EP76. 耳鳴りの予兆
青手の戦闘ログを、私は何十回も巻き戻しては止め、数値に置き換えた。
肋骨ストレス、肺圧、イレイザーの冷却曲線、黒葬の神経ノイズ。
NOX医療班・霧島ミサキの式では、結論はひとつ——
「次の前線投入は禁止。最低七十二時間」
そう表示されたグラフを見ながら、私は何度も「エンター」を押し直した。
押すたびに結果は変わらない。当たり前だ。式は正しい。
——なのに、ユウマはアスミの解析を優先した。
彼女のグラフは、私より滑らかで、美しい。
時間軸の取り方が違う。ダメージの“累積”ではなく、“構造変化”で描いてる。
神経ノイズと戦術判断の相関まで、あの子は全部一本の線に落とし込む。
悔しいのは式の正しさじゃない。
ユウマがそっちを“見る”ことだ。
“観測は終わらない”——彼の口癖を、私は医療用の注意喚起みたいに何度も呟く。
終わらないなら、隣で止血する役は、私だ。
縫い合わせて、冷やして、骨を組み直して。
彼が壊れたら、私が戻す。それが、私の立ち位置だと信じてきた。
だけど、あの夜。
保健室の端末に“黄色い耳”の噂が跳ねて、タイムラインが一気にざわめいた瞬間——
胸の底で、焦燥が火を噴いた。
#黄耳 #耳鳴りの闇。拡散速度は青手以上。
音を武器に、記憶を抉る。ログから浮かび上がるのは、ユウマを壊し得る形の怪異。
だったら——出るのは、私。
私が囮になってでも、止める。
アスミの“美しい式”に勝てなくても、
ユウマの命に必要な“汚れ役”は、私がやる。
そう決めて、私は白衣の胸元のボタンを外した。
白衣は、今日は最後に着る。
最初に着るのは、戦闘スーツ。
医療じゃ間に合わないときだけ、私の中の何かが、別モードに切り替わる。
——オーロラから、脈断へ。
◆ 霧島ミサキ視点:怪異《黄耳》噂発生 —
廃ビルの裏路地で、誰かの悲鳴が“反響するように聞こえた”——
そんな通報が、学園都市の保健室まで回ってきたのは、放課後を二回り過ぎた頃だった。
私は白衣の袖をまくり、端末の画面を睨む。
映っているのは、ピントの甘いスナップショット。
霧に包まれた廃墟の影。
その中央に、黄色く膨張した巨大な耳が浮かんでいる。
耳介の皺が蠢き、中央には眼球のようなレンズ。
耳たぶの下からは、粘液を滴らせる触手が何本も伸び、何かを食んでいるシルエット。
コメント欄は、いつもの“ネタ”のテンションを軽く飛び越えていた。
『耳が声吸い取った』
『頭ん中、昔の記憶がリピートされる』
『逃げろ、音出すな!』
『笑い声まで飲まれる、ヤバい』
……読めば読むほど、胸が冷えていく。
「……最悪。変なシリーズ、まだ続くの? 青い手の次が、こんなグロい耳?」
思わず口から漏れた愚痴に、誰も突っ込まない。
保健室には、私しかいないから。
《青手》の発生から、まだ数日しか経ってない。
あのとき、ユウマのイレイザーは限界近くまで回され、コアは“黒葬”の反動で焼けた。
骨格の歪み、神経ノイズ、心拍変動。
医療班としての私の式は、何度計算し直しても、
——「次の前線投入は禁止。七十二時間」を返す。
なのに、そんなときに、“黄耳”。
大きな耳が人を襲い、音と記憶を食う——
精神汚染を伴う型の怪異。
それは、ユウマには最悪の相性だ。
※黒葬の使用後、彼の神経回路は一時的に“音”に敏感になる。
わずかなノイズが、トラウマの再生トリガーになる。
——それを、私はモニタの波形で知っている。
「ねぇ……世界さん……空気読んで? 今は静かにしててよ……」
小さく呟いたところで、端末が新着通知で震えた。
拡散速度:異常値。タグ:#黄耳 #耳鳴りの闇。
発信元は近郊の廃ビル群、E−04区画。
青手の出た工業団地跡と同じ、“霧+廃墟+誰もいない”コンボ。
画面の端に、精神汚染疑いの報告も流れてくる。
『耳が過去のトラウマ囁く』
『倒れた友達、目開けたまま何かぶつぶつ言ってる』
——音、記憶、トラウマ。
最悪の三点セット。
耳自体が捕食器官? そんなの“あり得ない”。
でも、W2では、もう“あり得る”。
人工怪異。設計者の“罰の梯子”。
この世界は、そういうものを吐き出すように出来ているみたい。
嫌な予感は、たいてい当たる。女子の勘。
青手のときも、そうだった。
だから、私は席を立った。
カルテを閉じ、白衣の襟を整え、深呼吸を一つ。
医者モードから、NOXモードに切り替える。
◇ ◇ ◇
◆ ノード・ゼロ:黄耳ブリーフィング — 「ユウマを出すくらいなら」
「——噂は確認。怪異《黄耳》。音響型。
ユウマ、アウト」
ノード・ゼロに駆け込むなり、私はそう言った。
夜のノード・ゼロは、機械の呼吸音で満ちている。
サーバーラックの冷却ファンの音が、心拍を余計に上げてくる。
メインディスプレイには、黄耳の合成画像。
巨大な耳殻、中央の眼球レンズ、うねる触手。
青手より“生々しい”。
すでにメンバーは揃っていた。
・レイカ:椅子の背にもたれ、音響データを睨む
・ミナト:数式ホログラムの海に半分沈んでいる
・トウタ:端末三台持ちでSNSを掘り返し中
・ユウマ:モニターの隅に青手ログを表示させたまま、黙って座っている
そして——
私が一番、見たくなくて、見てしまう視線。
ユウマが、私を一瞥してから画面に視線を戻す。その横顔。
胸が、うざいくらいに跳ねる。
やめて、その角度。
診察室じゃないときに、その顔でいないで。
「ミサキ、お前の診断は?」
彼が問う。いつもの、淡々とした声。
「イレイザーのコア温度、いまだに標準値+15%。
補助骨格の負荷残存、15%。
今前線に出したら、脊椎損傷確率87%」
口に出してから、数字の重さに自分で吐き気がした。
ミナトが、すかさずホログラムを操作し、私の値を確認する。
「同意見だ。曲線一致。黒葬の反動、まだ減衰しきってない。
ここでイレイザーを動かしたら、次のの《怪異》が出る前に、操縦者が折れる」
「でしょ?」
私は言いながら、ユウマの表情を盗み見る。
——眉が、わずかに寄る。
納得じゃなくて、“諦めたときの顔”。
やめてよ。そんな顔しないで。
守りたいのに。守るために計算してるのに。
そこへ、レイカが勢いよく椅子を回した。
「ユウマ様! ハイッ!! ステイ! ほんっっっとにステイ!
イレイザー起動したら、スーツ冷却値が泣いて土下座するレベルだから!」
トウタがSNSログを掲げて叫ぶ。
「黄耳の音響データ、精神干渉80%超えだぞ!? キモすぎるわ!
今のユウマが行ったら、マジで“音”で壊される!」
それを聞きながら、私は指を握りしめる。
——ユウマが壊される。
その可能性を思うだけで、肺がうまく動かなくなる。
「……じゃあ」
喉が勝手に動いた。
口から出る前に、止められたはずの言葉。
でも、止められなかった。
「——じゃあ、私が行く」
空気が止まった。
ノード・ゼロの空調音すら、一瞬だけ凍りついた気がした。
「……えっー!!」
「お前が?」
「いやいやいやいや、ミサキちゃん? それは俺の担当の冗談だろ!?(笑)」
全員の視線が、一斉に刺さる。
レイカの目が鋭く、ミナトの数式がエラーで崩れ、トウタがツッコミ待ちで固まってる。
そんな中で、ユウマだけが、何も言わずに私を見る。
——その「沈黙」が、一番タチ悪い。
黙って観測しないで。
コメントして。否定して。止めて。
「だって」
私は、逃げ場を全部焼き切るように続けた。
「ユウマが行くって言うなら……代わりにやるしかないでしょ?
イレイザーなしで無茶するユウマより、私のほうが、リスクを“身体の延長”として読める」
「ミサキ、それは無茶!」
「ミサキの装備、後方支援用だろ!」
「黄耳の音圧、一撃で内臓破裂だって!」
レイカもトウタも、正論しか言ってない。
でも、止まれない。
私は医者だ。
医者だから知ってる。
ユウマをもう一度あの戦場に出したら、本当に折れる。
骨も、神経も、たぶん心も。
「オーロラは後方? 知ってるよ。
でも、“後ろで見てるだけ”のほうが、私には地獄なんだよ」
自分でも驚くくらい、声が震えてた。
ユウマの目が、わずかに見開かれる。
「……ミサキ」
「青手の時、ユウマの心拍、私だけ全部見てた。
黒葬の反動で乱れた波形、まだ脳裏に焼き付いてる。
またあれを聞くくらいなら——」
——私が壊れたほうがマシ。
そこまでは、さすがに言葉にしなかった。
でも、たぶん顔に全部出てた。
ミナトが、端末をタップしながら冷静に言う。
「ミサキが前線に出る場合の生存率、計算する」
ホログラムに、線が描かれていく。
……その瞬間、頭の中で何かがカチっと鳴った。
あ、違う。
私、何やってんだろ。
生存率なんて、最初から聞く気なかった。
“嫌がらせ”みたいに計算しようとするミナトを、私は手で制した。
「いい。いらない」
「は?」
「生存率、ゼロじゃなきゃ、それでいい。
いや——ゼロでも行く。ユウマが行くくらいなら」
沈黙。
レイカが頭を抱える。
「……この子、こっち側の人間だった……か」
「こっち側って何」
「“ユウマ依存性自己破壊傾向保持者”側!」
トウタが「長いよ」と突っ込んで笑いを取ろうとするけど、場の空気は笑わない。
ただ一人、ユウマだけが——視線を落として、考えている。
そして、顔を上げた。
「……分かった」
その一言で、心臓が落ちたかと思った。
「え、今の聞いて分かっちゃうの!? 止めるとこでしょ!?」
「ユウマ!? 冷静に!? 理性どこ!?」
「ミナト! 計算で止めて! 数式で殴って!」
騒ぐ三人をよそに、ユウマはまっすぐ私を見る。
「ミサキ。お前なら、データは取れる。
医療班として、黄耳の“音響構造”を読めるのは、お前だけだ」
データ。構造。読み解き。
それは、アスミの得意分野の言葉。
でも今、それを私に向けてくれている。
「……ただし」
ユウマの声が、ほんの少しだけ低くなる。
「絶対に生きて帰れ。倒すのは、最優先じゃない。
“観測”と“生存”がセットで帰ってこないと、意味がない」
……ああもう、ほんと。
そういう言い方、ずるい。
好きになるに決まってるじゃん。
「うん」
気づいたら、笑っていた。
自分でも気持ち悪いくらい、穏やかに。
「ユウマがそう言うなら……命かけるよ。
帰ったら——ちゃんと見て、私のことを、“データ”じゃなくて」
レイカが「メンヘラ濃度上がった」と小声で漏らしたのは、聞かなかったことにした。
◇ ◇ ◇
◆ 作戦立案:黄耳の“音”の構造 — 《脈断》の適用
ノード・ゼロの中央に、黄耳の立体ホログラムが展開される。
直径2.5メートルの耳殻。
耳穴に相当する部分に、魚眼レンズのような眼球。
下から伸びた触手は10本以上。
生体組織と機械骨格の比率——青手より有機寄り。
表面の皺は、音響反射板として設計されているのが見て取れる。
「はい、では解剖の時間です」
私は白衣を脱いでから、医療用タブレットを巻き取り、黄耳の断面図を描き始めた。
「耳殻表面の黄色い膜、これは高感度振動膜。
外界の音波+被害者の心拍・呼吸を拾うセンサーになってる。
その下にある“灰色の層”が、音圧増幅ユニット」
「精神汚染は?」とミナト。
「ここ」
私は耳の内部、基底膜に相当する部分を指し示す。
「5〜10Hz帯の低周波を発生させる振動核。
人間の脳波のδ〜θ帯に干渉して、トラウマを強制再生。
そこから上の20kHz帯で、物理破壊も兼用。
耳元で爆竹鳴らすどころじゃない、“音の拳”を飛ばしてくる」
「最悪のハイブリッド……」
レイカが眉を寄せる。
「で、再生能力は?」
「触手」
私は触手の基部を拡大する。
「有機骨格+マイクロアクチュエータ。
損傷すると、周囲の肉片を取り込みながら、自動で“再配線”する。
自己修復速度は、青手の20%増し。
ただし——」
私は、眼球レンズの下を拡大した。
「ここ。有機神経と機械骨格を繋いでる“神経接合束”。
この部分だけ、防御が薄い。
理由は簡単。ここを厚くすると、音の遅延が発生するから」
音響マニアの悪い癖だ。
レスポンスの速さを優先した結果、接合部はほぼ剥き出し。
“脈”が丸見え。
私は舌で奥歯を噛んだ。
「……ねぇ、この設計したやつ。
“気持ちよく音を飛ばす”ことしか考えてないでしょ。
脆弱性、丸出しなんだけど」
「ミサキ……顔が怖い」
トウタが引き気味に言う。
「普段は優しい保健医さんなのに、“解剖モード”になると目が死んでる……」
「うるさいよ?……あと、見た目に関して……これ、デザインした人
青手は握り潰すことを突き詰めた結果、外見をシンプルに手そのものにした。
耳は音、つまり、趣味は悪いけど、合理的ではあるのかもね」
私は笑ってごまかした。
本当は、ごまかしてなんかいない。
ここを壊せば、黄耳は死ぬ。
そこまで分かれば、あとは——私の領域だ。
「——《脈断》を使うね」
その単語を口にした瞬間、レイカとミナトの背筋が同時に伸びた。
「ちょっと待って、あの医療用の……?」
「人間相手にやったら、普通に犯罪なやつだぞ」
「怪異相手だからセーフ」
「セーフの基準がバグってる」
《脈断》——
本来は、血管バイパス手術のとき、異常血流だけをピンポイントで遮断するための技術だった。
微弱電流を用い、特定の導電パターンを持つ組織だけを焼き切る。
周囲の正常組織へのダメージは最小限。
それを私は——今回、壊すために使う。
「黄耳の場合、有機神経と機械骨格の接合部だけ、導電パターンが違う。
そこにワイヤー押し当てて、医療用の十倍の電流流せば——」
「接合部が全部焼けて、再生ルートが死ぬ」
ミナトが続きを言う。
「再配線不能。再生能力消失。
つまり、音響核を破壊した瞬間に“完全停止”」
「そういうこと」
私はタブレットを閉じ、オーロラ用戦闘スーツの仕様書を開いた。
「《脈断》用の出力に、スーツのバッテリー耐えられるかな?」
「理論上はギリ。実行するとスーツ側が先に死ぬと思う」
「スーツは新調できるでしょ?」
「人間の方を若干は気にして?」
「大丈夫。私、丈夫だから」
本気で言ってるのに、誰も信じてくれない顔をする。
レイカがため息をついた。
「……はぁ。
分かった。もう止めない。止めても行く顔してるし」
「最初から分かってたでしょ?」
「うん。だから今のは儀式」
レイカは器用に笑って、それでも真剣な目で私を見る。
「ただし、約束して!、
“勝つため”じゃなくて、“帰るため”に戦うこと!!」
「……うん」
“ユウマのため”に戦う、は言わなかった。
喉まで出かけたけど、飲み込んだ。
それはもう、ここにいる全員が知ってるから。
◇ ◇ ◇
◆ 出撃:黄耳のいる廃墟へ — 霧の森、オーロラ起動
夜の学園都市を抜け、私は一人、霧の森へ入った。
オーロラスーツの内部で、心拍センサーが私の脈を拾う。
96/分。緊張モード。
「……もっと落ち着いてほしいなら、タナトスが付き添ってくれればいいのに」
誰もいない森で、わざと軽口を叩く。
イヤホン型ヘッドセットから、タナトスの声が返ってきた。
『心拍96。過度の緊張ではない。
吸気4秒、呼気6秒で調整しろ。
森の外縁、騒音レベル40dB。まだ安全圏』
「はいはい、先生」
口では反発しながら、言われたとおりに呼吸を整える。
……本当にズルい。
ほんの数語で、体が言うことを聞く。
霧の向こうには、E−04廃ビル群。
青手のときと同じ、**“誰もいないのに、何かがいる”**空気。
皮膚がざわつく。
黄耳は、もうこっちを“聞いている”。
『オーロラ。
もう一度確認する。
目的は黄耳の完全撃破じゃない。
音響データと構造の取得。危険なら即撤退』
「タナトス、私がここまで来て、即撤退する女に見える?」
『見えない』
「でしょ?」
『だから、何回でも言う』
少しだけ間があいてから、彼は続けた。
『生きて帰れ。それ以外は、全部失敗だ』
「……了解しました、タナトス司令」
胸の奥が、じわじわと熱くなる。
そんなの、守るに決まってる。
だって、“帰る場所”が欲しくて、私は来たんだから。
霧を裂いて前進する。
廃ビルの入り口は口を開けたまま、私を飲み込もうとしていた。
◇ ◇ ◇
◆ 霧島ミサキ =オーロラvs 怪異《黄耳》 — 音を殺す医者
廃ビル内部は、静かすぎた。
足音が、異様にクリアに聞こえる。
コンクリートの床。
剥がれたタイル。
折れた手すり。
全てが、私の音を反射するためだけに存在しているみたい。
——聞かれている。
廊下の突き当たり。
崩れた天井の向こう。
霧の向こうに、黄色いものがぼんやりと浮かんでいる。
灯りもないのに、そこだけ輪郭がはっきりしている。
近づくごとに、胸に低い振動が伝わる。
5Hz。心臓の下をくすぐる周波数。
「……ほんと、趣味悪い。
人間の脳波で遊ぶなって、医学的に言われなかった?」
わざと独り言を言ってみせる。
音が廊下に反響して、黄耳の方向へ飛んでいく。
次の瞬間——
耳が、こちらを向いた。
直径2.5メートルの耳殻が、霧の中からぬっと現れる。
表面の黄色い膜が波打ち、中央の眼球レンズが私を捉える。
触手が10本、床を這う。
粘液が床に線を引き、鉄骨を腐食させる。
黄耳の内部から、合成音声が響く。
『音源、捕捉。
獲物、確認。
精神プローブ、開始』
「うわ、しゃべった。キモ」
そこまで言ったところで、黄耳の耳殻が震えた。
低周波、5〜10Hz。
胸の奥を殴るような振動が走る。
心拍が一瞬、リズムを乱した。
視界の端に、昔の病室の光景がフラッシュバックする。
泣き叫ぶ子供。
止まらない出血。
モニタに映るフラットライン。
——やめろ。
私は歯を食いしばり、頬を叩く。
「集中、オーロラ。
タナトスの前で、トラウマ再生とかマジで一番ダサい」
ヘッドセットから、彼の声。
『精神波、第一波。まだ浅い。
防御フィルタ、3割成功。
残りは気合いでどうにかしろ』
「投げたね!? 今、私のメンタルを雑に扱ったよね!?」
『お前、自分のメンタルを一番雑に扱ってるだろ』
「それはそう」
会話している間にも、黄耳は動く。
耳殻が膨張し——
「音」が、殴りかかってきた。
空気が、白く歪む。
見えない拳が、私の胸を狙って飛んでくる。
瞬間的な音圧のピーク。
20kHz帯の圧縮波。
普通の人間なら、鼓膜が破れ、内耳が潰れて、そのまま倒れるレベル。
オーロラスーツの音響シールドが、自動で起動する。
耳元で、電子的な耳栓が閉じる感覚。
「——はい、ここ」
私は床を蹴った。
オーロラの脚部ブースターが、肉体の加速を補助する。
横跳び、時速30km。
圧縮波がかすめた廊下が、ガラスみたいにひび割れた。
コンクリートが粉々に砕け、鉄骨が悲鳴を上げる。
……あ、これ食らってたら背骨終わってた。
『回避成功。
音圧波のパターン、取得中。
黄耳の“パンチ力”は青手の32%増し』
「うん、“殴られる前に殺す”案件だね」
私の声に反応して、黄耳の耳殻がさらに震える。
触手が一斉に伸びてくる。
速度、時速50km。
床を滑る粘液の音。
棘付きの先端が、獲物を絡め取るために開く。
普通の前衛なら、防戦一方になってもおかしくない。
でも——
「ねぇ、黄耳」
私は前に出た。
後ろに下がるんじゃない。
音の“源”に向かって踏み込む。
触手の一本が、私の顔を狙って突き出された。
私は、その根元を素手で掴む。
オーロラグローブの表面に、電極が走る。
「脈」を、指で測るみたいに。
触手内部の導電パターンが、手のひらを通して伝わってくる。
——ここから、ここまでは生体。
ここから先は機械骨格。
接合部のインピーダンスが、ほんの少しだけ違う。
「捕まえた」
私は口角を上げた。
メーターを確認するまでもない。
体が分かる。
ここが、お前の“首”だ。
『オーロラ、距離を取れ!
その位置、精神汚染波の直撃圏内——』
「うん、だからここがいいの」
私は腰のポーチから、細いワイヤーを引き抜いた。
医療用の電気メス用ケーブルを、戦闘用に改造したもの。
外科医の手術台が、そのまま戦場に来た感じ。
「タナトスに近づいた脈、全部いらないの。
……ああ、うるさい。邪魔。
私が黙らせる。永遠に。
——《脈葬パルスエクスキューション》」
スーツの内部で、電源ユニットが唸る。
通常は心臓ペースメーカーの調整に使うレベルの出力を、十倍までブースト。
ワイヤーの先端を、触手の接合部に押し当てる。
黄耳の眼球が、ぎょろりとこちらを向いた。
合成音声が、ざらついたノイズを混じらせる。
『警告。異常電位、検出——』
「遅いよ」
私はスイッチを握り込んだ。
5mA→50mA→100mA。
——電流が、流れた。
触手の中の“脈”を遡り、有機神経を焼き切りながら進む。
黄色い肉がビクリと跳ねた。
耳殻全体が震え、皺が乱れる。
接合部の機械骨格が、火花を散らして痙攣する。
『システム……エラー……接合……断裂……』
「はい、一箇所目。……次」
私は掴んでいた触手を、逆に振り回した。
電流を流されたそれは、自分の意思とは関係なく痙攣し、他の触手と絡まる。
黄耳の姿勢が崩れる。
浮遊制御が乱れ、耳殻が廊下の壁にぶつかった。
コンクリートが、粉になって落ちる。
私は間髪入れず、二本目の触手の基部にワイヤーを刺した。
《脈断》二撃目。
黄色い肉の内部で、接合束が破裂する音が、指先に伝わってくる。
……あれ。
思ってたより、これ——楽しい。
——あ、やばい。
今、自分で自分の思考に引いた。
『オーロラ?
今、「楽しい」とか思っただろ』
「うるさい。観測しないで」
『声に出てた』
「ホント?」
黄耳は必死に反撃してくる。
高周波の圧縮波が連続で飛んでくるが、音圧の立ち上がりがさっきより遅い。
接合部が焼かれたせいで、レスポンスが落ちている。
私は廊下の柱を使って跳び移りながら、三本目、四本目の触手に《脈断》を叩き込む。
電流の流れを指で味わいながら、“切れていく感覚”を楽しむ。
——ああ、これ。
“血管を救うため”に使うときの十倍、気持ちいい。
タナトスに触れようとする触手を、一つ一つ“死なせている”感覚。
今この瞬間、私がタナトスの盾だ。
『触手機能、60%低下。
再生パターンも乱れてる。
オーロラ、効いてる。十分だ。撤退しろ』
「やだ」
『即答かよ』
「ここまで来て、途中でやめるとかありえない。
ここからが一番美味しいところなのに」
「美味しいって表現をやめろって前も言ったよね?」とレイカ=サイレンの声が混線して入る。
黄耳の耳殻が、悲鳴のように震える。
低周波が暴走し、廃ビル全体が揺れた。
精神汚染波が強まる。
視界の端が、また滲む。
——救えなかった患者。
——モニタのフラットライン。
——ユウマの背中が遠ざかる夢。
「……うるさい」
私は舌打ちした。
過去の映像が押し寄せる前に、今の痛みで上書きする。
黄耳の耳殻に向かって、正面から走り込む。
音圧の拳が、もう一度来る。
今度は、真正面から。
スーツのシールドが悲鳴を上げる。
胸骨に衝撃が走り、肺から空気が抜けた。
でも——折れてない。
折れてる暇なんて、ない。
「ねぇ、黄耳」
息を吐きながら笑う。
「タナトスを狙った時点で、お前の運命は決まってるの。
医学的に言って、死刑」
私は耳殻の根本まで走り込み、眼球レンズの真下——機械骨格の継ぎ目にワイヤーを突き立てた。
ここが、お前の“心臓”だ。
《脈断》フルチャージ。
スーツのバッテリー残量、30%。
ここで全部使い切る。
「——壊死しろ」
スイッチを、押し込んだ。
100mA→200mA。
医療基準から見れば、完全にアウトな値。
電流が、有機神経を駆け上る。
黄耳の内部で、電位差が暴走する。
音響核がショートし、精神汚染の波が乱れたノイズになる。
耳殻が硬直し、触手が同時に引き攣る。
霧の中で、黄色い肉が焼ける匂い。
……ああ、この臭い。
手術室の失敗例と、よく似てる。
だからこそ、二度と嗅がせない。
『システム……ダウン……音源……喪失……』
黄耳の合成音声が途切れ途切れになる。
「まだ」
私は出力を下げない。
再生ルートを、一つ残らず潰すまで。
接合束が完全に炭化するまで、電流を流し続ける。
再生しようとする細胞が、電気の波に押し戻されて死んでいく感覚が指に伝わる。
——全部、止まれ。
黄耳の身体が、ドサッと床に落ちた。
浮遊制御が完全に死んだ音。
触手が、糸の切れたマリオネットみたいに垂れ下がる。
精神汚染波がピタリと止まり、廃ビルの静寂が戻ってきた。
耳鳴りだけが残る。
でも、それは怪異の呪いじゃない。
私のアドレナリンの残り香だ。
「——ふぅ」
大きく息を吐いた。
スーツの警告音が鳴り続けている。
バッテリー残量5%。
耐久、70%。
損傷、軽度。
「医療的には、“ちょっと無茶した運動部”レベル」
私はワイヤーを引き抜き、黄耳の残骸から離れた。
床に転がる眼球レンズを、ブーツで踏み砕く。
ぱきん、と硬質な音。
「診断結果——死亡っと」
ヘッドセットから、しばらく何も聞こえなかった。
やっと、ユウマの声。
『……オーロラ』
「なに」
『お前、こわ……』
「聞こえてるよ?」
『よっ……よくやった。
完勝だ。データも十分。早く帰ってこい』
ちょっと間に挟まった「こわ」が、耳に残る。
胸の奥が、どうしようもなくざわついた。
あ、今のでタナトス、私のこと“戦力”としてちゃんと認めた。
……同時に、ちょっとだけ“怖い”って思った。
やだ、嬉しい。
やだ、ムカつく。
やだ、もっと見ててほしい。
感情が、ぐちゃぐちゃに混ざる。
「帰ったらさ」私は廃ビルを出ながら言った。
「ちゃんと褒めてね。 “医療班のくせにエグかった”って」
『それ褒め言葉なのか?』
「うん。タナトスにとっては、そうでしょ?」
彼は返事をしなかった。
でも、沈黙の向こうで、微妙に言葉を探している気配が伝わる。
それだけで、今は十分だった。
◆ 帰還と評価 — 「守るために壊す人間」が、いちばん怖い
帰還後、私は一応保健室のベッドに押し込まれた。
内出血、少量。
精神汚染の後遺症、軽度。
医療班から見ても「許容範囲」。
点滴スタンドの影、白い天井。
慣れた景色だけど、今日は視線がやたら多い。
ドアが開くたびに、誰かが顔を出す。
最初に飛び込んできたのはレイカ。
「ミサキ!! 生きてる!! よかった!!」
「うん、生きてる。死ぬ気なかったし」
「いやマジで現場映像、ホラーだったからね!?
黄耳、完全に“処刑”されてたからね!?」
次にトウタ。
「ログ見たけどさ……www
“医療技術をあそこまで悪用する”って、普通にサイコパスの所業なんだよね……?
嫌いじゃないけど」
「褒めてる?」
「褒めてる。すっごい褒めてる」
ミナトは端末を抱えたまま、珍しく目を丸くしていた。
「《脈断》の適用範囲、あそこまで広げたやつ、初めて見た。
……正直、数式の想定を超えた。
戦術評価、AAランク。リスク評価、同じくAA。
“守るために壊す人間”が一番怖いって、よく分かった」
「なんでちょっと嬉しそうなの、ミナト……」
そして——
最後に、ユウマ。
ドアを軽くノックしてから、静かに入ってきた。
「ミサキ」
「お疲れ様です、司令」
わざと軽口を叩いたのに、彼は笑わなかった。
ベッドのそばまで来て、脈を測るみたいに私の手首に指を置く。
体温と心拍を、直接確認する癖。
ああ、これ。
ほんと、やめて。
好きになるに決まってる。
「脈、安定。……本当に、ほぼ無傷で帰ってきてよかった」
「ほぼ、は盛ってる。ちょと血が出たから」
「それを自慢するな」
彼は少しだけため息をついた。
「黄耳、完全に沈黙。再生痕跡もゼロ。
精神汚染波も観測されてない」
「うん。二度とユウマの耳、汚させないから」
その言い方に、自分でゾッとするくらいの執着が滲んでるのは分かってる。
でも、止めない。
彼は、ほんの一瞬だけ視線をそらした。
……あ、今の。
「ちょっと怖い」と「ちょっと嬉しい」が混ざった顔。
「……ミサキ」
「なに」
「正直に言う。お前の《脈断》、青手より怖い」
「最高の褒め言葉いただきました」
「褒めてるかどうかは微妙だ」
言葉とは裏腹に、その目は真剣だった。
「でも、助かった。お前が行かなかったら、誰か別のやつが折れてた。
……俺かもしれない」
それを聞いた瞬間、胸の奥の何かが解けた。
ああ、これでいい。
私が壊れてもいい。
……いや、壊れないように戦うけど。
でも、ユウマが「折れなかった」未来に貢献できたなら、それでいい。
「ねぇ、ユウマ」
「なんだ」
「さっき、“こわ……”って言ったよね」
「聞こえてたか?」
「聞こえてるよ」
彼は、少しだけ苦笑した。
「……ああ(笑)
あそこまで躊躇なく壊せるお前が」
「ふふ。やっと、正直」
怖がられて嬉しいとか、完全におかしい自覚はある。
でも、いい。
それぐらいじゃないと、ユウマの隣は守れない。
「でも、それと同じぐらい——」
彼は言葉を探す顔になってから、続けた。
「頼もしい。……だから、もう一回だけ頼む」
「なに?」
「次も、生きて帰れ。俺が怖がる範囲で暴れて、ちゃんと戻ってこい」
その言い方が、ずるかった。
怖がる範囲。
“壊れないギリギリの線”を、私に預けてくれている。
「うん」
私は頷いた。
「じゃあ、その範囲、これからも更新してあげる。
ユウマの“怖い”の定義、私が塗り替えていくから」
「物騒な宣言やめろ(笑)」
「だって、私——ユウマのことになると、ちょっとメンヘラだし?」
“ちょっと”どころじゃないって顔を、ユウマもレイカもトウタも同時にした。
……うるさい。
いいでしょ、これくらい。
私の狂い方が、ユウマを生かすなら。
敵に向けての残酷さが、あの人を守るなら。
医者としては落第。
NOXとしては、多分優等生。
そういうポジションでいい。
白衣は——
戦闘スーツの上から、また着ればいいだけだから。




