形だった。
「……副会長さんは、意地悪ですね」
声は微笑に包まれているのに、底に針が一本刺さっている。
「これ以上、彼女を真空に入れれば、死にます。
装置ではなく、人が。私は、それを理解しています」
「だから本能は、“もう一度”を望んでいる。
けれど、頭はそれを否定する。そういう顔です」
数秒の沈黙のあと、シオンは静かに笑った。
「……そんなに、わかりやすい顔をしていましたか?……私」
「ええ。少しだけ自覚的になったほうが良い」
私は、ここで提案の最後のピースを置いた。
「玖条リリは、“今回の双灯祭からは外すべき”です」
「ただし——」
シオンの反応を確認しながら、私は言葉を継ぐ。
「外した代わりに、“連結実験の監査役”を任せる。
胃嚢→怪異→真空という一連の流れを、“かつてエアロックの中にいた人間”として外側からチェックさせる。
彼女は、自分の設計がどれほどの肉片を生んだのかを、他校の地獄と接続された状態で見せつけられることになる」
「それは……彼女にとって、救済になると思いますか?」
シオンの問いは、予想外に“人間的”だった。
私は、少しだけ考えてから答える。
「救済ではないでしょう。ですが、“責任の配分を再計算する贖罪”にはなる。
罪悪感というのは、すべてを自分一人のせいにしたがる悪癖です。
玖条リリの罪は、設計を出したことと止めきれなかったこと。
ですが、それを起動したのは御影会長であり、真空ポンプを回したのは装置であり、
時間を与えたのはシステムそのもの」
「連結実験に立ち会うことで、彼女は“自分以外の責任”を観測できる」
「それが、救いになるかどうかは——」
私は、肩をすくめる。
「——観測者の気分次第です」
シオンは、しばらく黙っていた。
視線は机上の図と、名前と、私とを往復し続ける。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「……副会長さん」
「はい」
「あなたは、自分の設計した胃嚢が“人を正しく溶かしている”と、胸を張って言えますか?」
予想外の角度からの問いだった。
だが、答えは最初から決まっている。
「ええ。現時点では、ですが」
私は正直に答える。
「まだ“完璧な胃”には至っていません。
蠕動の周期、毒の蓄積曲線、幽門の開閉アルゴリズム。
改善できる部分はいくらでもある」
「だからこそ、私は連結実験を望んでいる。
影村の真空系と接続することで、天城の胃嚢も進化できる」
「御影会長。
——あなたも、同じはずです」
シオンの眉が、わずかに上がる。
「あなたのウルフチェアとエアロックは、すでに一度“完成”している。
だが、それは**“影村という閉じた系”での完成**です」
「天城という別系から、異なる“観測済みの肉片”と“破綻しかけた生徒会”を流し込むことで、
あなたの機構も、新しい位相に到達できる」
「それはつまり——」
シオンは、静かに言う。
「私が、あなたの胃嚢に依存するということですか?」
私は、すぐには否定しない。
数秒考え、慎重に単語を選ぶ。
「依存、というよりは、相互接続でしょう」
「退屈の死骸を二つの学園で山分けするより、
一つの大きな墓を掘って埋めたほうが、美しい」
そう言った瞬間、御影シオンは初めて、心の底から楽しそうに笑った。
「……やっと、双灯祭らしい話になってきましたね、副会長さん」
そして、私はこの胃のプールの前、腸管のプールの亡骸を見つけたあの場所のログを思い出す。
あのいつどこで開催されたかもわからないあの映像。
ログの時間は概ね15時台。どこかのある場所でそれは行われていた。
「では、ここからはより具体的に、影村と天城の同期イベント……そこにデスゲームをあてます」
そう告げて、私はタイムラインの一点をペン先で弾いた。
双灯祭二日目、十五時台。
表向きには「両校合同のオンライン企画」が始まる時間帯として申請されているスロットだ。
「理由は単純です、御影会長」
私の声に、シオンの視線がチャートからこちらへと移動する。
「両方の学園の観測系が、同じ対象に同じ時刻で向く瞬間は、この窓しかない。
バラバラの時間にデスゲームを走らせれば、死因も誤差も“別々の事故”として処理される。
ですが——」
私は、二つの丸で描かれた天城と影村のあいだに、一本太い線を引いた。
「——同期イベントに死を集約すれば、それは“共有された一つの波形”になる。
死亡ログも、生体反応も、裏切りベクトルも、同じ時刻軸上で重ねて解析できる。
『誰のせいで死んだか』じゃなく、『どういう構造で死んだか』に変換できる。
構造に落とせば、次は“削れる”。
だから、殺すならここ一度にまとめるべきなんです」
数秒の沈黙ののち、シオンは小さく息を吐いた。
「……なるほど」
彼女はペン先で十五時台のスロットをくるりとなぞる。
「散発的な死は、観測上“例外値”として切り捨てられる。
でも、同期させた死は一本の波形として扱える。
影村と天城、二つのオブザーバーで同じ波形を別角度から見られる」
瞳の赤が、蛍光灯の青と干渉して、不穏にきらめく。
「それに——」
彼女は少しだけ楽しそうに笑った。
「双灯祭なのに、灯りだけ同期させて、地下の地獄をバラバラに走らせるのは美しくない。
地上のステージが“祝祭の同期”なら、地下は“処理の同期”。
同じクロックで動かしたほうが、ログも、“罪の配分”もきれいに揃う。
そこにデスゲームをあてる、というのは……悪くない選択です、副会長さん」
「ええ、光が重なる瞬間に、影も最大まで濃くする。
——双灯祭らしいじゃありませんか?
……で、問題はここからです」
私は、胃嚢プールの断面図を新しい紙に描き足した。
底面に並んだノズル群、側壁のライン、天井近くのオーバーフロー。
「御影会長。胃酸は、常時満たす必要はありません。
——むしろ、“走らせるタイミング”をデザインしたい」
シオンが少し身を乗り出す。
「聞きましょう」
「まず、胃嚢のフェーズを三つに分けます」
私は図の横に【A/B/C】と書き込んだ。
「フェーズA:水+微量電撃だけの“前菜”ゾーン。
ここでは、ほとんど酸を入れません。
パニックと裏切りを誘発するだけの、浅い水深と低電圧」
「ここで“群れの形”と、“誰が誰を見捨てるか”を先に出させる」
シオンが頷き、ペンでAのところに「選別」と書き込む。
「フェーズB:胃酸パルス投入。
底面ノズルから、一定時間だけ濃度を上げる“脈打つ胃酸”を走らせます。
連続注入ではなく、15〜30秒単位のスパイクにする」
私は、時間軸に小さな山をいくつも描いた。
「スパイクのトリガーは二つ。
一つ目は、単純な経過時間。
二つ目は、“観測値が閾値を超えた瞬間”です」
「観測値?」
「はい。上からのカメラと、手首バンドの生体センサーを束ねた“胃嚢インデックス”」
私は、チャートの端にシンプルな式を書いた。
『胃嚢指数 = 心拍数の分散 + 視線の揺れ + 発声回数』
「この指数が一定以上に跳ねたとき——
つまり、群れが本気で怖がり始めた瞬間にだけ、胃酸パルスを一段強くする」
「逆に、反応が鈍い群れには、あまり酸を走らせない。
“よく震える個体ほど、よく溶ける”ように設計します」
シオンの目が、楽しそうに細くなった。
「……いいですね」
彼女は、フェーズBの横に小さく書き込む。
『パニック依存型蠕動』
「つまり、副会長さんの案は——」
「“胃酸のほうから被験者を選ぶ”構造にする、ということですね。
静かな群れにはあまり興味を示さず、うるさい群れほど追い打ちをかける」
「ええ。そのほうが、上流の“退屈”も効率よく殺せます」
私は、最後のフェーズに丸を付けた。
「フェーズC:排出=影村送り。
酸パルスを止めて、今度は“洗い流し用の薄い液”に切り替える」
「天城側での蠕動を一度止め、
底部の排水ゲートから“生き残り”と“半分溶けたログ”を影村側の系に送る」
「このとき、胃酸そのものはほとんど残しません。
影村の真空系のセンサーを壊したくないので」
シオンは、そこでふっと笑った。
「……配慮が行き届いていますね。
『溶かす責任』と『計る責任』を、きちんと分けてくれている」
彼女は自分のメモの端に、さらさらと書き足す。
『天城:化学的蠕動/影村:時間的圧搾』
「胃酸を“常に満たす池”ではなく、“条件次第で走る回路”として扱う。
その上で、同期イベントのタイムスタンプにフェーズBのピークを合わせる……」
赤い瞳が、チャートと時計の位置を往復する。
「——いいですね。
これなら、“死に方”も“生き延び方”も、同じタイムライン上で解析できる」
彼女は顔を上げ、はっきりと言った。
「藤党副会長。影村としても、その胃酸設計、正式に採用させていただきます」
「双灯祭当日——
地上では光を同期させ、地下では胃酸と真空のタイミングを同期させる」
「退屈は、本当に、逃げ場がありませんね」
「ええ、御影会長。
ですが、ここからが本題です。
——“胃嚢で溶かす”だけでは、双灯祭は終わらない」
シオンの赤い瞳が、ゆっくり上がる。
「胃嚢プールは“入口”にすぎません。
あなたの装置——ウルフチェアとエアロックが“出口”です」
私は、あえて言葉をゆっくり選んだ。
──ウルフチェア:“群れの裏切り方”を抽出する座標点
「胃嚢で“肉の側”の選別が終わった時点で、被験者たちの恐怖配分・視線の偏り・呼吸パターンがはっきり出ます」
私は図に、胃嚢指数→ウルフ指数への変換矢印を添える。
「ウルフチェアは、本来“信頼の分布”を静的に測る装置ですが、
胃嚢を通った個体は、信頼構造が壊れかけているため、データが歪む」
シオンの指が、膝の上で軽く跳ねた。
興奮するときの癖らしい。
「歪んだ信頼……美しいログになりそうですね」
「そうです。胃嚢を通して“肉体 → 心理”の揺らぎをつくり、ウルフチェアで“心理 → 信頼”の揺らぎを数値化する」
私はペンを走らせる。
──肉体ノイズ → 心理ノイズ → 信頼ノイズ
「この三段階のノイズ変換が、あなたの真空系にとって最高の“前処理”になる」
シオンの口角が、ゆっくり上がる。
「ノイズの連鎖……それが、真空に導くのですね?」
「ええ。ウルフチェアは“壊れかけた信頼の地図”を描く装置です。
そしてエアロックは、その信頼の歪みを時間軸で圧縮して破裂させる系」
そこで私は、ウルフチェアから、真空チャンバーへ矢印を伸ばした。
⸻
──エアロック:「時間と信頼の歪み」を爆ぜさせる最終段
「胃嚢では“肉体的揺らぎ”が生まれます。
ウルフでは“心理的揺らぎ”が浮き彫りになります」
私は図の最後に、真空チャンバーのシルエットを描いた。
「そしてエアロックは——
その揺らぎを“時間”という鞭で追い詰め、
一度のカウントダウンで爆発させる装置です」
シオンの呼吸が浅くなる。
興奮している。
「胃嚢で震えて、ウルフで疑い、
そのまま時間に追われて爆ぜる……
……副会長さん、それは——」
「はい。
天城の“化学的蠕動”と、影村の“時間的圧搾”を同じタイムラインで接続する方法です」
シオンはしばらく黙り、その後まるで“ひとつの答えに辿り着いた人の笑み”を浮かべた。
⸻
「……いいですね、副会長さん」
彼女はウルフチェアの設計図を指先で叩く。
「胃嚢で“肉体の逃げ場”を奪い、
ウルフで“心の逃げ場”を奪い、
エアロックで“時間の逃げ場”を奪う」
「三段階すべてが、逃走方向の違うデータを生成する。
そしてそれぞれが、次へ流し込むための“前処理”になる」
赤い瞳が、歓喜に濡れたように細められる。
「——循環しています。
副会長さんの胃嚢と、私の真空は。
どちらが欠けても、構造が死ぬ」
「これなら、双灯祭は“ただの祭り”には戻れません」
彼女は笑う。
静かで、危険で、観測者の笑み。
「天城と影村は、一つの臓器になりますね。
胃と肺を繋ぐ“不自然な消化管”。
その中で、どれだけ綺麗に壊れるか……観測が楽しみです」
⸻
「だからこそ——
双灯祭の同期イベントには“胃嚢→ウルフ→真空”の流れを組み込みます。
あなたと私の装置を、同じ夜に、同じチャンバーとして動かすために」
シオンは静かに頷いた。
「……了解しました。
副会長さん。“接続”を始めましょう」
彼女はペンを手に取り、紙の端に二つの丸を描く。
天城。影村。その間を、何本もの線で結ぶ。
「それと、私からも、一つ条件、いえ提案があります」
「どうぞ」
「観測ログは、すべて共有させてください」
シオンの目が、真紅の光を映して輝く。
「胃嚢プールでの痙攣の弧、
怪異アニマトロニクスに追い詰められるときの逃走ベクトル、
真空に晒されたときの肺の破裂タイミング——そのすべてを、一つのデータベースに統合したい。
“双灯オブザーバー”とでも呼びましょうか。
二つの学園の地獄を、一本のタイムライン上で再生できる観測台」
提案というより、宣言だった。
私は、その野心を嫌いではない。
むしろ、歓迎する側の人間だ。
「いいですね」
私は即答する。
「その代わり、こちらからも条件を」
「聞きましょう」
「御影会長自身は、双灯祭当日は一度も装置の内部に入らないこと」
シオンの笑みが、ほんの少しだけ固まった。
「……どうして、そんな条件を?」
「観測者が自ら内部に落ちるのは、最後の一手に取っておくべきです」
私は、天井の配線を一瞥してから、彼女に視線を戻した。
「双灯祭は、まだプロトタイプの段階。あなたが入るのは、もっと後でいい」
「それに——」
そこで、別の名前を思い浮かべる。
矢那瀬アスミ。あの得体の知れない境界に指を突っ込んで遊ぶ、あの危険な観測者。
「あの子がどこまでやるか、見てみたいでしょう?」
シオンの瞳が、微かに細くなった。
「……天城の“シュレディンガー”ですか」
「ええ。箱を開けたまま進むほうの猫です」
双灯祭という舞台の上で、胃嚢と真空と怪異とタイムスコープとが、同じ夜に点灯する。
御影シオンは、その中心に立つには優れすぎている。
だからこそ、今回は外側から見ていてほしい。
彼女はしばらく何も言わず、指先で机をとん、と叩いた。
一定のリズム。ポンプの駆動周波数そのもの。
そして——
「わかりました、副会長さん」
彼女は、すっきりとした顔で言った。
「影村学園生徒会長・御影シオンは、双灯祭当日、装置の外側に留まることを約束します。
その代わり——」
「その代わり?」
「あなたも、胃嚢のコントロールルームから一歩も出ないでください」
取引としては、公平だ。
「いいでしょう」
私は頷き、右手を差し出した。
「では、契約成立ですね。
——“双灯接続実験”、開始といきましょう」
御影シオンの手が、静かに私の手を握る。
その握力は、細い外見に似合わず、
真空チャンバーのボルトみたいに固かった。
*
影村学園の地下を出る頃には、時計の短針が日付をまたいでいた。
地上に戻る階段を上りながら、私は自分の心拍数を数える。
退屈という概念は、とうに死んでいた。
代わりに胸の内に巣食っているのは——
二つの地獄を、一本の管で繋いだことへの高揚。
天城の胃嚢。
影村の真空。
その間を流れるのは、血と悲鳴と、
そして何より——
観測者たちの視線だ。
「双灯祭、か」
夜風を肺に入れながら、私はぽつりと呟いた。
表向きは、光と屋台とステージの祭り。
裏側では、二つの学園の地下照明が同時に点灯する。
地上の生徒たちは、知らないだろう。
自分たちのどこか一部が、どこかのタイムラインで
胃に溶かされ、怪異に追われ、真空に爆ぜていることを。
だが、それでいい。
「知らないまま生き延びている」側のデータも、また必要だ。
双灯祭が終わった時、
天城と影村の二つのオブザーバーには、膨大なログが残るはずだ。
そのどれだけを、誰が見届けるのか。
誰の等号が、そこで書き換えられるのか。
それは、まだ決まっていない。
ただ一つ、確信していることがある。
——退屈は、もはや死体すら残していない。
墓碑銘だけが、私の頭のどこかに残っている。
「退屈、R.I.P」
その下で、今日も何かが焼け落ちている。
これは「計画書」であり、「懺悔録」であり、同時に「自慢話」だ。
天城総合学園の地下で胃嚢を設計しているとき、
私はずっと、自分の系が孤立していることに退屈を覚えていた。
どれだけ美しい蠕動を設計し、
どれだけ理不尽な幽門を作り込んでも——
それが一つの学園の中だけで完結しているうちは、
所詮、局所最適にすぎない。
御影シオンとの連結は、
その局所最適から抜け出すための、最初の「暴挙」だった。
黒沼カイトの欠損も、玖条リリの損耗も、
冷静に言えば「リソース不足」という言葉で片づけられる。
だが、その裏側には、
彼らがそれぞれ一度は“退屈を殺した”という事実がある。
不完全な怪異を暴走させる勇気。
自分の設計した真空に自ら入る覚悟。
その熱を、私は嫌いではないどころか、
むしろ嫉妬に近い敬意を覚えている。
だからこそ、彼らを“再利用”する構造と併せて、
“使わずに済ませる”構造を選んだ。
代わりに動くのは、胃嚢と真空と——
そして、私とシオンだ。
双灯祭本番、この接続実験がどんな結果を生むのかは、
まだここには書かないでおこう。
結果を知ってから読む記録ほど、
つまらないものはない。
ただ、もしこの先のページをどこかで見つけたなら——
そのときは、改めてこう書いておく。
「退屈は、二度と蘇らない」
それだけが、現時点での「正しさ=生存手順」だ。
天城総合学園 生徒会副会長
藤党コウ/双灯接続設計担当




