EP67. 夜の侵襲
──放課後って、世界が一番「データ乱れる」時間帯だと思う。
ノイズ値が上がって、光の粒子と感情の粒子が混線する。
教室は空っぽなのに、笑い声だけがエコーして、誰かの“存在ログ”がまだ削除されてない感じ。
空は明るい、床は黒い、その間に“バグの境界層”がある。
そこに、ユウマが立ってた。
無表情モードON。感情フィルタ:OFF。決断フェーズ突入。はい、来た。
……正直、嫌な予感しかしなかった。
岡崎ユウマが“何かを決めた”ときって、だいたい事件 or 実験。
で、統計的に言うと、“実験”のほうがまだ人死に率低い。
それくらいの信頼度。
でもあの瞬間のユウマの声、波形が違った。
冷たいのに、底が震えてた。
ゼロのフラットラインに小さくノイズが走るあの感じ。
だから、私は聞く前から「了解」って言う準備してたんだと思う。
理屈じゃなく、感情ログの先読み。
観測ってそういうもんでしょ。
気づいたら始まってる。終わってから気づく。
廊下の温度が“事件温度閾値”を越えるのが肌で分かった。
なのに私は、どこかで笑ってた。
——あ、これ止まらないやつだ、って。
もはや運命ってより、デバッグ不可能なループ。
夕焼けの光が窓ガラスに反射して、ユウマの顔の半分を赤く染める。
そのスペクトルが血液っぽくて、でも温度は冷たい。
どちらにしても、夜のインスタンスはもう起動済みだった。
──放課後、夕焼けの昏い廊下。
窓ガラスがオレンジと群青の境界を映して、顔の半分が夕日で燃えている。
……なんか、世界が左右で違うトーンに見える時間だ。
そんな中、岡崎ユウマが立っていた。めっちゃ真面目な顔をして。
いや、“めっちゃ”というか、“これは何かやらかす前”の顔。
「チイロ。……今夜、家に来てくれ」
……え。
いや、ちょっと待って、それ今、廊下のど真ん中で言うセリフ?
空気がバキッと割れて、時間が0.8秒くらい止まった気がするのだが。
隣で、アスミの眉がピクリと動く。
あのアスミが、だ。いつも観測とか理論とかでクールな顔しか見せない彼女の声が、二度目の冬みたいに冷たくなる。
「は?」
音の温度が2℃下がった。マジで体感。
アスミこえーよ。マジで。
さらに後ろで、ミサキが口を開けたままフリーズしてる。
「……え、え、え? なに? なんで? なんの? どういうこと? え???」
音のリバーブが三秒くらい残ってる。
完璧なパニックループ。
そりゃ、二人にとっては、私は第三の矢にしか見えないだろ?
ユウマ、君、このタイミングでおかしいだろ??
廊下の時間が止まる。誰も動かない。靴音もない。
唯一動いたのはユウマの唇だけだった。
「来てほしい」
その一言。トーン、感情ゼロ。
けど、眼だけは、決意の温度があった。誰にも踏み込ませない、あのいつもの“閉鎖回路”のやつ。
ミサキが爆発するのは、もはや自然災害みたいな流れ。
「ちょっと! ユウマ!!チイロに“家に来い”って、それどういう意味!?
なにその、いかにも“これから事件です”みたいな顔!」
両手をぶんぶん振って、指先がきらっと光る。
あ、危ない、ヒットボックス広い。
「いやいやいや」
私は両手を上げて宥める。
「ミーム的に見て、これは“非恋愛フラグ”のほうだよ。ラブコメじゃなくて研究コメ」
「そんな分類あるかー!」ミサキが叫ぶ。
「てか前もあったでしょ!? 理科室で二人きり! なんか話してたじゃん!」
「それただのプリン実験の失敗処理だよ」
「プリンで恋が始まるとか聞いたことないんだけど!?」
……いや、甘いものは危険な触媒ではあるけどね。
アスミが、とうとうため息をついた。
「ミサキ、落ち着け。……ユウマ、あなたも。理由を述べよ。私は紅華女学院に行って、少し情緒不安定だから」
アスミの“述べよ”って言い方、何回聞いても審問感が強い。
「……言えない」
「言えないって何。ミッションかなんか?」
「……ちょっと違う。けど……来てほしい。チイロにだけ」
その“チイロにだけ”が、耳の奥で破裂した。
アスミの目が、スコープ越しみたいに細くなる。
「……それ、私たちをわざわざ外してまで言うこと?」
「悪い。むしろ二人は外す必要がある。トウタもミナトもレイカも……。
そして、今夜じゃなきゃダメなんだ」
「は?……理由は……」
「……言えない」
そして、来た。ミサキの感情噴火。
「はぁ!? ユウマふざけてんの!? “言えない”とか、一番ヤバいやつじゃん!!」
わかる。正論。
でも正論がこの空気では一番燃えるガソリン。
ユウマは黙ったまま、拳を握ってる。
指の関節が白い。たぶん、何かを抱えてる。
誰かを守るためか、誰かを巻き込むためか。
わからないけど——何かは確実に起きる。
私は、その沈黙を嗅ぎ取った。
これ、“秘密”っていうより“観測拒否領域”だ。
——たぶん、どっちでもない。
ただ“見られたくない何か”が今夜、発生するだけ。
「……了解っと」
つい、反射的に出た。私の口から。
次の瞬間、ハーモニーが爆誕。
「了解するな!」(アスミ)
「了解すんなよ!?」(ミサキ)
テンポぴったりのデュエット。
完璧だった。ちょっと感動した。
私は肩をすくめて笑う。
「行く理由があるなら、行かない理由も観測しないとね」
「それ理屈の皮かぶった無謀でしょ!?」アスミが詰める。
ミサキは涙目で、「ほんと、絶対、変なことにならないでよ……」と小声で言う。
(変なことってどっちの方向だろ……実験事故? それとも……いや、やめとこ)
ユウマはその全部を黙って聞いてた。
ほんの一瞬だけ、私に目を向ける。
一瞬なのに、まるでファイル転送でもしたみたいな重さ。
何かを“託した”って直感した。
いや、正確には——一人で背負うのをやめた顔。
私は息を吐く。
「大丈夫。私、観測だけは得意だから」
「観測で守れるのか!」アスミが叫ぶ。
「うん、時々守れる。時々、壊すけど」
「その“時々”が怖いのよ!!」
でも、どこかで私はもう決めていた。
誰かの“観測拒否領域”を覗くのは、私の役目だって。
だから、笑って手を振る。
「帰り道でまたチャットする。アスミ、ミサキ、心配しないで。……ユウマ、今夜、観測する」
ユウマの口角が、ほんの少しだけ動く。
「……ありがとう」
その言葉が落ちた瞬間、校舎の外でチャイムが鳴った。
日が沈む。廊下が影に飲まれる。
光の粒が消えていくと同時に、空気の密度が変わる。
——これは、ただの訪問じゃない。
何かが始まる“夜”の匂いがした。
そして私の頭の中で、ひとつの言葉だけが点滅していた。
「了解、は観測の第一歩」
……はい、地雷踏みましたね私。
——夜に男子の家。
やれやれ、ミーム的には“ラブコメ旗”なんだけど……ユウマの眼は研究旗。
でも人間って、こういう時に余計な想像をする生きものなんだよね。
わたしは反省して、商店街を一周……いや、待てよ。
健全じゃなくていいかも? いやいや、でも……あそこに、おしゃれなランジェリーショップの明かりが。
珍しく心臓がドキドキ鳴ってる。何を期待してる私。
でも、入っちゃう?
店内は柔らかな照明で、棚に並ぶレースやサテンの布地が、まるで誘惑の囁きみたいだった。
店員さんがにこやかに近づいてきて、「何かお探しですか? 夜のお出かけにぴったりなの、ありますよ」とウィンク。
え、夜のお出かけって……バレてる? バレるもんなの?
「これなんてどう? 黒のレース、ちょっと大胆なカットで、後ろは紐結び。自信が湧いちゃう一枚ですよ」って、
手に取られた下着は、際どすぎて息が止まる。
想像が爆発しそう。
ユウマの部屋で、もしもの……いやいや、研究の話だ。研究!
でも……店員さんの熱意に負けて、ついレジへ……。
財布が軽くなった瞬間、後悔の波が来るけど、もう遅い。
はあ……買っちゃった。装着して、鏡の前で確認。
うん、フィットしてる。
でも、これで少しは……いや、何の準備だよ。バカだな私……。
念のため、商店街をもう一周。
お菓子屋に入って、箱入りマドレーヌを買おうと棚を眺めてる。
店員のおばちゃんが、にこにこしながら近づいてきて、
「あら、こんな夜遅くにマドレーヌ? 彼氏さんの家に行くの? 甘い匂いが男子を優しくさせるわよ」
って。え……彼氏? 彼氏って……ユウマのこと?
いや、違う、違う。ただの研究の打ち合わせで、ただの知り合い……
あ、でも今の下着のせいで、顔が熱くなって、声が出ない。
慌てて「い、いえ、そんなんじゃないんです! ただの……お友達の家で、勉強会で……」って、ビビるほど、しどろもどろ。
心臓が爆発しそう。
おばちゃんは「ふふ、照れちゃって可愛いわね」って笑ってるし、私の頭の中はミームパニックの嵐。
うん、健全……はず。差し入れ最強。あと非常食。下着は着けたままだけど、焼菓子でカバー?
えらい、私? いや、えらくないかも。
私って何考えてるんだろ。
アスミとミサキに怒られる説教コース確定。
はあ、早く帰りたい……いや、行かなきゃ。
夜。 ユウマ宅のチャイムを押すと、扉の向こうから冷たい理科室みたいな匂いがふわっと。
……え、待って、なんか期待しちゃってた私、頭抱えたい。
ラブコメ脳で「夜の男子宅♡」とか想像してたけど、開いた扉はもう現実の洗礼だった。
玄関から居間にかけて、ノートPCと計測器が延々と占拠してて、食卓が波形みたいにぐちゃぐちゃの満員電車状態。
ソファには配線が這いまくり、壁にはホワイトボードがびっしり数式で埋まってて——
デートの香り? ゼロどころか、マイナス。完全に研究旗全開じゃん。
ほらね、やっぱり研究旗。少し期待した私、アホすぎて草。
ランジェリーまで買っちゃった自分が情けない……。
だか、少しむかつくコイツ。このヤロー。
多少は掃除したりするでしょマジで!!仮にも女子だぞ!こちとらよ!!
——「んで、わざわざ、呼び出されたわけだが?」
ドアが閉まる音より先に、私の声が室内の空気に刺さる。
軽く聞こえるようにわざと浮かせたトーン。
けど、ユウマの目は笑わない。
観測者の目は基本ドライだ。
ユウマは無言で頷き、中央モニタのグラフを拡大した。
軸が増える。
レイヤが一段、深くなる。
嫌な予感のグラデーションが、オレンジから群青へ。
「今回読んだのは、アスミの件。先に前提確認」
彼がタブレットに描いた骨格モデルを、私は頭の中で見出しに畳み直す。
箇条書き、ナンバリング、はいはい、どうぞどうぞ。
1) これまでの“常識”(作業仮説/合意バージョン)
•W1(影村・惨劇系)の観測ログが、W2(現行世界)のアスミにフィードバックしている。
•フィードバックは“残響試験”で検証済み。NOX(私ら)含め死の観測を伴う、倫理スレスレ仕様。
•結果、W2のアスミはW1由来の“痛みで書かれた決定論的知”を持ち、現在の意思決定に優位を得ている。
「ここまでは、物語として筋は通る」と彼は言う。
でも、筋が通ることと、数字が通ることは別問題。
ユウマはモニタの下端、気温計と同じ顔をした成功率プロットを指でコツ、と叩いた。
2) 再演シミュレーションの“笑えない改善”。右モニタでヒストグラムが立ち上がる。
再演改変成功確率:59.13%
元々の理論上事前成功確率:3×10⁻¹⁰%
はい?ちょっと桁が違う。
いや、桁という概念を侮辱するぐらい違う。
「……なにその跳ね方。三十億分の一から**五十九%**って、ギャグ? 私なら心臓止まるレベルなんだけど」
「ギャグならよかった」とユウマはため息。
「おかしいのはモデルじゃなく、種データだよ。解析がここまで偏るなんて、ありえない」
思わず箱マドレーヌを開けようとして、わたしは手を止める……いや、開けていいよね?
せめてこの甘い匂いで、部屋の無機質さを中和したい。
「説明、どうぞ。長くていい。マドレーヌ食いながら聞くよ、私、今日はアホだから、基礎からでお願い」
(はあ……私、何しに来たんだろ。研究の話のはずが、心のどこかで『もしかして』とか思ってた自分がバカバカしい。
次からはお菓子だけ持ってこよ。ホント今日はバカだなー。)
マドレーヌを頬張りながら、私は片眉を上げる。
「んでさぁ、このシミュレーション、なんか効きすぎてない? どこを盛ったの?」
ユウマは「入力」と短く答え、中央モニタに切り替えた。
音声→意味表現→構造特徴の三層マップ。
語彙情動値、因果接続の緩衝語率、自己帰責の削減率。
統計欄にはp<10⁻⁶が並ぶ。好き放題に有意。
私はスクロールを止めて、要約する。
「アスミの、つまり、あの独白の記憶は“優しい”ってこと……か」
刃はある。でも、鞘に入ってる。
触っても切れない厚みが後付けされてる。
ユウマが頷く。
「アスミのW2の記憶が、W1の独白に後乗せされてる可能性がある」
私は腕を組む。肘の角度、思考の角度。
「どの層で混線?」
「語用論層と、ナラティブの因果ハブ。比喩、婉曲、罰概念の再定義。痛みの『記録』が、語りに変換されてる」
——“記録”と“語り”は別物だ。
記録は温度を持たない。語りは体温で味が変わる。
アスミのW1独白は、美談化の方向ベクトルが有意に立っている。
数字がそう言ってる。というのがユウマの見解。
「根拠、出して。はよ」
私は椅子を引き寄せ、端末を自分側へスワイプ。
ユウマは項目を淡々と開く。
•語尾丸め率:W1直録基準から+2.3σ(例:「〜した」→「〜だった気がする」)。
•緩衝語(たぶん/きっと/少し)密度:+1.9σ。線形回帰ではW2イベント密度と有意相関。
•自己帰責→構造帰責の置換比:+2.1σ(「私が壊した」→「構造が壊した」)。
•罰(Punishment)→意味(Meaning)再符号化率:+2.7σ(痛みの“理由化”過剰)。
•観測者—被観測者距離の叙述乖離:時系列で平均+18%拡大(冷却処理)。
私は舌打ちはしない主義だけど、喉の奥でカチ、と音がした。
「記憶の精錬が進みすぎ。これは“読むための地獄”で、“再演するための地獄”じゃないってわけね」
確かに、あの惨劇の最中、私の死を彼女は“流れ着いた”なんて大層な表現をしていた。
精錬とは、そのような言い回しのことを指す。
ユウマは静かに言う。
「だから、再演Simsが簡単になる」
「は?」
「角が落ちたログは、調整自由度(DoF)が増える。
誤差伝播が減り、局所的最適化が利く。本来、W1を“そのまま”再構成するなら、局所谷に落ちて終わる。
なのに、ナラティブ研磨が“最短経路”を作ってしまう」
喉が乾いた。これはマドレーヌのせいか?
私はペットボトルの蓋を一度だけ回し、飲まずに置いた。
「つまり、易しすぎる成功は、真実からの乖離の指紋、ってことね。意味ないと」
「そう」ユウマは視線を落とす。
「この59%は、優しい嘘の耐性だ。だからW1への宣戦布告をこの数字にしても再演の改変になり得ない」
私は画面をもう一枚めくる。
グリッドに散ったクラスタが美しいほどに嫌だ。
「チイロ→ハルナの想起誘導ログ、参照……って、私がトリガー?」
「“一因”だ」
「言い切ったね。超ショック」
「すまない。けど、言い切る価値があるほど、データが揃ってる」
私は息を吸って、吐いた。深呼吸の真似事。
「要は、W2の温度が、W1の凶器を大幅に鈍らせてる。
しかも、ハルナやリリを忘れていたけど、覚えていた。もしくは思い出せた」
「ああ、しかも鈍い方が、当然再演攻略は楽になる」
数理の悪趣味。正しさの形をした罠。
私は机に指で四拍子を打つ。タタン、タタ。
頭の中では別の数列が走る。
“再演できる”ことの危険性と、“再演できてしまう”ことの嘘。
「結論」私は言う。
「アスミの独白ログは、W1惨劇を再演する用途のデータじゃない。読むための記録。警告のための物語。
刃ではなく鞘って感じか。アスミは裏モノのスナップビデオを、全年齢対象の教育番組仕様に編集したと。
あれでも結構ショックな内容だったのに、嘘だろ?アスミ!!って感じか」
ユウマは短く頷いた。「その例えは極端だけど、そう」
その頷き方が、いちばん疲れて見えた。
「本来の成功率は3×10⁻¹⁰%。つまり“原理的には可能だが、事実上不可能”。
なのに、59%。この差分が全部、アスミの優しさのノイズだ」
「ノイズって言ったね。女子の優しさを!」私は目を細める。
「優しさは、ノイズじゃない。別の真実」
「わかってる。でも再演器に入れた瞬間、ノイズになる」
沈黙。ファンの回転数だけが素直だ。
私は椅子の背にもたれて、天井のラインを一度なぞる。
「ちなみに、りうの記憶ログ。W0のだ。これも同じ理屈で計算してみた」
再演改変成功確率:42.5%
理論上の事前成功確率:5×10⁻¹⁴%
ゼロの果てみたいな数字が、いきなり現実的な小数点に化けてる。
私は机に肘をついて、静かに笑った。
「……また“簡単になってる”じゃん」
ユウマは頷いた。目の下にクマ。
「アスミのときと同じ構造だ。W層を跨いだ“優しい改変”が混入してる」
「りうの記憶ログにも?」
「ああ、しかも、アスミより顕著だ」
モニタに二つの波形が並ぶ。
一方はW0由来の原始ログ——ギザギザした刃物みたいなノイズ。
もう一方は再現シム用に抽出されたW2準拠のログ——丸く、柔らかく、痛みの輪郭が溶けている。
ユウマが説明する。
「ここ。情動勾配の傾きが、-0.98から-0.41まで緩んでる。“記録”じゃなく“回想”になってるんだ」
「つまり、“記録媒体”としての純度がめっちゃ落ちてるってことか」
「そう。でもその分、再演は容易になる。データが人間的になるほど、演算は近道を取る」
私は首を傾げる。
「つまり、“人の温度”が、現実を軽くしてる?」
ユウマは小さく頷く。
「温かい方が、壊れやすい構造をなぞりやすい。本来なら痛みで閉じてた回路が、“感傷”で開いてしまう」
ディスプレイの片隅、AI評価モデルのラベルにはこう出ていた。
Emotional smoothing bias detected. Correction impossible.
——情動補正バイアス検出。是正不能。
私は指先で画面をなぞる。
「……やっぱり、りうのも“優しい”んだね」
「優しさ、っていうより、“再生に耐えられる形”に加工されてる。
本人が生き延びるために、記録を“再生可能フォーマット”に変換したんだと思う。
あまりにも、悲しい話だ」
私は黙ってユウマの横顔を見る。
彼の瞳が、データの光をそのまま写していて、まるで人間じゃないみたいだった。
「で、その結果が、四十二・五パーセント」
「そう。成功率じゃなく、“再現されやすさ”の指数だ」
「つまり、りうの記憶も、“本物”じゃない可能性が高い」
「……そう言いたくないけど、そうなる」
私は深く息を吸った。
空気の味が、オゾンと冷却材。
頭の奥で、ノイズが弾ける。
「……アスミ五十九、りう四十二。これ、もしかして“優しさの濃度”に比例してる?」
「正確に言えば、記憶の情動緩和率。優しさの総量が、再演成功率を押し上げる。
本来の惨劇が“再生可能”になっていく。まるで——」
「まるで、“地獄を再編集”してくれって言ってるみたいだね」
私は言った。
「耐えられるように“整える”ほど、現実が再び回せるようになる」
ユウマはしばらく黙っていた。
モニタの光だけが、彼の横顔を青白く照らす。
その光の中で、私は小さく呟く。
「……優しさって、やっぱり、毒だね」
「でも、毒がないと、生き残れない」
「生き残る代わりに、真実を“書き換える”」
「そう。りうも、アスミも。たぶん俺たちも」
時計の針が、夜の底を刺した。
冷たい空気の中で、42.5%の数字だけが、生々しく光っていた。
まるで、“真実が見つかる確率”よりも、“嘘が優しくなる確率”の方が高いって、世界に証明されているみたいに。
「で、私を“今夜”呼んだ理由は?もう、ちょめちょめしようなんて魂胆じゃないのは理解したけど」
「二つ」ユウマは人差し指を立てた。
「一つ目。この結果をアスミに今すぐは言わないで進めるための、検証の同意が欲しい」
「“同意者=観測保証人”が要る、と?」
「ああ、君の署名が、必要だ」
「はぁ、重い」
「二つ目」彼はタブレットを閉じる。
「誰にも見られたくない計算を今夜回す。ログも、端末も、ここで完結させたい。
もし59%が“優しい鞘”の効果なら、鞘を剥がした仮想層で、成功率は急落するはずだ。
すなわちそれは、改変成功確率3×10⁻¹⁰%の真実の地獄の存在が確定する」
私は目を伏せる。視界のノイズが微かに粒立つ。
“鞘を剥がす”——言い方が嫌に正確で、嫌に痛い。
「……了解」
私は言った。
たぶん、最初から言うつもりだった言葉を、やっと出す。
「観測保証人、私でいい。ただし条件」
ユウマが顎を上げる。聞く姿勢。
「条件A:今夜の計算結果は、私の監督下で封緘。君単独の判断で誰にも渡さない。
条件B:アスミに話すタイミングは、私が決める権限を持つ。
条件C:もし“鞘なし”の成功率がゼロに近づかない場合——
つまり、真実が独白より苛烈でグロテスクである可能性が高い場合——
成功率0.0000000003%の改変は即時停止。それでも回したいなら、NOX全員の同意を取る」
ユウマは、数秒だけ黙ってから、頷いた。
「……承認。A、B、C、全部飲む」
私は軽く笑う。やっと笑えた。
「よろしい。じゃ、夜の侵襲準備始めようか」
端末の時刻が、夜の形に変わる。
私はイヤーカフを外して机に置き、髪を結び直す。
観測者モードは、儀式が大事。
「最後に確認」私はユウマを見る。
「君の“59%”は、優しさの耐性。私の“了解”は、優しさの責任。
この二つを混ぜると、だいたい碌なことにならない」
ユウマは、かすかに笑った。珍しい。
「でも、碌じゃないのが、君だ」
「知ってる」私はモニタに向き直る。
「じゃ、鞘の外へ行こう。戻れるうちに、戻る準備もしといて」
ファンの音が一段上がる。
エミュレータが起動音を鳴らし、記憶の地層に仮想の穴を穿つ。
私は指を組み、胸骨の内側で心拍を数えた。
——観測は痛い。痛いけど、私が観測する。
それが“今夜、ここに来い”に返せる、いちばんマシな返事だから。
再演の準備がすべて整ったあと、ラボの空気は急に静まり返った。
風も時間も、観測をやめたみたいに止まっていた。
ユウマは画面に残った59%を見つめていた。
私はその横顔を見ていた。
どちらがより“壊れやすい方”か、まだ分からない。
「……ここまで来て、やめるって選択肢は無いんだよね?」
問いというより、確認。
彼は返事をしない。ただ、指先が再生ボタンの上で止まったまま。
私の中で、何かが決まった。
夜を、観測する。優しさの鞘を外す。
そして、それがどんな痛みに変わるのかを見届ける。
帰り道の窓に映る自分の顔が、やけに知らない他人みたいに見えた。
髪を結い直した跡、少し乱れている。
多分、心も同じ。
——夜が始まる。
これは再演じゃなく、侵入実験だ。
記憶という名の密閉層に、観測者が踏み込む夜。
「夜の侵襲」。
優しさが、まだ熱を持っているうちに。




