EP64. 四杯のグラス
記 玖条リリ
――これは“安全な実験”の記録じゃない。
生徒会室の白色灯が紙を漂白していくのを見ながら、私はやっと理解した。
会長職を御影シオンに譲った瞬間から、影村の倫理は「数式」になった。
優しい音で鳴る地獄は、本物の地獄より始末が悪い。
今日も私は副会長のバッジをつけて、彼女の隣に立つ。
手順は整然、声は穏やか、誤差は最小。
なのに私の指は震え続ける。
震えは失敗の兆候ではなく、“正気の証拠”だと自分に言い聞かせる。
観測を開始する。
もし途中で私の筆致が乱れたら、それは恐怖ではなく、警報だ。
総司兄さん、矢那瀬――記録の外側で読んでいて。
私が見た“優しい裁き”の実際を、ここに置く。
——これは、ゲームじゃなかった。
生徒会室の蛍光灯が、紙の白をより白くしていた。
御影シオンは、その中央に立ち、四つのワイングラスを指で軽くなぞる。
声は、まるで授業中の朗読みたいに穏やかで、それがかえって、背筋を冷たくした。
でもシオンは、まるで科学の授業みたいな口調で言った。
「Q2──四杯のグラス、〈安全な選択〉」
一呼吸置いて、
彼女は、ページに書かれた文章を、まるで詩みたいに読み上げていく。
⸻
「テーブルに、四つのワイングラスが一直線に並んでいます。
左から、1番、2番、3番、4番。
誰もまだ、触っていません──並び替えもされていません」
グラスの表面を指先でなぞりながら、彼女は柔らかく、しかし確信をもって続けた。
「毒Xは液の中。飲めば120秒後に死にます。
でも、同時に解毒剤Yを60秒以内に飲めば、無効化できます」
少し間をおいて、唇の端にかすかな笑み。
「毒Zは……揮発性。
グラスの“縁”にだけ残っていて、口をつけるだけで吸収。
致死まで180秒。解毒剤はありません」
⸻
シオンは、静かに紙を下ろす。
指先で、机をトントンと叩いた。
リズムが時計みたいに一定。
その音の上に、彼女の声が落ちる。
「与件です」
グラスをひとつずつ、淡い声で読み上げていく。
「グラス1──外側に指紋。でも縁に口紅の痕はなし。
グラス2──液面が少し低い。縁には……水滴の輪。
グラス3──縁にくっきりと口紅痕。外側には拭き跡。
グラス4──満杯。縁も外側も、痕跡なし」
彼女の声はゆっくりと、観測の速度で流れていく。
「机の上には、小瓶“Y”。容量は60ミリリットル。
キャップは開いたまま……周囲には、微かなアルコールの匂いが残っています」
⸻
そして、最後の一文を読む前に、シオンは小さく笑った。
「設計者のメモが、こう言っていました」
声のトーンが、少しだけ下がる。
「“Xは液中、Zは縁。順序を間違えると、先に死ぬ”」
その言葉だけ、妙に丁寧に発音された。
空気の粒が、ひとつひとつ意味を持って落ちていくようだった。
⸻
「——では、問です」
視線が上がる。
四人の生徒を、まっすぐに見る。
その目は笑っているのに、光の反射がなかった。
「いま、1杯だけ飲むなら。最も安全なのは、どれでしょう?」
少し、間。
「1番……2番……3番……それとも、4番?」
白い指が、静かにグラスをなぞる。
その仕草が、まるで祈りにも見えた。
「制限時間、3分」
——カチ、カチ。
壁の時計が動き出す音が、部屋全体を包み込んだ。
シオンは微笑んだ。
まるで、優しい死神のように。
生徒たちは、息を呑んだまま沈黙していた。
テーブルの上に並ぶ四つのグラスが、蛍光灯の光を受けてゆらゆらと反射する。
その微かな揺れまでが、まるで「選択を急かしている」ように見える。
3分。
時計の針は、規則的に進んでいるのに、空気だけが止まっている。
⸻
「……“順序を間違えると先に死ぬ”、ってどういう意味なんだろう」
前の席の男子が小声で言った。
その声を、シオンはすぐに拾った。
「いい質問ですね」
彼女の声は穏やかで、音の高さも変わらない。
「“順序”というのは、観測の順番でもあります。
見たあとに考えるのか、考えてから見るのか──それだけで、結果はまったく違ってしまう」
彼女は手を胸の前で組み、ゆっくりと視線を四つのグラスに流した。
「あなたたちは、どの順で“安全”を定義するつもりですか?」
その問いかけが落ちた瞬間、全員の顔がわずかに強張った。
⸻
1番のグラスの前に立つ男子が、ため息をつく。
「たぶん……これだと思う。口紅も水滴もないし、触られた痕跡だけ。
飲まれてないってことは、安全なんじゃないか……」
シオンは頷いた。
「なるほど。根拠は“他人が触れた痕跡の少なさ”ですね。
でも、それを“安全”と呼べるのはなぜ?」
男子は答えに詰まり、視線を落とす。
シオンは静かに微笑んだ。
「……“触られないもの”は、まだ観測されていない。
観測されていないものは、存在していないかもしれません。
つまり、“安全”も、まだ確定していません」
⸻
二番目の女子が、怯えたように笑った。
「じゃあ、何を信じたらいいんですか?」
「“信じる”というのも、観測行為のひとつですよ?」
シオンの返答は、まるで冗談のように軽かった。
彼女は、ゆっくりと時計を指差す。
「残り──2分」
⸻
3番のグラスの前の生徒が、震える声で言った。
「口紅の跡……って、飲んだ証拠ですよね。
Zが縁についてるなら、これ、確実に危険じゃないですか」
「確実?」
シオンは首を傾げた。
「“確実”って便利な言葉ですよね。
本当は、“まだ検証していない”のに、人は“危険だ”と決めて安心しようとする」
彼女の口元が、ゆっくりと笑みに変わる。
「安心って、毒より怖いものなんですよ」
⸻
残り1分。
4人の生徒が、互いに顔を見合わせる。
呼吸の音だけが交錯する。
それぞれの胸の鼓動が、目に見えそうなほどに強い。
シオンは静かに見守っていた。
腕時計の秒針が、確実に“終わり”に近づいていくのを確認しながら。
「さあ……3分が経ちます」
彼女の声は、どこまでも柔らかい。
「選択してください。“死なない自信”ではなく、“選びたい勇気”のある人からどうぞ」
⸻
沈黙。
だれも、動かない。
ただ、グラスの中の液面だけが、かすかな空調の流れに震えていた。
その光の揺れを見つめながら、私は、喉の奥で息を止めた。
——矢那瀬、これはもう遊びじゃない。
シオンは“観測”じゃなく、“信仰”を作ってる。
私は震える指で、スマホを取り出した。
“矢那瀬アスミ”という名前のチャット欄を開く。
でも、何を打てばいいか分からない。
“今すぐ来て”。
“シオンがまたやってる”。
“今回は、本当にやばい”。
助けて
どれも軽すぎる。
現実を伝える言葉が、見つからない。
まるで、この状況そのものが“正解のない選択肢”みたいだった。
送信ボタンを押す前、シオンの声がまた響いた。
「時間です」
白い照明の下、彼女の瞳だけが光を吸い込んで、まるで底の見えない液体みたいに暗く揺れていた。
「さあ、3分経ちました。選んでください。一人だけ、“観測を終える”ために」
⸻
私は、限界だった。
「やめてシオン!」
声が出た。
教室に、硬質な音が響いた。
四人の生徒が、一斉にこちらを向く。
シオンは、微笑んだまま。
「……副会長。前にアスミ先輩が来てくれた時にも話をしましたけど、これは、あなたの“設計”でもありますよね?
“エアロック理論”。閉鎖空間の中で、人がどの順に出口を開けるかを観測する。
——あなたが初めて提案してくれたじゃないですか?」
心臓が、止まった。
私の口から、声が出ない。
足元の空気が、透明な壁になって動けなくなる。
シオンの声が遠くから響く。
「だから私は、あなたの理論を再現してるだけなんです。ね、リリ副会長?」
笑顔。
優しい声。
まるで褒められているみたいに。
けれどその“褒め”が、何より重い罰だった。
⸻
私は、やっと喉を動かした。
「……矢那瀬、お願い。シオン、壊れてる」
シオンの声が、白い部屋に溶けた。
「……では、結論を出しましょう」
彼女は四つのグラスを、一つひとつ指先でトン、と軽く叩く。
音がガラスの内側で澄んで鳴り、まるで“心音”を模しているみたいだった。
「安全か、危険か。理屈は出揃いました。あとは行動です」
そして、微笑む。
その笑みは、母親が子供に“よくできました”と褒める直前のような、どこまでも優しいカーブを描いていた。
「——飲んでください」
その一言で、空気が凍った。
生徒たちの表情が、まるで時間を止められた人形みたいに固まる。
だがシオンは、静かに首を傾げる。
「大丈夫です。この飲料は無毒です。危険なのは、中身じゃなく——選び方のほうですから」
……それでも、誰も手を動かさなかった。
⸻
私は息を潜めていた。
心臓の拍動が、手首の中でうるさいほどに鳴る。
手の中のスマホが熱い。
画面の中のチャット欄、未送信のメッセージ。
【矢那瀬!! シオン、やばい。すぐ止めに来て。】
指先が震えて、打てない。
送信した瞬間に何かが壊れる気がして。
でも、もう壊れているのかもしれない。
⸻
一人目の男子が、恐る恐る手を伸ばした。
グラス1。
液面が揺れる。
「……これ、ですよね? 安全って……」
シオンが、まっすぐに頷いた。
「ええ。あなたがそう思うなら、そうでしょう」
彼が一口、飲んだ。
唇にわずかな震え。
その一滴が喉を通った瞬間、時計の音が遠くなった。
10秒。
20秒。
静寂。
その後、彼が笑った。
「なーんだ……ほんとに、普通の……」
言葉が途中で切れた。
指が痙攣する。
グラスが机にぶつかって音を立てる。
彼の喉が、息を求めてひくついた。
「っ……何……これ……」
他の生徒が悲鳴を上げる。
でも私は——声が出なかった。
⸻
(無毒、なんじゃなかったの……!!?)
シオンが一歩前に出る。
その足音は、まるで実験台を歩く医者のものだった。
「落ち着いて。あなたの選択は正しい。
ただし、“順番”を間違えたのかもしれません」
優しい声。
本当に優しい声。
その“優しさ”が、何よりも恐ろしい。
⸻
私は震える手で、やっとメッセージを打ち込む。
【矢那瀬!!もう“観測”じゃない。これ、“裁き”だよ。】
指が滑って、送信。
画面が真っ白に光った。
その光でようやく気づく。
——私の頬が、涙で濡れていることに。
⸻
彼が椅子から崩れ落ちた瞬間、シオンは息を吐いた。
「……いい観測でした。人間の“安全”って、本当に脆いですね」
そう言って、そっと彼のグラスを拾い上げる。
中身を少し見て、
「やっぱり。ただの着色料ですね」と、満足げに微笑んだ。
私は足が震えて、立ち上がれなかった。
それでも、目を逸らせなかった。
彼女の笑顔が、あまりにも正しくて、あまりにも壊れていたから。
⸻
(矢那瀬、あの子、完全に“再現”してる。……“選択の儀式”を。)
喉が痛い。息が苦しい。
でも、それでもメッセージを打つ。
【矢那瀬!!来て。私じゃ止められない。】
⸻
その時、シオンがこちらを見た。
笑顔のまま、まっすぐに。
「副会長、顔色が悪いですよ。……あなたも、飲みますか?」
その笑みは、冗談じゃなかった。
本気で、心配しているように見えた。
私はうつむいて、唇を噛んだ。
血の味がする。
でもその痛みだけが、まだ“生きてる”証拠だった。
⸻
……あの瞬間、私は確信した。
御影シオンは、ただの悪魔なんかじゃない。
彼女は、“悪意のない観測者”だ。
だからこそ、誰よりも危険だった。
“悪意のない人間”が、世界を一番冷たく壊すから。
息を切らす生徒の隣で、シオンはしゃがみ込み、こぼれたグラスを静かに拾い上げた。
私は反射的に立ち上がる。
「シオン、やめなよ、それ——!」
彼女は首をかしげた。
まるで、「なぜ止められているのか」理解できていない子どものように。
「どうして?」
声は穏やかだった。
「これは観測の続きをするだけです。“飲んだ人が何を感じたか”を、私も体験しなければ比較にならないでしょう?」
そして、そのまま。
ほんの少し笑って、グラスの縁に唇を寄せ、舌先をあてた。
—
「……間接キスですね」
彼女はわざとその言葉を使った。
柔らかく、いたずらっぽく。
けれど、その笑顔に“恥じらい”というものは一滴もなかった。
「安心してください。彼の唾液に毒はありません。でも、“安全”とは限らない——観測って、そういうものですから」
喉が、ごくりと鳴る。
誰も動けない。
シオンは、そのままグラスに残った液体を一気に飲み干した。
白い喉が上下に動く。
その動作が異様に静かで、まるで儀式の一部のように見えた。
グラスの底を確かめて、彼女は小さく笑う。
「……やっぱり、ただの着色料」
でも、次の瞬間。
その笑みが、ほんの少しだけ、歪んだ。
「——でも、不思議ですね。冷たくないのに、喉の奥が焼けるみたい……不思議です」
彼女は指先で自分の唇を軽く触れ、まるで、感情の温度を測るみたいに呟く。
「これが“間接キス”のデータ……なるほど、恐怖よりも、同情の方が先に来る構造なんですね」
生徒たちは息を詰めたまま動かない。
ただ、彼女の瞳だけが輝いていた。
「観測、完了です」
そしてグラスを置く。
音が小さく、けれど確実に響いた。
私はその音を、永遠に忘れないと思った。
あの瞬間の彼女の笑顔は、“人を好きになる”という行為を、冷たい科学として再定義してしまった笑顔だったから。
シオンは、椅子に腰を戻した。
白衣の裾が静かに揺れる。
息を吸うと、わずかにアルコールとガラスの匂いが混じっていた。
「——正解は、二番のグラスです」
彼女の声は、驚くほど柔らかかった。
怒鳴り声も歓声もない。
ただ、どこまでも澄んだ“説明”の声。
「理由は、とてもシンプルなんです」
指先で、グラス2の縁をそっとなぞる。
「見てください。縁に水滴の輪、液面が少し低い。つまり——“誰かが、直前に洗った”。
毒Zは揮発性。水分で薄まり、気化してしまう。だから、最も“縁に何も残っていない”のはこれなんです」
彼女は微笑みながら、残りのグラスたちに視線を移した。
「三番のグラス。これは“綺麗に見せようとした跡”があります。縁に口紅、外側の拭き跡。
一番人間的で、一番危険な痕跡です。“人の手”が入ったものほど、不安定ですから」
「四番は満杯。完全な無痕。でも、完璧なものほど怪しい。
完璧は“操作された無垢”です。——綺麗なものに、毒はよく似合う」
そして、最後にグラス1を見つめた。
「指紋はあるのに、縁は不明。“見たことがあるけど、確かめていない”対象。
観測が曖昧なまま選ぶのは、信仰と同じです。それは選択ではなく、投票。安全ではありません」
⸻
シオンは、そっと笑った。
光を帯びた声が、部屋の隅々にまで届く。
「だから二番です。
これは、“まだ救いの手順が残されている”グラス。
たとえ毒Xが入っていても、解毒剤Yがある。
“選択のあとに修正できる構造”だけが、倫理的に安全なんです」
そう言って、机の上の小瓶Yを軽く持ち上げた。
透明な液が、照明の下で小さく震えた。
「人が死ぬのは、毒のせいじゃない。“間違えても戻れない設計”のせいなんです」
彼女は、まるで詩の朗読みたいに言葉を並べた。
「だから私は、構造を正したい。——“安全”という幻想を、正しい形に観測したいんです」
⸻
私は、もう立っていられなかった。
膝が震えて、足元の床が波のように揺れた。
涙が勝手にこぼれて、喉の奥が焼けた。
「シオン……何で、そんな顔で言えるの……」
声が掠れて、自分でも聞き取れない。
泣いてる理由は、わかっていた。
怖いからじゃない。
優しい声で“正しさ”を語る彼女が、あまりにも正しくて、あまりにも人間じゃなかったから。
シオンはその涙を見て、少しだけ目を細めた。
「副会長。泣かなくていいですよ。あなたの理論、“エアロック”は本当に美しい。
閉じることも、開くことも、同じ意味を持っている。
あなたがいなければ、私はここまで届かなかった。ありがとう」
「……やめてよ……」
声が震える。
「そんなふうに、褒めないでよ……」
シオンは何も言わなかった。
ただ、指でグラス2を軽く弾いた。
透き通った音が、静寂の中を滑って消える。
「これが“安全な音”です」
私は、泣きながら思った。
——やっぱり、悪魔は笑いながら祈る。
そして、祈りながら人を平気に壊す。
結果は簡潔だ――私は間違えた。
生徒会長の席をシオンに譲った時点で、私は「制御できる」と思い込んでいた。
論理で囲えば倫理は逃げない、私が監督すれば暴走は起きない、そう信じた。
けれど“悪魔”は、手懐けれるような相手ではなかった。
彼女は悪意がないぶん、誰よりも冷たく正しい。
そして“正しさ”は、時々、人を平気で焼く。
グラスが机に触れて澄んだ音を立てた瞬間、私は理解した。
あれはゲームではない。選ぶ行為そのものに罰を編み込む儀式だ。
私が提案したエアロック理論は、彼女の手で“出口のない出口”に変換された。
発案者としての責任から逃げないために記す――あれは私の失策でもある。
総司兄さんへ。
私は副会長として、止めるべきところで止められなかった。
矢那瀬へ。
あなたに「大丈夫」と言える状況じゃない。
だからこそ来てほしい。
“観測”を“救済”に繋げられるのは、あなたの視点だけだと私は知っている。
次は譲らない。
構造を壊す。罰を外す。迷いを許す。責任を手順に移し、人を赦す。
これは懺悔であり、宣言でもある。
私はもう、優しい音で鳴る地獄の係員をやめる。
ここから先は、私が“非常ボタン”になる。




