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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第三章 EXIT&SYNC/双灯祭前決戦編

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EP66. 紅の花園にて

 紅華女学院へ行く前夜、チイロ先輩の顔がやたら静かだった。

 何度聞いても、「行けばわかる」としか言わない。

 “わかる”って何。わからないから聞いてるのに。


 「紅華って、去年のあれでしょ?」

 「ピンク空ジャック事件?」

 「そう。空をバルーンで埋めて、“愛は重力に逆らう”とか書いたやつ」

 「演出力は本物だよ。倫理観は無重力だけど」


 チイロ先輩はプルタブを指で弾きながら笑った。

 笑い方がどこか、なにかを隠しているように見えた。


 「……で、なんで私なの?」

 「構造的に正しいから」

 「どの構造?」

 「ミームで説明してもいい?」

 「……また逃げたね」

 「逃げてない。見てからのほうが早い」


 彼女は短くそう言って、コーラを一口。

 泡が弾ける音のあと、ほんの一瞬、目が笑ってなかった。


 その違和感だけを連れて、私は紅華へ向かった。

 ——そして今、私の知らない“信仰”の真ん中にいる。

 チイロ先輩の“行けばわかる”は、やっぱりいつも罠みたいだ。


 ──紅華女学院・来客棟。


 正門をくぐった瞬間から、私は何かを間違えた気がしていた。

 赤い煉瓦のアーチの向こう、両脇の生徒たちが花の道を作っていた。

 通路の中央にはピンクのカーペット。足を踏み出すたび、薔薇の花びらがどこからともなく降る。

 風ではなく、演出だ。

 おそらく上空の噴射装置。空まで徹底している。


 「……なにこれ、罠?」

 思わずつぶやく。


 制服姿の生徒たちが一斉に姿勢を正した。

 「お越しくださりありがとうございます、矢那瀬アスミ様!」

 声が揃いすぎている。合唱のようだ。

 そのあと、なぜか両サイドで拍手。

 パチパチパチパチ。

 ……いや、なんで拍手?


 背後でケラケラとチイロ先輩が笑う。は?

 「歓迎されてるじゃん。アイドルみたい」

 「やめて。そういうの、性に合わない」

 「合わないから面白いんだよー!」


 チイロ先輩は両手をポケットに入れたまま、にやにやと後ろをついてくる。

 

 なんていやらしい顔つき。


 廊下の壁面には、私の写真が並んでいた。

 嘘でしょ……?

 文化祭で撮られた、笑顔のスナップ。

 どれも知らない角度。

 その下には金文字のプレートで——

 「Welcome Asumi-sama」。


 「……ちょっと待って、これ私の知らない“信仰”じゃない?」

 「まぁ、信仰というか、崇拝?」

 「フォローになってない」


 曲がり角ごとに新しい装飾が現れる。

 壁に貼られたバナーには、薔薇とリボンと、私のシルエット。

 「光を観測する者、紅華に降臨す」と書いてある。

 誰が考えたんだ、そのキャッチコピー!!


 やたら丁寧な案内係の女生徒が、笑顔で振り返る。

 「院長室まではこちらです、アスミ様」

 「だから“様”はやめて……」

 言い終えるより早く、次の生徒が花束を差し出す。

 「こちら、リリアン様からの“前祝い”ですわ♡」

 花束は大きく、手のひらの温度が一瞬で香りに沈んだ。

 薔薇、百合、金糸のリボン。もはや武器。


 「先輩、これ……普通?」

 「紅華基準では、たぶん控えめな方」

 「私の知ってる“控えめ”と単位が違うんだけど」


 廊下の突き当たり、巨大な扉の前に立つ。

 金のエンブレムが浮き彫りになっている。

 中央には、薔薇と鏡。

 その下に刻まれた文字——“美は法、光は秩序”。

 もう何も言いたくなかった。


 案内係が、白手袋の手でノックを三度。

 その音が、まるで劇場の開幕ベルのように響く。


 中から、甲高い声が跳ね返ってきた。

 「どうぞお入りなさあああいっっ♡!」


 チイロ先輩がニヤリと笑う。

 「……じゃ、楽しんできて」

 「いや、先輩も入るでしょ?」

 「ううん。構造的に、そこは“アスミ一人で”が正しい」

 そう言って、あっさり踵を返した。


 私は深呼吸を一つ。

 心の中で、自分の存在をもう一度観測する。

 ——紅華女学院。

 ここは、論理より香りが支配する場所。

 理性で進むには、少し濃すぎる。

 ただ、私もW1の、あの惨劇を見てきた女。


 あれの再演だけは、許さない。


 ──紅華女学院・生徒院長室。

 意を決して扉を開けた瞬間、薔薇の香りが鼻腔を満たした。

 だがそれに混じって、誰かの甲高い悲鳴が裂けるように響いた。


 「きゃああぁあぁああああ♡♡♡!!!」


 音の高さに耳が痛む。

 反射的に身構える間もなく、空気が矢のように動いた。

 走るというより飛んでくる足音。

 それは歓喜の衝動そのものだった。


 「——あ、あ、アスミ様!? 本物!? ついにお越しいただけるなんてッ!?」


 次の瞬間、私の身体は誰かに抱きしめられていた。

 抱擁の圧が私の肋骨を軽く押す。

 顔を上げれば、視界は紅い髪でいっぱいになった。

 光沢のある巻き髪が頬に擦れる。

 至近距離からする香りは、香水というより体温そのものの匂いで、胸の奥をざわつかせる。


 「ちょ、ちょっと、離して!? え、え、誰!?」


 「紅条リリアンですっ♡」


 声が甘い。甘すぎて、言葉が糖衣のようにべたつく。

 こんな至近距離で「ですっ♡」なんて言われるのは想像の外だ。

 リリアンは涙目で両手を胸に当て、小刻みに息を整えながら続ける。


 「……失礼いたしました、アスミ様っ。まさか、本当にいらしてくださるなんて。

  わたくし、もう一週間前から香水を選び直しておりましたの……!」


(……誰か、説明をしてくれ)


 部屋の壁際には十数名の女学院生が整然と並んでいる。

 全員がモデルのように背筋を伸ばし、目は宝石のようにきらめき、視線の先は私一人に集中していた。

 熱量が物理的に感じられる。ハンパない。

 視線が刺さる。暑い。


 「え、えっと……交渉で伺ったんだけど」

 「交渉!? あぁ〜〜! アスミ様!! いきなりそんな……なんて美しい響き!

  “交渉”って“口を交わす”って書きますのよね!?♡」


 彼女たちの無邪気さが、文化祭の街頭演説のように過度だ。

 私は慌てて否定し、場を落ち着かせようとする。


 「やめて! 変な方向に解釈しないで!」


 リリアンは完全にテンパっていた。

 でもそのテンパり方には、計算がまるで見えない。

 真剣、純粋、そして──少し狂気に触れるほどの熱量がある。

 チイロのその動き方に似ているところが、私にはどうにも居心地が悪い。


 「その、雲越チイロから話、聞いてるわよね?」と私が問うと、リリアンは頬を真っ赤にして口元を押さえた。


 「も、もちろんですのっ……“アスミ様がお越しになる”って聞いて……この日を……!」


 机の上には写真立てが置かれている。

 中には、私がチイロ先輩と一緒に写った文化祭準備中のスナップ。

 アングルは不自然で、私が無防備に笑っている瞬間を切り取った一枚だ。

 どうやって入手したのかはわからない。

 胸をざらつかせる得体の知れない気配。


 「……チイロ、やったな」


 呟くと、リリアンの身体がぴくりと震えた。


 「チイロ先輩は、わたくしの命の恩人ですの!

  そのチイロ先輩が“アスミ様も私を気にいる”と仰って……だからわたくし、誓いましたの。あなたに忠誠を!」


 あの人、何吹き込んでるの?


 その瞳の奥に冗談の影はない。

 もはや恋愛という名の“信仰”に近いものがそこにある。

 私の胸に氷が落ちるように冷たかった。


 「……忠誠って、何の話?」と問うと、彼女は微笑みながら小首をかしげる。


 「“美の観測者”への忠誠ですわ♡」


 その言葉に、小さな笑いが喉を通り過ぎた。

 聞いた私が悪い。

 だが、笑いの端が震えるのを止められないのは、彼女たちの視線の温度が尋常でないからだ。


 リリアンはさらに続けた。

 声がふわりと部屋を満たす。


 「アスミ様。紅華の子たちは皆、あなたのことを知っています。

  あなたが“光の使い方を知る人”だと。だから、もしも、アスミ様に傷をつける人がいたら——」


 言葉が止まる。

 部屋の空気が鋭く変わった。

 柔らかな花の香りの奥に、刃の冷たさが潜む。

 背後の少女たちが一斉に姿勢を正し、整えた笑顔を崩さずに私に向き直る。


 「その人は、紅華で生き残れませんの♡」


 笑顔が笑顔のままで、明確な脅しになっていた。

 恐ろしい。

 半分宗教、半分ファッション。

 信仰がファッションになった世界。

 私は深く息を吸って、話を戻す努力をした。


 「とりあえず、リリアンって呼ばせて。今回お願いしたいのは、バルーン演出の協力。

  だけど“影村の空”じゃなく“祭りの空”。敵意も侵略もなし。

  ピンク単色禁止、香料ゼロ、視界ライン15メートル確保。できる?」


 その瞬間、空気が割れた。


 リリアンの目が、まるで雷光を受けたみたいに見開かれる。

 頬がばちん、と音を立てて赤くなり、そのまま固まる。


 「……い、い、いま……っ」

 「え?」

 「今っ!! アスミ様、わたくしのっ! 名前をっ……!!」


 高周波の悲鳴。

 いや、もはや声というより感情が振動している。

 両手で顔を覆い、全身を小刻みに震わせて、そのまま後ろにふらりと倒れそうになった。


 「ちょ、ちょっとリリアン!?」

 慌てて肩を支える。彼女は抱きとめられた瞬間、さらに震えた。

 「わたくしっ、いま死んでもっ、幸福ですのぉぉぉ!!!」

 「いや、生きて!? 頼むから!!」


 壁際に並んでいた紅華の生徒たちが、一斉に息を呑む。

 「リリアン様、ついに……!」

 「あの“アスミ様”呼びから“リリアン呼び”を聞くことが叶いましたのね……!」

 「記録係、これログ残して!」


 いや、なんの儀式?


 リリアンはそのまま私の腕の中で息を荒げながら、夢みたいな声で言った。

 「アスミ様の口から“リリアン”って……! この世の言語すべてが無意味になるほどの尊さ……っ♡」

 「過呼吸になってる! 落ち着いて!」

 「落ち着けませんのぉっ!!!」


 彼女の後ろで控えていた生徒たちが、拍手と歓声を上げる。

 「おめでとうございます、リリアン様ー!!!」

 「神聖な呼称接続、成立ですわーっ!」

 

 私はゆっくりとリリアンの肩を離し、深く息を吐いた。

 「……ねぇリリアン」

 「は、はいぃっ♡」

 「呼んだだけでこの騒ぎは、今後やめてもらえる?」

 「無理ですの♡」

 「だよね」


 紅華女学院、想像の三倍濃度。


 「それで、話戻すよ。お願いしたいのは、バルーン演出の協力。

  だけど“影村の空”じゃなく“祭りの空”。敵意も侵略もなし。

  ピンク単色禁止、香料ゼロ、視界ライン15メートル確保。できる? リリアン」


 一瞬、リリアンの顔が鋭く引き締まった。真顔になる瞬間が、むしろ綺麗で、息を呑むほどだ。


 「——もちろん、できますわ。だってアスミ様が願うなら、それは“天命”ですもの」


 周囲の生徒たちが一斉に拍手する。

 計画済みなのか、それとも現場で即興なのか。

 連携の速さに、背筋がざわつく。

 私は頭を抱えながら言葉を選んだ。


 「……ありがと。でも、“様”はやめて。普通に呼んで」


 「そんな、滅相もございません! アスミ様はアスミ様ですの!」


 もうダメだ。チイロ先輩。

 説明してくれって言いたい。

 だがチイロ先輩は既に不在だ。

 あるいは、これも想定のうちかもしれない。


 リリアンの言葉は止まらない。

 彼女の口調は甘く、断定的で、情熱が振幅している。


 「アスミ様、聴いてください。チイロ先輩が“あなたを守れ”と仰ったとき、わたくしは決めましたの。

  あなたが嫌われたり、傷つけられたりするなら、紅華はその相手を見逃しませんの。

  御影シオンさん? あの一年の“生意気な小娘”が何か企てていると聞きました。

  チイロ先輩からの情報で、彼女はあなたに対して危うい“観測”をしていると。

  わたくし、聞いた瞬間に血が沸きましたのよ。許せませんわ。あの生意気な口の利き方、若造の癖に……」


 その瞬間、発言の一行が私を固まらせる。

 チイロ先輩経由でリリアンは、シオンが私に対して何かをしたことを知っているらしい。

 その口ぶりは怒りに満ちていて、殺意を連想させるほどの硬さを帯びていた。

 (言葉は丁寧だが、感情は平常のそれを超えている)


 「リリアン、落ち着いて」と私は言いかけるが、声に力が入らない。

 彼女の目はまっすぐで、そこに跳ね返るのは歪んだ崇拝と正義感だ。

 護衛の群れが私を見る目は、守るべき対象を見定める軍のそれだ。


 そして、さらに予想外の言葉が出た。


 「あと、ユウマさんの件もね。あの変な理系少年――あの人、私の眼には“扱いきれぬ雑種”に見えますの。

  理屈だけで生きる男は、情緒という花を踏みにじる存在ですのよ。

  アスミ様を、そういう“ヘンテコな理系男子”のそばに置くなんて、わたくし我慢ならないの。

  彼の匂いは、どうも私のセンスに合わない。

  ですから、あの男をあなたの前に立たせる時は、きちんと“礼儀”を教え込ませますの♡」


 その言葉は冗談めいているが、内包する力は本物だ。

 リリアンは、私に多分恋している。

 自分で言いたくない言葉だけど……。

 私を守るために、他者を裁く覚悟まで持っている。

 宗教のような崇拝には、しばしば排他的な防衛本能が伴う。

 私はその冷たさを肌で感じ、背筋が凍った。


 「ユウマのことは、ほっといて」と私は弱々しく言い、目を泳がせる。

 彼がこの場にいたら、きっと言い訳し続けるだろう。

 彼はこと、恋愛関係の話になると不器用で、たぶん私の期待も解釈もずらす。

 でも、彼を私の前から排除する力など、誰にも与えていない。


 リリアンは一瞬、私の言葉を聞いたようにゆっくりと頷いた。

 だがその頷き方は、同時に「教えてあげる」という前提であった。


 「いいえ、アスミ様。ユウマさんには“学び”が必要ですわ。

  わたくしが教育係を買って出ます。

  紅華の調教で、礼節と美を身につけさせましょう。

  そうすれば、アスミ様も安心して彼を傍に置けますものね♡」


 その言い方に私は強く息を吐いた。

 皮肉だ。

 だが同時に、どこか嬉しい自分がいる自分がいるのも否定できない。

 好意は、時に怖さと混ざる。

 リリアンはそれを完全にやってのける。


 部屋の空気は熱を帯び続ける。

 リリアンの側近たちは私を見る目を変えない。

 私は、これが“交渉”だと思い出し深呼吸する。


 「分かった。協力はお願いするわ。ただし厳守事項は守って。

  バルーンは祭の空として、侵略的でないこと。香料ゼロ、視界15メートルの確保。ピンク単色は禁止

  お願い……リリアン」


 リリアンは満面の笑みを浮かべ、手を胸に当てた。


 「了解しましたわ、アスミ様! わたくしはあなたに“天命”を受ける者ですもの、断れるはずがありませんっ♡」


 拍手が沸き起こる。それは祝福か、宣誓か、あるいは儀式の一部か。

 私は短く微笑み、心の内に渦巻く得体の知れない複雑さを押し込める。


 帰り際、リリアンは私に小さな宝石箱のようなものを差し出した。

 中には、薄い布に包まれたカードが入っていた。

 表面には私の写真が小さく印刷され、その周りに紅華の紋章が繊細に刺繍されている。


 「アスミ様、これはわたくしからの“誓約のしるし”です。どうぞ♡」


 私は言葉を失い、ただそれを受け取った。

 重さは紙一枚にも満たない。

 だが心に落ちる重みは確かだ。

 チイロ先輩から「行けばわかる」と言われた時、こういう事態の片鱗は想像していた。

 だが、実際のそれは想像の遥か上を行く。


 門を出るまでに、私は十二人の女学院生から「推してます♡」とささやかれ、三回ほど握手を強要された。

 どれも真剣で、笑顔が鋭かった。

 紅華の世界は、私を祝福する仮面で包み、同時に檻を構築し始めていた。


 ——チイロ先輩が「行けばわかる」と言ったのは、警告でも罠でもなく、ただの事実だった。

 行けば、真実がある。

 真実は時に美しく、時に恐ろしかった。


 帰り道、チイロ先輩は隣でコーラのプルタブを弾きながらニヤリと笑った。


 「ね、“行けばわかる”だったでしょ?」


 「……なんで止めなかったの」と私が訊くと、チイロ先輩は肩をすくめる。


 「観測者は見なくちゃだめでしょ? 構造ごと、ぜんぶ」


 私はため息をつき、歩幅を僅かに縮める。

 紅華の花園は、私を歓迎するように静かに揺れていた。

 そして、その静けさは、もう逃げ場がないことを意味しているように思えた。


 次に何かが動くとき、空はピンクだけでなく、もっと濃い色に染まるかもしれない。

 私はそれを避ける術を考えながらも、同時に自分が“角度”を作る一人であることを自覚していた。

 観測は、まだ私たちの側にあるのだ。


 ——しかし、何がどうなって、あんな歓迎になったのか。

 未だに理解が追いついていない。


 廊下は花びらの雨。

 生徒全員が拍手。

 写真が並び、スローガンまで作られている。

 私が何をした?

 紅華の内部で何を観測されたら、ここまでアイドル扱いされるんだろう。


 しかも、院長室で待っていた紅条リリアン。

 開口一番「アスミ様!!」と抱きつかれ、涙目で忠誠を誓われ、最終的に“誓約のしるし”を渡された。

 正直、ホラーの構造と紙一重。


 ——でも、いちばん謎だったのはこれ。

 リリアンが“チイロ先輩は命の恩人”と言った理由。


 帰り道、私はチイロ先輩に聞いた。

 「ねぇ、先輩。あなた何したの。リリアンが先輩のこと命の恩人って言ってたけど」


 チイロ先輩はコンビニの袋からコーラを取り出しながら、肩をすくめた。

 「去年ね。紅華の合同講演の日。リリアンが廊下でアスミ見かけて——

  “うわぁ、尊いっ”って言いながら酸欠で倒れかけたの」

 「……酸欠?」

 「うん。それを私が抱き止めただけ」

 「それだけ?」

 「それだけ。でも“命の恩人”って言われてから、もう訂正するのも面倒で」


 私はしばらく黙って、それから小声で言った。

 「……一目惚れで気絶?」

 「恋ってやつだねぇ」

 「いや、“やつ”で片付けないで」


 チイロ先輩はストローでコーラを吸いながら、あっけらかんと言った。

 「紅華って、ああ見えて本気なんだよ。熱も礼儀も全部、本気。

  リリアンもたぶん、アスミに恋してる。百合的に」


 「ちょ、やめて。やめて」

 「引いてる?」

 「引いてる。物理的に精神的に一歩下がってるわ!」

 「百合展開、今後に期待!!」

 「やめてー!」

 チイロは笑った。

 「でも、そこまで悪い気しないでしょ?」

 「……しないけど。怖いっていうか……」

 「それ、恋されてる側の正しい感想」


 私はため息をついた。

 紅華の薔薇の香りが、まだ髪に残っていた。

 あの拍手も、あの忠誠の笑顔も、夢のようだったけど——

 たぶん夢じゃない。夢にしてはいけない。


 “行けばわかる”って言ったチイロ先輩。

 ほんとに、わかったよ。

 私は観測された側だった。

 そして、あの女学院全体が、観測装置みたいに私を見ていた。


 それでも少しだけ、あの光景を思い出すと笑えてしまう。


 たぶん、次にまた呼ばれる。

 その時には、もう少しだけ覚悟を持って行こう。

 紅華の香りに、飲まれないように。


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