EP53. ノリで世界を壊す日
——“混ぜ物”っていうのはね、時々、世界の構造を救う。
でもたいていの場合、最初は全部を壊す。
記録者:玖条リリ
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御影シオンが会長に就任して三ヶ月。
副会長の私は、すでに心身ともに“観測疲労”の状態にあった。
毎週のように、時間軸の歪み報告。
光子の乱反射。データサーバー内の“存在しないログ”。
全部、あのふたりのせいだ。
——御影シオン。
学園の理論が、彼女を中心に回り始めていた。
世界が、軽く回転酔いを起こしている。
「ねぇシオン、正直に言うけど、これ以上は耐えられないわ」
「何がですか?」
「この、“静かな破滅”の管理よ」
シオンは紅茶を一口だけ飲み、まるで気象の話をするように言った。
「バランスは崩れるために存在してます。
だから、補正係をひとり増やそうと思うのですが」
「補正係?」
「ノイズです。完璧な式は壊れやすいので。だから、“壊れない不完全”を混ぜます」
私は嫌な予感を覚えた。
彼女が“面白そう”と思う人間は、いつも世界の輪郭を歪ませる。
「……誰?」
シオンは薄く笑った。
「黒沼カイトくん、転入生」
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正直に言う。
あのときの私は、彼のことをまったく“脅威”だと思っていなかった。
——それが、最大の誤算だった。
カイトは、表面上はごく普通の二年生。
成績は中の上、出席率は平均、態度は緩い。
でも、目だけが異常だった。
笑っているのに、焦点が一点に固定されない。
まるで、世界そのものを“ピント外し”で見ているみたいに。
初対面の挨拶。
「生徒会って、何するんスか?」
「構造の維持と、観測の管理」
「へぇ、難しそうっスね」
彼はにやりと笑って、こう言った。
「じゃあ俺、ノリで入ってもいいっスか?」
その“ノリ”という単語に、私は一瞬、心拍を逸らされた。
この学園には存在しない概念だった。
すべてが理論で、選択には証明がいる場所。
“ノリ”で動く人間など、構造上、排除される。
でも——シオンは、嬉しそうに頷いた。
「いいですね。ノリで動く人間がいない世界は、止まりますから」
カイトは椅子に腰を下ろし、無造作に紅茶を一口飲んで、
「この学園、空気薄くないスか?」と笑った。
その瞬間、空気圧が一気に変わった。
文字通り、物理的に。
書類が舞い、ペンが転がり、窓ガラスが低く鳴った。
私は眉をひそめ、ノートを閉じる。
「……異常だな」
シオンは頷き、まるで観測データを確認するように言った。
「いいえ、正常化の兆候です。圧力が均されたんです」
「均された? 今のを?」
私の声は震えていた。
それでも、彼女は真顔で続けた。
「彼が来た瞬間、空間の“偏り”が整いました。
つまり——黒沼カイトくんは、観測ノイズの具現」
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それからというもの、生徒会は形を変えた。
カイトが来ると、シオンの推論速度が落ちて時間同期がずれる。
私の否定式が“ゼロ除算”で止まる。
——でも、その全部が“安定”として機能し始めた。
まるで彼の存在そのものが、世界の過剰な理解を“緩和”するみたいに。
シオンが一度だけ、カイトに言った。
「シオンくん、これを理解してますか?」
「してないっスね。したら負ける気がするんで」
その返しを聞いて、私は全身の毛穴が開いた。
シオンはカイトを見て、紅茶をかき混ぜながら呟いた。
「彼は“観測拒否”の才能があります。
存在を理解できないほど、完全なノイズ」
私はため息をついた。
「つまり、彼は“壊れない欠陥”ってことね」
「はい。世界が彼を解釈できない限り、この構造は保たれます」
——そんなバカな、と思った。
けれど、現実は違った。
彼が入ってから、時計の誤差が止まった。
干渉パターンが安定し、教室の蛍光灯が“瞬き”をやめた。
世界が、笑った。
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あれからしばらくが経ったころ、私はようやく理解した。
シオンはあの時、こう考えていたのだ。
「世界を壊すのは天才。
でも、世界を守るのは“退屈な凡人”のノリ」
黒沼カイト。
彼は、構造と観測の間に生まれた、ただの“遊び”だった。
けれどその“遊び”こそが、後のデスリンク開発、そしてプロトタイプ構築の最初の誤差だった。
——もしあの時、彼を入れなければ、私たちはとっくに壊れていた。
でもね、皮肉な話。
救いって、いつも壊す方の手から始まるのよ。
——光が二つあるとき、人はどちらを“出口”だと錯覚するのか。
それを確かめるために、双灯祭は存在しているのかもしれない。
今年開かれる学園祭である双灯祭は、例年の学園祭以上に危うい。
表向きは“学園全体参加の体験型脱出イベント”。
実態は——実験。
観測構造を利用したシミュレーション、あるいは、“安全な破滅”のリハーサル。
私はその設計チームの一員であり、そして——誰よりも早く、その脆さに気づいている。
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「リリ、もう少し“リアル”にしたいんです。
現実と虚構の間に、空気の層をつくる感じ」
シオンは、図面を広げた机の向こうで言った。
「それをやるなら、エアロックを挟むべきね。
出入口を“気圧差”で分ければ、
心理的にも現実との境界を感じやすい」
私はそう提案した。
その案はすぐに採用された。
シオンは無表情のまま小さく頷き、「“通過”という儀式、いいですね」と呟いた。
——その瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。
エアロックは本来、安全のための仕組みだ。
でもこの子が使えば、それは“分岐の装置”になる。
内と外。観測者と被験者。
境界を物理的に存在させるという発想が、どこか——死の儀式に似ている。
カイトは黙々と、脱出ルートのシミュレーションを組んでいた。
膨大な分岐図を描きながら、時々ぼそりと呟く。
「これ、死ぬ確率がゼロだとつまらないんスよ」
「ゲームってそういうものでしょ?」私が返す。
「“死なないと成立しない体験”があるというか。それを理解できるのは、生きている間だけでスけど」
言葉の意味を考えた瞬間、胸の奥に冷たいものが溜まった。
この子たちは、遊びのふりをして、世界の構造を“実験室”にしている。
私の提案が、知らぬ間に引き金になっていく。
——エアロック、通信遮断、同期遅延。
どれも私の草案だった。
最初はただの「安全設計」。
それがいま、“デスリンク”という名の装置に変わりつつある。
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黒沼カイトは、それを見て笑っていた。
「先生、やっぱリリさんが一番怖いっスよ」
「……やめて。私は監修してるだけ」
「そう言うやつが一番、裏で仕掛けてんスよ」
からかう口調なのに、妙に鋭かった。
この少年だけは、冗談で真実を突く。
「でもまあ、悪くないッスね。死ぬゲームの方が、生きる練習になるっしょ?」
「カイト……あなた、その発言、誰かに似てきたわ。」
「え、誰っスか?」
「シオン」
カイトは肩をすくめて、笑った。
「やっぱ、俺、天才と話が合うタイプっスね」
——やめて、と言えなかった。
おそらく私は、その危うさに惹かれている。
否定と構造のあいだで、揺れている自分がいる。
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シオンは最近、私の提案書を“観測台本”と呼ぶようになった。それを“試作型記録媒体”と呼ぶ。
カイトと二人の間で、言葉の温度がどんどん上がっていく。
私は、それを冷ます係。でも、冷ますたびに気づく。
私の否定は、彼らを止めていない。
むしろ、燃料になっている。
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シオンが言った。
脱出区画の最終点検に、あの矢那瀬アスミを呼びたいと。
紅茶を持つ手が止まった。
カップの表面張力が崩れ、光が一瞬だけ歪む。
——その“わずかな揺れ”だけで、私は理解した。
ああ、この子、本気で世界を試す気だ。
矢那瀬アスミ。
かつて私は、彼女と同じ中等部にいた。
同じ学年で神童なんて呼ばれていた。
その前の年は、雲越チイロと白鷺ハルナ。
私達は、四人である活動を行なっていた。
そのことは、シオンには言っていない。
影村学園にいたアスミは天城に突然転校してしまった。
その後、どこかの喫茶店でアスミと出会った時、彼女は私のことをこういった。
「あの……どこかで会いましたか?」
私は、チイロさんにそのことを電話で話したら「アイツはプチ記憶忘却中だから気にしないで」と言われた。
しかし、あの天城N.O.X.の“シュレディンガー”。
観測の可否を実験するあの目。
彼女が“見る”という行為そのものが、現実を動かしてしまう。
そんな存在を、脱出システムの中に入れるなんて。
まるで、核反応の中に鏡を置くようなものだ。
「シオン。あの子を中に入れるのは、危険すぎる」
私の声は、思ったよりも小さかった。
「危険だから、呼ぶのはダメですか?」
「……つまり、“干渉実験”ね?」
「違います。確認実験。どこまで“安全”が現実と両立するか。観測者を投入しない限り、現実の強度は測れません。
理論上、彼女の観測はデータロスを生みます。でも、それが“出口”を生むかもしれない」
言葉は正しい。
けれど、理論の正しさと“生存”は別の座標にある。
私はゆっくり息を吐いた。
「……シオン、あなたは出口を設計してるつもりで、実際は“閉じ込める構造”を作ってるわ」
シオンは目を細めた。
「壊れない構造なんて、存在しませんよ」
「だからって、壊す必要はないでしょう」
「あります。壊さなきゃ、誰も“出られません”から」
——もう、止まらなかった。
あの瞳の奥には、希望の形をした破滅があった。
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私は夜、ひとりで構造図を見返した。
脱出ルート。観測ライン。エアロック。
どれも緻密で、美しい。
なのに、ある一点を境に、全体が不気味な“閉じ”に変わる。
まるで、出口が“観測された時点で”内部化する設計。
もしそれを彼女——アスミが見たら?
観測者が構造の内部で観測を成立させたら?
——閉じた世界が、永遠になる。
“出口”が、“もう一つの入口”に変わる。
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それでも祭は開かれる。
この学園は、論理よりも期待で動く。
生徒会も、教師も、観客も、誰もが「面白そう」という言葉に免罪されて。
——その時、起きること。
・エアロックの圧が逆流する。
・観測データが同期不能になる。
・安全ログの時刻が“前倒し”される。
・そして、“出口”の概念が崩壊する。
つまり、参加者全員が「脱出不可能な脱出ゲーム」に閉じ込められる。
観測は止まらないのに、時間だけが閉じる。
彼女やカイトとってそれは、ただのエンタメだろう。
でも私には、それがただの殺戮に見えて仕方がない。
ノートの片隅に、こう記しておいた。
想定される最大のリスクは“設計者自身”。
制御を手放した者ほど、秩序を信じる。
シオンは観測の神で、カイトは凡人の悪魔。
そして私は、その二人を同じ空間に閉じ込めようとしている。
……怖いのは、そこに美しさを見出してしまう自分だ。
夜、校舎の照明が落ちたあと。
設計図を閉じながら、ふと天井を見上げた。
天城総合学園と影村学園の双灯祭。
光が二つ、闇に浮かぶ夜。
もし、その二つが重なったら——
その瞬間、この世界はもう一度、息を止める気がする。
それでも、私は書き続ける。
なぜなら、否定とは祈りの別名だから。
——私の仕事は、壊れる構造を最後まで“見届ける”こと。
そして、見届けることが、観測だ。
だから私はまだ、止まれない。
夜、校舎の屋上で、風が髪を引いた。
遠くの街が、双灯祭のリハーサルで赤く染まっていた。
その光の中で、私はノートに一行書いた。
“もしこの構造が閉じるなら、私が最後の観測者になる。”
私の中の“否定”が、静かに脈を打っていた。
拒むために、見続けなければならない。
祈るために、疑わなければならない。
矢那瀬アスミが、あの構造に足を踏み入れた瞬間、世界はまた、“誰かの観測下”に落ちる。
——それが神か、シオンか、あるいは、この私自身か。
どちらにしても、双灯祭は臨界点を越える。
そして私は、またその記録を残す。
なぜなら、それが私の役目だから。
——構造の中で、一番壊れやすい場所に立つこと。
それが、玖条リリという“役”の定義なのだから。
そして、同時に私はこうも考えた。
矢那瀬アスミ
私をもし、本当に忘れているのなら思い出してほしいと。




