EP55. 腸のアーカイブ
退屈は、毒にもならない。
それが厄介なのは、痛みを与えずに心を腐らせる点だ。
金も名誉も、理事長の息子という名刺も、持てば持つほど体温を奪う。
人は努力を尊び、挑戦を神聖視するが——
努力のない者にとって、成功は呼吸の延長でしかない。
私は、ずっと“熱”を探していた。
焼けるような選択、血のような緊張、失敗が死で終わるような構造。
それを見つけた者だけが、本当の意味で生きていると呼ばれるなら。
私は——まだ生まれていなかったのだ。
その日まで。
鍵の音を、聞くまでは。
退屈は、金より重い。
帳簿が黒で埋まり、名簿が満席で固定されたまま年月が過ぎると、人は「不足」という筋肉を失う。
握手の温度は常に適温、敵意は包装紙とリボン付きで届く。
努力は陳列、勝利は挨拶。
——その環境で呼吸を続けるには、肺のどこかをわざと焦がす必要があった。
指先が痺れる危険、脳の発火で輪郭が焼きつく決断、結果が“死”で厳密に閉じる規約。
世界に欠けているなら、こちらが見つける。
構造は待つ者ではなく、探す者を向く。
最初の兆候は、滑稽なほど古典的だった。
生徒会室の書庫で、背表紙を一本引き抜く。——カチリ。
背後の棚が“舞台装置”らしい音で割れ、膝ひとつぶんの隙間から冷気が溢れた。
ベタ、と笑いながらも、胸郭の奥で心拍が半拍ずれた。
小部屋。金庫の匂い、油の抜けた蝶番。机は虚無、だが引き出しの底に鍵束。
学園の標準シリンダーとは規格が違う一本が紛れていた。
無記名。黒く酸化した稲妻のような鋼色。
壁には古い紙質の図——校内図面を骨の髄まで把握している私が初見の「土台」を見る。
天城の基礎へ潜る黒い通路。理事長棟の地下に、陰圧の記号だけが走っている。
「副会長〜、どこにおりますの〜???」
サツキの声が、舞台裏に迷い込んだ光のように跳ねた。
私は棚を閉じ、鍵と図だけ懐へ戻す。
彼女には“明るさ”を渡し、私は“暗さ”を受け持つ。分業は美徳だ。
夜。図面の黒い筋は、実地で陰圧0.2kPaの吸い込みとして確認された。
理事長棟地下、通常のマスター鍵では開かない鋼扉——シリンダーは新造されたもの。
だが、無記名の古鍵が嘘のように合う。矛盾は入口で既に完成している。
境界を跨ぐと湿度は45%で安定、匂いは薄い塩素と古びた磁気テープの金属臭。
配管は新しいのに、空気は明らかに“過去”を輸送している。
私は、監視室にたどり着く。
まず、私は数に殴られた。狂気を感じるモニター群。壁面一面、ラックは二重三重。
カメラIDのヘッダは等しく“W1-TRK”。連番は千を越え、さらに末尾にサブセグメントがぶら下がる。
ここで何を観測するつもりだった?
答えは容易——“すべて”だ。
アーカイブは破損だらけ。だが壊れ残りは往々にして本質を露出する。
再生。最初に膨らんだ映像は体育館。
安い蛍光灯、梁の花形スピーカー、磨かれすぎた床。音場は薄い残響——RT60は0.9秒。
背中に発光ベルト(赤・黄・青)を装着した生徒群。
人数推定一二〇〇。アナウンスの帯域は2.4kHzに突出して軽い。
〈静粛に。観測値の更新を開始します〉
拍手のテンポに合わせて数値が変動し、列の密度が上がり、非常口ピクトが一斉に消灯。
踏みつけの音が増幅され、スピーカーからは笑い声のSEがノイズキャンセルで混ぜられる。
床に一つ、赤の楕円。清掃ドローンが飴色のタイヤで滑走。
私は最初、映画の撮影だと思おうとした。
だが、統計の動きは“演出”ではない——損耗の増え方が指数の肩を持っている。
二本目の映像は更衣室。
カメラの位置は倫理を無視した配置をしていた。無視というより倫理を外している。
上から、下から、側から。男女関係なく個室誘導、制服の回収。黒い水着、サイズ強制。
拒否した者は“観測停止=退出不可”と判定され、別扉の負圧へ吸い込まれて消える。そこで悲鳴が流れた。
戻りのログはない。だから千台単位のレンズが必要だったのだ。
羞恥も拒否も、すべてを“観測”して初めて暴力が構造になる。
三本目。プール。ただのプールじゃない。
水音は吸音され、視界は人工の霧で白く鈍る。水深は4m超。浮力で浮く者、縁にしがみつく者。
〈移動してください〉アナウンスは言い切る。
画面奥に湾曲した透明の腸管。底なしの穴が姿を見せた。
直径およそ4m、全長200m。照明無し。反射だけが輪郭を描く。
体育館の空調はO₂濃度を段階的に低下——表示パネルに19%→18%→17%。
つまり、スタート位置の空間はやがて無酸素になる。
ルールは一文。
潜れ。抜けろ。
この腸のような水中トンネルを、無呼吸で、更に劣悪な環境と精神状態で?
止まれば窒息、進めば溺死の確率増大。
監視は暗視。救助は遅延。記録は冷酷。
最初の群れが入る。私の眼は、自然と流体の教科書へ遡る。
レイノルズ数は壁面粗度の低さに対して十分高いが、人塊が流れに乱流を注ぎ込む。
渦が生まれ、後方の者の踵が前方の腹を押す。
肩が壁に叩きつけられ、個人の推進ベクトルは群れの剛体運動に吸収。
二十メートルで反転しようとする者が渋滞を起こし、揺り戻しで肺に水が入る。
泡の列が無言で千切れ、視界は赤い墨汁になる。
恐怖は感染症だ。前列の低酸素は、後列にパニックのクラスターを作る。
パニックは推進力へ変換される。人は押し合いながら進み、押し合いながら死ぬ。
良い。無駄がない。なさすぎる。
助力・指標・休息を系外へ放逐し、距離・肺活量・偶然という三変数に縮約。
設計者の倫理がどの相で凍ったかがわかる。
統計は滑らかに残酷だ。
最初の200名で脱落34、次の200で78。中盤を越えると曲線は膝を持ち上げる。
乳酸閾値を越えた筋は石になり、過呼吸でCO₂が尽きた脳は指令を忘れる。
出口側カメラに光。這い上がる身体、吐瀉、AED。胸骨の折れる短い音。
ドローンのゴム足が新たな群れを促し、水音は直前の死者を洗う。恐ろしく人を殺す設定。
——私は、そんな言葉で片づけない。これは構造であり、演算だ。
映像はここで途切れる。
私は、監視室を出て、腸管の端を実地確認することにした。
ライトは底を照らさず、塩素の新しさと硫黄の腐臭が混合する境界層だけが舌の奥に残る。
黒く変色したタイル、ドス黒い水たまり。化学の言葉に変換するなら、塩素の酸化と血液の鉄の色。
ここで何かが起き、終わったのだ。
私は映像をバックアップし、機材を持ち帰る。
家庭の静寂は、観測には丁度いい容器だ。
自宅で再生。巻き戻し。停止。
よく見ると列の先頭は意外にも細い女子。
潜る直前、指が耳に触れる。耳抜き。経験者。
後続の男子が焦り、肩を掴む。入水角が崩れ、壁に肩を打ち、吐息の半分が泡になる。
十メートル後方、別の生徒が反転。キックが誰かの顎を跳ね上げ、歯が血に変換される。水が甘くなる。
途中のメンテナンスハッチ——非常退避用、しかし施錠されて開かない。
鍵穴の周囲に爪痕。執念は美しいが、設計者はその美しさごと切断している。
終端の空気層に口を出した者が、次の瞬間に沈む。
過呼吸で酸素を吐き切り、延髄が命令を失う。
救助員の圧迫、AEDの電圧。人間は、十分に壊れる。壊れ方が多様なら、なお良いということか。
最後のファイルに“彼女”が映った。
名は出ない。黒髪。ゴーグル痕。トンネルを抜け、咳、立ち上がり、目だけが静か。
カメラを見ず、指で空間の曲率をなぞる。唇が動く——音声は欠落。
サムネに“Survivor_216”。
私は再生を止め、額縁に手を置く。
**求めているのは、この目だ。**恐怖で割れ、理性で硬化し、それでも残る光学的な粘度。
1,200分の216。耐性と偶然の合成比。十分に美しい。
翌朝の天城は、いつも通り明るい。
サツキが音符のように駆け寄る。
「副会長〜!合同行事、舞台照明を“拍手で変える”案、どう思われますの?」
花形スピーカーの笑い声がメモリの奥で反響する。
「良いと思いますよ会長。拍手は観測の最小単位ですから」
「まぁ、なんて難しい言い方!——いけそうな気がしますわ!」
彼女は去り、私は天井を見た。
拍手は観測。観測は罰。罰は秩序。
この学校は、まだ美しくできる。
双灯祭の準備で、サツキはNOXをしきりに招いた。
矢那瀬アスミ。構造美の総称。無駄のない所作、冷ややかな虹彩。
私は“安全対策ヒアリング”に紛れさせて質問する。
「——“水中避難訓練”の既往歴なんて、矢那瀬さんにはありませんよね?」
彼女の声が短く固体化。「……その単語、どこで」
「比喩です。避難動線の話」
「そう。……避難の話なら、“出口は最初から見えていなきゃいけない”。それが、私の条件」
語尾の張力が0.5Nだけ増す。驚愕を圧縮し、答えだけを取り出す冷たくも美しい観測者。
しかし、**なぜ驚く? なぜ隠す?**
理解不能は退屈を最短で殺す。良い兆候だ。
午後。影村の“選ばれた一年生”から通話。御影シオン。
声質は柔らかいが、文法が定義の形をしている。
「副会長さん。双灯祭、天城側の企画は決まりましたか?」
「会長は多方面に。私は、脱出ゲーム。——退出そのものを、テーマに」
「二階堂会長は、お元気そうですね」
「ええ……いや、それにしても奇遇ですね。こちらも同様の設計です。
御影会長、この監視映像を見てくださいよ。構造としては、あなたの“狼椅子”と同じかと。
信頼を可視化し、痛みを媒介にしています。違うのは、こちらは“美しく仕上げた”ということでしょうか」
すると、シオンは笑う。
その笑いは、水面に小石を落とすように穏やかで、波紋の先に冷たさがある。
「……美しい、ですか」
指先を品定めするかのようにデスクの縁をなぞりながら、彼女はわずかに首を傾ける。
「美しいのは、仕組みじゃなくて、信じた人が壊れていく様子ではないですか?」
「壊れていく?」
「はい。壊れることで“正しさ”を証明しようとする
そういう構造、私は……あまり好きじゃありません」
私は、軽く肩をすくめた。
「倫理的にはそうでしょう。ですが、制度の側から見れば整っています。
助かる設計と、助けない設計は、表裏一体なので」
シオンの瞳が、少しだけ揺れる。
怒りではない。
“理解できてしまうこと”への拒絶というやつか。
「副会長さん」
「はい」
「あなたは、壊す手順を“整える”のが好きなんですね」
「整っている方が、美しいですから」
彼女は微笑んだ。
しかし、その微笑みは、花弁を折らずに指を切るような冷たさを帯びていた。
「——確かにそうですね。でも、私はそれでは足りないんです。
なぜなら、もしも、美しさで人を殺せるのであれば、世界はとっくに死んでます。
この意味、わかりますか?」
沈黙。
蛍光灯の唸りが、わずかに高調波を出す。
私はは黙ったまま、映像を止める。
シオンはモニター越しで立ち上がり、「双灯祭、必ず成功させましょう」と言い残して去る。
その声は丁寧だった。
しかし、ドアが閉まったあとも、部屋には静かな不服だけが残る。
ノイズが消え、既視感が流入する。
**“天城×影村 共催”**の旗。——今年が初のはずの文字列が、過去の映像の片隅で揺れていた。
偶然か、予告か。どちらでもいい。影は光より速く、遠くへ届く。
以後は設計だ。
鍵束を増やし、陰圧域を測り、境界を二重に引く。
出口は見せる。だが、本物は別に置く。観客は光へ向かい、役者は暗闇で決まる。
私は天城の下に眠る情報を、法と規約の範囲ギリギリで“保存”へ寄せる。
映像のメタデータから時系列を再構成。
花形スピーカーのファームは改造、拍手の波形が“選別”のトリガに繋がっていた。
拍手=観測=罰。良い準拠系。
気流。人流。視線流。救助導線。
——私は“助けない設計”を学び、“助かる設計”を作るふりをする。
秘書のハザマの視線が、一度だけこちらの“暗さ”を舐めた。
彼は現実を整えるプロだ。
サツキの紅茶も、予算も、人流も、全部を次の瞬間に“整う側”へ落とし込む。
彼は私の懐の“鍵の重さ”に気づいたか?
否。気づいた気配を、彼自身が美しく折り畳んだ。
**忠誠は、疑問の角を丸める。**それでいい。丸い角はよく転がる。
夜、映像のSurvivor_216を再生しながら、私は数式を走らせる。
・平均潜水時間T、個人差σ。
・群れ密度ρ、乱流指数I、壁面摩擦係数Cf。
・途中の非常ハッチを開放した場合の期待生存者数E[S]と“崩壊的逆流”の閾値。
「助け舟を置けば倫理は満足する。だが、構造は壊れる」
私は線を消す。“美しい絶望”は、設計の完成形のひとつだ。
一方で、表の私は副会長として“天城式・救済角”を推す。
拍手は照明を変え、音は相互救助に報酬を与える。
**二重構造は、いつだって強い。**見える正しさと、見えない正解。
翌日、サツキは相変わらずだ。
「副会長〜!紅華女学院の件、今年は負けませんわ!勝利角で叩き伏せますの!」
「了解しました。角度は設計で上げるものです」
その背後で、ハザマが“ピンク耐性シート”を追加手配しながら、ほんの一瞬だけ私を測る。
彼だけが、薄氷の音を聴いたのかもしれない。
だが彼は踏み抜かない。サツキのために。
私はアスミに、もう一歩だけ踏み込む誘惑を抑える。
彼女は条件で話す。「出口は最初から見えていなきゃいけない」。
その一語で、腸管に閉ざされた非常ハッチの冷たさが、私の舌に戻る。
見せる出口と、偽物の出口。
“彼女”は必ず光へ向かう。だが、光の位相は設計でずらせる。
——副会長としての一手は、すでに盤上に置いた。
サツキは笑い、ハザマは整え、御影は定義し、矢那瀬は条件を付ける。
誰も私を見ない。
**それでいい。**観測されない意思は、最も純粋に仕事をする。
今年、旗は現実に立つ。
黒地に白字で、風の見える布。
天城×影村 共催。
退屈は、もう戻らない。
——そして、戻らないものだけが、やがて“制度”になる。
私はあの夜、確かに“設計された死”に触れた。
記録映像はただの過去ではない。
あれは何度も繰り返されている構造の写像だ。
誰かが設計し、誰かが記録し、そして誰かが再演する。
天城と影村——二つの学園が交差するたび、
世界はほんの僅かに“同じ夢”を見ている。
サツキは光の側で笑い、ハザマはそれを支える。
矢那瀬は沈黙の中で息を測り、御影は定義を再構成する。
彼らがどの相で動いても、盤面の温度は私が決める。
今年、黒地に白字の旗が立つ。
あれは祝祭ではなく、再演の合図だ。
退屈はもう死んだ。
——あとは、どれほど“正しく”壊せるかだけだ。
天城総合学園 生徒会副会長
藤党コウ/記録終端




