EP52. 構造崩壊点とインフレーション
影村学園2年 生徒会
記録者 玖条リリ
唐突だが、ある記録のことを話す。
——御影シオンが影村学園に入学してきたときの話。
“観測する”側でありながら、同式の中で符号が逆。
シオンは、理解で救おうとする観測と、理解で壊そうとする観測の両方の性質を併せ持つ。
彼女との会合は、学術的な好奇心の延長線に見えて、その実——“神の手順”を人間の手で再現する試みだった。
シオンが設計した一般的には悲劇的なゲームは、人間の選択と感情の相関を測定するためのアルゴリズム実験に過ぎなかった。
彼女は、“観測不能な手”を理論的に導き出した瞬間、内部で何かが軋んだのかもしれない。
——観測を超えた理解は、必ず誰かの死を要求する。
それでもシオンは止まらなかった。
目的は
「未来を設計することは、ゲームの盤上を作ることと同じ」
シオンが独り言のように自問自答していた時の会話ログはこうだ。
「人は選ばれる側でなく、選ぶ側であるべき。けれど、選ぶ側に立った瞬間、人は駒になる。
それでも、盤を観測する人間がいなければ、世界は止まる。そして、観測を止めれば、止まった世界が“完成”する」
——この概念が、“最悪の教育”アルゴリズムの原型になった。
シオンは理想と構造を信じた。
正しく狂っていた。
そして、まもなく、その**「盤上の悲劇」**が現実世界のデスゲーム設計に転用される可能性がある。
だが、元の理念は単純だった。
——“観測者をもゲームの一部にする”。
最低と最悪の握手が、未来の惨劇に変わるまで、そう時間はかからないだろう。
——面白い年だった。
私の人生の軌道が、音もなく偏光した年。
⸻
入学式の日の朝、校舎が膨張して見えた。
空気が、いつもの影村学園の密度ではなかった。
あの頃、兄の総司はすでに理事長代理の椅子を確保していた。
総司が三年に上がり、私は生徒会長を引き継ぐ準備をしていた頃だ。
順当にいけば、私が次期会長。
玖条家の世襲。
予定調和。構造上の必然。
——退屈だった。
だから、あの日、壇上に立った新入生代表の少女を見て、私はほんの少し、救われた気がした。
御影シオン。
名簿を見た時から、異物感はあった。
家庭欄が空白。推薦経路も異常。
それでも入学審査を通過したということは、“誰か”が通した。
おそらく理事会の奥。兄ですら知らない層の決定。
初対面の印象は——無音。
彼女の存在は、空気から音を奪った。
黒髪が光を反射せず、眼差しが空間を平面に変える。
あのとき私は理解した。
この子は、人間ではなく「観測現象」そのものだと。
スピーチの内容は短かった。
「私のいる世界と、あなたたちのいる世界は、ほんの一ミリ、時間軸がずれています。
でも、そのずれを観測できる限り、まだ“私たち”は生きています」
——教室が静まった。
静寂が、音より大きく響いた。
私は、笑ってしまった。
「観測と時間軸」。
この単語を、初日から口にする一年生。
しかも、それを“詩”ではなく“定義”として言ってのけた。
世界の基礎構造を、初登校の挨拶で解体するとは。
その瞬間、私は自分の未来が変わる音を聞いた。
⸻
数日後、私は廊下でシオンと出会った。
小柄で、まだ、中学生みたい。
ただ、黒髪の奥に、血のような大きな瞳に私は見惚れてしまった。
廊下でシオンとすれ違った瞬間、空気がたわんだ。
まるで、二つの観測点が近づきすぎて、空間そのものが息を詰めたように。
その現象を私は、
——「学園インフレーション」と名づけた。
校内の時計が微妙にずれるようになった。
カメラ映像がフレームを飛ばす。
物理実験室の干渉パターンが崩壊する。
原因不明。
ただ、誰もが気づいていた。
彼女が同じ校舎に存在することが、“世界の許容量”を超えていた。
⸻
私は観測した。
シオンは“否定を定義する悪魔”。
出会う運命にあった。
そして、その瞬間、私は彼女の横に立つ必要があった。
それが、私が生徒会長を降り、副会長に降りた理由だ。
——玖条家の名は「制御」。
けれど制御の先には、必ず爆心地がある。
彼女を放置すれば、学園だけでなく“時間構造そのもの”が破裂するような気がした。
私は兄に言った。
「今年、この学園に悪魔が入学してきてしまった。学園秩序は、彼女に委ねるべき」
兄はため息をついた。
「お前は本気で、あの子を“中心”にするつもりか」
「中心ではなく、座標原点」
——そして、御影シオンが生徒会長に就任した。
私は副会長として、彼女の観測の“減衰材”になった。
彼女が世界を動かすたび、私はその分だけ現実の歪みを“否定”して平衡を保った。
けれど、それは不可能な仕事だった。
——否定は、構造を磨耗させる。
やがて私は、どちらの“現実”に属しているのか分からなくなった。
⸻
黒沼カイトがその年の秋に転入した。
あの少年だけは例外だった。
彼は観測も否定もせず、ただ“笑って見ていた”。
だがその笑いが、やがてすべての引き金になることを、あの時の私はまだ知らなかった。
⸻
——もし、あの日をもう一度やり直せるなら?
私はたぶん、同じ選択をする。
シオンに会長を譲り、カイトを見逃す。
それが、私という構造の完成形だから。
でもひとつだけ言える。
あの瞬間から、影村学園は“観測機構”ではなくなった。
世界の模倣実験は終わり、——現実の側が、私たちに同調を始めたのだ。
それを、当時の私は「奇跡」と呼び、今では「破滅」と呼ぶ。
どちらにしても、あの春、御影シオンと私が出会ったことで、世界は確かに——一度、勝手に息をした。
——その日、光がやけに重かった。
春の終わり、曇りガラス越しの午後。
空気が水に似ていた。
呼吸のたびに粒子が肌にまとわりつく。
あの年、影村学園の空調はよく壊れたけれど、その時だけは——“壊れている”のは世界の方だった。
⸻
最初に見たときから、私は彼女と会話する未来を恐れていた。
それは“友達としての会話”ではなく、“構造と観測の干渉”——物理的現象に近かったからだ。
場所は、理科棟の上階。
午後の光がカーテンに半分吸い込まれて、床のタイルに、白い矩形が並んでいた。
まるで「盤上」。
シオンはそこでノートを広げていた。
表紙は黒。文字は銀。
彼女の筆圧は一定で、波形としては心拍に近い。
黒板の一角には、誰も理解できない数式が書かれていた。
∂tΩ = Σ(Δk×Σψ) / λ
私はそれを見た瞬間、吐息で笑ってしまった。
「ねえシオン、それ……数学じゃなくて呪文に見えるわ」
彼女は手を止めず、わずかに目だけを上げた。
「呪文と方程式の違いは、再現性よ。ただ」
その言葉を聞いて、背後の気配が変わった。
シオンが立ち上がる。
小柄で、制服の袖が少し長い。
だが眼だけが、大人でも届かない深度を持っていた。
赤い虹彩が、光の反射でほんの一瞬、黒に沈む。
“見ている”というより、“切っている”視線。
彼女は何も言わず、黒板に近づいた。
そして、式の下に一行、さらさらと書き加えた。
⇒ Ωは“観測不能な変数”とする。
その瞬間、部屋の温度が変わった。
カーテンの裾がわずかに浮いた。
まるで空気が二重に重なったみたいに。
——まるで、世界の言語がそこに合わせて調律されるみたいに。
私は見ていられなかった。
息をするのも、場の対称性を壊す気がした。
沈黙のあと、席に戻り、シオンがノートを閉じた。
「観測不能を“定義”できると思ってるの?
いえ、定義した瞬間に、観測不能じゃなくなる。
——だから、それを“前提”にする」
彼女は内面の自分と対話をするかのような話をはじめた。
それは、水面に落ちた二つの滴が、同じ円を描いて干渉する瞬間みたいだった。
波が互いを打ち消すでもなく、倍加するでもなく、——ただ、世界の中心で“音”になった。
「それ、理論が死ぬ。けど、理論が死なないと、人は生まれない」
その一人のやりとりの間、私は立ち尽くしていた。
シオンの声が、論理と詩の間を振動している。
どちらが正しいのか、どちらが狂っているのか。
いや、どちらも——同じ“正しさ”を別の角度から見ているだけ。
私は割り込むように言った。
「ねえ、シオン、ここ、まだ放課後許可区域じゃないのよ?」
わざと軽口を挟んだ。
あの空気を壊さなければ、校舎ごと持っていかれる気がした。
シオンはわずかに笑った。
「ごめんなさい。ちょっと、時間を曲げてたの」
眼鏡の端を押し上げて、微笑む動作をした。
……やっぱり、シオンは。
世界を“語る”ことを許されすぎている。
私たち凡人のための文法を、すでに彼女は踏み越えていた。
私は腕を組み、半分呆れた声で言った。
「あなた、私とは、相性最悪ね」
「そう?」とシオン。
二人の声が、同時だった。
——その瞬間、蛍光灯が一瞬だけチカッと明滅した。
そして、黒板に書かれた数式の一部が、確かに増えていた。
誰も書いていないのに。
シオンがそれを見て、ぽつりと言った。
「ふふ、ほら、観測した瞬間に“書かれる”でしょ」
私は答えず、指先でその数式をなぞった。
「はあ……世界は、観測者が多すぎる」
シオンは笑った。
「だったら、私が一人減らしてあげる」
——それが、私たち二人の最初の会話だった。
後で聞いた話だが、あの数式の一部は、のちに**あるプロトタイプの初期構造**に転用されたらしい。
つまり、あの日、あの教室で、“運命を記録するための言語”が初めて書かれたということ。
シオンとの出会いは、まるで実験のトリガーだった。
干渉と定義。観測と否定。
二つの側面を持つ天才。
彼女がこの学園にやってきた瞬間、学園の密閉系は、静かに沸騰を始めた。
——そして私、玖条リリはその沸点を記録する装置になった。
誰かが止めなければならない。
でも、止めることもまた“観測”だとしたら。
あの教室で起きたことを、私は今でもこう記している。
世界の始まりとは、誰かが誰かを見た瞬間の、微かな誤差だと。




