EP74. 優しい嘘で世界を養生する夜
観測ログってやつは、本来すごくシンプルだ。
「いつ・どこで・誰が・何を見たか」。
それだけ書いて、未来の誰かが「ああ、そうだったんだ」で終わらせる。
本来は、ただの事務作業だ。
でも——W1を一度踏み抜いたあとで、その「ただの事務作業」は変質した。
観測=存在の確定
記録=世界線の固定
そういうルールで動いているフロアまで降りてしまったせいで、
今俺たちが書いているログは、もはや「日誌」じゃない。
誰を生かして、誰を殺したか の、遺言書に近い。
そして今夜から、そこにもう一つレイヤーが載る。
本物のログと、アスミを守るための偽物のログ。
凍結済みの宣戦布告と、まだ走り続けている“改稿者”の計画。
それを両立させるために、俺は観測者から一度降りて、
**「ログの脚本家」**をやることにした。
これは、その一夜分の記録だ。
——タナトスとしてじゃなく、NOXのリーダーとして、
そして何より、「矢那瀬アスミの味方」でありたいと思っている岡崎ユウマとして。
——記録者:タナトス(岡崎ユウマ)
——参照層:W2 / 学内ノード・ゼロ / 観測者限定
観測という言葉は、いつからこんなに重くなったんだろう。
昔は、もっと軽かった。
「テスト結果を観測する」とか、「星を観測する」とか。
せいぜい、レポートの点数か、望遠鏡のスペックの話だった。
いまは違う。
**「誰が、どの世界線を“確定させる”のか」**っていう、
取り扱い注意の引き金になった。
そして、今日からはさらにひとつ階層が増える。
「どこまでが本物の観測で、どこからが“優しい嘘としての観測”なのか。
それを、誰が知っていて、誰にだけ隠すのか」
問題の中心にいるのは——アスミだ。
⸻
1. Re:Genesis_Stage0 —— 読みたくなかった計画書
ノード・ゼロの中央テーブルに、一本のファイルが投影されている。
Operation Re:Genesis_Stage0
ガチガチの技術用語と、妙にこちら側の言語感覚に寄せたサブタイトル。
読み始める前から、嫌な予感しかしない。
「……これ、いつ書いたんだ?」
俺が問うと、チイロがペン回しを止めずに答える。
「昨夜。タナトスが“凍結宣言ログ”アップしてた時間帯に、
アスミはアスミで“再宣戦布告プロトコル”を仕上げてたってわけ。
ダブルブッキング of 世界線。ロマンチックね」
ロマンチック、ではない。
最悪のタイミングだ。
俺たちは、昨日——
W1宣戦布告(W1-DoI)の凍結を合議で決めた。
倫理的な閾値、成功確率、観測負荷。
どれを取っても、「今じゃない」という結論にしかならなかった。
で、その「今じゃない」を決めている時間に、
本人は 「じゃあ、こうすればいける」 を完成させていた。
Re:Genesis_Stage0 は、美しく、そして致命的に“正しい”。
Chrono-Scope のバッファ制限(二回までのやり直し)を踏まえた三段階干渉。
観測遮断→倫理補正→構造再定義。
Riu_Log#1 の隔離と鍵失効から始まる、慎重すぎる無力化ルート。
全部読めば読むほど、
**「これを実行させたくない」**という気持ちと、
**「これを実行させてやりたい」**という気持ちがぶつかって、
脳内で三体問題が始まる。
ミナトが無表情のまま、指先で表をスクロールした。
「理論的には、成功確率は凍結前より上昇している。
位相ズレ管理・Δφ監視・Abortトリガーの設計、どれも洗練されている。
——だから危険だ」
「褒めてるのか貶してるのかハッキリして」レイカが眉をひそめる。
「褒めている。だから、止める必要がある」
ミナトのロジックは、いつだって致死率が高い。
「で、問題のポイントはここね」
チイロが画面にハイライトを入れる。
> 成功後の清算
> Chrono-Scope の同期率・Δφ履歴をアーカイブし、二度と同じ設計が動かないように
> 仕様書(Anti-Idol Layer)を実装する。
「Re:Genesis 成功後の世界までちゃんと設計してる。
W1の“偶像崇拝=死のゲーム化”を潰したあと、
二度と同じ構造が組めないように アンチ・アイドル層 まで考えてる」
「……それ、やり切ったらアスミ、確実に壊れるだろ」
気づけば口に出ていた。
成功しても失敗しても、彼女はそこに「自分の罪」と「他人の死」を上書きする。
理論に倫理を直結させるタイプは、一度でも世界を改稿したら、
二度と「観測者」に戻れない。
帰還者が、帰還できなくなる。
ミサキが静かに手帳を閉じた。
「だから凍結したんでしょう? ユウマ。
それは、賛成。
——ただし、“本人に黙っている”前提じゃなければ」
その通りだ。
俺たちは昨日、「アスミにはまだ言わない」と決めた。
理由は単純で、残酷だ。
いまの彼女から“W1の再干渉”という仕事を取り上げたら、支えがきれいに全部折れる。
「……だから、今日からやることは一つ」
俺はタスクボードを開き、
新しい項目を追加した。
> 【新規タスク】
> タイトル:ブラックレクイエム・イミテーション
> 内容:アスミの Re:Genesis_Stage0 を“研究扱い”として走らせつつ、
> 実際の W1-DoI は凍結状態のまま維持。
> Chrono-Scope ログの一部を“ダミー観測”として生成/提示する。
> 責任者:タナトス(俺)
> 関連:チイロ(脚本)、トウタ(ミーム偽装)、ミナト(統計的整形)、
> レイカ(演技/舞台演出)、ミサキ(心理観察)
「要するに」トウタが手を挙げる。
「アスミのために、世界規模の“嘘ログ”プロジェクトやろうぜって話ね?」
言い方が胸に悪い。
「優しい嘘」ミサキが言い添える。
「前提として、“誰も死なない方に転ぶ嘘”なら、私は賛成」
レイカが腕を組み、深く息を吸った。
「座長、演出は任せて。
『W1宣戦布告は継続中』っていう芝居、
ちゃんと舞台に乗るようにキュー切るから」
問題はただ一つ。
この芝居の観客席に座るのは、世界で一番目ざとい帰還者だってことだ。
⸻
2. 黒葬の“練習試合”という名のダミー・セッション
その日の放課後、俺たちは理科棟地下の小実験ホールを占拠した。
「いや〜〜〜〜、どう見ても“儀式場”」
レイカがスポットライトの角度をいじりながら笑う。
天井吊りの古い舞台照明と、仮設のセンサー群と、Chrono-Scope の端末。
そのど真ん中に、イレイザー規格の黒コートが吊られている。
ホールの片隅で、トウタが何やらタイピング中だ。
「何してんだ」
「《実況スレ》用のダミー・ログ生成ツール書いてる。
“W1干渉シミュ”っぽいテキストとタイムスタンプを量産して、
Chrono-Scope の見た目に貼る専用スクリプト」
「そんなミーム対応のツール書くな」
「必要経費っしょ!観測っぽさの演出は、ミームの役目だからさ!」
次にミナト。
彼はホール後方で、
センサーデータの乱数生成パラメータを微調整していた。
「何してる」
「“ありそうなノイズ”の分布を作っている。
実際には何も起きていないが、センサーには“何かが起きているように”見せるための。
平均ゼロ、分散だけW1実戦ログに合わせる」
「犯罪の手口みたいなこと言わないでくれる?」ミサキが眉をひそめる。
「犯罪ではない。倫理的偽装だ」
ミナトは本気で言っているからタチが悪い。
そして、チイロ。
「ねえユウマ。
君、“黒葬の詠唱だけして発動しない”って器用なことできる?」
「……シミュレーションレベルなら。
ゲインをわざと落として、虚数ロケーションに“座標だけ刻んで穴は開けない”」
「それそれ。それを“訓練ログ”として記録する。
Re:Genesis_Stage0 で想定している“黒葬終端キー”の練習ってことで、
アスミには見せられる」
要するに、今日やることはこうだ。
1. 俺が黒葬ブラックレクイエムの「型」だけを実行する(発動はさせない)。
2. センサーは「それっぽい揺れ」を拾う。
3. Chrono-Scope は「あたかもW1干渉の予行演習をしている」ようなログを生成する。
4. それを明日、アスミに見せる。
「Re:Genesis_Stage0 の前段階として、W2での安全訓練をしている」と。
実際には、W1の座標は一ミリも動かない。
「OK、じゃあ——」
俺はイレイザーのコートに腕を通し、HUDを起動する。
視界が、ノイズを剥がした夜の色に変わる。
ステージの端で、レイカがキューを出した。
「照明、落とすよー。
タナトス・ブラックレクイエム、訓練モード一号、テイクワン」
トウタがスマホを掲げて叫ぶ。
「実況スレタイトル《【訓練】タナトス、黒葬の素振り配信【※本番じゃない】》」
やめろ。
深呼吸。
体の中に数字を流し込む。
骨格アクチュエータのゲイン、筋電の同期、視床下部の温度。
その奥に、W1の夜——
白飽和UIと拍手SEと、1200人分の沈黙が立ち上がりそうになる。
——違う。今日はそこまで行かない。
俺は足元のグリッドを見て、
虚数座標だけを計算する。
「虚数の地に——座標を刻む」
詠唱が、喉を通って空気に乗る。
ホールの温度が一瞬だけ下がる。
だが、光は消えない。音も潰れない。
「ハイっ!ストッープ!!」レイカが合図を出す。
そこまでで止める。
内部で、ゲインを落とす。
虚数ロケーションの生成は寸前でキャンセル。
黒葬は、ただの「構え」として完了する。
センサー群が、予定通り「それっぽい脈動」を拾った。
ミナトのモニタに、規則正しいグラフが立ち上がる。
「訓練ログとしては十分」
ミナトが言う。
「本番との差分は、統計的には検出困難」
「つまり、アスミは騙せる?」レイカ
「彼女の目には“まだ本番じゃない”と分かる。
でも、“本番を想定した訓練だ”とは理解できる程度にはリアル」
「ギリギリのライン攻めてくるねぇ……」トウタが笑う。
「さすが人間版・A/Bテスト」
俺はコートの襟を正しながら、内心でため息をついた。
——こうやって、「本番みたいな訓練」を積み上げて、
ある日突然、本当に本番をやらかすのが戦争の常だ。
今日は、その道を選ばないと決めた夜だ。
⸻
3. アスミ来訪——観測者をだますための、観測者会議
翌日の放課後。
ノード・ゼロにアスミがやってきた。
「入るよ」
いつもの調子。
ノイズの少ない声。
でも、俺には分かる。昨夜より少しだけ、歩幅が早い。
理由は簡単だろう。
Re:Genesis_Stage0 を書き上げた人間の足取りだ。
「昨日送った文書、読んでくれた?」
開口一番、それだ。
逃げ道ゼロの問い。
「読んだ」
嘘ではない。読んだ。問題は、その上で凍結していることだ。
「で、どうだった?」
どうだった、か。
感想を一言で言うなら——
“この世界でいちばん、俺たちを殺しかねない優しさで出来ている”
だが、それを口にはしない。
俺はテーブルに昨夜の訓練ログを投影した。
「まず、Phase Aの再現と、黒葬終端キーの訓練だけ先に走らせてる。
本番干渉じゃなくて、W2側での安全テストとして」
アスミの瞳が、一瞬だけログの波形を射抜く。
その視線の速度は、本物の戦況を読むときと同じだ。
——頼む、バレるな。
「……これ、黒葬のゲイン、落としてる?」
いきなり核心を突いてきた。
やっぱり帰還者の目は、ログの“手触り”まで見る。
「訓練だからな。
虚数ロケーションは“座標計算だけ”にしてある。
門を作らずに、ノックだけして帰るイメージ」
俺が答えると、アスミは数秒の沈黙のあと、
わずかに頷いた。
「……うん。
本番前に、その段階を切り出して検証するのは正しいと思う。
黒葬は“観測を拒否する領域”を作るから、
そこにX-seriesが逃げ込む可能性もあるし」
ミナトが小さく目を見開く。
そこまで読んでるのか、という顔だ。
「X-series?」レイカが首を傾げる。
アスミは端末を操作し、
昨夜ミナトがサルベージした観測異形群のログを呼び出した。
——Chrono-Record#X01〜から沢山
——スピーカー女、逆行台本、残響群像などなど。
「W1崩壊後に残った“観測依存の異形”。
リウの理論が極端化した副産物。
見ないでいると消えるけど、誰かが見続けると増える。
ZAGIの、**“かわいくない方の孫”**みたいなもの」
「ネーミングセンスの問題じゃね?」トウタがぼそっと言う。
アスミは続ける。
「Re:Genesis_Stage0 の Phase Aは、
このX-seriesを含めた“事件前15分の再現”をやる前提になってる。
だからその前に、W2側で黒葬の“観測拒否フィールド”とX-seriesの相性を検証しておきたい。
昨日のこれは、その第一歩……って解釈でいい?」
——すごい。
ダミー訓練ログから、ここまで構造を読み解くのか。
だからこそ、真相は絶対に渡せない。
「大体そのつもりだ」
俺は頷いた。嘘は混じっていない。
「本番干渉じゃなく、“Re:Genesis の前段階研究”って位置付けだ。
Phase B / C は、まだ誰にも触らせない」
この「誰にも」の中に、
俺自身も含めていることは言わない。
アスミは少しだけ視線を落とし、
端末に自分の計画書を呼び出した。
Re:Genesis_Stage0 のフローチャートが、
ノード・ゼロの空間に立体で展開される。
Phase A — 再現(Rebuild)
Phase B — 挿入(Insert/Resonate)
Phase C — 崩壊(Collapse)
それぞれに、Chrono-Scope のバッファ残量、
Δφの許容範囲、Abortトリガーの閾値がぶら下がっている。
「……本当はね」
アスミが小さく笑った。
「この計画書、NOXの全員に読んでもらうつもりだったんだ。
珍しく、“皆に承認をもらってから動こう”って」
チイロが横目で俺を見る。
「ね、どうするのこれ」 という圧力だ。
俺は観測者をやめて、脚本家モードに入る。
「順番を変えよう」
口が勝手に動いた。
「まず、W2双灯祭の安全化と、X-series対策。
それが一定のラインまで進んでから、
Re:Genesis_Stage0 を正式な“作戦候補”として皆に回す。
その上で——全員で“やる/やらない”を決める」
アスミの目が、わずかに揺れた。
「それって……
いまはまだ、“個人研究扱い”ってこと?」
「そうだ」
これは真実だ。
「俺たちが“凍結”したのは、“今すぐ本番をやる”ってスケジュール。
研究そのものは、止めてない。
止める気もない」
沈黙。
ノード・ゼロの空調音だけが聞こえる。
やがて——
アスミは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……分かった。
じゃあ今は、“Re:Genesis_Stage0 β版”ってことでいい。
双灯祭の観測と、安全対策を最優先。
その結果を見てから、本当にW1に干渉するかどうか決める」
β版。
そのラベリングは、
俺たちの「凍結」と、彼女の「走りたい」をギリギリ両立させてくれる。
ミサキが、その瞬間だけ、
誰にも見えないように息を吐いた。
保健医モードの緊急アラートが、一段階下がった音がした。
「じゃあその間、
私もW2側の“観測”を続けるね。
脱出ゲームの監査も、シオンの案の検閲も、X-seriesの追跡も」
出た——最悪のキーワード。
御影シオン。
この世界で、W2でW1再演の火種を持っている、危険な天才。
「シオンの方は、俺からも目を離さない」
声色が一段低くなる。
「彼女の脱出ゲームは、“演出”と“実験”の境界が薄すぎる」
アスミが、わずかに目を細めた。
「……それは、私も同感。
狼椅子、エアロック、四つのグラス。
“選択の罠”を美学にしてる人だもの」
そこまで言ってから、
ふ、と笑う。
「でも、だからこそ——
止め方をちゃんと設計しないとね」
帰還者の瞳だった。
“惨劇を見た人間”の瞳で、
“惨劇を再演しようとしている人間”を見ている。
それを見てしまったから、
俺はもう、凍結を解くタイミングを間違えられなくなった。
⸻
4. ログの二重螺旋——本物と偽物の境界線
その夜、ノード・ゼロに残ったのは俺一人だった。
Chrono-Scope の管理画面には、昼間の訓練ログと、本物の黒葬ログが並んでいる。
画面の右上に、小さく表示された警告。
> 【注意】
> 観測ログの編集は、世界線整合性の監査対象です。
それは、W2の法律でもなければ、
学園の校則でもない。
“リウがW0で書いたルール”だ。
観測=世界の確定。
ログ編集=因果の改変。
その境界をうっかり踏み越えないように、
Chrono-Scope には「自己防衛本能」が仕込まれている。
俺は、そのガードレールの手前で止まるように注意しながら、
二本のログを編み始めた。
一本は、本物。
・X-series の動き
・御影シオンの脱出ゲーム企画の進捗
・影村学園と天城総合学園の同期の兆候
もう一本は、イミテーション。
・Re:Genesis_Stage0 の“訓練扱い”で行った黒葬素振り
・観測依存体との“仮想交戦ログ”
・W1干渉のための“理論実験”としての挿入テスト
両方、嘘ではない。
片方は、「今はまだ実行されていない未来シナリオ」
もう片方は、「今まさに進行中の現在進行形」
それらを、時間軸上でわざと近くに並べる。
理由は一つ。
アスミが、この二本を見たとき——「まだ選べる」と思えるようにするため。
Re:Genesis_Stage0 は、彼女にとって **“罪の清算計画”**だ。
あれを完全に棚上げした瞬間、彼女はきっと、自分を裁き始める。
だから、計画書は生かしたまま、実行フラグだけを凍結する。
干渉シナリオは描いたまま、再生ボタンだけ外す。
ログ編集の画面の端に、小さくコメントを残した。
> 【管理者メモ】
> Re:Genesis_Stage0:Status = 「β版」
> 実行条件:NOX全員の電子署名+“観測負荷評価”の更新後
> 補足:それまでの間、アスミには「研究者」として動いてもらう。
> 「改稿者」として刀を抜くのは、こちら側が決める。
自分で書いておいて、
胸が悪くなる文面だ。
彼女の「刀を抜く権利」を、俺が一時的に預かる。
正直、リーダーとしても、人間としても、かなり傲慢な行為だと思っている。
観測者の仕事は、本来「見るだけ」で、誰かの武器の鞘を勝手に握ることじゃない。
でも、W1を一度見たあとで、
俺はもう普通の観測者には戻れない。
⸻
5. 優しい嘘のテスト —— Abortボタンの持ち主
ログを閉じようとしたとき、
ノード・ゼロの扉が、二回ノックされた。
「数学のノック」じゃない。
もう少しリズムが不規則で、
でも、聞き慣れたテンポ。
「……入っていい?」
ミサキだ。
肩から保健室バッグを下げたまま、
教科書みたいにきちんとした足取りで入ってくる。
「また一人で抱え込んでる顔してる」
ひどい言われようだ。
「作業だ」
「作業ならいいけど。
——“覚悟の最終チェック”してた顔だよ」
図星だったから、何も言い返せない。
ミサキは端末を覗き込み、
二本のログのツリーを見て、
あっさりと全容を理解した。
「ふうん。
本物ログと、アスミ保護用の偽装ログ。
優しい嘘のダブルブラインド実験」
「……医療用語で説明するのやめろ」
「むしろ医療だから。
私たち、いま “世界規模の臨床試験” してるんだよ。
対象:観測の重さ
治療法:優しい嘘
主治医:タナトス」
やめてほしい。
肩書きが増えるほど、寿命が減る気がする。
ミサキはしばらくログを眺めたあと、
ふっと真顔になった。
「ねえ、ユウマ。
Abortボタン、誰が持つの?」
「Re:Genesis の?」
「うん。
いざ実行したとき、
“撤退”を宣言できる権利。
それを、誰に渡すのか」
俺は少し考えてから、
正直に答えた。
「——いちばん弱い奴に渡す」
ミナトの“落とし穴二十選”にもあった原則だ。
Abortボタンは、一番早く怖がる人間が持つべきだ。
「アスミには渡さないんだ?」
「彼女は押さない。
自分が傷つくルートを、最後まで選び続ける。
Re:Genesis なんて、その極地だ」
ミサキは小さく笑った。
「じゃあ、候補は私かレイカね。
私は保健医だし、レイカは“空気の温度”に敏感」
彼女は俺の手を取って、
自分の手帳を握らせた。
「この中に、
“Abortフラグの優先権”って書いとく。
タナトスが判断できなくなったとき、
私が勝手に押せるように」
「勝手に押すな」
「押すよ。
君が“優しい嘘”を選び続けて、
本当に現実から逃げ始めたら」
それは、冗談みたいな口調だったけれど、
目だけは、本気だった。
⸻
6. 黒葬は優しさか —— 俺自身へのチェックリスト
ミサキが帰ったあと、
俺は管理画面に一つだけ、
自分用のチェックリストを追加した。
【タナトス自己監査】
> □ 黒葬を“優しさ”だと本気で思い始めていないか
> □ 記録されない痛みを、“なかったこと”に数えていないか
> □ 優しい嘘が“自分の罪悪感の逃げ道”になっていないか
> □ Re:Genesis を“彼女の救済”ではなく“自分の勝ち筋”として見ていないか
> → ひとつでもYESなら、Abortボタンをミサキに譲渡すること。
黒葬は、優しさじゃない。
あれはただ、「履歴に残らない」という処理だ。
そこに、誰かの笑いや涙がなかったことにはならない。
優しさは、本来——
記録を残す側にしか存在しない。
泣いた人がいたことを忘れない。
笑った人がいたことを忘れない。
その上で、次の一手を選ぶ。
今俺がやろうとしている「優しい嘘」は、その優しさの亜種だ。
記録は残す。ただし、“見せる相手とタイミングを編集する”。
それが、本当に優しさかどうかは、
きっと未来の誰か——
もしかしたら、Re:Genesis 後の世界線にいる誰かが決めることだ。
願わくば、
その未来の観測者が、
このログに対してこう言ってくれるといい。
**「ああ、ここで一回、世界を養生したんだな」**と。
観測の幕は、まだ下りていない。
だから俺は今日も、
本物のログと偽物のログを、同じだけ丁寧に書く。
どちらも、
いつか誰かを救うための材料になるかもしれないから。
正直に言うと、このログは
**俺自身の“言い訳集”**に近い。
W1宣戦布告を凍結したこと。
Re:Genesis_Stage0 を「β版」とラベリングしたこと。
黒葬の素振りログでアスミを“安心させようとした”こと。
どれもたぶん、どこかから見れば姑息で、
別のどこかから見れば最低限の安全策だ。
ただ一つだけ、はっきりしているのは、
俺はまだ、あのボタンを押す覚悟が完全には出来ていないってことだ。
だからこそ、
アスミの“改稿者としての覚悟”だけ先行させるわけにはいかない。
このログを読み返す未来の俺へ。
もし、お前がこれを読んでいる時点で、
Re:Genesis を実行してしまったあとだったとしても——
そのときお前が、
誰か一人でも、「生きててよかった」と言える顔を守れているなら、
今日のこの「優しい嘘」は、きっと無駄じゃなかった。
そう信じたいから、今はこのくらいの嘘で済ませておく。
——以上。
タナトスの黒葬イミテーション、夜間テストログを閉じる。




