EP65. 祝祭は空で同期する
——正しさに触れると、心臓が冷たくなる。
御影シオンと対話したあの日から、ずっとその温度が消えない。
彼女の言葉は、刃物じゃない。
それなのに、触れるたびに皮膚の内側を削ってくる。
冷たさだけで論理を編んだ少女。倫理の中で一番、倫理から遠い存在。
「出ることを目的にしていない“脱出”」
あの一言の意味を、私はまだ完全には解けていない。
構造を破壊しても、彼女は“壊された形”さえ設計に取り込むだろう。
そういう頭脳だ。そういう在り方だ。
——でも、私は観測者だ。
怖がるより、測る。測るより、進む。
今日ここに来たのは、“正しい設計”の中に“人間の曖昧さ”を戻すため。
紅茶の香りに混ざる緊張の匂い。
サツキ会長は落ち着きなく指輪をいじり、ハザマは視線で温度を測っている。
私は深呼吸ひとつ。呼吸が整うより先に、ノックの音が鳴った。
——御影シオンが来た。
あの微笑の角度のまま、また何かを切り取るつもりで。
今日こそ、彼女の“構造”に、迷いをひとつ、埋め込む。
——午後の天城生徒会室。
光沢ワックスの床が、紅茶の水面みたいに白く反射している。
窓の外、風が止まっていた。嫌な静けさ。
私はスマホを伏せたまま、画面の通知を頭の中で反芻していた。
【from: リリ】
アスミ、やばい。
シオン、“四杯のグラス”を実施中。
飲ませてる。
一人、倒れた。
文末の“倒れた”という文字だけが、脳に焼き付いて離れなかった。
——遊びじゃない。
リリがそんな風に打つときは、ほんとうに何かが起きた時だ。
私は資料フォルダから“EXIT SYNC 改訂案”を呼び出して立ち上がった。
脳がまだ冷えきっているうちに、誰かに報告しないと。
⸻
生徒会室:二階堂サツキ・野々村ハザマ
「——つまりっ!」
サツキが机を叩いた。カップの紅茶が波打ち、危うくスカートに跳ねそうになる。
「影村の御影シオンさんが、生徒に毒入りの飲み物を!? あらまぁ! なんてミステリアスな観察学なんでしょう!」
「違う、毒じゃない!ただの演習!でも、演出が危険すぎる。
“観測の順番を間違えたら死ぬ”って言って、飲ませてる。シオンはそれを“教育”だって言い張ってるの」
サツキは紅茶のカップを両手で握ったまま、目をまんまるにした。
「ひゃ……そっ、そう……ですの……あんな小動物みたいな顔して、なっ、なかなかやりますわねぇ! あの一年生!」
「笑い事じゃないよ。死人が出るかもしれない」
その瞬間、脇で静かに控えていたハザマが口を開いた。
「……アスミさんの懸念、的確です。
あの“全員一致構造”は、倫理審査の基準を逸脱しています。
もし参加者が条件を誤解した場合、心理的ショックで死者が出る可能性があります」
サツキの表情が一気に凍る。
「ししゃ……使者ですの??!!……まあ、使者はたくさんいても良いんじゃありませんこと!!」
「は?」
「会長……死者、死人の死者です。失礼しました」
ハザマさん、大変だ。
紅茶のカップがカタカタ……と震え始めた。
「し、死人……? うそでしょ? 嘘ですわよね??
わ、わたくしそんな怖い文化祭イヤですわ……!」
ハザマがすぐさま予備のカップを差し出す。
「温度、五十五度。手を離して」
「……ありがとハザマ。優しいのね……
でも、わたくしの心は激しく凍ってますの……」
私は深く息を吸って言った。
「だから今日、シオン本人が来る。改訂案を出して、これを止めるつもり。
でも、もし通らなかったら……双灯祭、止めるしかない」
「そんな……」
サツキは手を胸に当てた。紅茶の香りと一緒に、焦げたような静寂が漂った。
「——でも、止められないなら勝つしかありませんの。
勝つ、というより……正しさで上書き。そうですわね?アスミさん!」
「……まぁ、そういう言い方もできるけど」
⸻
数分後。生徒会室の扉がノックされた。
三回。リズムは正確。
私は無意識に拳を握る。
ドアが開き、白い光を背負って御影シオンが立っていた。
黒髪をツインで三つ編みで結い、腕には“EXIT SYNC”の資料ファイル。
整いすぎた整然。温度を感じない完璧さ。
「お久しぶりです、二階堂会長。あと、アスミ先輩、先日はありがとうございました」
声は澄んでいた。空気の温度を1℃下げる響き。
サツキは慌てて立ち上がる。
「お、おひさしぶりですわね! えぇ〜っと……シオンさん? ちっちゃかった頃よりおっきくなってぇ!」
(その“ちっちゃかった頃”っていつの話……)
「はい。私も成長は観測済みです」
淡々とした返答。
それだけでサツキの動揺が倍増する。
私は資料を広げた。
「“EXIT SYNC”の件もそうだけど、リリからもさっき聞いた。
シオン、四杯のグラス、私、聞いてない。実際にやったってどういうこと?」
「はい。試行です。想定内の範囲で、倒れた生徒も回復しました」
「それ、本気で言ってるの?」
シオンは視線を逸らさない。
「ですが、アスミ先輩の改訂案、“重ね扉構造”は一部導入済みです」
「一部? それじゃ意味ない」
「観測精度を保つためには、完全な開放は不適切です。——“再考ボタン”のみ、承認しました」
私は思わず椅子を鳴らした。
「“再考ボタン”だけ? あの構造じゃ、“罰”が残る。
“全員一致”の条件が外れてないなら、結局また誰かが犠牲になる」
サツキがカップを取り落としそうになる。
「えっ……えっ、ちょ、ちょっと待って! それってつまり、死ぬ確率がまだ残ってるってことですの!?」
「死んだりはしません」
シオンは微笑んだ。
「“死の概念”を仮想に置いただけです。あくまで構造上の“観測停止”です」
「言い方っ!!!怖いですわ!!!」
サツキの声が跳ねた。
「なんか、怖いことを可愛い顔で、可愛い声で言うの、ズルくないですの!?」
「定義に感情は不要ですよ。二階堂会長」
シオンの声は、またひとつ空気を削る。
私は両手を組んだ。
「シオン、“再考”だけじゃダメ。
“罰の撤廃”“Δtウィンドウ”“信頼ランプ”全部セットでなきゃ、設計が持たない」
「確かにそうですが、時間差許容は“観測のゆらぎ”を増やすんです。アスミ先輩の改案ですと精度が下がります」
「人の命がかかってるときに精度なんてどうでもいいでしょ!」
「そのグラスの実験もそう!倒れた時点でアウトだよ」
私の声は、思っていたよりも強く出た。
だがシオンは微笑みを崩さず、淡々と返す。
「安全性は確保しています。電流値も、あくまで心理的閾値の範囲内です」
「電流値?」
私の胸の奥がざらつく。嫌な予感。
シオンは軽く資料をめくり、指である行を指した。
「それと、以前お話した“狼椅子”は、脱出過程における緊張を最大化する装置です。
現在は出力三十ボルト。ですが、臨場感を高めるには——五十まで上げるのが適切かと」
紅茶の香りが、一瞬で鉄の匂いに変わった。
「……は?」
椅子の脚がきしむ音が、自分の耳のすぐそばで鳴った。
リリの“倒れた”という文字が、脳内で警報のように点滅する。
「シオン、それ、冗談で言ってるんだよね?」
「冗談ではありません。観測の“真実味”は、多少の刺激で得られます。
恐怖の生理反応を測定するには、軽い電圧上昇が——」
その先を聞く前に、私は机を叩いていた。
紅茶が跳ね、書類が滑り落ちる。
「——人の体を、実験装置みたいに言わないで!」
「アスミ先輩——おちついて」
「観測? 臨場感? それはあなたが痛みを知らないだけ!
“恐怖”を道具にする人は、いつか誰かを壊す!」
そのとき、ハザマが静かに一歩前に出た。
反射的に私の肩へ手が伸び、ぐっと抑える。
力は強くない。でも、確実に止まる。
「落ち着いてください。……ここは議論の場です」
声は低く、温度を保っている。
——それでも、彼の指先がわずかに震えているのを、私は見逃さなかった。
サツキは完全に凍りついていた。
「で、電圧……って、ビリビリするやつ、ですのよね……? あらまぁ……いやぁぁん……!」
カップがまた小さくカタカタと鳴る。
シオンは淡々としたまま、紅茶を見つめていた。
「——アスミ先輩。私は“痛み”を排除しているわけではありません。
ただ、観測者の倫理に“痛みの共有”は必要不可欠だと考えています」
私は息を呑んだまま、返す言葉を探す。
でも、ハザマの手がまだ肩にあった。
止められなければ、私はたぶん机ごと掴んでいた。
「……あなた、ほんとうに何を考えているの!? シオン……!!」
「恐怖は、生きている証拠です」
その瞬間、室内の温度が0.5℃下がった。
蛍光灯の光が、紅茶の表面を冷たく撫でていく。
サツキの震えるカップの音だけが、唯一の現実だった。
一瞬の沈黙。
サツキが、どちらを見ていいかわからない顔で間に立った。
「ま、まぁまぁまぁ〜! そ、そんな怖い話ばっかりしてもアレですしっ!
ほら、“一部導入”でも、ビリビリアップも前より安全にはなったんでしょ? アスミさん? ねっ?」
「サツキ、それは——どう聞いてそう思うの??」
「——承諾いたしますわっ☆!」
「えっ!?」
私は目を剥いた。
サツキは完全にテンパっていた。
笑顔で両手を広げ、
「ほら、進歩してるって素敵ですの! うんうん!もう倒れた子も元気なんですわよね!?
次はもっと安全になりますわ! ねっ!? そういうことでよろしいんですの!? ハザマ!」
ハザマが眉をひとつ動かした。
「……承認と記録、完了しました」
「ちょ、ちょっと待ってよ!? それじゃ、完全に——」
「ま、まままっ、言っちゃったのですわっ☆!」
サツキは両手をバタバタ、笑顔が引きつっている。
「うっかり、勢いで! でもほら、“一部承認”ですもの、全部じゃありませんの!?」
シオンはにっこり微笑む。
「ありがとうございます、会長。倫理委員会への書式は、私の方でまとめます。
まだ、アスミ先輩に見せてない資料もここに置いておきますね。では、失礼します」
「ちょっと……!! まだ、見せてないってどういうこと??」
すると、サツキ会長が私の会話を遮るように、強引に話を締める。
「次はっ!!双灯祭でお会いしましょう!!」
その一言で、天城の勝負は終わった。
⸻
シオンが退席するとき、空気がやっと動いた。
ドアが閉まる音と一緒に、サツキが椅子にへたり込む。
「はぁぁ……あの子、怖いわぁ……可愛いのに……」
私は深呼吸して、心臓を押さえた。
「……ほんとに言っちゃったね」
「うっ……だって、あの笑顔で“ありがとうございます”って言われたら、なんかもう、流れで……!」
「流されるなよ……!」
「わたくしだって怖かったんですのよ!? 紅茶、三回こぼすくらいの恐怖でしたの!」
(実際こぼしてるよ)
ハザマが無言で新しいカップを置く。
「お疲れさまでした、会長」
サツキは紅茶を見つめ、ため息をついた。
「……アスミさん。
この学園、ほんとに文化祭で死人出たりしないわよね?」
私は黙って首を横に振る。
「——それは、これから私たちが止める」
サツキは小さくうなずき、紅茶を一口。
手の震えが、まだ止まっていなかった。
その時、サツキは、両手をパンと合わせた。
空気圧が戻る。
「よろしいですわ!天城も観測します!影村に負けませんの!倫理でも、楽しさでも、バズでも!!」
「会長」ハザマが低くささやく。「“負けない”ではなく“共催”が……」
「共催で勝つのですわ!」
言語が強い。物理も強い。紅茶は弱い。
——残った紅茶の香りが、室内の“勝負勘”を覚醒させたのだと思う。
二階堂サツキがゆっくり立ち上がり、髪飾りの角度を人差し指でちょいっと直した。
あの動作が出た時は、だいたい爆発フラグ。
「——閃きましたわ!」
声が、まるで校内放送のBGMを呼び寄せたみたいに高く響いた。
「紅華女学院——紅条リリアン。あのピンク侵略のお嬢様方に、“影村の空にだけ”バルーンを撒いてもらいますのっ!」
私は椅子の背にもたれて、心臓を掴まれたように息を止めた。
「……ちょ、ちょっと待って。よりにもよってそこ? 校内干渉の常習犯だよ。
去年の学祭、空ごとジャックした“空の魔女団”!」
「演目で勝つのが文化祭ですの!」
サツキは胸に手を当て、紅茶の香りと一緒に笑う。
「礼節で包み、可愛さで上書き。影村の空を**“祝いのピンク”**で満たして差し上げますわ!」
「会長」
控えめにハザマが口を開く。タブレットの光が彼の眼鏡に反射して、危険信号みたいに一瞬光る。
「その場合、法的・倫理的リスク、群衆誘導、香料拡散、視覚障害、火災報知器の誤作動、そして——」
「ハザマ、そこはあなたの優秀な右腕でしゅばっと!」
「……“しゅばっ”は手段ではありません」
(それでも、ハザマのタブレットには“紅華交渉プロトコル案”が生成され始めていた。右腕は論理を現実化する臓器。)
私は額を押さえた。
「止める。これは、止めるべき」
——その時、私の視界の端にピンク色をしたミームが立ち上がった。
『採用で』
送り主:チイロ。
差出人欄には、いつもの顔文字( :3 )。
「チ、チイロ先輩っ!?」
思わず声が出た。
振り向くと、ドアの縁にチイロが寄りかかっていた。
いつ来た? いつから聞いてた? コーラのプルタブを人差し指で弾いて、私にウィンク。
「チイロ先輩!何カッコつけてるんですか?ってか、いつから聞いていたの??」
「ん? 君たちがあの影村の会長と楽しく通話中だった時かな?」
「通話じゃなく会話ね!むしろ加勢してほしかったんだが!」
思わず、私も変な口調になる。
「祝祭はね、衝突で光る。なら、衝突の角度だけ設計すればいい」
「待って、それ違う。止める方だよ。紅華に“お願い”なんて、火に香水かけるようなもん!」
「うん。だから、アスミが行く」
「は?間を飛ばさないで先輩」
チイロは、淡々とした声で続けた。
「紅条リリアンと私は友達。……でも、わたしが行くより、アスミが行った方が“構造”が正しい」
「なんで私なの!」
「行けばわかる」
チイロは短く言って、コーラを半分飲み、空き缶を指先で潰す。
金属音が完璧な四分音符だった。
「ちょっと自販機。続きは後で」
「ちょっ、ちょっと待って!」
「またな後輩」
私の声はドアの閉まる音に掻き消された。
サツキは満面の笑顔で、まるで祝辞みたいに手を叩く。
「交渉担当、矢那瀬アスミっちゃん!
ハザマ、同行申請とリスク計画を**しゅばっ!**と!」
「……具体化します(大意:やります)」
⸻
サツキは、どこか勝ち誇った顔でソファに腰を下ろす。
「アスミさん、見ました? 今のわたくし、冴えてますわよ!」
「いや、冴えてるっていうか……燃料漏れて、私は思いっきり爆発に巻き込まれた感じ」
「ふふんっ、爆発も美学のうち! ——ねぇハザマ、今のわたくし、かっこよかったでしょう?」
「はい、危険でした」
「褒め言葉と受け取りますわ!」
(この人の“勝負勘”、どこから来るんだろう。たぶん紅茶。)
私は深く息を吸い、ようやく口を開いた。
「……わかった。交渉、私が行く。ただし条件は三つ!」
指を三本、机の上に立てる。
①バルーンは祝祭色で統一。ピンク単色は禁止、グラデーションで“可視化と安全”を両立。
②香料散布はゼロ。視界確保ライン15mを死守。
③“影村の空”じゃなく“双灯祭の空”として。——敵じゃなく、祭を祝うために。
サツキが髪飾りをスッと触る。
「素敵っ! それ、ま・さ・に!!勝利角ですわ!!」
ハザマが端末を操作しながら補足。
「交渉文案、今夜までに。
紅華側の窓口は私が確保します。
……できれば、あなたは笑顔で言葉は硬く」
「はい……たぶんそれが一番効くよね」
私は息を吐き、端末に短いメッセージを打つ。
【リリ。——“やばい”は対処中。今度は私が“行く”ほう】
送信。
画面が少し温かい。
サツキは窓の外の空を見上げながら、にやりと笑う。
「——やっぱり、お祭りは“空”が命ですわね」
「いや、違う意味で命がかかってる」
「それもまた、青春っ☆」
私は呆れ半分、笑い半分で息を整える。
ドアの外では、チイロのコインが落ちる音。
自販機の唸りと、アルミ缶の冷たさ。
『採用で』『頼んだ』——ピンク色のミームが、私の視野の端で静かに明滅した。
——祝祭は、衝突で光る。
なら、私たちは角度を設計する。
髪飾りも、紅茶も、ピンクも、ぜんぶ抱えたまま“楽しく終わる”角度を。
観測は、まだ私たちの側にある。
……予想外という言葉が、これほどぴったりくる日はなかった。
サツキ会長が“しゅばっ”と承諾した瞬間、倫理の均衡が音を立てて傾いた。
私は止めたつもりだった。でも、彼女の“勝負勘”は理屈の外にある。
その勢いに、シオンの笑みが静かに重なる——あれは、勝者の顔だった。
誰も傷ついていないのに、敗北感だけが残る。
紅茶の香りが甘く感じたのは、きっとアドレナリンのせい。
そしてサツキが放った次の一言で、空気がまるごと反転した。
「——紅華女学院に協力を要請いたしますわっ☆!」
世界の方程式が、また書き換えられた。
止める間もなく、ハザマがプロトコルを生成し、チイロ先輩からの“採用で”がピンク色のミームとして画面に浮かぶ。
……何が起きているのか、半分も理解できない。
でも、理解できないのは悪いことじゃない。
“観測”とは、分からないまま見続ける勇気のことだから。
祭りは衝突で光る。
その言葉を信じて、私は紅華へ向かう。
ピンクの空の下で何が起こるのか——それはまだ、誰にも観測できない。




