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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第三章 EXIT&SYNC/双灯祭前決戦編

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EP81.予言

 記録者 矢那瀬アスミ


 ——今日は、記録の前置きを最短で済ませるつもりだった。


 本当に“最短”で済ませるつもりだったのに、気づいたらこうして、言葉が延々とこぼれ続けている。

 この文字列そのものが、もうすでに〈罠〉かもしれないのに。


 “予言”なんて、軽い言葉で終わるなら、それでいい。

 占いアプリのラッキータイム、くらいで済むなら、笑って閉じればいい。


 ——でも、これは違う。


 私は「見てしまった」のではなく、「見てしまうように仕組まれた手順」を踏んだ。


 ページを開く。

 時刻を見る。

 体の律動が、その数字に捕まる。


 観測が成立した瞬間、世界は私の側へ、一段ずれる。


 16:03。


 数字はただの印字じゃない。

 拍だ。心拍、雨脚、タイヤの水切り、クラクション、誰かの悲鳴。

 そして、私の呼吸。


 全部が、その拍に吸い寄せられる。


 これは警告でも懺悔でもない。

 ——手順の記録だ。


 私は今、“ノートという視線の器”を抱えたまま、誰にも話さないことを選んでいる。


 話すこともまた干渉だから。

 観測者であるはずの私が、被験者を続けるための最低条件。


 もしここで失敗したら、その失敗は“手順の欠陥”として次の私に残る。

 そういう意味では、これは〈次の私へのバグレポート〉だ。


 だから書く。

 ——見られているときの書き方で。


 記録者:矢那瀬アスミ。

 状況:X-series精神侵蝕領域(仮)

 備考:当人はまだそれを自覚していない。たぶん。

 ※このログ自体が、X03の“内側”から送られた観測結果である可能性が高い。


 最初におかしかったのは、時間の順番だ。


 ——本当は私は、ノード・ゼロでX-seriesのログを読んでいた。

 天城総合学園・地下研究棟。

 W2由来の異常存在「X-series」の観測データ。

 タイトルは、《X03——逆行台本(Backstage Script)》


 『視線と台詞による精神侵蝕』『被験者が“物語の進行手順”に閉じ込められる』


 その説明文に、軽くツッコミを入れたところまではよく覚えている。


(いやいや、そんなマンガみたいな——)


 そこで、画面の隅に一瞬だけ浮かんだ数字。


 16:03。


 時計にそんな時間はまだ来ていない。

 壁のアナログは15時台。

 PCの右下も15:16を示していた。


 なのに、その数字だけが“先”から私を見ていた。


 瞬きした瞬間、世界が一枚反転したみたいに暗くなって——


 ——放課後の空気が、少し甘い。


 気付いたら私は、美術室で刷毛を洗っていた。


(……え?)


 蛇口から落ちる水の音。

 バケツの中に広がる薄いピンクの水。

 窓ガラス越しの空が、やけに静かに貼り付いている。


 さっきまでいたはずの【地下の15時台】が、履歴からごっそり抜け落ちている感覚だけが、喉の奥にひっかかっていた。


 双灯祭の準備の日。

 ペンキと画用紙と、くだらない会話と、どうでもいい笑い声。

 “いつもの放課後”の記号が、教科書通りに並んでいる。


 でも、そのどこかに、さっき見た「16:03」が縫い込まれている気がした。


 誰の声もやわらかく反響して、平和のかたちをしていた。


 双灯祭の準備って、こんな空気なんだ。

 ふざけ合う声。テープの裂ける音。

 段ボールを引きずる低い摩擦音。


 ——そのときだけ、世界が一瞬静まった。


 美術室の机の上で、スマホが震えた。


 通知音じゃない。

 振動のリズムが、私の心臓の拍と半拍ずれていた。


 その「半拍のズレ」が、喉の奥で冷たい鈴を鳴らす。


 画面を見た瞬間、首の裏がじわりと冷えた。


 差出人:表示なし。

 件名:なし。


 本文の冒頭に、たった一行。


 ——「お前を見ている」


 指が止まる。


(……は?)


 一瞬、トウタあたりの悪質なイタズラかと思った。

 でも、改行位置と句読点のバランス、それからフォントの選び方。


 “怖がらせようとしている人間の文章”じゃない。


 もっと、ログ。

 観測結果。

 レポートの冒頭みたいな、淡々とした言い切り。


 その直後、二行目が浮かび上がる。


 『このメッセージのことは、NOXを含む他者に話すな。

  天城総合学園・旧図書館、倉庫E-03。

  そこにあるノートを見つけろ』


 瞬間、手のひらの温度がごそっと奪われた。


 文字の輪郭が微かに滲む。

 いや、滲んでいるのは私の視界か。


 背後で、チイロ先輩の声が弾けた。


 「アスミー! 刷毛もう一個あるー? てかそこ床にも塗ってんの?」


 その声で、ようやく現実に引き戻される。


 「……あるよ。床は仕様で」


 自分の声が、一拍遅れて出た。

 喉の中で、「16:03」と同じ音程の違和感が揺れる。


 スマホを伏せる。

 周囲を見回す。


 ユウマは段ボールを運んでいて、

 ミナトはタブレットで原価計算アプリを開いたまま眉間にシワを寄せ、

 トウタはXchのスレを見て「草」とか言いながら笑っていて、

 ミサキは救護テント用の薬品リストを確認している。

 舞台袖ではレイカが音のないダンスのステップを練習していた。


 ——誰も異変に気づいていない。


 私だけが、「知らない通知」を受信している。


 息を整えながら、スマホを机の下に滑らせた。

 画面の光が布に遮られても、その向こうにまだ“視線”がある気がする。


 ——見られている。


 通知の波形。送信元のIP。バッファの遅延。

 本来なら、分解して全部解析するところだ。

 でも、指が動かない。


 胸の奥で、チイロ先輩の声が重なる。


 “観測することは、干渉することだ”。


 だから私は、誰にも言わないことにした。


 今ここで話した瞬間、

 この教室ごと“観測の範囲”に巻き込まれる。

 それだけは、本能的に拒絶した。


 私は笑う。

 誰も見抜かない程度の、よく出来た「大丈夫な顔」。


 ペンキの匂いに混じって、血のような鉄の味が微かにした。


(——行こう)


 旧図書館。倉庫E-03。

 そこにある“視線”の正体を、確かめに。


 ◆旧図書館・倉庫E-03—


 ——夜の天城は、静かだった。


 昼の喧騒が、音を切られた動画みたいに遠い。

 双灯祭の飾りつけが半分だけ点灯していて、

 風に揺れる光が校舎の壁をゆっくり撫でている。


 見慣れた廊下が、知らない学校みたいだ。

 色は同じなのに、意味だけが書き換わっている感じ。


 旧図書館への通路は、裏庭の温室の奥。

 立入禁止の札は傾いていて、誰も真面目に守っていない。

 でも今日は、その傾きさえも“誘導矢印”に見えた。


 スマホのライトを点ける。

 円錐状の光の中で、埃がふわふわ漂う。


 ——落ちていかない。

 まるで重力方向が“別の場所”に向いているみたいに、埃が宙に留まり続けている。


(……ここで、もう普通じゃない。 何かの“舞台袖”に片足突っ込んだ感じ)


 自分でそう認識しながら、足は止まらない。


 ——倉庫E-03。


 プレートの番号はかすれていて読みにくい。

 指でなぞると、白いペンキが指先に付く。

 その下に、さらに古い赤茶色の層。


 ドアノブを回す。

 鍵はかかっていなかった。


 冷気が、隙間から滑り込んでくる。


 埃の匂いじゃない。

 鉄と、焦げた紙と、

 それから——病的に冷えたインクの匂い。


 中へ。


 照明は死んでいる。

 私のスマホのライトだけが、この部屋の存在をぎりぎり証明している。


 机の上には紙屑。

 崩れかけたダンボール箱。

 折りたたまれた展示パネル。


 そして、棚の一番上。


 そこだけ、影が異様に濃い。


 ノート。


 本当にあった。


 他の物とは違う“黒”。

 光を返さない。

 吸い込む。一方的に。


 埃を払うと、表紙に指の跡がついた。

 触れた部分だけ、湿ったように黒が濃くなる。


 ……血だ。


 古いのに、乾ききっていない。

 赤黒く沈んだ色が、指に冷たさを残す。


(温度、逆行してない?)


 思わず手を引いたけど、遅かった。

 冷たさは、もう皮膚の下まで入っている。


 ノートは、「開け」と言わんばかりに重く沈んでいた。


 (……X03のログにあった、“紙媒体インターフェイス”の図が、一瞬だけ頭をかすめた。いや、気のせいであってほしい)


 私は息を吸い、手のひらでページを押し開く。


 びくり、と指先の血管が震えた。


 ——日付。


 最初の行に、今日の日付。


 違う。よく見ると、一日先。

 “10月24日”。


 続く時刻。“16:03”。


 頭が一瞬、真っ白になる。

 さっきノード・ゼロで見た数字が、ここでも私を見ていた。


 黒いインクの文が、その下に続く。


 『天城総合学園前交差点付近。

  10月24日16時03分、通りすがりの生徒、突然の降雨によりスリップしたバスに衝突。

  吹き飛ばされ、対向車線の車に接触して死亡』


 息が止まる。


 文末の余白に、指の滲んだ跡。

 それが、笑っている口の形に見えた。


 手が震える。

 ページを閉じようとしても、閉じられない。


 「なによ、これ……」


 紙が皮膚に吸い付いて離れない。

 指先に、脈を感じる。


 ——心臓の鼓動と、ページの鼓動が同じ速さになっていた。


 私の名前は、どこにも書かれていない。


 けれど、どうしても“自分の書いた記録”にしか見えなかった。


(未来観測ノート?でも、私が開いた瞬間、それは「アスミの世界の16:03」に固定される。

 観測=干渉。つまりこれ、最初から「起こす気満々」の予言じゃん)


 そう理屈を並べても、手は離れなかった。


 明日、16時。

 雨。交差点。バス。


 私はノートを胸に抱えたまま、膝をつく。


 光が滲んで、世界の輪郭が一瞬だけ崩れる。

 床の木目が呼吸している。


 誰かが見ている。


 その“視線”は、もう教室でも廊下でもなく、

 私の背骨の一番下に乗っていた。


 ——「お前を見ている」。


 あの言葉が、鼓膜の奥で、声じゃなく脈として繰り返される。


 私は笑ってみせた。


 誰もいない部屋で、空気に言い聞かせるみたいに。


 「……いいよ。見るなら、最後まで見て」


 言葉が吐息になって、埃を揺らす。


 ノートの端が、小さく震えた。


 まるで、返事。


 そのとき、ページの隅っこの余白で、黒い線が一本だけ踊った。


 X——。


 アルファベットのような、傷のような。


 目を凝らしたときには、消えていた。




 ノートを閉じた瞬間、

 背後の空気が、誰かの息みたいに揺れた。


 ——ピリッ。


 ポケットの中のスマホが、勝手に光る。


 触っていない。

 机の上にもない。

 なのに、画面が点いた。


 喉が鳴る。

 自分の鼓動が、画面の明滅と同期していくのが分かる。


 通知欄はひとつだけ。


 差出人:表示なし。

 時刻:00:00。

 本文:空白。


 ……に、見えた。


 背景の黒の奥。

 滲んだような灰色の文字が、ゆっくり浮かび上がる。


 ——「捨てるな」


 そこだけ、フォントが呼吸していた。


 “な”の一画目だけ、何度も書き直された跡。

 筆圧の揺れが、そのまま液晶越しに脈になって伝わってくる。


 私は息を止める。


 画面の明かりが手のひらを照らす。

 血液の色と同じ温度。


 文字が、もう一度だけ揺れた。


『そのノートは、捨てるな』


 命令形。


 でも、どこか“優しい声”を装った言い方。

 条件づけのテンプレ。

 「怖いことを言う人ほど、優しい言葉を被せがち」という、ネットで見たやつ。


 ツッコもうとした瞬間、スマホが勝手にスリープした。


 部屋が闇に沈む。


 耳の奥で、かすかに音がした。


 紙を、めくる音。


 ——背後から。


(振り返ったら、終わる)


 なぜか、そう確信していた。


 だから私は、振り返らなかった。


 代わりに、足を動かした。




 足音が、やけに響く。


 倉庫を出た瞬間、耳が“現実の音量”を思い出そうとする。

 でもしばらく、どの音も“部屋の外側”から聞こえてくるようだった。


 扉を閉める。

 金属の軋む音が、喉の奥で誰かが咳をしたように聞こえる。


 鍵なんてかけても意味がないと分かっていながら、

 私はノブを一度、強く握った。


 掌に、まだインクの臭いが残っている。


 外の空気は冷たくて、やけに乾いていた。


 夜風が頬に触れるたび、

 “普通の現実”に戻ってきたはずなのに——


 何度深呼吸しても、肺の奥が埃っぽい。


 倉庫E-03の空気を、そのまま吸い込んで戻ってきてしまったみたいだった。


 スマホはポケットの中で黙っている。


 ……沈黙って、こんなにうるさいんだっけ。


 街灯の下を通るたび、影が一つ増え、一つ減る。

 足音の数が、合わない。

 振り返っても、誰もいない。


(……気のせい。たぶん。そうじゃないと、ここで悲鳴上げるハメになる)


 校門を抜け、坂を下る。

 天城の校舎が遠ざかる。


 振り返らない。

 でも、背中に“視線”が付いてくる。


 ノートを抱いた鞄の重みが、

 心臓の位置に移ってくる。


 家までの道が、やけに長い。


 街の灯りが妙に黄色い。

 一つ一つの窓が“監視カメラのアイコン”に見える。


 ようやく自宅の前に着いた。


 ポーチの明かりを点けた瞬間、

 手の震えに気づく。


 鍵を回す指が、カチリ、と乾いた音を立てる。


 扉の内側の空気が、生温く流れ出てきた。


 「……ただいま」


 声に、誰も答えない。


 それでやっと、少しだけ安心する。


 靴を脱ぎ、ノートを鞄ごとテーブルに置く。


 机の上の目覚まし時計が、16:03を指して止まっていた。


(……さすがに悪趣味すぎない?)


 昨日までは普通に動いていたことを、私は知っている。


 笑おうとして、やめた。


 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、

 赤黒い紙屑みたいなノートの影を、床に長く伸ばしていた。


 ——その影の端っこが、一瞬だけ“X”の形になった気がしたのは、

 もちろん、気のせいであってほしい。



 翌朝——



 ——朝の光が、痛い。


 寝た気がしない。


 ノートは机の上に置いたまま。

 触れていない。

 ……はずなのに、夜のあいだ何度も「ページがめくれる音」を聞いた。


 起き抜けの喉がひりつく。


 あれが全部夢なら、私は今すぐ夢オチを採用したい。


 そうじゃないなら、私はもう、昨日の私じゃない。


 制服に袖を通して、外へ。


 空気が妙に軽い。

 街の音が、うっすらフィルター越し。


 坂の上から見える天城の校舎が、

 映画館のスクリーンみたいに白く霞んでいる。


 通学路の途中、前方から、世界の彩度を強制的に上げる声。


 「おっはよ〜〜〜ん!

  この曇天と電力不足を背負って登校する女、

  雲越チイロちゃんだぞ〜〜〜〜!!」


(はい出た、人間サウンドエフェクト)


 声量の単位が物理法則から独立している。

 歩道のカラスが一斉に飛び立ち、

 近所の犬が「ワン(音量オーバー)」みたいな吠えかたをした。


 チイロ先輩は両手にカフェのテイクアウトを二つ持ち、

 ヘッドホンを首に引っかけたまま、私を見つけるなりニヤッと笑う。


 「アスミ〜、顔色わる。

  お前また夜通し“世界のデバッグログ”読んでた?」


 「……世界じゃなくて、せいぜい校舎の一角ってとこ」


 「それ世界のサンプルじゃん。

  で? また世界救ってた? それとも世界に殺されてた?」


 軽口。

 いつも通りのテンション。

 この人のミームとテンションの固有振動数は、相変わらず高すぎて、

 私の現実感がちょっとマイナス補正される。


 「ほら、カフェイン補給〜。

  人間やめてもこれはやめるな。

  これ手放したらいよいよ観測者じゃなくてゾンビになるから」


 紙コップを押し付けられる。


 温かさが、手の冷えを一瞬だけ誤魔化す。


 「チイロ先輩って、朝からほんと元気だよね……」


 「そりゃそうよ。朝はテンションの初期条件だもの。

  ここで負にしたら一日中発散する。

  物理をなめるな、理系の星☆」


 彼女は片目をつぶり、駅前の電柱広告をスマホで撮る。


 「双灯祭のポスター、フォントずれてんじゃん。

  ノイズとしては100点! 設計者呼んで握手させて」


 私は笑う“ふり”をした。


 その明るさが、まぶしすぎて。

 少しだけ胸が痛くなった。


 ポケットのスマホは、無言のまま沈黙している。


 ——その沈黙が、チイロ先輩の声の裏に、薄く張り付いている気がした。


 ——お前を見ている。


 あの文字が、まだ網膜の奥で残像を引いている。


 でもチイロ先輩の声が、その残像を追い出すみたいに響いた。


 「今日も生き延びよーぜ、生意気後輩!」


 彼女は笑って、私の肩を軽く叩く。


 その一瞬だけ、本当に、

 現実が“現実のまま”戻ってきた気がした。私の視界に、色が戻るみたいに。



 教室——


 ——教室のドアを開けた瞬間、


 空気の密度が、夜とは別の意味で重くなった。


 朝の光が黒板に反射し、窓ガラスに二重の影を映す。

 雑談。椅子の脚の音。プリントの擦れる音。


 全部、“いつも通りの音”なのに、どこかで位相がずれている。


 自分の席に鞄を置く。

 その瞬間、背中のあたりに“重力”がかかる。


(……嫌な感じ)


 鞄のファスナーを開ける。


 そこに——ノートがあった。


 机の上に置いてきたはずの、それが。


 「……うそ」


 小さく漏れた声が、喉でつかえる。


 「……おはよう」


 少し掠れた声。


 顔を上げると、ユウマが窓際の席に立っていた。


 髪が少し跳ねていて、片手に紙パックのカフェオレ。

 いつもと同じ、はずなのに——視線が、いつになくまっすぐだった。


 「アスミ……なんか顔、やばいな」


 「うるさい……! 寝てないだけ!」


 「また“干渉の夢”でも見た?」


 どきり、と心拍が跳ねる。


 彼は冗談半分で言っただけかもしれない。

 でも、その単語の選び方は、今日の私には鋭すぎた。


 「……夢、じゃないかもしれない」


 「ん?」


 私がうなずきかけたとき、

 喉の奥で文字列がフラッシュする。


 ——このメッセージのことは、NOXを含む他者に話すな。


 頭の内側に、あのフォントが張り付く。


 「……ごめん。なんでもない」


 「アスミ」


 ユウマが机に手を置く。

 瞳の色が、ほんのわずかに変わる。


 ——“記録者”の目になる。


 観測し、切り分け、整理して、保存する目。

 W1の残滓を何度も見てきた、冷静な目。


 「……もし何か見たなら、隠さないほうがいい。 

  隠したものほど、形を持つようになる。

  困ってることがあれば、いつでも言え。

  僕たちはNOXだろ?」


(そう言うからこそ、言えないこともあるんだよ)


 本音は、喉で燃えて灰になった。


 代わりに、私は少し歪んだ笑いを浮かべる。


 そのとき、ポケットのスマホが震えた。


 一瞬だけ画面を覗く。


 差出人:なし。

 プレビューに、一行だけ。


 『言ったら——』


 そこで通知が切れた。


 ユウマが「どうした?」と身を乗り出す。


 「……なんでもない。本当に。

  ただの寝不足と、ちょっとだけ……世界酔い」


 乾いた冗談で逃げる。


 ユウマはまだ何か言いたげだった。

 でもHRのチャイムが鳴って、会話はそこで強制的に切られた。


(……この時点で、叫んでいれば)


 そう思ったのは、もっとずっと後の話。




 ——15時57分。


 校舎の外は、まるで時間が息をひそめているみたいだった。


 窓の外の街が、少し白く霞んで見える。

 空はまだ晴れているのに、空気の奥だけ湿度が跳ねる。


 ——まだ降ってはいない。


 でも、雨の匂いがした。

 あの「始まりの臭気」


 教室では、双灯祭の残りの準備でざわざわしている。

 テープを引きちぎる音。

 誰かの笑い声。

 プリントを配る先生の足音。


 全部が“生活音”の顔をしながら、

 どこかでノートの文と同期していた。


 机に手をついたまま、

 心拍だけがやけに速い。

 時計の秒針と競争している。


 ——16時。


 ノートに書かれていた、事故の時刻の三分前。


 鞄の中には、黒ずんだノート。

 開かなくても、ページが呼吸しているのが分かる。


 「見ている」と言った声が、インクの下からまだ微かに響いている。


 ユウマの席は、空いていた。


 「購買、行ってくる」と言って出て行ったまま、戻っていない。


 胸の奥が、ゆっくり冷えていく。


(行くな、って言えばよかったのに)


 後悔は、デフォルトでいつも「事後」だ。


 私は立ち上がる。


 周囲の声が、膜越しに聞こえる。


 「アスミー? どこ行くの?」

 トウタの声。


 私は笑って誤魔化す。


 「ちょっと、空気、吸ってくる!

  生命維持装置のエラーなので」


 廊下の先。階段を降りる。

 光が急に白くなり、床が現実の顔を失っていく。


 玄関を出た瞬間、風が頬を叩いた。


 遠くで雷鳴みたいな低音。


 ——まだ、落ちていない。


 校門の方角を見る。


 通学路の延長。

 天城総合学園前の交差点。


 ノートの一行が脳裏に浮かぶ。


 『通りすがりの生徒、突然の降雨によりスリップしたバスに衝突。』


 唇が乾く。

 喉の奥が熱い。

 足が、勝手に動き出した。


 歩道の白線が、呼吸のように揺れる。

 空が重くなる。

 光の色が、薄灰から鉛に変わる。


 一滴。


 頬に冷たいものが落ちた。


 ——雨だ。


 心臓の音が、風景を塗りつぶしていく。


 16:00まで、あと三分。


 私は走り出す。


 足音が、濡れたアスファルトに吸い込まれる。

 鞄の中のノートが、まるで生き物みたいに揺れた。


 ——やめろ。


 声にならない声が、耳の奥で囁く。


 誰の声でもない。


 でも、“観測の向こう側”から届いているのは分かる。


(……ユウマ?)


 一瞬そう思った。

 でも、すぐに打ち消す。


 ユウマの声は、こんなに甘くない。

 もっと乾いていて、冷静で、現実的で——優しい。




 雨脚が強くなる。


 街全体が、ノートの一行をなぞるように動いていく。


 私は歩道の端で立ち止まり、信号を見つめた。


 青。


 風が一瞬、止む。


 その無音が、「何かの前ぶれ」にしか聞こえなかった。


 ノートの文字が、頭の奥で再生される。


 『通りすがりの生徒、突然の降雨によりスリップしたバスに衝突』


 耳鳴り。

 鼓膜の裏から、金属が軋む。


 ——来る。


 坂を下ってくるバス。

 雨に滲んだ赤い車体。

 ワイパーが視界を追いきれていない。

 ブレーキランプが瞬く。


 でも、「止まらない」という答えだけは先に分かっていた。


 時間が溶ける。


 視界の縁が、スローモーションになる。

 雨粒が一つ一つ、静止画みたいに空中に浮かぶ。


 でも、音だけは速いまま。

 タイヤが水を切る音が、心臓の拍動を追い抜いていく。


 そのとき、ようやく気づいた。


 ——横断歩道の真ん中を歩いている黒い制服。


 購買袋をぶら下げて、俯きがちにスマホをちらっと見て、

 少し早足で渡ろうとしている背中。


 ユウマだ。


 青信号の下で、ちゃんとルールを守って渡っているのに。

 それでも、ノートの“16:03”の位置に、ぴったり立っている。


 「……ユウマ、どいて——!」


 声は喉から出たはずなのに、

 空気に届く前に、世界のほうが先に動いた。


 バスのタイヤが、水たまりの上で大きく滑る。


 キィィィィ——!


 制動音が、雨音を引き裂いた。


 フロントガラスの向こうで、運転手の口が「危ない」と無音で形を作る。

 ハンドルが切られる。

 でももう遅い。


 横断歩道の白線の上で、ユウマがこちらを振り向いた。


 視線が、交わる。


 その瞬間だけ、世界が完全に静止した。


(見ないで)


 心の中で叫ぶ。

 誰に向かってなのか、自分でも分からない。


 ——ノートか。

 ——この世界か。

 ——Xか。


 観測が、成立した。


 次の瞬間、世界が音で割れた。


 ドンッ。


 バスの左前が、ユウマの身体を真正面からさらう。

 制服の胸元あたりに、赤い車体の角がめり込み、

 彼の身体がくの字に折れて、ありえない角度で持ち上がる。


 購買袋が空中でほどけ、中身が雨の中にばら撒かれる。


 ユウマは、そのままフロントガラスに叩きつけられ、

 次の瞬間、ガラスの上を滑って、横倒しになったバスの進行方向へと投げ出された。


 対向車線の車が、叫ぶみたいにクラクションを鳴らす。


 誰かが悲鳴を上げた。

 でも、その声はすぐに「雨音」に変換される。


 私は走り出していた。


 雨と破片の中を突っ切る。


 冷たい水しぶきが頬を打つ。

 肺が焼ける。


 ——倒れている人影。


 足が止まる。

 膝が折れる。

 制服の裾が、冷たいアスファルトに貼り付く。


 横断歩道の端、白線から少しはみ出したところに、

 ユウマが仰向けで倒れていた。


 片手はまだ、ぐしゃぐしゃになった購買袋を握ったまま。


 血の匂い。

 鉄の味。

 倉庫のノートの匂いと、完全に一致する。


 息を吸おうとしても、肺が空気を拒絶する。


 視界の端で、ノートが鞄から滑り落ちる。


 ページが勝手に開く。


 インクが雨で滲み、最後の一行が浮かび上がる。


 『一日目、おしまい』


 ——その瞬間、世界の“上”で何かが笑った気がした。


 X。

 観測台本を書いた、誰か。

 あるいは、何か。


 雨音が遠のく。

 世界が音を止める。


 そして、私の中で何かが静かに——壊れた。




 雷鳴。

 ほんの一秒だけ、世界が白紙になって、すべての音が消える。


 次に戻ってきたのは、雨ではなく、“呼吸”だった。


 ——私の。


 肺が勝手に動いている。

 でも、その呼吸は身体に届いていない。

 ただ、生存フラグだけを維持するための反射。


 視界の中で、ユウマが微かに動いた。


 指が、震える。

 唇が、何かを紡ごうとしている。


 耳を近づける。


 血と雨の混ざった呼気が、頬に触れる。


 「……ア、アスミ……」


 それだけ。


 それだけで、心臓がひっくり返るように脈を打つ。


 見た。

 私は、見てしまった。


 未来を観測して、その通りに今が上書きされていく瞬間を。


 ノートが、ひとりでにページを開く音。


 雨でインクがにじみ、

 最後のページに新しい行が現れていく。


 『続く』


 文字が、生きている。


 黒が滲むたびに、ページの紙が呼吸する。


 私はそれを奪うように掴み、力任せに閉じて地面に叩きつけた。


 「なによこれ……どうなってるのよ……

  ユウマ……!

  誰か……誰か、助けて……!」


 叫んでも、声は雨に溶けて誰にも届かない。


 ただ、どこからか「小さなノイズ」が混じった。


  ——……ミ。

 ——……スミ。


(……今、誰か、呼んだ?)


 顔を上げる。

 でもそこには、救急車のサイレンしかない。


 赤い光が、雨粒の中で歪んで揺れる。

 世界が、ようやく「外側から」動き出す。


 私は立ち上がろうとして、足元を取られる。


 水たまりが、ノートの黒を吸い込んでいく。


 ユウマの胸は、動かない。


 私の耳は、呼吸の音を捏造してまで希望を繋ごうとする。

 でも、捏造は一秒で壊れた。


 ——16:03は過ぎた。


 けれど、どこにも「越えた」という手応えはない。


 時刻だけが、16:04、16:05、と進んでいく。

 でも、私の中の秒針は、壊れたまま16:03に貼り付いている。


 視界の端で、ページが勝手に捲れる錯覚が消えない。


 あの黒い紙は水を吸って重くなり、

 でも、私の手は妙に軽かった。


(……これで、終わり?)


 いや、“終わり”という言葉すら贅沢だ。


 ただ、「壊れた」があるだけ。


 雨の音が、静かに拍のように続く。


 16:04。

 ノートに書かれていた“時間”は、もう終わっている。

 ——あとから思えば、この瞬間に、世界の針は一度止まり、舞台装置に差し替えられていたのだろう。


 私の中で、“希望の未来”は潰えた。


 そのとき、頭のどこかの深層で

 小さな警告が灯った。



 ——〈外部からの書き換え要求を検出〉



(……え?)


 聞き慣れた、ノード・ゼロのシステム音。

 でもここは、交差点のど真ん中。


 ありえないはずの音が、現実の雨音の裏に重なった。




 観測は干渉だ、なんて格好つけて言い切った舌が、冷たくなっていく。


 私の干渉は、ただの同意書だった。

 ノートにとって都合のいい同意。


 「捨てるな」という命令形は、

 優しい声色に偽装された拘束だった。


 従ったのは理性じゃない。

 臆病だ。

 希望を護符に見立てた、臆病。


 雨は拍を刻む。16:03、16:04、——以後。


 時刻は進むのに、

 私の中では壊れた秒針だけが空転している。


 視界の端でページが勝手に捲れる錯覚が消えない。


 手順を失った手は、何も救えない。


(せめて、ここまでで分かった“仕様”だけでも書き出しておく)


 ——仕様①:読むと起動する。

 ——仕様②:離れても戻る。

 ——仕様③:破れば写り先が身体になる。


(……いいよ。今はどれも役に立たない)


 結果は出た。

 ユウマは戻らない。


 私は見た。見たうえで、失った。


 あのノートの最後の「続く」は、物語の約束じゃない。

 罰だ。

 観測者だけが罰を前払いされる仕組み。


 もし次があるなら、私は“終わらせるために”読む。

 救うためじゃない。

 私の中で終わらせるために。


 そうでもしないと、この拍が止まらない。


 ——記す。


 ユウマは死んだ。私の観測のすぐ手前で。

 私は生きている。それがいちばん苦しい。

 私は呪われたのか——


 そこで、ペンが止まった。


 正確には、“書いている感覚”がブツリと切れた。


 指が勝手に動いていたはずのペン先が、空中で止まる。


 ノートの紙面の上で、インクのしみだけが呼吸を続ける。


 ——アスミ。


 誰かが呼んだ。


 今度は、はっきりと。


 雨音でも、ノートでも、Xでもない。


 ——アスミ、聞こえるか。


 ユウマの声だった。


 さっき、交差点で聞いたかすれた声とは違う。

 もっとクリアで、いつもの少し低めのトーン。


(……え?)


 顔を上げる。


 さっきまで暴れていた雨粒が、空中でフリーズしていた。

 バスも、血も、救急車の光も、一枚のガラスの向こう側へすっと“後退”する。

 世界全体が、透明なステージセットの背景絵みたいに見えた。


 ノートのページの隅で、黒インクがじわりと形を変えた。


 X03——逆行台本。


 その文字が、インクの海からせり上がる。


 「精神侵蝕型X-series。

  被験者を“物語”に閉じ込める。

  台本通りの未来を反復させ、観測を固定する」


 ——昨日、ノード・ゼロで読んだ説明文が、そのままノートの上で再生された。


 その文字列の上から、

 別の文字が上書きされる。


 『外部干渉:Chrono_Recorder / 岡崎ユウマ』


 『——アスミ。

  そこは現実じゃない。

  X03の精神拘束領域だ』


 声が、頭の内側で響く。


 「……は?」


 情けない声が、口からこぼれた。


 雨音は、いつの間にか消えている。

 交差点の景色も、ガラス越しの映像みたいに色を失っていた。


 私の手の中のノートだけが、やけに鮮明だ。


 ——16:03で止まり続ける世界。

 ——予言と事故が、台本通りに進むだけの世界。


 それが、X03の“舞台”。


 そして私は、その主役兼観測者。


 「……ってことは」


 喉が勝手に動く。


 「ユウマ、あんた——死んでない?」


 『——死んでたまるか』


 ユウマの声が、ほんの少しだけ笑った。


 その笑い方が、あまりにもいつも通りで。

 胸の奥が、今度は別の意味で痛くなる。


 『——今、アスミはX03に完全に取り込まれてる。

  ノード・ゼロごと精神世界に引きずり込まれた形だ。

  外から見たら、アスミは意識喪失で倒れてる』


(はぁ……また厄介なやつを)


 思わず、いつもの調子でため息が出る。


 「じゃあ、この“ユウマ死亡ルート”は——」


 『——全部、台本。

  アスミ、君を折るためのシーン構成。

  X03は“観測者”をへし折って、書き換え可能な器にしたがる』


 ノートのページの上で、

 「一日目、おしまい」の文字がビリビリと震えた。


 そのすぐ下に、新しい行が、

 勝手に生まれようとしている。


 『二日目——記録者、精神崩壊』


 「……ふざけんな」


 今度は、はっきり言葉になった。


 私はノートを睨みつけ、

 ペン代わりに、自分の指先をページに押し当てる。


 インクが、逆流するみたいに指に絡みつく。


 「続く、じゃない。

  ここで——止める」


 『——待て、アスミ。

  強制終了はリスクが——』


 「うるさい。

  観測者の権限、なめないでよ。

  X03、ねじ伏せてやる」


 自分でも驚くほど、声がよく出た。


 雨はもう降っていない。


 交差点も、バスも、血も、全部背景素材に戻っている。


 ここは、精神世界。

 X03が組んだ“死の台本”の舞台装置。


 そして、外からその舞台の照明を落とそうとしている人が、一人。


(……外から、休日にまで駆り出されて、ご苦労さま)


 「ユウマ」


 私は、ノートを挟んだまま空を見上げる。


 そこには空も雲もなく、

 ただ、ノード・ゼロのステータスバーみたいな光の線が走っていた。


 「……観測ログ、書き換えるから。

  あんたは、ちゃんと“外”で見てて」


 『——了解。

  観測者補助、岡崎ユウマ、いや、タナトス。

  外側から、アスミの“成功ログ”だけを残す』


 その声に、少しだけ安心する。


 私は深呼吸した。


 16:03で止まり続ける世界の中で、

 初めて、自分の意思で息を整えた気がした。


 この記録は——

 X-seriesに取り込まれた私が書いた、呪われた予言ログ。


 でも同時に、

 外から手を伸ばしてきた誰かが、

 そこに上書きしようとしている“救出ログ”でもある。


 どっちが勝つかは、まだ分からない。


 だから、最後にもう一度だけ記す。


 ——これは、精神世界の物語だ。

  少なくとも、このログを書いている時点の私は、それをまだちゃんとは自覚していない。


 そして今、その物語に、

 外から乱入してきた“記録科学オタクの少年”がひとり。


 ……マジで、頼んだよ。ユウマ。


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