EP56. 退屈を壊した昼食
観測ってさ、やり方を間違えると“懐古”になるんだよね。
だから私、雲越チイロは、あの頃を検証として語る。
感傷じゃなく、事実としてね。
……まあ、カッコつけて言ってるけど、要は“暇つぶし”だ。
アスミが記憶の奥でごっそり抜けてるあの時期。
私にとっては、たぶん一番面白かった季節だ。
私はその頃から、理論とミームの神様を自称してた(笑)。
退屈に飢えて、バカみたいに脳を回してた。
よく、コーラこぼしたり、プリンぶちまけたりしてた。
そこへ――食堂の隅で“時間”と殴り合ってる後輩がいた。
中学二年。矢那瀬アスミ。
それが、この話の始まり。
放課後、観測棟のラウンジ。
窓の外には赤い空が広がり、遠くで誰かがバスケットボールを弾く音がする。
アスミは端のテーブルでレポートを開いていた。
薄く光るChrono-Scopeのパネルの上に、私は鬱陶しく影を落として見る。
「我が後輩アスミ、ちょっと時間ある?」
顔も上げずに彼女が答える。
「……実験のまとめ、あと少しなんだけど」
「じゃあ、まとめながら話聞け。耳だけ貸して」
私は向かいに腰を下ろす。
手元の端末を弄りながら、ふっと笑った。
「そういえばさ――あの頃が一番楽しかった気がする」
「どの“頃”?」
「私たちがまだ、公式に“観測者”でも“干渉者”でもなかった頃。
つまり、あんたがまだ時間に怯えてなかった時代」
アスミはペンを止め、ようやく顔を上げる。
「それって、中学の話?」
「そう。それ。影村学園の食堂。君、もう覚えてないかもしれないけど」
「うーん。そこは記憶にある」
私はミルクティー缶を軽く振る。
音の余韻が、時間の境界を開ける合図みたいに響く。
「じゃあ、今、影村の副生徒会長の玖条リリは?彼女、君に忘れられてるって前に電話きたぞ」
「ほんとに知らない」
「お前なー。あと、白鷺ハルナは??」
「知らない」
これが、現在のアスミのである。
元々この世界のアスミに、別の世界線のアスミの記憶が中途半端に上書き保存されている状態。
私は、ミームの神としてこの状況を打破したいと考えていた。
上書き保存はあくまで比喩。
掘れば記憶の一つや二つ掘れるっしょと。
「マジかよ。なら、私が幽霊みたいに暇さ全開で彷徨って、
君がもう既に変態で、世界がまだ可愛かった頃の……さてさて、昔話を始めようか」
――過去
影村学園中等部・食堂にて
昼休みの終わり。
世界がスローモーションに切り替わる時刻、13:23。
トレイが重力に負けて微かに鳴るアルミ音。
椅子脚と床材の摩擦音の合奏、ジュースサーバーが吐く一定周期のポンプノイズ。
ここは毎日、日常という名のBGMに最適化された音響ラボだ。
私は、その残響の尾を聴くのがけっこう好きだった。
雑音が減ると、脳が遊べるから。
……と、普通はそうなる。
でもこの日は違った。
退屈の腰椎が、最初の一瞥でポキっと鳴った。
食堂の隅でノートパソコンに噛みつく噂の二年生。
― ―矢那瀬アスミ。
薄い指でキーを叩く速度は一定、しかし戻りの呼気が不規則。
画面のタイトルには「時間観測の散逸と非対称性」。
中学生が弁当ののりを剥がすノリで書く見出しじゃない。
はっきり言おう、こいつ変態。賛辞だ。
私はミルクティー(人工甘味料の誤魔化し味)を片手に、通りすがり風のふりをして背後へ。
カーソルが点滅、2Hz。指は止まる、動く、また止まる。
わかりやすい。悩んでる。最高。
気づいたら口が勝手に仕事をしていた。
「その定義、もう少し優しくしても死なないと思うよ?」
アスミが振り向く。
驚きのアクションなし。
代わりに“観測された”という顔つき。
顕微鏡のピントを合わせるときのあの細い目だ。
はい、合格。
私は勝手に向かいへ座る――理科準備室の幽霊、社会性の境界バグ。
通称めんどうな先輩=私。追い出されない。
ここで確信した。
この子、私の言語圏にいる。
「……あなた、誰ですか?」
「雲越チイロ。理科準備室の幽霊。三年。通称、面倒な先輩」
名乗りは大事。
肩書きはラベリングじゃない、デバッグ用のタグだ。
「“過去”を“散逸”って言い切るの、ちょっとドSっぽくない? 未来いじめてる」
彼女は一拍置いて、ノートPCを閉じる。
ため息の波形は弱いけど長い。
「……“散逸”は比喩です。情報量が減る方向にしか時間が流れないって意味の」
「つまり後悔の定義」
口の端が、砂時計のくびれみたいに、ほんの少しだけ上がる。
これが彼女なりの“笑い”。コスパの鬼過ぎるだろ。
私はゴゴゴという効果音に乗せ、ノートを取り出す。
落書き帳に見えるだろうけど、中身は神経線維の模式図と化学式、そしてミーム。
余白に私の癖の一行――
「観測は、感情の副作用」
彼女の視線がそこに吸着する。反応潜時0.8秒。S級。
「君、悩んでたんでしょ。“時間”と“記憶”を数式でくっつけようとして、うまくいかない顔してた」
「……見てたんですか?」
「見てたというより、背中が語ってた。脳波より正確」
沈黙。いい沈黙だ。沈黙は語彙の母。
私は缶を振り、微かな気泡音でテンポを刻む。
退屈の膜が、ぱりっと割れる音がした(比喩、でも脳は実音として処理した)。
「ミルクティー飲む?」
「甘いのは苦手です」
「未来も同じこと言ってた気がする」
「未来?」
彼女は少し首を傾ける。
“未来”という単語がワーキングメモリの端で点滅するのが見えるようだ。
良い。未知に対して、すぐ否定せず保存。
伸びる子の挙動。
ここからは、会話の速度とシナプスの発火率が釣り合うように、私が軽くエンジンをかける番だ。
「で、どこで詰まってる?」
「“非対称性”を“不可逆性”の言い換えにしたくないです。もっと構成的に書きたいんですけど」
「構成的不可逆ねぇ。じゃ、情報散逸=ΔS_info>0って置くのをやめる。
代わりに選択の固定化をΔFix>0で定義。過去=選択の固定化」
「“固定化”の測定は?」
「行動ログのエントロピーH(action)が時刻tで局所最小。
選択の勾配がゼロ近傍に沈んでる状態。人はそれを“思い出”と呼ぶ」
「……思い出の数式?」
「エモいのは強い。人類、だいたいエモで動く」
私はさらにノートに殴り書きする。
•「過去=ΔFix>0 の集合」
•「未来=ΔFix<0 の位相空間」
•「記憶=ΔFix を参照するための身体側API」
落書きみたいな線で図まで描く。
図は言語の補助輪、オタクの世界共通語だ。
「君の文章、正しい。でも**“優しくない”のが欠点」
「優しさは要件ですか?」
「論文にもユーザビリティがある。
読み手の前頭葉は有限資源。だから、節約してあげるのがエンジニア倫理」
彼女が少し目を伏せる。考える時の癖。
私は畳みかける。
「“時間観測”を“倫理の問題”にも繋げたいんでしょ?」
「どうして、そう思うんですか?」
「背中が語ってた。あと、君のカーソル位置。“救う/残す”の周辺で止まる癖がある」
「観察が悪趣味過ぎます」
「褒め言葉と受け取れ。私はミームと理論の神。退屈を殺すために存在してるのだから」
わざと大げさに言う。冗談は潤滑剤。
彼女の眼の奥にわずかな光。
ここまでで、対話の同期はほぼ取れた。
「観測=干渉じゃない。観測→情動→手順の三段ロケットにする」
アスミはしばらく考えて、それから珍しくこちらをまっすぐ見た。
「……ねえ、チイロ先輩。どうして“過去”って変えられないんだと思います?」
その声は静かだった。
だけど、音の奥で何かが燃えていた。
「“過去を変えたい”ってこと?」
「違います。……でも、もし変えられたら、“後悔”の使い方が変わるでしょ?
過去って、ただ記録されるだけの失敗データじゃないと思うんです。
“やり直したい”って思う感情って、たぶん、燃料なんです。
それを使って世界を書き換えられたら、痛みも一種のエネルギーになるのかなって考えてます」
スプーンを転がす指先は落ち着いて見えるのに、ノートのページをめくる動作が速すぎた。
数行の途中を飛ばして、結果だけを書き足していく。
そして、私は彼女がプリンを食べているのを見た。
こいつ、さっき甘いの苦手って言ってただろうが……。
私は、彼女の手元を見ながら、思わず口の端で笑う。
「手順を飛ばすな。途中を飛ばすと、世界がバグる」
「え?」
「数式でも、思考でも同じ。導出をすっ飛ばす癖がある。
ゴールの形だけ先に見たがるんだ、君」
アスミはノートを閉じ、少しだけ頬を赤らめた。
「うるさい先輩……私は、早く答えを見つけたいだけです」
「だろうね。でも、早い答えは遅い破綻だ。気をつけな」
「先輩、ちょっとカッコつけてますか?」
「カッコいい? ありがとう。ミームとして拡散しておいて」
「カッコいいとは言ってませんし、思いません」
彼女は笑いながら、もう一度ノートを開いた。
今度はゆっくりと、式を一つずつなぞり始める。
書くというより、確かめるみたいに。
その姿を見て、私は思う。
ああ、こいつ、世界を観測しすぎるタイプだ――と。
そして、きっといつか、自分の記憶ごと観測してしまう。
私のミルクティーがぬるくなり始めた頃、食堂のノイズはほぼ消えていた。
窓の外、風がのぼり旗を一回だけ揺らす。
一回だけ。
こういう“単発”の揺れは、たいてい誰かの決心の揺れに同期している(私の偏見に統計的裏付けが多少)。
「ところで」私は何気ないふうに、毒針を一つ。
「嫌な記憶って、捨てる?使う?」
「……使ういます」
「いいね。じゃ、アンカーにする。明日、私のいる観測部に来な。
ここで逃げずに、選択の再演算をしようじゃないか。
過去改変ごっこ、感情の書き換えじゃなくて行動の再選択でやるの」
「その議論、誰と話をしてるんですか?」
「白鷺ハルナ。記憶学派の天才。君のもう一人の先輩」
「……知らない名前」
喉奥で、音が一瞬だけ滞った。小さな不協和。
私の心拍が0.3だけ跳ねる。
ここでこの反応は、後日、とても面倒な意味を持つのだけど――この時の私は、まだ未来に優しい。
知らないふりを選ぶ。あえて。
「ま、今はいいや」私はナプキンに走り書きした。
『過去=選択の固定化/未来=固定化の解除』
「これ、君の論の“優しい要約”。人の目は易しいものから真実へ。入口を整えるのも、研究者の仕事」
「ありがとう……ございます」
「礼なら、将来利子で返して。できれば世界の設計を一個、壊してくれたら満期完済」
「物騒ですね」
「生き物だから」
彼女は席を立ちかけて、少しだけ躊躇する。
「……その、散逸じゃない言葉、借ります」
「レンタルじゃなく、フォークして」
「フォーク?」
「派生。君の定義は君のものでいい。私の言葉はただの初期値。
初期値に情けは無用、好きに更新して」
トレイを重ねる音。ドアの向こうから授業開始のベル。
彼女はノートPCを抱え直し、私をまっすぐ見る。
顕微鏡みたいな、あの目で。
「観測部もいいですけど……また二人で話してくれますか?」
「いつでも。私、退屈の召喚に弱いから」
アスミが歩き出す。背中の姿勢角度はわずかに上向き。
0.4度。気のせいかもしれない。
でも、私はそういう誤差で未来を占う。
だいたい当たる。だいたいで充分。
あとになって私は知る。
この日の会話は、私にとって退屈の終わりで、彼女にとって手順の始まりだった。
“観測は感情の副作用”、それを“手順に翻訳する”という私の癖は、この瞬間に彼女へ感染した。
良性のミーム。
そしていつか、彼女は地獄の真ん中で4–7–8を唱え、呼吸を手順にし、等号の向きを反転しようとする。
その起点がここだと知るのは、もっとずっと後――世界が一度、沈黙に沈んだあとの話。
今はただ、記しておく。
対象:矢那瀬アスミ。
所見:退屈破砕因子、適合。
推奨:継続観測、時々干渉。
備考:ミルクティーはやっぱり甘すぎる。
しかし、アスミはプリンが好き。
未来も同じこと言ってた。
人間の“興味”って、ほんと正直だ。
あのときの私は、彼女の背中を見ただけで理解した。
この子は、世界の使い方を知らないのに、もう修正しようとしているヤバい女だって。
アスミがノートを閉じたとき、私の中で何かの数式が音を立てて崩れた。
退屈っていう定数が、未定義になった瞬間だ。
……それでも、あの子が“過去改変”に惹かれた理由を、私はまだ全部は知らない。
困ったことに、たぶん本人も覚えてない。
その“欠落”を、いまこうして埋めるように話している。
観測は、干渉の副作用。
語ることは、世界をもう一度動かすこと。
だから私は書く。
記録の再生ではなく、観測の続行として。
――以上、ミーム女子代表:雲越チイロ
退屈の死因:矢那瀬アスミ。




