EP57. 観測部、温度勾配は笑い声に従属する。
アスミ。
ほんとに、白鷺ハルナを覚えてないの?
……はい出ました、無言フリーズ。
お得意の「思い出しそうで思い出せない」やつね。
君の脳のキャッシュメモリ、相変わらず都合よく掃除されてる。
でもさ、あの人のことを忘れるって、いわば色彩情報を失った虹みたいなもんよ。
彼女は、私たち観測部のノイズ担当で光担当でカロリー担当だった。
何を食べたらあんな発育曲線描けるのか、私は今でも知りたい。
……思い出せない?
仕方ない、じゃあ少しミームでお前の頭を殴ってみよう。
――放課後の理科準備室。
陽が傾くと世界が薄い琥珀に変わるあの時間。
ドアの向こうから笑い声が入ってくる。
その瞬間、温度が三度上がる。
さあ、アスミ。
記憶のサーモグラフを起動して。
いまから話すのは、白鷺ハルナが世界を揺らした午後の記録だから。
放課後の理科準備室は、陽が傾くと急に色気づく。
琥珀色の斜光が薬瓶の肩を撫で、ガラスの屈折率が日替わりで、まるで私のように、いい女を演じる。
棚のラベルは化学式、机上はノートPCと脳波計の部品、隅には使いかけの蛍光塗料。
空調は最低出力、残響はRT60=1.1秒。
思考にはちょうど良い。
私は今日も「退屈」を再現していた。
厳密には、退屲係数 k_boredの測定。
人は退屈すると時間認識が伸びる——
ならば、Δt_perc=α·退屲+εで書けるはずだ。
この式に魂を与えるには、もう少しノイズがいる。
ノイズが世界を面白くする。
ドアが開く。風ではなく、笑い声が入ってきた。
「チーちゃん、また怪しい実験してるでしょ?」
白鷺ハルナ。
入室と同時に室温が三度上昇。温湿度計は嘘をつかない。
蜂蜜色のショートボブ、毛先だけがピンクに染まって、温度勾配の可視化みたいに光る。
科学用語で言えばただの色素反射。
でも人間用語で言えば、場を動かすスペクトラム。
「実験というより、退屈の再現」と、私。
「出たー!名言。『退屈は再現可能』」
と、ハル。ケラケラ笑って、机に座る。
私は彼女をハルナではなく、ハルと呼ぶ。
机が嬉しそうにきしむ(擬人化)。
彼女は私のノートを覗き、ピンクのネイルで余白をコツン。
そこには大きく、**『観測=感情の副作用』**の殴り書き。
ハルは瞬殺で読み取り、唇の端を上げる。
「それ、リリに見せたら説教だよ?『論理は愛のない世界をつくる』って」
「名言で殴ってくる一年生は貴重だよ。資料として保存」
「収蔵庫:チイロのミーム」
「展示は常設、入場無料(ただし精神年齢18歳以上)」
笑い声。そこで、思考の硬度がふっと下がる。
ハルには思考温度を最適化する笑いがある。
ミームも理屈も、彼女の声で溶解度が上がる。
効率が良すぎて怖いのだが。
「で、今日の観測は?」
「『時間観測の非対称性』の補正。アスミの手順が飛びがち問題について」
「あー、あの子」
ハルが真顔を少しだけ取り出す。
夕陽がその表情の輪郭を甘くする。
「中学生が過去改変なんて、可愛いけどさ。
まあ、私も中三だけど、バックアップ取るほど歩いてない人生で“リスタート”は無理ゲーって感じかな」
「アスミは真剣だよ」
「だから危ないの。真剣な子ほど現実に傷つく。Δ真剣>0 ⇒ Δ出血率も>0」
「雑すぎる相関ワロタ」
「統計は可愛い嘘、現場は残酷な真実だよ!」
私は一瞬、沈黙する。
ハルは冗談の速度で本質を突く。
天才は、笑って要点を通す。
そして彼女は、私よりもずっと“人間”を見ている。
「でも、君がいなきゃこの部は暗すぎる」
「もしかして、私、光担当?」
「いや、ノイズ担当。静けさの中で君が揺れると、思考が共鳴モードに入る」
「褒められてる雰囲気を装った雑な扱い」
「定義は保留。保留は自由。自由は最強」
ハルは椅子をくるり。脚が床を擦る音、μ≈0.42。
その背を見ながら、私はいつもの質問を投げる。
今日の研究テーマB。
「ねえ正直に言ってさ、何食べたらその発育になるの? 同い年の統計から逸脱してる」
「朝はヨーグルト、昼はパン、夜は——勝利」
「カロリー表に載ってない」
「真面目に言うと、遺伝子と睡眠と笑い声。あとチーちゃんの辛口ミーム」
「私で育つな」
「育つよ。ツッコミはバストに効く(※個人の感想です)」
「論文タイトル:『ツッコミ刺激が乳腺成長に与える影響』(査読:地獄)」
「サンプルN=1でも勝った気でいこう」
くだらない。が、退屈は溶ける。
ミームは潤滑油。
私は退屈を嫌う。退屈は世界のバグだから。
「で、ハル」
「なに、チーちゃん」
「君の理論、最近アップデートした?」
「した。記憶ベースの再演アルゴリズム」
「聞こうか」
「観測は“いま”を固定するでしょ。チーちゃんの得意分野。
でも私の興味は逆。“記憶”が“いま”を再構成する。
つまり、R(t)=Reconstruct( Memory(t−Δ), Emotion )」
「情動を変数に入れるの、危険じゃない?」
「でも人は情動で選ぶ。なら、手順化すればいい。
“感情は副作用”じゃなくて、“演算の燃料”」
「……君はやっぱり危険だね。美しくて危ない」
「ありがとう。褒められて育つ。バストに効く(再)」
「査読:地獄(再)」
彼女は続ける。目が、**“覚えている人の目”**になる。
「嫌な記憶って、アンカーになるの。
そこに戻って“選択”をやり直す練習を何度も重ねると、現在の行動確率分布が変わる。
これ、過去改変じゃない。現在改造。アスミちゃんの“過去改変”を笑ったのは、そこ。
彼女はまだデータがそもそも少ない。だから“リスタート”より“学習率ηの調整”から」
「要するに、“強くなれ”じゃなく“賢く微調整しろ”?」
「そう。ηを上げすぎると発散、下げすぎると停滞。
人間の最適化は、気分と天気と友達で揺れる。そこを設計してあげたい」
「君、やっぱり天才だよ」
「うん、チイロに匹敵。この台詞、一回言わせてみたかった」
「自己肯定感が正直でよろしい」
私は机上のメトロノームを指で弾く。カチ、カチ。
「じゃ、アスミの“手順飛ばし癖”は、どう矯正する?」
「ノートの空白を恐れさせないこと。
“導出の穴”に付箋を貼る訓練。穴を記憶に登録しておくと、次に飛ばなくなる」
「穴の登録、いいね。空白の観測」
「それと、4–7–8の呼吸。あれは“記憶の再演鍵”。『吸って4、止めて7、吐いて8』
——このテンポで過去の迷いを再演し、いまの選択を書き換える」
「何それ、私の仕事を盗むな」
「共同研究でしょ、チーちゃん」
「よし、著者順は君が一番、私は責任著者」
「聞き慣れない肩書きでマウント取るのやめて」
二人で笑う。
笑いは、正しい。笑いがあると、世界は少しだけ味方をする。
私は話題を戻す。
「で、ハル。君、リリには厳しめに優しいのに、アスミには懐疑的だよね」
「リリちゃんは“否定から入る癖”があるからブレーキをかけれるというか、勝手に止まるの。
可能性を潰す前に一呼吸。アスミちゃんは逆。真剣が過ぎて視野が狭まる。だから少し突き放す。
『君はまだ大した人生歩んでない』って。この台詞、優しさがないようで、選択肢を増やすための釘ね」
「言葉の刃の角度、ちゃんと研いでるんだ」
「うん。人間、刃の当て方ひとつで傷にも縫合にもなるから」
ハルはスツールから立ち、窓辺へ。
夕陽の境界に髪のピンクが溶ける。そのグラデーションを見て、私はデータを取る。
“美しさは観測者の眼圧で定義される”——私の仮説に、今日も証拠が増える。
「ねえ、チーちゃん」
「なに」
「この部、楽しいね」
「退屈が死滅してる。私の研究目的からすると失敗」
「でも、チーちゃんは笑ってる」
「研究者は、データが溶けると笑うんだよ」
「じゃあ、ずっと溶かしてあげる♡」
「やめて、記録の保存領域が泣く」
「バックアップは友達が取るから安心して♡」
「その台詞、ちょっとずるい」
ハルは再びこちらを向き、いたずらっぽく目を細める。
「最後にもう一個。今日の栄養の秘密」
「はい、論文用」
「タンパク質、睡眠、そして——チイロの甘口ミーム」
「だから私で育つな」
「もう育ってる。ほれほれ」
「査読委員会、地獄」
「そんな地獄なら、二人で笑って歩けるよ」
そう言って、彼女は椅子をくるり。
ピンクのネイルが机をトントン叩くリズムで、時間の端がほぐれる。
私は確信する。
——白鷺ハルナ。
観測対象としてはノイズが多すぎる。
でも、理論を動かす乱数因子として、これ以上の適合はない。
そして、後に私は知る。
この日の理科準備室は、測定上「三度上昇」で記録されたけれど、体感では戻らない温度になっていたことを。
夕陽が消えたあとも、彼女の笑い声だけは、室温のどこかで小さく燃え続けていた。
……どう、アスミ。
少しは思い出した?
(沈黙)
ああ、その顔。
覚えていないのに、脳の奥だけが疼く――観測と記憶の中間点に立ってる顔。
君の瞳が、まるで“記録の断面”を覗き込むときみたいに濁る。
無理しないでいい。
忘却もまた、データの防衛反応。
でも君の中では、きっと何かが再演を始めてる。
だって、ほら。
「……そのあと、私たち、どんな活動をしてたの?」
君がそれを訊いた時点で、もう再演は始まってる。
“思い出せないものを思い出そうとする”のが、観測の第一段階だ。
この先の記録、続きを話そうか。
四人で観測部として過ごしたあの奇妙な季節を。
笑って、揺らして、世界を壊しかけた――
あの温度が戻らなかった季節を。
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記録注釈:
観測とは干渉、干渉とは再演。
そして再演とは、忘却を許さない。
――記録者:雲越チイロ




