EP6. 日常干渉とインターフェレンス
日常は、数式みたいにシンプルだと思っていた。
時間割どおりに授業を受け、休み時間には談笑し、昼になれば購買パンの争奪戦。——それを繰り返していれば、僕という「優等生モデル」は破綻しない。
でも、不思議なもので。
旧教会の崩落から一夜明けた学園には、確かに“揺らぎ”が残っていた。
ざわめき、笑い声、誰かの冗談——そのどれもが、観測データとしては“正常”。
けれど数式に当てはめると、誤差が出る。昨日までの空気と、今日の空気が微妙に噛み合わない。
誤差が生じたとき、世界はどう補正するのか。
それとも、この誤差こそが“もう一つの世界”からの干渉なのか。
僕はただ、笑顔を作って歩く。
観測者の目に映る僕が「優等生ユウマ」である限り、数式は収束する。
……たとえその裏側で、別の答えが迫ってきていても。
放課後のノード・ゼロ。
液体窒素の循環音が、地下室の低い空気をかすかに震わせていた。
モニターの青白い光は、ひとりひとりの顔を輪郭だけ切り取り、残りを影へ沈める。
昨日の戦闘で命を削ったはずの僕らは——だが今、机の上に散らばるのはカップ麺、コンビニのフライドチキン、ポテトチップス。
科学と非日常の狭間で、人は結局「炭水化物と塩分」で落ち着こうとする。
「でさぁ〜!」
亞村トウタ――スペクターが、湯気の立つ麺をずるずるとすすりながら声を張り上げた。
「やっぱ“首なし怪物”が出たって話、SNSでまだバズってんのよ! ほら見てみろよ!」
彼のスマホには掲示板のスクリーンショットがいくつも並んでいる。
【旧教会ガチでヤバい】【声聞いた奴いる?】
【写真マジで本物じゃね?】【逆に加工っぽくないんだが】
祭り状態だ。
「俺が流した画像がさ、逆に“本物っぽすぎる”って解析されててさ。勝手に考察スレが乱立してる。
しかもAIで偽造検証してたヤツらが“自然なノイズだから本物!”って結論出してんの。笑えるだろ? デマの方が本物扱いされるって、インターネットの神髄だよな」
「人類ってほんと単純だよね〜」
火宮レイカ――サイレンは、ポテチをつまみながら頬杖をつき、演劇仕込みの大仰な笑みを浮かべる。
「ちょっと怖い画像と、ちょっとした雰囲気があれば勝手に膨らませてくれるんだから。舞台装置は安上がりで助かるわ〜」
「単純なのはいいけど……」
霧島ミサキ――オーロラが小さく口を挟んだ。
「……あれ、本当に“ただの事故”で片づけていいのかな」
彼女の端末画面には、昨夜のセンサーデータが未だに残っている。
ユウマ=僕の心拍数137。血圧214。脳波の異常スパイク。
さらに、空間歪曲率がプラス3.7×10⁻²。ブラックホール縁辺部級の異常値。
「ユウマ……あのとき、本当に無茶だったんだよ。もし誰も間に合わなかったら……」
「……俺は大丈夫だ」
短く答える。
だが内心では、あの怪物の黒い眼窩が網膜に焼き付いたまま離れない。
⸻
「ま、それはそれとして」
立花ミナト――ルートが、淡々と声を差し挟んだ。
三枚のタブレットを同時に操作しながら、仮想キーボードの光を指先で叩く。
「教会で出会った“あの転校生”。……矢那瀬アスミ。お前ら、どう思う」
瞬間、空気が変わった。
スペクターは麺を啜る手を止め、サイレンは机に身を乗り出し、オーロラは眉をひそめて沈黙する。
「ねえねえ、あの子って実はさぁ……超天才少女なんでしょ?」
レイカが芝居がかった声でささやく。
「この前、演劇部の先輩が言ってたんだよ。“あの子、大学の研究室でも名前通ってるらしい”って!」
「超天才……か」
ルートの指が止まる。画面には学術データベースの検索結果が映っていた。
「事実だ。彼女はかつてあの雲越チイロの研究班に所属していた。脳科学と情報理論の交差領域——具体的には、記憶再構築アルゴリズムと並行世界シミュレーション。発表していた論文の多くは査読落ちだが、中には……俺ですら首をかしげるほど先鋭的な仮説も混じっていた」
「え、雲越先輩って……あの?」
オーロラが目を丸くする。
「学園の理論派で、誰も近寄れないっていう……?」
「そう」
ルートは淡々と頷いた。
「天才と天才。師と弟子。だが——二人の間には明確な断絶がある」
「断絶?」
「チイロは“過去改変”を否定する立場。だがアスミはなお追い続けている」
「つまり師匠に逆らったわけだ!」
トウタが身を乗り出し、ポテチの袋を豪快に握りつぶした。
「おいおい、これって完全に“禁じられた実験”案件じゃん! 禁書目録に載っちゃうやつ!」
「禁じられた……って響き、燃えるよね!」
レイカは立ち上がり、勝手にスポットライトを浴びたかのようなポーズを取る。
「我こそは禁忌に挑みし者〜! 世界の法則を踏み越える少女〜! キャー!」
……机の上のカップ麺が、ポーズの拍子に床へとひっくり返る。
「アアアアアア! 俺のチャーシューがあぁぁぁぁ!!」
トウタの絶叫。
ノード・ゼロの空気は緊張と混乱と笑いでぐちゃぐちゃだった。
⸻
僕は、黙って彼らのやり取りを眺めていた。
その最中——頭の奥で、何かが疼く。
映像とも夢ともつかない断片が突如浮かび上がる。
血に染まった校庭。
崩れ落ちるステージ。
そして——最後の瞬間。
矢那瀬アスミが、僕の名前を呼ぶ声。
「ユウマ!」
なぜそれだけが鮮明に残っている?
どうして僕は、その声を忘れられない?
こめかみを押さえた。頭痛。
これは——ただの記憶ではない……のか?
⸻
「……雲越先輩に直接、聞いてみるべきだな」
ルートが静かに言った。
「え、マジで?」
スペクターが目を丸くする。
「当然だろ〜! だって救世主様だもん!」
サイレンが唐突に拍手を打ち鳴らす。
「でも……ユウマ、本当に大丈夫?」
オーロラが心配そうに僕を見つめる。
「雲越先輩って、相手が誰でも冷酷に切り捨てるって有名じゃない。もし変に突っ込んだら……」
「それでも確かめなきゃならない」
僕ははっきりと言った。
「アスミのことを知るために。……そして、この世界の“揺らぎ”を知るために」
⸻
その夜。
学園図書館の最上階。
誰も寄りつかない閲覧室の奥で、彼女はノートPCを広げていた。
雲越チイロ。
冷たい蛍光灯に照らされる横顔は、感情を拒絶した実験装置のよう。
白い指がキーボードを叩く音だけが、無人のフロアに乾いたリズムを刻む。
彼女の瞳に宿る光は人間性ではない。ただ、数式と論理の反射。
僕は深呼吸をひとつ。
優等生の仮面をかぶり直し、彼女へ歩み寄った。
「雲越先輩。……矢那瀬アスミについて、伺いたいことがあります」
その瞬間、チイロの指が止まった。
視線が上がる。
冷気を帯びた二つの瞳孔が、顕微鏡のように僕を覗き込む。
心臓が、一拍遅れた。
これはただの質問じゃない。
——過去と未来を揺さぶるための扉を、僕は叩いてしまった。
日常は、ただの方程式だと思っていた。
入力と出力。授業と答案。笑顔と信頼。
誤差の出ないモデルさえ維持できれば、僕は優等生として完結するはずだった。
けれど、旧教会の崩落を境に、式の中にどうしても消えない余白が生まれた。
それはアスミの視線であり、断片的な記憶であり、そして——“揺らぎ”と呼ぶしかない違和感。
その答えを探そうとしたとき、僕は自然と彼女の名を口にしていた。
雲越チイロ。
アスミの先輩であり、理論を否定する天才観測者であり、論理という刃を片手にした人物。
次回は、そのチイロとの対話が中心になる。
きっと彼女は、僕の仮面を容易く見抜くだろう。だから偽りの仮面は置いていく。そして、アスミと僕を繋ぐ“別の世界”の話を、さらに深く抉り出してくるだろう。
——日常という方程式は、もう解の一意性を失っている。
次のページをめくれば、きっと世界はまた誤差を孕む。
けれどその誤差を抱えたまま、僕は進むしかない。
観測者の目に晒されるのが恐ろしくても。
彼女の言葉が、僕を逸脱者と断じる未来が待っていても。




