EP61. 花火
風が鳴っていた。
天文台の外壁を擦るあの音、夜になると少しだけ鈴みたいに響く。
今、私はそこにいる。
そして、アスミ――世界で一番生意気。
でも、一番の誇りでもある後輩。
君は、またこの場所に来てくれた。
「……先輩、ここ、好きですよね。本当にずっと、高等部では、一人でいたんですか?」
その問い方が、昔と同じで少しだけ優しい。
私は頷く。
「そう。ここで、ずっと観測してた。誰もいない空をね」
静寂。
星が瞬く音が、空気を叩くみたいに胸に響く。
けれど、私の口から出る言葉は、もう冷えた石みたいに重かった。
「アスミ。……今日は話さなきゃいけないことがある」
君が、少しだけ姿勢を正す。
瞳の奥で、あの**“記憶のノイズ”**がまた揺れていた。
嫌な記憶と温かい記憶が、君の中で混ざり始めている。
つまり、思い出し始めてる。
だから、私は逃げずに言う。双灯祭前にごめんね。
「ハルのことだ」
「……ハルナ先輩、の?」
「うん」
声が震えた。
この台詞を口にするまでに、何年かかったんだろう。
「結論から言うね。……ハルは、もうこの世界にはいない」
一瞬、空気が止まった。
風も音も、全部、どこかへ消えた。
アスミが、小さく息を飲む。
その瞬間、私の胸の奥にあった“冷たい塊”が、ようやく形になった。
「ハルナは、死んだんだ」
目を逸らさずに言った。
どんな慰めの言葉より、それが事実だから。
君の顔が、ゆっくりと歪む。
その顔を見て、私の手も震えた。
⸻
「この話はね、あの爆破事故――“観測部”最後の日のことだ。
……そして、たぶん私が一人で天文台にこもってた理由でもある」
自嘲みたいな笑いが喉で止まる。
アスミが、唇を噛みながら私を見ていた。
「……そんな……どうして……」
「それを、今から話す。ほんとは話しちゃいけない。でもね、君には聞いてほしい」
胸の前で、私は深く息を吸い込む。
呼吸が震える。
この空気の薄さは、罪悪感の濃度だ。
「……私は今、NOXにいる。生きてる。でも、あの日から仲間がいなくなった。
アスミ、ハルはね――人生で唯一、私に“親友”って言葉をくれた人なんだ」
指先が震えてる。情けないほどに。
それでも、君の前でだけは、きちんと頭を下げた。
「だからお願い。私のものすごく勝手で、どうしようもなくダメな先輩のお願いを聞いてほしい。
君に、あの日のことを思い出してほしい。……君の中にはまだ、あの時の“観測記録”が残ってるはずだから……」
アスミの目が揺れた。
怒りでも悲しみでもなく、ただ、震えるほどの驚き。
手が膝の上で固まっている。
「……先輩。わかりました。……最後まで、聞かせてください」
その声は、静かで、でも確かに震えていた。
私は息を吐いた。
涙が一滴、頬を滑った。
「ありがとう、アスミ。……じゃあ、始めよう。
――あの日、“観測部”が現実を壊した日の話を」
放課後の理科準備室。
窓の外は、冬の光で溶けかけた金属みたいな空。
机の上に広げられたのは、一枚の古いポスター。
黄ばんだ紙、擦れたインク。
端が焦げてるみたいに黒ずんでいて、文字がやたらと自己主張している。
さしすせそで止めろ。
爆発は止まらない。
「好感度の記録者」だけが止められる。
感情は、記憶の鍵だ。
リリがメガネを押し上げながら、慎重にそれを拡大鏡で覗く。
ハルは腕を組んで唇に指を当て、アスミはノートを開いたまま固まっていた。
私は、例によってミルクティーを飲みながら軽口を叩く。
「これ、ポスターのフォントだけで不安になるね。
“止めろ”って言いながら一番落ち着いてないデザイン」
「チーちゃん、そういう感想の切り口が犯罪心理学的に怖い」
ハルが笑いながら肘でつついてくる。
「これさ、時代的にはもう二十年以上前の事件だよね。
渋谷駅構内の爆破未遂。未遂って言っても、“止まった”理由が不明のまま」
アスミが小さく呟く。
「……“好感度の記録者だけが止められる”……これ、どういう意味なんですかね」
「観測部的に解釈するなら、“感情の共有”が起動条件だな」
リリがノートに書き込みながら言う。
「事件を防いだのが“共鳴者”だった、という可能性」
「つまり、“観測による干渉”?」
アスミが顔を上げる。
私はうなずく。
「そう。観測によって、誰かの意志が変わった。
“感情が記憶の鍵”って文は、たぶん思考実験のレベルじゃなく、“誰かが本気で証明した”痕跡」
「好感度って言葉のチョイス、妙にポップだよね」
ハルがポスターを指でなぞる。
「これ、当時ネットで拡散されたんだよ。
“感情指数が高い人間なら爆発を止められる”って、悪質なデマ扱いされたけど――」
「本当は、何かの暗号だったんじゃないかって話もあります」
リリが小声で補足する。
「“好感度”は、実験グループの符号。“記録者”は、対象者の観測者。
つまり、このポスター自体が実験のログだった可能性」
私はミルクティーを置いた。
その金属音がやけに響いた。
「……ハル、これどこで見つけたの?」
「資料室の奥。物理実験の記録ファイルに混じってた」
ハルの声が少し硬い。
「偶然にしては、出来すぎでしょ」
アスミがページをめくりながら眉を寄せた。
「“感情は記憶の鍵だ”……これ、以前ハルナ先輩が言ってた言葉と同じですね」
ハルが、わずかに笑う。
「やだなぁ、アスミちゃん。私、まさか過去のテロリストとシンクロしてる?」
「……冗談になってないわ」
私が呟く。
「でもさ」
ハルがポスターをまっすぐ見つめる。
「この“思考実験”の主題、面白いよ。“記録される好感”が爆発を止める――
つまり、“観測された感情”が現象を変えるってことでしょ?
それって、私たちがやってる“記憶干渉実験”と似てない?」
リリのペンが止まる。
アスミが、ゆっくりと顔を上げた。
「……たしかに。“過去を再演することで、今を変える”」
「ハル、それ以上言うな」
私は立ち上がった。
声が、思っていたよりも強く出た。
「それ以上、思考を進めるな。その理論、危険すぎるよ」
「危険って、どうして?」
ハルの目が、いたずらっぽく光る。
「だって、私たちは“観測”をしてるんでしょ?なら、“観測=干渉”の境界を確かめなきゃ。
あのポスターがただの過去の紙切れか――それとも、“まだ観測され続けている記録”か」
「ハル、やめろ!」
でも、ハルの指先はもう紙に触れていた。
その一瞬――
ポスターの端がかすかに、熱を持った。
⸻
空気の粒が、静かにざわめく。
私たち四人の間で、何かが始まっていた。
まるで、“過去の観測”がこちらを見返しているみたいに。
風がざらついていた。
渋谷は空気が硬い。
車の排気とネオンの明滅が混じって、まるで街全体が“観測されている側”のようだった。
私たちはスクランブル交差点を抜け、駅西口の階段の下に立った。
あの古びた地図と、犯行声明のコピーを手に。
⸻
「ここが“さ”、渋谷駅西口地下階段……」
リリが紙を覗き込みながら呟く。
「事件記録では、“最初の目撃情報”がこの付近です」
「“し”はヒカリエ屋上、“す”はそごう跡地搬入口、“せ”はマークシティ連絡通路、そして“そ”は……」
アスミが読み上げて、そこで言葉を止めた。
紙のその部分は、インクが擦れて読めない。
「やっぱり“そ”がない」
ハルが息を吐く。
「五つの地点が指定されてるのに、四つしか実在が確認できない」
私はポケットから端末を取り出して位置を確認する。
地図上では確かに、五つ目の座標が欠落していた。
緯度経度の記録が「欠損」表示になっている。
⸻
「つまり、五箇所で同時に観測して初めて事件が起こる、もしくは止まる」
リリが整理する。
「けれど、私たちは四人」
「……一人足りない」
アスミの声は風にかき消された。
「仮に、同時観測が必要だとしたら、“誰か”がこの実験にいなきゃ成立しない」
ハルが言う。
「でも、その誰かは、もう存在しない。“そ”の座標がないんだもん」
⸻
私は地面に膝をついて、ポスターをもう一度広げる。
あの黒々とした文字を睨みながら、息を整えた。
『さしすせそで止めろ。爆発は止まらない。
「好感度の記録者」だけが止められる。感情は、記憶の鍵だ。』
「なあ、みんな」
私は紙面を指でなぞりながら言った。
「この“さしすせそ”、場所の名前かもしれないけど、もしかして――行動手順じゃないか?」
ハルが眉を上げる。
「行動?」
「“さ”は察知、“し”は指示、“す”は進行、“せ”は制止、“そ”は想起。
全部、“止める”までのプロセスを表してるんじゃない?」
アスミが目を瞬かせた。
「……つまり、“そ”が欠けたのは、“想起”――思い出せなかったから?」
「そう。記憶の空白が、事件そのものだったのかもしれない」
リリがペンを止めた。
「でも、だからといって“再演”は危険です。観測による干渉は、再現じゃなく“再発”になる可能性が高い!」
「それでも確かめたいな」
ハルの声が静かに落ちた。
「この事件、ほんとに“止まった”のかな?それとも、誰かが“止めたことになった”だけじゃないの?」
⸻
駅構内の音が妙に遠い。
人の声が、全部、録音のようにぼやけて聞こえた。
誰もがそれぞれ、地図を見ながら無言になった。
「……五人いなきゃいけないんですよね」
アスミが呟いた。
「仮に、私たちがそれぞれ“さ・し・す・せ”を担当して、誰かが“そ”になるとして……その人はどこに立つの?」
「“そ”がいないのなら、どこにも立たない。存在しない観測者として、“無”から見る」
ハルが静かに言った。
リリが振り返る。
「理論的に不可能です。観測者がいない観測は成立しないですから!」
「だからこそ、起きたんじゃない?」
ハルの笑顔が、どこか危うかった。
「“誰も見なかったこと”が、“現実を確定させた”。
だったら、“見なかった”場所に立てば、――私たちは、“止まる”かもしれない」
⸻
私は思わず口を挟んだ。
「……ハル、安易すぎ。同時観測なんて単純な仕組みじゃない。
五つの地点が同時って、そんなに綺麗に揃うわけがない。
もしこれが本当に観測トリガーなら、“時間のずれ”でも発火する理屈になるんだが」
ハルは肩をすくめて、
「うん。だから、ちゃんと揃えよう。私たちの時計、全部合わせよう。」
「……マジでやるつもりですか?」
リリが私の顔を見る。
アスミは俯いて、指先を握りしめた。
「やらなきゃ、わからないでしょ!」
ハルの声はやけに澄んでいた。
「もし“止まらない爆発”が感情そのものなら、私たちが“感情で止める”しかないんだから」
⸻
その時、駅構内の電光掲示板が一瞬だけ点滅した。
時刻は、17:59。
一分後、街が一斉に黄昏へ変わる。
私は深く息を吸った。
「……じゃあ、確認する。同時観測――“五人目”がいない。
もし“そ”が現れるとしたら、それは……」
「まだ観測されてない誰か」
ハルが答えた。
⸻
アスミが顔を上げた。
「……その“誰か”って、まさか――」
「さぁ、どうだろうね。めっちゃイケメンかもよ?」
ハルが笑った。
「でもね、“そ”って“それでも”の“そ”かもしれない。
止まらないなら、それでも止める。――そういう意味だったら、素敵じゃない?」
リリの端末が警告を鳴らした。
同時に、風が方向を変える。
地上の喧騒が、一瞬だけ無音になる。
私の腕時計が、ぴたりと止まった。
17時59分を指した時計の秒針が、カチリと止まった。
渋谷の喧騒はそのまま動いているのに、音だけが遅れて届くような感覚。
アスミが静かに息を吸う。
「……時間が、止まった?」
「錯覚か、もしくは……観測誤差」
私は答えながら、手の中のポスターを見た。
その端が風もないのにわずかに波打つ。
まるで、紙がこちらの会話を聞いているようだった。
⸻
ハルがひょいとポスターを覗き込み、スマホのライトを当てる。
「ねぇ、チーちゃん。これ見て。“さしすせそで止めろ”の下、インクの下層、なんか薄く文字がある」
リリが慌ててポータブルスキャナを取り出した。
数秒後、解析結果がモニタに浮かぶ。
ノイズ交じりの灰色の画面に、掠れた文字列。
【五人目の視線がそろったとき、記憶は現実を再生する】
「……五人目」
アスミがその言葉を反芻する。
「やっぱり、“そ”は人なんですね」
「それも、視線の位置を揃える条件。
五つの“目”で世界を観測した瞬間、過去の記録が再生される。つまり、現実干渉」
リリの声がかすかに震える。
「でも、そんなの、危険すぎます!」
「危険っていうより、浪漫がある!」
ハルが笑った。
「“五人目の視線”――たぶん、“まだ観測されてない人”。未来の観測者さんかも!」
「理論的に破綻してる」
私は即座に否定した。
「“未来の観測者”は今の世界線に干渉できない。ハル、わかるでしょ??」
「じゃあ――」
ハルがこちらを見る。
「未来を呼び込む観測なら、可能かも!」
⸻
空気が、かすかにきしんだ。
その言葉を境に、周囲の空気の密度が変わる。
人の声、アナウンス、電車の走行音。
全部、遠くで鳴っているように感じる。
アスミが額に手を当てた。
「……頭の奥が痛い。“誰か”の記憶が流れ込んでくるみたい……」
リリがデータ端末を確認する。
「周囲の電磁場、微妙に変化してます。チイロさん、観測場が動いてます!」
「観測場……?」
私はポスターの中央に浮かび上がったノイズを指でなぞった。
そこに、淡く“そ”の文字が浮かび上がる。
そ=存在。
“存在しない観測者”。
「……なるほど」
ハルがぽつりと笑う。
「欠けてたんじゃない。“そ”はもともと“無”だった。
つまり、観測者がいない視点――“存在しない観測者”の座標」
「矛盾です!」
リリが即答する。
「観測は必ず“観測者の位置”が必要。位置を持たない観測者なんて存在しません!」
「でも、“存在しない観測者”の視線が必要なら、誰かが、“存在を手放す”ことで成立するんじゃない?」
ハルの声が静かに落ちた。
アスミが顔を上げた。
「……つまり、自分を観測から外す?」
「そう。観測網の外側に立つ。自分自身を“存在しない”と定義する。その瞬間、五人目が揃うってこと」
⸻
沈黙。
風の音が、また止まる。
私の心拍だけが異様に速かった。
「ハル、それはもう観測じゃない。自己消失実験だ。戻れなくなる!!」
「戻るつもりないよ、私」
笑顔。
それがあまりにも自然で、余計に怖かった。
「だって、私が“無”になれば、四人が“在る”ことが確定する。それって、すごくきれいじゃない?」
「綺麗とかじゃない!」
思わず声を荒げた。
アスミが肩を震わせる。
リリは唇を噛んだ。
「……やめましょうよ……ハルナ先輩、そんな、取り返しのつかないこと……」
アスミの声は涙を含んでいた。
「大丈夫!」
ハルが、いつもの笑顔で言う。
「私の理論、最後に証明したいだけ。“感情は記憶の鍵”。
だったら、私が“無”になる瞬間、あなたたちの中で、“私”の記憶が開く!」
「それは……死ぬってことですよ!」
リリの声が割れた。
「違うよ。ちゃんと“存在する”よ。あなたたちの中でね♡」
⸻
私はポスターを握りしめた。
紙がパキリと音を立てて折れた。
「……ハル、お願いだからやめてくれ。観測者が消える瞬間、世界は歪む。
お前が消えたら、残る私たちがどうなるかわからない」
「知ってる。でも、“わからない”のが観測でしょ?」
ハルが私に笑いかけた。
「大丈夫、チーちゃん。退屈な世界を、もう少しだけ揺らしてくる!」
⸻
次の瞬間。
渋谷の街の照明が一斉に点滅した。
スクランブル交差点の信号が同時に黄色を点滅し、遠くでサイレンが鳴り始めた。
アスミが泣き声に近い声を上げた。
「先輩っ、戻って――!」
だがハルは、ヒカリエの方角へと走り出していた。
その背中が、光に溶けるように見えた。
「ハルナ先輩が……!」
アスミの声が震える。
私は叫んだ。
「ハル! お前バカだ!ふざげんな!」
この時、私はなぜ身体を張ってでもハルを止めなかったのか、後悔しても仕切れない。
風が渋谷の谷底を這っていた。
夜の空気は焦げた金属の匂い。
その中で、私たちは――現実と虚構の区別を失っていた。
ヒカリエ屋上。
そこにハルが立っていた。
冷たい風の中で、彼女の髪がピンクの残光を描く。
まるで**「観測されるために存在する光」**みたいだった。
⸻
「チーちゃん♪ 聞こえる?」
通信越しの声が、かすかに震えている。
「ハル、戻れ!!爆弾が本当にあるかもしれない。実験じゃない。――もう“観測”じゃないんだ!」
「わかってるよ」
ハルは笑った。
「でも、これは“現実が実験を真似しただけ”。世界のほうが私たちの理論に追いついたの」
「そんなバカな理屈あるか!」
怒鳴りながらも、私は恐怖で喉が締まっていた。
⸻
ハルがスマホで動画を回して、私たちに周囲を見せた。
屋上の床には黒い金属箱。
配線が這い、赤いインジケータが脈を打つ。
本物の爆弾だった。
アスミが悲鳴を上げる。
「先輩、逃げて! 本当に起動してます!!」
「ねぇチーちゃん」
ハルの声が、少しだけ優しくなった。
「“五人目”って、結局いなかったよね」
「……いなかったか……」
「だから、世界は完結しない。未観測の座標がある限り、時間はループする。
これ、デスゲームと同じ構造なんだよ。大ショック、はめられたか私」
「デスゲーム……?」
リリが端末を覗き込みながら言う。
「生き残る者が“観測者”として確定する――逆に言えば、“観測されなかった者”は存在が消える」
「そう。観測って、残酷でしょ?」
ハルの笑い声がスピーカーの向こうで震えた。
「チーちゃん、私ね、気づいちゃった。“止める”なんて最初から無理だったの。
だってこの事件は、“止まらない”ことを証明するための仕組みだから」
⸻
通信がノイズを帯びた。
モニターに映る彼女の姿が、赤い光の中で歪む。
爆弾のインジケータが点滅を速める。
「やめろ、ハル! 離れろ!」
「やだ」
その一言が、あまりにも軽く、そして悲しいほど美しかった。
⸻
「チーちゃん。君は“観測者”でいて。最後まで」
「お前、何を――」
「――“好感度の記録者”が、世界を閉じる。女子舐めんな!!」
一瞬の静寂。
それが、世界が息を吸う音だった。
次の瞬間、白い閃光が街を焼いた。
爆音。
光。
時間が折れる音。
アスミの悲鳴も、リリの泣き声も、全部、風の中に溶けて消えた。
⸻
後に報道では、「老朽化した設備の電源系統が原因」とされた。
だが、私たちは知っていた。
爆弾は“観測”によって起動した。
⸻
私は焼け焦げたポスターの断片を拾った。
その中心、インクの焦げ跡に、かろうじて読めた一文。
“目的が目的として観測されたとき、世界は終わる。”
あの理論は破綻していた。
五人目の仮説も、思考実験も。
けれど、結果として――世界はそれを「真実」として記録した。
観測は、終わらなかった。
誰かがそれを見た瞬間、また別の観測が始まる。
まるで、出口のない出口みたいに。
⸻
爆風の中で、最後に見たハルの姿。
彼女は微笑んでいた。
泣きもせず、恐れもせず、ただ“何かを見届ける人”の目をしていた。
「ねぇチーちゃん。“止まらない爆発”って、たぶん――“生きる”ってことだよ!」
その声だけが、今も私の記録の奥底で、燃え続けている。
⸻
この事件の記録は封鎖された。
誰も“好感度の記録者”が誰だったのかを知らない。
けれど、私にはわかっている。
――あの瞬間、
白鷺ハルナは「世界そのもの」を観測していた。
そして彼女が消えたあと、渋谷の空に浮かんだ光の残響を、人々はこう呼んだ。
“花火”
それが、世界に残った
唯一の“答えにならない答え”だった。
雲越チイロ=なんとか生存
話し終えた瞬間、天文台の空気が、静かに止まった。
私の手は、いつの間にか震えていた。
喉の奥が焼けるみたいに熱くて、言葉の残骸がそこに詰まって、動かなくなっていた。
アスミは何も言わず、ただじっと私を見ていた。
その目の奥で、二つの世界が重なっているのが見えた。
W1の惨劇と、今のW2の静けさ。
記憶の境界線が、彼女の瞳の中で揺れていた。
⸻
「……思い出した?」
ようやく声が出た。
掠れて、自分の声じゃないみたいだった。
アスミは、ゆっくり頷いた。
「全部じゃないけど……でも、わかる。あの時、“好感度の記録者”だったのは、ハルナ先輩じゃない。
――チイロ先輩、あなたですよ」
その言葉で、張り詰めていた何かが切れた。
息が漏れた瞬間、身体の力が全部抜けた。
私はそのまま崩れ落ちて、アスミの肩に額を押し付けた。
「……ごめん……アスミ。私、ほんとにダメな先輩だ。
守るって言って、守れなかった。
賢そうなことばっかり言って、肝心な時には、何もできなかった……」
涙が止まらなかった。
それは多分、悔しさでも悲しみでもなくて、“ようやく思い出せた”という安堵だった。
⸻
アスミは、少しだけ困ったように笑った。
「先輩、泣きすぎです。それじゃ観測者の威厳、マイナス∞なんだが!」
アスミの頬が赤くなる。
照れるなら言わなきゃいいのに。
「……ミームまで使って煽るな」
「はっ……励ましてるんですけど……!!」
「どこがだ」
「“泣いてる先輩も、ちゃんと存在してる”って証明です」
彼女の言葉が、ふいに温かく響いた。
私は泣きながら笑って、そのまましばらく顔を上げられなかった。
⸻
「……ありがとう、アスミ」
涙で霞んだ視界の中で、彼女の髪が微かに星の光を反射していた。
「やっと……この話を“誰かに”観測してもらえた」
アスミは照れたように頬を掻く。
「ほんと、世話の焼ける先輩ですね。でも、ちゃんと観測しましたよ。
ハルナ先輩も、リリも、そしてチイロ先輩も」
「……やめろ、泣く」
「もう泣いてます」
「お前、やっぱり生意気だな」
「はい。でも、誇りにしていいですよ」
その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなった。
⸻
外では風が鳴っていた。
天文台のドームの上、星が一つ流れて、空気を切った。
あの音が、鈴みたいに響く。
ハルが好きだった音だ。
私は目を閉じて、隣に座るアスミの気配を確かめる。
「ねぇ、アスミ」
「なんですか?」
「もう“生意気な後輩”って言わない」
「えっ、どうしたんですか急に?」
「今日だけは、“誇りの後輩”って呼ばせて」
アスミはしばらく黙って、顔を赤くしてそっぽを向いた。
「……それ、言われ慣れてないです……」
「だろうね」
「でも……ちょっと、嬉しいかも……」
⸻
夜が少しずつ明けていく。
空の色が薄く溶けて、観測機のレンズに朝の光が差し込む。
私たちは並んで座って、何も言わず、ただ空を見ていた。
もう、爆発はない。
もう、誰も欠けない。欠けさせない。
それでも――
私の胸の奥では、まだハルの声が響いていた。
“止まらない爆発って、たぶん――生きるってことだよ。”
「……ハル。私たち、まだ観測を続けてるよ」
風が鳴いた。
鈴みたいに、やさしく。




