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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第三章 EXIT&SYNC/双灯祭前決戦編

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EP82. デッド・ループ

 ――これは、本来なら書くべきじゃない記録だ。


 書いたところで世界が正しくなるわけじゃないし、読んだところで誰かの心拍が整う保証もない。

 むしろ逆だ。

 この手の記録は、読んだ人を“観測の沼”に巻き込む危険がある。


 でも、書かずにはいられなかった。


 W1で“未来を覗く側”だった私が、

 W2で“未来に喰われる側”に落ちた日のログ。


 16:03に世界がヒビ割れ、

 NOXメンバーの言葉が私を刺し、

 X達が私の心臓を“死んだ心拍”に書き換えようとしてきた日。


 あの日、私は観測者でいられなかった。

 記録者でもいられなかった。

 ただの、壊れかけの人間だった。


 けれど——

 同時に、あの日は私が“観測の意味”を更新した日でもある。


 「観測は干渉で、干渉は希望。

  じゃあ希望が折れた日はどうするの?」


 この問いに答えるための手順書として、

 私はこの記録を残しておくことにした。


 もしあなたが、

 自分の世界の“16:03みたいな時間”に出会った時、

 ページのどこかに書き残した私の息継ぎが、

 ほんの一瞬でも抵抗の足場になればいい。


 それでは、《デッド・ループ》を開こう。


 ——ペンなんか、握りたくなかった。


 本当は今すぐ、このノートごと窓から投げ捨てて、現実からもログからも全部ログアウトしたかった。


 でも、指先は勝手に「いつもの持ち方」をしていた。

 癖って、ほんとタチが悪い。


 病院の廊下のベンチ。

 夜なのに、白い蛍光灯が昼みたいな顔で天井からぶら下がっている。

 消毒液の匂いと、遠くのナースコールの音と、機械のビープ音。

 ぜんぶが「現実ですよ〜」って冷たく主張している。


 その真ん中で、私のノートだけが、場違いな黒さで膝の上にあった。


 さっきまで——ここはもっとうるさかった。


 ユウマが運び込まれてから、どれくらい経ったんだろう。

 時間の感覚が壊れている。

 時計はちゃんと動いているのに、私の中の秒針だけ何度も16:03に戻る。


 「……アスミ……ちょっと……いい……?」


 最初に掴みかかってきたのは、ミサキだった。


 ありえないくらい力強く、制服の胸ぐらを両手でつかまれる。

 布が軋んで、胸骨に直接指の跡が食い込んだ。


 「なんで……なんで現場にいたの、あんた……!」


 目が真っ赤だ。泣きすぎて、もうそれ以上涙が出ないタイプの赤。

 瞳の奥にあるのは、心配でも不安でもなくて——ほぼ、殺意に近い怒り。


 「ミサ……」


 名前を呼ぼうとして、喉が砂になる。

 言い訳なんて出てこない。


 「教えてよ」

 ミサキは、吐き捨てるみたいに続けた。


 「なんで一人で行ったの。

  なんで誰にも言わなかったの。

  なんで、“自分だけでどうにかしようとした”の」


 そこまでは、まだギリ、ミサキの声だった。


 次の一撃で、急にナイフの質が変わる。


 「あんた——ヒロイン気取り?」


 胸ぐらを掴む手に、ぐっと力がこもる。


 「“私だけが真相知ってます”

  “私だけが観測してます”

  “だから私が行かなきゃ世界が壊れます”?

  ……そんな顔、してたよ」


 (——そんな言い方、ミサキは、しない)


 分かってる。分かってるのに、刺さる。

 だって、そのセリフ、私自身が心の中で自分に向けて何百回もぶつけてきた言葉だから。


 「ミサキ、落ち着いて——」


 チイロ先輩が止めに入ろうとする。

 でも、その声も、いつもの軽さより一段トーンが低かった。


 「落ち着けるわけ、ないでしょ!」


 ミサキの叫びが、廊下を震わせた。

 ナースステーションのほうで、看護師さんが一瞬だけこちらを見る。

 でも、すぐに「介入しないほうがいい空気」と判断されたのか、またカルテに視線を戻した。


 「だってさ」


 ミサキは、呼吸を荒げながら言葉をつなぐ。


 「あたし、救護テントの担当だったんだよ?

  “何かあった時のために備える”とか言ってさ、

  ずっとリスト作って、薬品揃えて、シミュレーションして……なのに、実際なにかあったら——

  あんた一人で先に行って、あんたの目の前で、ユウマが死んだんでしょ?」


 「……」


 「“現場にいたのに、なにもできなかった”って苦しみ、そこにいるの、あたしのはずだったのに」


 「ミサキ」


 チイロ先輩の声が、今度は本気で制止に入る。

 でもミサキは止まらない。


 「なのにさ、

  あたしは安全圏で薬品並べてただけで、

  “何もできなかった”って役まで奪われてる。

  あんた一人で、全部持ってっちゃったじゃん。

  罪悪感も、自責も、“あの瞬間”も」


 (——違う、それは違う。そんなふうに思ってほしくない)


 心の中で全力で否定しても、口からは一文字も出てこなかった。


 「……トウタ」


 廊下の壁に背中を預けていたトウタが、ずっと黙ったままだった。

 その沈黙が限界に達したみたいに、急に声が爆ぜる。


 「……さすがにさぁ」


 低く笑う声。笑い声の形をした、怒り。


 「これはスレ立てのネタとしても、悪質すぎるわ」


 「……は?」


 反射的に聞き返す。

 何の話、って思った自分の思考が、妙に冷静で嫌になる。


 「“双灯祭バス事故スレ”」

 「“天城前交差点で草”」

 「“NOXの観測者、現場にいたらしい”」


 トウタは、指折り数えながら続けた。


 「俺さ、今まで散々、他人の不幸でスレ立ててきたんだわ。

  踏切事故も、台風の河川も、W1疑惑のニュースも、ぜーんぶ。

  “マジかよ草”“現地いるやつレポ”ってさ。そうやって処理してきた」


 「……」


 「今回だって、本当は同じようにやれば、

  “いつものネットのノリ”で誤魔化せたかもしれない。

  でも——」


 トウタの拳が、壁にぶつかった。

 乾いた音。石膏ボードが少しだけ凹む。


 「“現場レポ主がアスミで、死亡者がユウマ”のスレなんて、

  立てた瞬間から“ガチ遺族スレ”なんだよ!

  炎上でも祭りでもなくて、ただの地獄だろ!」


 声が、一段低くなる。


 「なぁアスミ、

  俺、正直に言うけどさ」


 嫌な予感がしたのに、耳は勝手にその先を聞きたがる。


 「“なんでお前が生き残ってんの”って、一回だけ思った」


 (——あ)


 心臓が、一拍分止まった気がした。


 トウタはすぐ目をそらす。


 「……あー、わるい、言葉選ばねぇとダメだな、こういうの。

  今の取り消し。ガチで取り消し。

  でもさ、正直、“そこまで”思った奴、

  俺だけじゃないと思うよ」


 (この言い方や酷い言葉……トウタなら、絶対に言わない——はず)


 分かってる。

 これは本物のトウタじゃなくて、Xがひねり出した“最悪のセリフトウタ”だって。


 分かってるのに、刺さる。

 だって、「なんでお前が生き残ってんの」なんて、今日だけで私が自分に向けて百回は投げてきた台詞だ。


 「救世主様が、死んだってさ」


 レイカの声は、思ったより冷静だった。

 そのぶん、逆に怖かった。


 「クラス、明日から静かになるよ。

  きっと、いい子な空気になる。

  “問題児”がいなくなったからって」


 彼女は膝を抱えた姿勢のまま、ぼんやりと天井を見ている。


 「でも、私からしたら、あの人がいて、ようやくクラスに“まともなノイズ”が生まれたんだよね」


 「……」


 「私ってクラスで結構浮いててさ。友達も出来なくって……。

  体育館の隅で一人で踊ってたら、ユウマが突然やってきて。

  “そのステップ、W1のログみたいだね”とか意味わかんないこと言ってきてさ(笑)

  “へぇ、この世界にもそういう『記録を飛び越える動き』あるんだ”とか。

  この話、アスミに話したっけ?」


 「……ううん」


 「クラスに居場所なかった私に “じゃあ、うち来る?”ってNOX紹介してきたのもあの人で。

  サイレンとしても私にとってもユウマは“救世主様”だった」


 レイカは、そこで初めて私のほうを見る。


 「で、その救世主様に、最後に選ばれたのが、アスミだけってわけ」


 「……選ばれた?」


 「だってさ、最後に話したのも、最後に見てたのも、最後に一緒にいたのも、アスミでしょ?

  事故のシーンも、血も、悲鳴も、16:03も。

  “全部抱える資格”をもってったの、アスミだよ」


 言い方は淡々としているのに、その中身は地獄だった。


 (違う。それを“選ばれた”って言うの、やめて)


 叫びたいのに、喉が動かない。


 「……ミナト」


 最後に口を開いたのは、ずっと黙っていたミナトだった。


 腕を組み、壁にもたれ、視線だけを床に落としている。

 彼の沈黙は、いつも「計算中」の合図だけど、今はただのフリーズに近い。


 「中学の時の話だ」


 唐突に、彼は話し始めた。


 「クラスで“異端児コンテスト”したら、俺とユウマが、ワンツーフィニッシュだった」


 「……」


 「先生の質問に答えすぎて怒られるやつと、テストの点数はいいのに人間関係の偏差値が壊れてるやつ。

  多数決のたびに“それ本当に正しい?”って空気悪くするやつ」


 ミナトは、薄く笑った。

 「そういうの全部まとめて“お前らは空気読めない組だな”って括られて。

  でも、あいつだけは、“じゃ、僕らで別の空気作る”って、真顔で言ってた」


 小さく、息が漏れた。


 「高校違うはずだったのに、結局同じ校門くぐって。

  NOXってサークル作って。

  気づいたら、“異端児の避難所”みたいになってた」


 そこまでは、まだ“懐かしさ”の色も混じっていた。


 次の一文で、その色はきれいに剥がれ落ちる。


 「——その中心、今日、お前が殺したってことでいいのか?」


 「っ……」


 喉の奥まで血が上がってきたみたいな感覚がした。


 (それ、ミナトには言ってほしくないセリフ)


 「違うよ」と即答したいのに、声が出ない。

 “違うよ”の中に、「違うと断言する根拠」を一個も見つけられなかった。


 ミナト自身も、言った瞬間に顔をしかめる。


 「……最悪の問いかけだな、今の。すまない撤回だ」

 「……」

 「だが、“お前が殺した”って文、今一番自分に向けてるやつだよな?」


 (——うん。そうだよ)


 自分の中のノートに、太字で何回も書いてある。

 “私が殺した”“私が選んだ”“私が見ていた”。


 Xは、それをそのままNOXの口に貼り付けてきている。


 「……チイロ先輩は?」


 自分でも驚くくらい、かすれた声が出た。


 チイロ先輩は、今まで誰よりも静かだった。

 ナースステーションとも、医師とも話をして、

 状況を聞き、データを集め、いつもの“観測モード”に入っていた。


 だけど——目が笑っていなかった。


 「ミームってさ」


 白衣のポケットから、チョコバーを取り出しながら、彼女はぽつりと言った。


 「“意味わかんないくらい最悪な現実”を、ちょっとだけ咀嚼しやすくするための“味付け”だと思ってんの」


 「……」


 「でもさ、今回のこれ、味付けどころか毒盛ってきてるんだよね、現実のほうが」


 チョコバーの包装紙が、くしゃりと音を立てる。


 「W1の時もそうだった。

  冗談ぶっこんで、メタネタ投げて、“はいミーム化〜”ってやってれば、

  かろうじてギリ笑えるラインに持ってけた。

  でも、今回のこれは最初から“笑い逃げ禁止”で来てる」


 それから、少しだけ間を置いて続ける。


 「ねぇ、アスミ」


 名前を呼ばれた瞬間、心臓が一度痛くなった。


 「“観測は干渉だ”って言ったの、誰だっけ」


 「……私」


 「そう。

  じゃあ、今回は?」


 チイロ先輩の視線が、刃物みたいに鋭くなる。


 「今回のこれは、“観測が干渉になった結果”?

  それとも、“観測が引き金になっただけの事故”?」


 「……分からない」


 それは本音だった。


 「分かんないよね。

  世界の責任と、自分の責任の境界なんて。

  でもさ」


 チイロ先輩は、珍しく笑いを完全に捨てた声で言う。


 「“全部自分のせい”ってことにしといたほうが、楽な時もあるんだよ」


 「——っ」


 胸の奥のどこかが、バキッと音を立ててひび割れる。


 (そのロジック、私の中に昔からいるやつ)


 全部自分のせいにしておけば、

 世界を恨まずに済む。

 誰かを責めずに済む。

 代わりに、自分を無限に殴れる。


 「だからほら」


 チイロ先輩は、ノートを顎で指し示した。


 「書けば?

  “ユウマを殺したのは私です”って」


 (——それは、言わない……さすがに言わない)


 さすがにその一文は、本物のチイロ先輩なら口に出さない。

 そこまでする前に、自分を殴るか、世界を殴る。


 ここで、ようやく確信になる。


 ——これ、もう現実じゃない。


 NOXの声をしているけど、

 中身は私の罪悪感と自己罵倒が、Xに拡大解釈されて増幅されたやつだ。


 分かってる。

 頭ではちゃんと分かってる。


 でも、「私が嫌う言葉のライン」を平然と踏み越えてくるからタチが悪い。


 “本物なら言わない”

 そして、万が一にも言われたら、私が必ず傷つく。

 そのラインだけを的確に狙って刺してくる。


 「……ノート、貸して」


 自分で言った言葉に、自分で驚く。

 チイロ先輩(の顔をした何か)が、一瞬だけ眉を上げる。


 「へぇー。書くの?」

 「書かないと、たぶん、もっとひどくなる」


 そう言って、私は膝の上のノートを開いた。


 ペンを握る指が、勝手に震える。

 ページの上に落ちる影が、私のものなのか、Xのものなのか分からない。


 ——ペンを置いた、はずだった。


 にもかかわらず、指先はまだ「書く動き」をやめてくれない。


 さっきまでのやりとりを、断片的に書き連ねる。

 ミサキの「ヒロイン気取り」。

 トウタの「なんでお前が生き残ってんの」。

 レイカの「最後に選ばれたのがあんた」。

 ミナトの「お前が殺したってことでいいな?」。

 チイロ先輩の「全部自分のせいにしといたほうが楽」。


 書けば書くほど、胸が締め付けられる。

 でも、書かないと、もっと苦しい。


 だから、書く。


 ——観測は干渉で、干渉は希望。

  それでも、観測者が折れたら全部終わり。


 そんなことを考えながら、ふと手元を見る。


 ノートの行間に、見覚えのない一文が増えていた。


 『観測を中断するな。停止は死だ。』


 ……書いてない。少なくとも、“私”は。


 筆圧も、リズムも、私のそれに似ているのに——インクの乗り方が違う。

 まるで、心電図をなぞるみたいに、文字の線が一定の周期で震えている。


 トクトク、と胸の奥で何かが同期する。

 ノイズっぽい心拍。Δtが伸びて、縮んで、また揃う。


 ——おかしい。


 さっきまで、すぐ隣でミサキがしゃくり上げていた。

 トウタが小声で「クソが……」と何度も呟いていた。

 レイカが足先でリズムを刻し、ミナトが無意味な数式を空中に描き、

 チイロ先輩が自分のヘッドホンのコードを指でいじっていた。


 なのに——


 病院の廊下の音が、遠い。


 さっきまで耳のすぐそばで鳴っていたはずの、

 すすり泣きも、拳の音も、低い声も——

 全部、フェーダーを絞られたみたいに小さくなっていた。


 代わりに耳の奥で目立ってきたのは、別の音。


 紙が、勝手に擦れる音。

 ノートのページ、めくってないのに。

 空気の中に、薄い紙を束で撫でたような音が、何層にも重なっている。


 「……チイロ先輩?」


 顔を上げる。


 ナースステーション前のベンチ——誰も動いていない。


 チイロ先輩は、私の肩に手を置いた姿勢のまま、静止している。

 その横で、ミサキは目を見開いて、今にも何かを叫ぼうとしている形のまま停止していた。

 涙の粒まで止まっている。

 レイカは口を開けかけ、トウタは拳を壁に付けたまま、ミナトは俯いたまま。


 全員が、一瞬だけ「一時停止ボタンを押された動画」みたいになっていた。


 「……え?」


 空気の粘度が変わる。

 さっきまで“冷たい”と感じていた廊下の空気が、突然、ぬるい水の中みたいになる。

 じわじわと肌にまとわりついてくる——




 ——病院の空気が、突然「異常静圧」に切り替わった。


 心臓の拍動より早く、ノートのページが擦れる音だけが世界を支配した。


 ふだんは背景ノイズでしかない紙の音が、今は——空気の主旋律になっている。


(あ、これ……通常の聴覚処理じゃない)


 脳の「外側」から聞こえてくる感覚。


《観測ノード干渉:聴覚域のフィードバック混線》


 と、内側で勝手に字幕が出た。


 耳ではなく、神経回路に直接“音”が刺さっている。





 チイロ先輩が私の肩に手を置いている姿勢のまま、静止。


 ミサキは涙を落とす直前で止まり、

 レイカは息を吸いかけて、

 トウタは拳を壁に打ちつけようとした瞬間で、

 ミナトは俯いた姿勢で——

 全員、“フレームレート0.0”で固まっていた。


 いや、違う。


 私だけが、「1秒のうち0.2秒」しか世界を観測できていない。


 これを専門用語で言うと、《観測者フレーム降下(Observer Frame Drop)》

 ——精神侵蝕型X-seriesの最初の症状だ。


(……やられた。もう侵入されてる)


 床のタイルが、わずかに呼吸していた。


 天井の蛍光灯が、心臓の拍動と同じタイミングで明滅する。


 世界が、私の心拍の外側で動き始めている。

 外部に“もうひとつの拍”がある。


 16:03の拍。




 廊下の床材が波打ち、膨らみ、そこから黒い束がせり上がった。


 ケーブル……ではない。

 もっと生々しい。


 透明な脈管。


 血ではなく、光が流れている。


 光の粒ひとつひとつが、


 〈16:03〉


 という時刻の形をしていた。


 (心臓……外部の“死んだ心臓”を、そのまま管で繋いできてる……)


 脈管は集合して、人型を形成した。


 顔の代わりに、紙の“顔”が重なっている。


 カルテ、双灯祭のチラシ、W1ログ、観測表、そして——あの黒いノートと同じ質感のページ。


 ページが脈動し、心電図の線が走り、

 その頂点で16:03が点滅する。


 ――それが、


 **X05《Dead Observer Echo/観測死人》**


 W2で未分類だった精神侵蝕型。

 観測者の罪悪感を燃料に動く“擬似生命”。


 X03以外にも……最悪……。



 脳裏に文字が流れ込む。

 これはノートではなく、神経書き換えだ。


《X05 精神侵蝕プロトコル》

 1.観測者の罪悪感(G値)をスキャン

 2.対象心拍を〈死の時刻〉に強制同期

 3.該当時刻の映像・音・感情ログを反復再生

 4.“理解・受容・自罰”の三段階が揃うまでループ固定

 5.精神世界の主導権を奪取 → 観測者人格の置換


 (……“PTSD反復システム”のバケモノ……)


 理解した瞬間、背中の温度がストンと落ちた。



 次の瞬間。——心臓を刺された。


 透明な脈管が胸へ入り込み、内部の光がそのまま心臓に流れ込む。

 「うっ……くっ……」


 心拍が“16:03の死の鼓動”に書き換わる。

 •私の心臓が、ユウマの“死の瞬間”のテンポで動き始める

 •身体の「現在」が消え、“あの時刻”にバグ固定される

 •精神世界への落下プロセスが起動する


 「っ……!」


 息が喉で暴れた。


 脳が、身体を“ここではない場所”へ移動させようとしている。


 


 すると、空気が割れた。


 止まっていたNOXメンバーの顔が、少しずつ、ゆっくりと動き出す。


 だが、その瞳の色が違う。


 光が無い。

 影だけがある。

 X05の“自責誘導プログラム”に汚染されている。


 ミサキ(涙が滲んだまま、怒りの極致)

 「なんで……なんであんたが現場にいたの……

  なんで止めなかったの……!

  ユウマが……あんな……!」

 指が私の制服を掴む。


 正しくはミサキ本人ではない。

 X05が“ミサキ像”を悪意で拡張している。


 でも、その言葉は、確かに私を刺した。


 トウタ(声が震え、怒鳴り、泣き崩れる)

 「これじゃ……スレ立てらんねえよ……!

  “救世主様死亡”とか…… そんな悪質ネタまとめる気にもなんねぇ……!」


 (そんな理由で泣くなよ…… でも、泣いてるのは本心だ……)


 レイカ(静かだが、致命的な怒り)

 「……ユウマは、クラスに馴染めなかった私に“居場所”をくれた。

  “NOXに来い”って……あなた知らなかったの?」


(……やめて)


 「その人が……あなたの目の前で死んだんだよ、アスミ?」


(言わないで……)


 ミナト(諦念の声で刺してくる)


 「中学の頃から俺とユウマは異端児でさ……“変人同盟”って呼ばれてた。

  ……なんで、そんな奴が……お前の世界線だけ死ぬんだよ」


 (そんなの……私が知りたいよ……)


 チイロ先輩(声が震え、ミームが壊れる)


 「ねぇアスミ。

  ミームで救えないって……私、初めて思った……

  あの日のログ、全部燃やしたっていい……

  だから……どうして……」


 (やめて……

  私を責めないで……

  いや違う、責めてるのはX05……

  でも、本物の彼らなら言わない保証は無い……

  だから余計に刺さる……)


 胸の痛みと同期して、心臓が16:03のリズムで刻む。


 16:03

 16:03

 16:03

 16:03


 世界が、あの時刻に引き戻される。



 廊下が黒いゼリーみたいに溶け、病室の壁がページの海に変わる。


 現実 → 観測世界(精神領域)への遷移が完了。


 精神世界の構造は、X03の「ノートのページ」を基盤にした無限回廊だった。


 ページの隅に

〈一日目・おしまい〉

〈二日目・記録者精神崩壊〉

 などの“シナリオ行”が自動挿入されている。


 これはもう、X03の台本世界と、X05の観測者処刑装置の合作だ。



 X05の影が、崩れたページの海を踏みしめて近づいてくる。


 16:03を刻む心拍の重低音に合わせて、精神世界の地面がゆっくり波打つ。


 “お前の罪悪感は、観測者としての燃料だ”

 “死の瞬間を忘却するな”


 合成音の呪文が、鼓膜ではなく大脳辺縁系を直接叩く。


 (……ちょっと……本当に……無理……)


 精神世界の空気は、呼吸という概念を忘れたようにぬるくて重い。


 膝が沈みそうになるその瞬間——空間が「静かになりすぎた」。


 X03ではない。

 X05でもない。

 16:03でもない。


 もっと、異質な沈黙。


 それは、“外殻からの介入が始まった時だけ起きる無音域”

 ——W2の観測理論書で読んだ内容が遅れて脳に浮かぶ。


 次の瞬間。


 《ガンッ》


 精神世界の“天井”がひび割れた。


 現実の物理では説明できない音。

 コンクリ包丁でガラスと鉄を同時に叩き割ったような衝撃。


 ひびは蜘蛛の巣状に広がり、その向こうに、見慣れた“青白いモニターの光”が揺れていた。


 (……NOX観測室……? なんで……なんで上に……)


 精神世界は本来、閉鎖構造だ。外から侵入することはできない。

 それを破るには、現実側の観測者が精神世界の“位相周波数”を正確にトレースし同期破りで強制侵入するしかない。


 その計算は、通常 NOXの全員で一週間以上かかる。


 なのに。


 今、外殻のひびの中心から——ひとつの“黒い影”がゆっくりこちらへ降りてきた。


 影は落下ではなく、観測線に沿って“滑り込んでくる”。


 ノイズが空間の端から溶けていく。

 渦巻くログの海の中に、はっきりとした“人の形”が現れた。


 黒髪。

 電極パッチ。

 片手に黒い円盤状のデバイス。眼の奥に、無理に覚醒させたみたいな光。


 「——アスミ」


 その名前だけは、精神世界のどんな重力にも飲まれず落ちてきた。


 (……うそ……ほんとに……?)


 視界が一瞬揺れる。


 精神世界では、“救いの幻”は簡単に作れる。

 だから普通なら疑う。


 でも、この声は違う。


 私の中の“観測者としての何か”が、一発で外殻の実体を識別した。


 この人は——“今 生きている側のユウマ”。


 X05が裂け目を睨みつける。


 ページが高速でめくれ、文字化けが床に散った。そこからX03も這い出てきた。


 『外部観測者侵入……

  識別……岡崎ユウマ……

  状態……死亡記録との不整合……

  ラベル……ノイズ/破棄対象……』


 ユウマが、ふっと片目だけ笑った。


 「ノイズ……?

  そうか、ここでは僕は死んでる扱いか」


 声は静かだが、その静けさが逆に精神世界に亀裂を生む。


 X05が“観測脈”を伸ばす。

 ユウマの胸を刺そうとする。


 だが——刺さらない。


 脈管が触れた瞬間、弾かれた。

 精神世界に似つかわしくない、金属音。


 ユウマが手に持つ“黒い箱”が光を放つ。

 「虚数の地に座標を刻む。

  光沈。音潰。全ての波動を位相を零へ——


  重力反転、音響崩壊確認。

  閉じよ、虚空の積分面——


  記録の地層に沈み、ΔE=ΣΩに還れ。

  ……黒葬、ブラックレクイエム……発動……!!」

 


 ——死んだ観測線を葬るノイズキャンセル装置。

 ——“死のログ”だけを棺に入れて破棄する手順書。


 「悪いなX05。っとX03。

  “この世界の僕”は死んだままでいいんだけど……

  こっちの“今生きてる僕”を消すのは……拒否させてもらうよ」


 レコードの溝が、心電図のように脈打ち始める。


 精神世界が震える。

 X03の16:03が削られる。

 X05のページが揺れる。“観測死”の固定軸が不安定化する。


 ユウマが裂け目の向こうから手を伸ばした。


 精神世界との境界を無視するみたいに。


 「アスミ。

  聞こえる?

  アスミの心拍は“借り物”だ。

  コイツらに無理矢理合わせられてる。

  取り返せ。 ——今すぐ」


 私は言葉にならない声で答える。


 胸の痛みが、世界の中心を殴ってくる。


 「……どうやって…… 私、これ、抜けない…… 勝手に……同調して……」


 ユウマは一歩、精神世界に入り込んだ。


 本来なら不可能なこと。

 観測者が精神世界に侵入すると、人格が崩壊する。


 でもこの人は逆だった。

 精神世界のほうが、ユウマの位相に押されて“道を開けて”いる。


 「アスミ。自分のノートだろ」


 「は……?」


 「書いて。

  “偽の心拍は不要”って。

  “私は今の拍を選ぶ”って。

  “死んだログは、そっちで葬れ”って。

  ——それで通るように、理論の裏口、全部開けといた」


 (裏口……全部……開けた?このクソ忙しい状況で……?

  何考えてんのこの人……でも……できる……!)


 私は震える指でノートを開く。

 ページが勝手にめくろうとするのを押さえ、自分の字で上書きする。


 ユウマの声が、精神世界の奥まで響く。


 「アスミ。君の観測は、世界を殺すためじゃない。

  “世界を終われなくするため”だよね?」


 その瞬間、胸を刺していた16:03の脈管が——自分の意思で抜けた。


 私の心臓が、初めて“今”を刻んだ。



 ユウマが精神世界の裂け目から完全に踏み込んだ瞬間、空気が一段階冷えた。


 彼がこういう声を出すのは、NOXの誰もが“本気で何かを終わらせる時”だけだ。


 「精神世界では、——久しぶりに、“優等生モード”でいく。

  この世界では、その方が都合がいいから」


 その言い方は、まるで死亡フラグみたいに軽い。

 けれど、空間に走る情報密度が一気に跳ね上がる。


 私の精神世界は、“観測ノート”を核に形成されている。


 そこにユウマがフィードバックなしで踏み入ることは本来不可能だ。

 ——だが今、精神世界の地面は、彼の歩みに合わせて再構築されていた。


 (……これ……私の精神世界が……書き換わってる……?

  ユウマ……何したの……?)


 ユウマは答えない。

 ただ、ポケットから黒葬のレコードを取り出し、指先で溝をなぞる。


 その動きは、儀式と言うより、習慣。


 「X05、X03、君達ってさ。

  観測者に寄生するタイプのくせに、“心拍を奪って固定する”なんて、随分と安い真似したね」


 X05はページの束を震わせ、私に突き立てていた心拍チューブを引き抜くと、ユウマに向けて高速で伸ばす。

 X03も、それに同調して不協和音を飛ばす。


 だが——


 触れた瞬間、X05のチューブは逆流し、X03の本状の身体は引きちぎられる。


 透明の管の中を流れていたX03の16:03のタイムスタンプが破裂し、逆方向へ走るデジタル血流が頭部側に跳ね返る。

 X05は、無音で数歩よろめいた。


 「……君達ごときが、僕の心拍を奪えると思ったのかい?」


 ユウマの声は、静かで淡々としている。

 その静けさが、精神世界の構造を削る。


 X05とX03が合成音で叫ぶ。


 『外部観測者……侵入……識別……岡崎ユウマ……

  観測主位相が……読めない……位置情報……偏差……異常……

  “推定:観測者以外の————”』


 X05達が言い切るより早く、ユウマが一歩前に出た。


 その瞬間——精神世界の“地形”が変わった。


 私の精神世界はページでできていたはずなのに、

 ユウマが立つ場所だけ“ログ・コンパートメント”の床材に置換されている。


 NOX観測室の材質。現実から持ち込まれたもの。


(……フィードバック……?ユウマが、私の精神世界に何か……置いてる……?)


 ユウマの右手が、黒葬レコードの溝を押し込む。


 「BLACK REQUIEM — EXECUTE」


 黒い波紋が走り、精神世界が二層に分断される。

 •上層:16:03に固定された“死のログ”

 •下層:私がまだ立っている“生の観測”層


 X05とX03は、上層と下層の間に挟まれ、ページが千切れそうに揺れる。


 『黒葬……干渉……

  死んだ観測線を……弔う機能……

  ——不整合……

  ——これは許されない処理……』


 ユウマが冷たく言う。


 「許されるかどうかは、“こっち”で決めるから、安心して」


 黒葬の溝が“心電図のフラットライン”に変わる。


 X05の心拍チューブが、一本、また一本と焼き切れていく。

 数字が煙になって消えていく。


 X05が最後のあがきを見せる。


 『記録者……矢那瀬アスミ……

  お前の罪悪感が……私の糧……

  お前が観測する限り……

  私の“死のループ”は……消えない……

  お前は……忘れてないだろ……?』


 声のトーンが、人間に近づく。


 『ユウマは、また死ぬ。

  お前が観測するたびに——

  “別の世界で死ぬユウマ”のログが増える。

  何度でも。

  永遠に。お前は、私達の…マ……』


 私の心臓が一拍抜ける。


 X03は、最後に顔のページを私へ向け——

『お前が観測者である限り——死ぬのは、いつも“救われなかったユウマ”だ。アッハハハハハ……』


 その瞬間。


 ユウマが割って入った。


 「黙れ」


 黒葬の波形が最大出力で弾け、

 X05とX03はページをバラバラに散らして消滅した。


 精神世界に残ったのは、静寂と捨て台詞の残響。


 『——救えない未来を観測する役目は、生涯付きまとうぞ、記録者ども……り……は…ゆる…し……なぃ…』


 それがどこか、私の精神の奥に刺さる。


 消えたはずの声が、骨の内側でまだ震えていた。


 ユウマは大きく息を吐いた。


 そして私の方を向いて、皮肉めいた微笑を浮かべる。


 「……だから嫌なんだよね。 “優等生モード”は」


 その声は軽いのに、精神世界の揺らぎはまだ収まらなかった。


 私は気づく。


 ——ユウマの気配が、精神世界に本来あり得ない“痕跡”を残している。

 ——まるで、彼の内部の何かをフィードバックされたみたいに。


 それが何かは、まだ分からない。

 ただ、その名残は、私の精神世界の奥深くで静かに鼓動し始めていた。


 X05達が散った後の精神世界には、静寂だけが残った。


 いや、“静寂”というより——音を鳴らす権利を全部奪われた状態。


 ページが崩れて床に吸い込まれていく音はあるのに、耳に届く前に空気で殺されている。


 世界そのものが、まだ黒葬の余韻に震えていた。


 私は膝をついたまま、胸に残る痛みと、空虚さと、安堵が入り混じった呼吸を繰り返す。


 足元には、自分の心拍。

 もう16:03じゃない、“今”を刻む自分だけの鼓動。


 その音を確かめた瞬間。


 ——影が降りた。


 ユウマだった。


 黒葬のレコードを手から離し、ひどく疲れた顔をしながら——でも、ちゃんと笑って。


 「……生きてるね」


 その言葉が、胸の奥に刺さる。

 生きてる、なんて、こんなに重い言葉だった?


 喉が動かない。

 声が出ない。


 ユウマはゆっくり屈み、私の手をそっと掴んだ。


 冷たさも、熱もない。

 ただ、「実在」の温度だけがそこにあった。


 「なんか……入って来れたよ、アスミ。君の精神世界まで」


 呼吸が震える。

 でも、気づけば返事の代わりに——


 私は、指を握り返していた。


 ユウマはその力を確かめるように、そのまま私の手を引き寄せ——


 抱きしめた。


 強くじゃない。

 壊れないギリギリの力で。“ここが現実だよ”と伝えるみたいな抱きしめ方。


 「……ごめん。本当は、“死んだ”なんて言わせるつもりなかったけど……

  X05が、お前の罪悪感を利用したせいで……最悪な形になった」


 違う、と思った。

 悪いのはユウマじゃない。

 そんなの分かってるはずなのに、言葉が出ない。


 ただ目を閉じると、精神世界の空気が、さっきまでの悪夢の密度から、ゆっくり人の温度へと戻っていくのが分かった。


 ユウマの胸の鼓動が、私の耳の奥に重なる。


 ——“死んでないユウマ”の音だ。


 その音が、16:03の呪いを全部押し流していった。


 ユウマは耳元で、小さく言う。


 「……帰ろう。こんなとこに、君を置いておけるわけないだろ」


 精神世界の“風景”が黒く崩れ始める。

 黒葬が終わり、出口が開く合図。


 ユウマは抱きしめたまま、片腕で裂け目へ私を導いた。


 世界が反転し、光とノイズが流れ込む——




———“おかえり”


 視界が明るく開く。


 最初に耳に入ったのは、

 ミサキのしゃくりあげる声だった。


 次に、チイロ先輩の怒鳴り声。

 レイカの押し殺した呼吸。

 トウタの「嘘だろ……!」という悲鳴みたいな呟き。

 ミナトの震える計器読み上げ。


 どれも、現実の生の音。


 そして——


 「……アスミ……!」


 ミサキが真っ先に駆け寄り、肩を掴んで泣き崩れた。


 その後ろで、レイカは涙を堪えながらも微笑みに近い表情を見せる。


 トウタは拳を握りしめて震えながら、

 「マジで……生きてんじゃねえか……!」と喉をつまらせる。


 ミナトは泣きながら計器を見て、

 「Δφ……正常……アスミの位相、戻った……」と呟いた。


 そして——


 チイロ先輩は、私の額を見た瞬間、顔を歪めて言った。


 「……二人とも、精神世界で何やらかしたのよ……!」


 その怒声の裏に、心底の安堵が混ざっているのが分かった。


 ユウマは静かに笑って、私の肩から手を離す。


 「ただの……黒葬休日だよ。な? アスミ」


 私は——まだ震える声で、でも、確かにこう言えた。


 「……ただいま。戻ったよ」


 ユウマが笑っていた。


 「——おかえり、観測過負荷ガール」


 「……ただいま、黒葬過労死寸前ボーイ」




 双灯祭まで、あと五日。

 その事実が、この騒ぎの中で妙に薄く、でも確実に胸に残った。


 間に合うのか?

 いや、間に合わせるしかないじゃん。


 そう思えたのは、ユウマが隣に立っていたからだ。


 ——私は、生きて帰ってきた。

 ——そして、今日も世界は終わらない。


 ——翌朝。


 昨日の精神世界バトル&黒葬&死亡ログ葬儀(?)という大惨事の翌日なのに。


 天城総合学園の廊下は容赦なく明るい。


「双灯祭まであと五日!!」

「準備遅れてる班は体育館に集合してくださーい!」

「照明トラブル出てるってマジか!」

「救護テントの配置換え!? 今から!?」


 ……はい。地獄です。


 昨日、X05に精神構造の1/3くらい持ってかれて倒れた観測者の横で、

 世界はまるで“何もなかった顔”でテンション上げてくる。


 現実って、時々ほんと意地悪い。


 ミサキは目を腫らしながらも救護テントの備品を数えていて、

 トウタは「昨日のスレ立て逃したわ……」と呟きながら段ボールを運んでいて、

 レイカは音響卓の前で真顔で踊りの振付を確認していて、

 ミナトは将棋アプリを見ながら「……まだやれる」と呟いていて、

 チイロ先輩に至っては

 「昨日の精神汚染ログを“思い出してる暇ないぞ〜!!”メイドは!可愛い!」

 と叫びながらミームみたいに動き回っていた。


 そしてユウマ。


 ……昨日“死んだ”扱いだったくせに、

 今日は普通にホットコーヒー片手に歩いてる。


 「アスミ、ちゃんと寝たか?」


 「ユウマが言うな」


 その返しだけで、生きてる実感がわいた。


 ああ、昨日のあれは“悪夢”じゃなくて、ちゃんと終わらせた現実なんだなって。


 そして、そんな最悪の出来事の直後だとしても——双灯祭の準備は待ってくれない。


 この理不尽さは嫌いじゃない。

 こうやって、世界は続くんだと思えるから。



 X05とX03へ、最後に一言。


 お前達さ。


 昨日あんなに偉そうに「観測者の罪悪感が私の糧……」とか言ってたけど。

 今日の私は、照明トラブルと責任者会議のほうがよっっぽど精神削られてるからね?

 お前達の“死のループ”より、双灯祭五日前の文化祭準備のほうが普通に地獄だから。


 観測者なめんなよ。現実なめんなよ?


 でも、ありがとう。

 お前達を倒したおかげで——“今日のユウマが生きてる世界”を観測できた。


 その一点だけは、お前達の呪いに対する、私の勝ちだ。



 そんなわけで、私は今も“昨日死にかけたことを黙って、今日の作業表を眺めてる”わけだけど。


 それでも世界は続いていくし、私も今日の拍を刻んでいる。


 双灯祭まで、あと五日。

 たぶんまた何か起こるけど、それでも“今日の世界”はまだ終われない。


 観測は、干渉。

 干渉は、希望。

 そして、俗にいう“文化祭準備は全員地獄”——これは宇宙の真理。


 ここまで読んでくれたあなたへ。

 次のページでも、また会えるように。


 ——記録者、矢那瀬アスミ。


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