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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第二章 双灯祭準備編

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EP51. 出口のない出口

 ——通話のあと、私はしばらく動けなかった。

 スマホの画面には「通話終了」とだけ表示され、まるで“観測が切れた”後の世界みたいに静かだった。


 電気椅子。

 彼女はそれを罰ではなく「信頼の確認」と呼んだ。

 その言葉の形だけを聞けば、綺麗に整っている。

 けれど私の中では、論理の美しさと倫理の欠損が完全に重なっていた。


 それから翌日、また彼女に会うことになった。

 傘を差して歩く夕暮れの道。

 あの通話の続きを、彼女はまるで何事もなかったように話し始めた。


 ——雨は、冷たくも優しくもなかった。

 ただ、過去の匂いがした。


 吸い込むたび、舌の奥に金属の味。

 焦げと静電気が、喉の粘膜にうっすら張りつく。

 W1の残響——感情の燃えカスが、まだ体内に残っている。

 それを“雨”という言葉で誤魔化しているだけ。


 傘の内側、光が滲んで白く反射していた。

 私はその中に、御影シオンの声を聞く。

 雨に消されることのない、異常に明瞭な発音。

 言葉が、空気の粒子を整列させるような……そんな声だった。


 「先輩、あの電気椅子。ほんとは“罰”のためじゃなかったんです」

 ——その一文が、私の中の何かを点火した。


 街灯の橙色が、彼女の瞳の奥に薄膜のように張りついている。

 その光が、瞬きをしても剥がれない。

 シオンは続けた。

 「“確かめるため”の道具なんですよ。どこまで信じ合えるかを」


 “信じ合う”。


 その単語が、鼓膜をすり抜け、後頭部の内側で何度も反響する。

 信じ合う——W1の最期の作戦ログでも使われた言葉だ。

 〈信頼値同期・観測確定プロトコル〉。

 その直後に、あの“崩落”が起きた。


 喉が乾く。

 でも雨の湿気で、乾くことさえままならない。


 ——私は理解してしまった。

 この子は、無意識のうちに同じ構造を再現している。

 倫理的な罪を知らない、純粋な模倣。


 「怖いと思いました?」

 唐突に問われた声が、心拍の波形を一段ずらす。

 「少し、ね」

 口は動いているのに、呼吸は動かない。

 声が、空気ではなくデータで出ているような感覚。


 私は観測する。

 シオンの瞳孔径は、光量に対して過剰に開いている。

 まばたきの間隔は、平均より2.1秒長い。

 心拍は静かで、恐怖反応の生理データがまるで存在しない。

 ——つまり、彼女の“怖い”は、理論値でしかない。


 「次にやるときは、もっと“安全に”します」

 その笑みが、呼吸の余白を奪った。

 「電流じゃなくて、光で。」


 光。

 私の脳内に、W1の照明が一斉に落ちる映像が再生される。

 酸素濃度12%、照度2ルクス。

 最後の拍手SEが、錯乱した子供の声と混ざってループする。


 ——彼女が言う“安全”は、肉体を壊さずに精神を観測する方法。

 死の代わりに、「信頼」という名の電流を流す実験。


 「シオン、それは……何のために?」

 「“間違いのない選択”を作るためです」

 その声に、温度がなかった。

 私は指先が震えるのを感じた。

 だけど、寒くはなかった。

 ——これは熱ではなく、恐怖の再現。


 傘の骨が小さく軋む音。

 そのたびに、私の脳がW1の「構造崩壊ログ」を照合してしまう。

 【音響パターン一致率:82%】

 吐き気がこみ上げる。


 「先輩、もうひとつ聞いてもらえますか?」

 彼女の声が、遠くから聞こえる。

 空気が、粘度を増していく。

 私の神経伝達が、まるで液体中で遅延しているみたいだった。


 「新しい脱出ゲームの構想なんです」

 ——その言葉を聞いた瞬間、胸骨の奥が痛む。

 W1のデスゲームの、惨劇の設計。

 “脱出”という単語は、もうそれ自体がトリガーワード。


 「Aの部屋に数人の参加者がいます」

 シオンは淡々と説明を続ける。

 「AからBの部屋に移動するためには、全員が同時にボタンを押す必要があるんです。

  全員一致で。ひとりでも押さなかったら、扉は開かない。」


 ——全員一致。

 あの言葉は、血よりも冷たい。

 それは、命令ではなく“同期”の別名だった。


 「質問が出るんです。“AとB、どちらが正しいと思うか”。

  でも——どちらも正解なんですよ」


 背筋を汗が伝う。

 どちらも正解——だから、誰も間違っていない。

 だから、罰もない。

 だから、誰も出られない。


 呼吸が崩れる。

 心拍が早くなる。

 けれど、その早さを「正しい」と認識できない。


 「揃えば扉は開く。揃わなければ、全員が残ります」

 彼女は微笑んだ。

 その笑顔は“正しい”の象徴みたいに、均整が取れていた。


 ——私の中で、音が重なる。

 W1、アリーナ内のアナウンス。

 〈観測者全員の同意が得られません。閉鎖を継続します〉

 あの時、誰もが押していた。

 でも、“押さなかった誰か”のせいにするために押していた。


 「だから、“信じ合う”練習にもなるんです。ね、先輩?」

 その言葉が、もうノイズにしか聞こえない。


 胃が反転する。

 世界が歪む。

 視界の端に、W1の天井の残像が浮かぶ。

 割れた照明、血と水の混線、酸欠で倒れたミサキの横顔——。


 「……もし、一人でも押せない人がいたら?」

 声が震える。

 「その人は、“意見が合わなかった”だけです。罰もない。

  でも、扉は閉じたままです」

 「閉じたまま……どれくらい?」

 「時間は設定次第です。でも、私は——」


 シオンが、ふっと目を細める。

 「永久でもいいと思ってます。それが“選択の責任”だから」


 ——永久。

 その一語が、肺の奥を直撃する。

 呼吸の空気が重くなる。

 世界が急に、密閉空間みたいに感じられる。

 逃げ場のない、圧縮された部屋。


 私の脳が、W1での“酸素濃度グラフ”を自動で再生する。

 数値は下がり続け、曲線が呼吸と同期する。

 頭の中で誰かが笑う。〈空気は止めない〉と、あの日の私が言っている。

 でも空気は止まった。止まったまま、今も続いている。


 私は、今度こそ声が出なかった。

 喉の奥が硬直し、呼気が空転する。

 シオンの声だけが響く。


 「——この展示、手伝ってもらえませんか?」


 その瞬間、視界が白く弾けた。

 “手伝って”。

 それは、もう命令でも依頼でもない。

 “観測者を実験台にする”という呼び声だ。


 胸の奥で、心臓が一度だけ跳ねた。

 次の瞬間、酸素が入らなくなった。

 喉が焼けるように痛い。

 空気が吸えない。


 ああ、これだ。

 これは“光で試す”という彼女の実験。

 呼吸を奪う代わりに、私の意識を観測する。

 意識が遠のく。視界の中で、彼女が淡々と笑っている。


 「先輩なら、分かってくれると思ったんです」


 ——分かる、わけがない。

 でも、分かってしまった。

 この少女は、“正しさの牢獄”を美しく設計している。

 そして、私にその青写真を見せている。


 雨の音が遠ざかる。

 光が滲む。

 傘の骨が軋む音だけが、鼓膜を叩く。


 息が、できない。

 呼吸は止まり、視界が波打ち、思考が音になる。

 その音の最後に、私は聞いた。


 ——「誰も間違っていないのに、出られない部屋」


 それは、W1の再現だった。

 違う形をして、同じ地獄がまた始まっていた。


 雨の音が少し弱まった。

 傘の縁から落ちる水滴の間隔が、だんだんと等間隔になっていく。

 脳が、やっと処理の速度を取り戻し始める。


 待って、ここはW2。

 ——考えすぎかもしれない。

 そう、思い直す。


 そもそも、脱出ゲームなんて、文化祭の定番だ。

 暗い部屋に仕掛けを置いて、ちょっとした謎解きをする。

 きっと彼女が言う“一致”とか“選択”も、ただのテーマ性——脚本上の演出だ。

 W1と重ねるのは、私が勝手に引きずっているから。

 W1の設計は、りう=ZAGI

 ……そう、自分に言い聞かせる。


 「シオン、その“手伝ってほしい”って……具体的に?」

 声が思ったより冷静に出た。

 喉の奥の渇きだけが、現実を保ってくれている。


 「ふふ、そんな大げさなことじゃありません」

 彼女は軽く笑いながら傘を傾けた。

 滴る雨粒が、地面で細かい円を描く。


 「ただ、**“観測係”**をお願いしたいんです」

 「観測係?」

 「はい。プレイヤーじゃなくて、外から見ていてほしい。

  どの瞬間に人が“押す”か、“押せない”か。

  その境目を、あなたの視点で記録してほしいんです」


 その説明は——異常なほど、正確だった。

 言葉の粒が整っていて、どこにも引っかかりがない。

 それが逆に、不安を増幅させる。


 「……つまり、私は中には入らない?」

 「ええ、外側です。

  でも、もし“外側”も誰かに見られていたら、もっと面白いと思いません?」


 私の指先が、傘の柄を強く握った。

 金属の冷たさが、指紋に食い込む。

 彼女の言葉の中で、内と外がどんどん曖昧になる。


 「その、ゲームの意図をもう少し聞いてもいい?」

 「うーん……」

 シオンは少し考えるふりをして、まるで数学の式を整理するように、指を一本ずつ立てた。


 「まず、AとBのどちらが“正しい”かを問う。

  でも、どちらも間違いじゃない。

  だから、“他人と自分の正しさを同期できるか”を見る。

  全員がボタンを押したら、扉が開く。

  押せなければ、みんなで残る。

  “犠牲”が発生しない構造です。優しいでしょう?」


 優しい。

 その言葉に、私は胃の奥がきゅっと縮んだ。


 「——“犠牲がない”って言葉、怖いね」

 「え?」

 「だって、誰も傷つかない設計って、結局、誰も救われない設計でもある」

 思わず出た言葉に、彼女は瞬きだけで反応した。

 驚きも否定もない。ただ、データを保存するような顔。


 「やっぱり、先輩にお願いしてよかった。

  そういう風に、構造の“裏”を見てくれる人が必要なんです」

 「……構造の裏?」

 「はい。“出口”って、物理的なものじゃなくてもいいと思いませんか?

  たとえば、“納得”とか、“信頼”とか。

  ああいう概念も、ちゃんと“開く音”がするんですよ」


 彼女はそう言って、微笑んだ。

 まるで、扉の鍵穴を覗き込んでいる子供みたいに。

 その笑顔に一瞬だけ、年相応の無邪気さが見えた。

 それが逆に、痛い。


 ——彼女の“純粋”は、倫理の外側で作動している。

 それを壊したくない。

 けれど、放っておいたら、世界のどこかがもう一度壊れる。


 「シオン」

 呼ぶ声が、少し掠れた。

 「……あなたのその“ゲーム”、ほんとに展示でやるつもり?」

 「もちろんです。だって、“誰も間違っていないのに出られない部屋”。

  それって、まるで現実みたいでしょう?」


 ——彼女はそう言って、また笑った。

 私の中で何かが、静かに軋む。


 私はまだ、断れない。

 “観測者”という言葉が、あまりに巧妙すぎた。

 それは、私の生存手順の中枢を刺してくる。


 「……分かった。考えておく」

 「ありがとうございます。先輩が見てくれたら、きっと成功します」


 その瞬間、空気がやっと流れた。

 息が吸える。

 けれど肺の奥に残るのは、鉄と光の味。


 雨上がりの空。

 街灯がゆっくり明滅を始める。

 私は傘をたたみながら思った。


 ——たぶん、考えすぎなんだろう。

 けど、“考えすぎ”の先でしか、私は世界を信じられない。


 だから、観測する。

 彼女が作る“出口のない出口”の、その外側から。


 ——帰宅して、靴を脱いだ瞬間、足の裏がまだ濡れていることに気づいた。

 外の水じゃない。あの会話の余熱が、皮膚の内側に残っている。


 机の上には、まだ未送信のメモが開いたままだ。

 〈拍手SE禁止〉

 〈誰も置いていかない〉

 〈出口=外部手順〉

 そこに一行、無意識で書き加える。

 〈御影シオン=出口の外側を作る人〉


 ペン先が震える。

 彼女の語る「信頼」や「一致」は、ゲームのための装飾に聞こえない。

 あれは、構造への恋だ。

 人を信じたいわけじゃない。

 “信じ合うという構造”の美しさに、彼女は魅せられている。


 私は息を吐く。

 呼気の湿り気が、まだ外の空気と混じらない。

 天井の蛍光灯が一瞬、ちらりと明滅した。

 その瞬間だけ、シオンの声が頭の中に蘇る。

 〈出口は、物理的じゃなくてもいいと思いませんか?〉


 ——出口のない出口。

 その言葉の中に、彼女の設計思想が全部詰まっている。


 私はノートを閉じ、深呼吸する。

 4、7、8。

 ゆっくり数えながら、瞼を閉じる。

 思考の熱が落ち着くまで、手順通りに。


 けれど心のどこかで、知っている。

 私が次に観測するのは、“彼女の作る部屋”の内側からだということを。


 外側にいるつもりで、もうすでに観測の輪の中に立っている。


 ——御影シオン。

 あの少女の作る「実験」は、私の呼吸ひとつで、きっと始まってしまう。


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