EP62. 傘の骨の音が合図
傘の骨が鳴るたびに、過去と現在の境目が一瞬だけずれる。
今日はその音を聞きに、リリに会いに行く。
正直、怖い。
“思い出す”って、けっこう残酷な行為だ。
忘れていたほうが呼吸が楽な記憶もあるし、思い出した瞬間に自分が誰なのかわからなくなる記憶もある。
でも——あの夜十時の通話、御影シオンの声、そしてあの「電気椅子」の構造。
全部、今のままじゃまた“再演”される。
そうなれば、誰かがきっと、また笑いながら痛む。
私はそれだけは嫌だった。
だから、リリに会う。
彼女にだけは伝えたい。
私が忘れていた時間、彼女がずっと守ってくれていたことを。
……たぶん、これは「懺悔」じゃなくて「再設計」の記録。
もう一度、観測のやり方を組み直すための。
そのために、私は今日、傘をたたんで歩く。
雨が上がった直後は、世界に薄い保護膜が張られたみたいに静かだ。
石畳の目地から立つ湯気、校舎ガラスに貼りついた雫、遠くで体育館の換気音。
影村学園の廊下は、いつも冷たく光っている。
静電気のようにピリピリした空気。
誰もが息を潜めて生きている感じがする。
この学園には、“見えない秩序”がある。
いや、もしかすると、それを作っているのが――御影シオンなのかもしれない。
全部が“今日”にのみ有効な一回きりの効果音。
私はその真ん中で、わざとゆっくり傘を畳んだ。
骨が鳴る。合図。
振り向くリリ。
「矢那瀬……アスミ」
呼ばれ慣れたはずの名前が、ほんの少し痛い。
いい痛みだ。神経が戻ってくる痛み。
「リリ」
名前だけで通じるときは、だいたい大事なことを言う前だ。
私は息を整え、額に残った雨粒を袖で拭く。
「この前、“どこかで会いましたか?”って言ったの、謝りに来た」
「……覚えてるよ。ショックだった」
リリの返事は相変わらず直線的。
でも目の奥に柔らかい弧。
「忘れてたんじゃない。思い出せなかったの。ごめん」
ここだけは、ちゃんと音にする。
未送信のメッセージを送る。
一拍。リリが、強がりの膜を一枚だけ外すみたいに微笑む。
「いい。あの時の矢那瀬、顔が“戻ってきた”って今、思ったから。
忘れてたって比喩でもなんでもないんでしょ?意味があるんだよね。だから、理由は聞かない」
胸の奥で、夜十時の着信音がまた鳴る。
御影シオン。
電気椅子。
沈黙の30秒。
同時押しの扉。
――“誰も間違っていないのに出られない部屋”。
喉のどこかに金属の味が残っている。
私はそれを飲み下し、今日の用件を掲げる。
「リリ、真面目な相談。影村でやる、双灯祭の“脱出ゲーム”、構造を変えたい」
「……やっぱり知ってるんだ。“狼椅子”の派生も、A⇄Bの全員一致も。私は……私も、本当は止めたい」
掠れた声。副会長の外装を外したリリの声だ。
「でも生徒会は走り始めた。御影シオンは“正しい設計”しか信じない」
「正しい設計ほど、人を閉じ込めるよ」
私の声が、雨上がりの空気みたいに冷える。
リリの目尻に、たった今浮かんだ水の跡。「……うん」
「じゃあ提示する。三つ。“全員一致の牢獄”を“重ね扉”に」
私は傘の柄から指を三本離し、一本ずつ倒す。
一、時間の非同期許容(Δtウィンドウ)
「同時押しは±3秒を“同時”と判定。迷いのためのバッファ。遅れは罪じゃない」
二、個別脱出口(Fail-open分岐)
「主扉の外に各自の“再考ボタン”。押せなかった人も別ルートで追いつける設計。罰なし、説明のみ」
三、信頼の可視化を“罰”じゃなく“手紙”に
「心拍や足踏みの揺れは表示。ただし電流も振動も禁止。
全員が出口に立ったときだけランプが点く。揃わなかった記録は未送信メッセージとして保存」
言い終える前に、リリの瞳が昔の色温度に戻る。
設計者の目。否定から入る代わりに、仕様から入るあの目。
「……できる。いや、やる。規約は私が書く。罰なし・再挑戦可・責任は個人でなく手順。
生徒会決裁用の条文化、今夜までに出す」
「もう一個条件」私は姿勢を正す。
「“観測係”は私が受ける。ただし、外側の外側にもう一人置く。記録監査。
私が迷ったら“止める役”。——チイロ先輩に頼む」
「チイロさん……」
名前が触媒になって、リリの目が潤む。
「ねぇ矢那瀬、私、やっぱり戻りたい。昔の私に。怖がって、否定から入って、でも仲間を信じてた頃に」
私は一歩詰め、リリの肩に軽く触れる。
体温の確認。
「戻るじゃなくて、結ぶだよ。今のリリと昔のリリを。
私もそうする。“思い出せなかった私”も置いていかない。全部持って行く」
「……ずるい言い方」リリは笑って泣く。
「でも、好き」
泣き笑いの顔は反則だ。私は思わず小さく笑ってしまう。
「副会長が“好き”とか軽率に言うの、あとで議事録に残すね」
「やめて。じゃあ“好意的評価”に言い換える」
「官僚的で怖い」
二人で噴き出す。雨後の空気が軽くなる。
風が通り、傘の骨がチリ、と鳴る。起動音。
「設計の差し替えは今日動こう。条文の叩き台は私が書く。リリは生徒会ルートで通す。
それと――双灯祭が終わったら同窓会。チイロ先輩も呼ぶ」
「場所は?」
「放課後の理科準備室」
同時に言って、同時に笑う。
呼吸が合う。同調が、昔みたいに勝手に走る。
雲が裂けて、光がガラス床に丸を増殖させる。
その真ん中でリリが小さく頷いた。
「矢那瀬。……ありがとう。私、御影シオンが怖い。
でも、矢那瀬が“外側の外側”までロープを張るなら、行ける」
「行こう。出口のない出口に、出口を足しに」
――ここまでが骨子。ここからが中身だ。
私は鞄からメモを出す。
シオンとの通話ログを圧縮した“危険構造のチェックリスト”。
リリは副会長モードに戻り、ペンを構える。
私たちは、仕様と心拍を同時に走らせる。
⸻
1) Δtウィンドウの検討
「±3秒、根拠は?」
「えっと、W1……じゃなくて、ごめん、昔の“事故”で、恐怖下の意思決定に必要な再評価時間の中央値が2.4秒だった。
3秒あれば多くの人が『押す/押さない』から『押さない理由を言語化する』に移れる」
「言語化できれば、扉の前に立ったままでも“前進”になるってこと?」
「そう。立ち尽くしじゃなくて、止まり方の可視化」
「3秒でも押せない人は?」
「“再考ボタン”に導く。押せなかったことを罪ではなく情報として扱う」
2) Fail-open分岐
「再考ボタンの先、何を置く?」
「“質問”。あなたは何を守った? それに答えたら、別ルートで合流。
静かな廊下、光の誘導、低い環境音。心拍を落とす環境設計にする」
「……優しい。副会長、賛成取れる?」
「“退出率が上がる”というKPIで押す。生徒会は数字に弱い」
「官僚だ」
3) 可視化=手紙
「心拍や揺れの表示は、どのくらい見せる?」
「匿名化して集合だけ。**『いま誰かが迷ってる』が伝われば十分。
“迷いの実在”を可視化して、“誰のせい”**へ矢印が向かないようにする」
「名前じゃなくて、光の点にする?」
「そう。揺れる光は、責める対象じゃなくて“合図”」
書いて、消して、また書く。
二人の字が同じ紙面で呼吸する。
気付けば、会話のテンポが昔に戻っている。
リリがふいにペンを止め、私を見る。
「矢那瀬。……怖かったよ。ずっと。忘れられてるのか、無視されてるのか、どっちも正解に見える時間」
声が震える。
「ハルナさんの事件のせいだって、勝手に思い込んで“仕方ない”で蓋をしてた。
副会長になったら、蓋が重くて開かなくなってた」
「ごめん」
反射で出た言葉を、私は噛み直す。
「いや、違う。ありがとう。蓋をしてくれてたから、いま開けられる」
「……相変わらず、ずるい言い回し」
「ミーム女子の元で育った女です」
「知ってる」
リリの肩が、やっと落ちる。
私は続ける。
「ねえリリ。戻るじゃなくて、進むために昔を連れていこう。
チイロ先輩にも頼んで、私たち三人で“同窓会”やる。
失われたログに、今日のログを上書きじゃなく追記する」
「“退屈の再現は不可能”って、チイロさん言ってた」
「うん。だから私たちは“退屈の死滅”を再現する」
二人で笑う。傘の骨が、また合図を鳴らした。
⸻
「最後に一個だけ、わがまま」
リリが視線を落として言う。
「私、御影シオンが怖い。 でも、同時に賢さに惹かれてる自分も怖い。
だから、私が判断を誤りそうになったら、矢那瀬、私を止めて」
私は即答する。「止める。手順で」
「感情じゃなく?」
「感情でも止めるけど、まず手順。リリが納得できる形で」
「……ありがとう、副会長冥利」
「副会長じゃなくて、リリ」
「……ありがとう、矢那瀬」
呼吸が合う。もう一度、同調。
⸻
決めることは決めた。なら、締めは明るく。
「条文化は私、19時までにドラフト送る。タイトルは——」
「『重ね扉方式による安全・参加型脱出ゲーム設計指針(案)』」
「官僚。じゃあサブタイトル『罰の撤去と手紙の点灯』」
「詩的。嫌いじゃない」
「双灯祭、絶対楽しく終えるから」
「うん。楽しく終わらせて、理科準備室で同窓会」
私たちは同時に傘をたたんだ。
濡れた石畳を踏む靴音が、二人で一つの拍になる。
そのテンポで、未来の設計図を歩き出す。
——観測は、まだ私たちの側にある。
そして今日はちゃんと、出口に灯りを足せた。
リリの泣き顔を見て、ようやく実感した。
“再演”って、過去を繰り返すことじゃない。
あの痛みをもう一度味わってでも、「違う答え」を出すことなんだ。
私は今、少しだけ安心している。
御影シオンの設計がどんなに冷たくても、リリが中にいて、チイロ先輩が外にいて、私がその間に立っている。
それだけで、世界はまだ閉じていない。
傘の骨は、もう鳴らない。
代わりに、リリの笑い声が残った。
それだけで十分。
——観測は終わっていない。
でも、今回は“罰”じゃなく、“再生”の手順に変わった。
それを見届けられるなら、私は“観測者”でいていいと思う。
……ねぇ、ハルナ先輩。
次に傘が鳴るとき、きっとみんなで笑っていられます。
見ていてください。




