EP5. 観測収束とウェーブコラプス
朝は、なぜだかいつも空気がざらついている。
でも今日は違った。ざわめきの中心には、昨日の旧教会の崩落がある。
僕は「優等生」としてその空気を当たり前のように演じる。
笑顔の角度、声の抑揚、歩幅のリズム。全部、最適化された数式どおりに。
けれど——クラスの中に、一人だけ。
その演算を乱す存在が現れた。
翌朝、昇降口を抜けた瞬間、耳に飛び込んできたのは、いつもの挨拶ではなかった。
「おい、聞いたか? 旧教会が崩れたってよ!」
「ニュースでやってた。“老朽化による崩落事故”だってさ」
「でもおかしくね? 先週だって観光客が写真撮ってたし、老朽化って……急すぎないか?」
声が重なり、廊下の空気がざわめきに満たされていた。
靴音、話し声、カバンの擦れる音、すべてが「昨夜」の余韻を共有している。
僕は下駄箱で靴を履き替え、視線を下げたまま歩き出す。
何事もないように——観測者が望む優等生モデルを演じる。それが僕の仕事だ。
表情筋の緊張度を整え、笑顔の角度を0.3ラジアン。声の抑揚を1.16倍。
人間関係は数式の最適解で回せる。僕が崩れない限り、誰も疑わない。
⸻
教室の扉を開けた瞬間、話題の中心にいるのは予想通りの人物だった。
「だから言ったろ、“首なし怪物”が出るって! 現場から逃げた人が“悲鳴を聞いた”って掲示板に書き込んでたんだ!」
亞村トウタ。長い前髪の奥で目を光らせ、興奮気味に語っている。
周囲のクラスメイトがどよめく。笑い半分、恐怖半分。
もちろん、彼自身が裏で噂を流していたことは、誰も知らない。
彼の言葉は自作自演と虚構のミックス。それでも人は真実より噂を信じる。
「旧教会ねえ……ほんとに崩れただけ?」
火宮レイカが机に突っ伏し、わざとらしく目を細めた。
「ほら〜、きっと“首なし怪物”が夜な夜なドーン! って出てきて……きゃーっ!」
突然自分で悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちそうになる。
教室は爆笑に包まれた。
「また始まった……」誰かが呆れたように呟く。
レイカは演劇部仕込みのオーバーアクションで、笑いの渦をさらに煽った。
——天真爛漫で“痛い子”扱い。だが、クラスの空気を一瞬で塗り替える力だけは本物だ。
「やめてよ……ただでさえ怖いのに」
霧島ミサキが小さな声で遮る。机の端に手を置き、指先が震えている。
表では心配性の幼馴染。
だがその視線は、僕の横顔をじっと追っていた。彼女だけが、優等生の笑顔の奥を疑っている。
僕は笑顔を崩さない。“優等生ユウマ”としての観測結果を守る。それだけだ。
⸻
そのとき。
「旧教会の件……妙ですね」
窓際から落ちてきた声は、冷たくも、妙に響きを帯びていた。
矢那瀬アスミ。転校して二日目の少女。
長い黒髪を耳にかけ、窓の外の光を受ける横顔は彫刻のように無表情。
だが瞳の奥に、一瞬だけ熱が灯っていた。
「ニュースは“老朽化”と断定していました。けれど——振動解析の記録を確認しましたか?」
「……記録?」誰かが首を傾げる。
「地震計のデータです。昨夜22時32分。学園近隣の観測所が、局所的な高周波振動を捉えている。通常の崩落ではあり得ません。RT60が3秒を超える残響波形が残っています」
アスミの口調は淡々としていた。だが、その数値の意味を理解できる人間はほとんどいない。
それでも、クラスの空気が凍りついたのは、その言葉が持つ異物感のせいだった。
——なぜ転校生が、そんな専門的なデータを知っている?
僕は笑顔を保ったまま、心の奥で冷たい汗を流していた。
アスミはただの天才少女ではない。
昨日、あの場にはいなかったはずだ。だが、彼女は確かに異常の痕跡を拾い上げている。
窓の外の光が揺れ、彼女の瞳を照らした。
その光は——まるで、僕の裏側をすでに観測しているかのように鋭かった。
⸻
昼休み。
廊下を歩いていた僕は、背中に視線を感じて振り返った。
アスミがそこにいた。無表情のまま、真っ直ぐに立っている。
「岡崎君。……あなた、昨夜どこにいましたか?」
心臓が一瞬止まったように思えた。
——裏を知る質問だ。
だが僕は即座に演算する。笑顔の角度を0.3ラジアン。声の抑揚を1.16倍。
「家で課題をしてたよ。どうして?」
アスミの視線は揺れない。
「……そうですか」
「でも、岡崎君、ならどうしてそんなに怪我をしてるの?」
ただそれだけを残し、足音を立てずに去っていった。
⸻
旧教会は崩壊した。
社会は“事故”と処理した。
だがクラスの中に、ただ一人だけ。
真実を見ようとしている瞳がある。
彼女の存在そのものが、
僕という観測モデルを静かに揺るがせていた。
旧教会は「事故」と処理された。
それなら僕も「優等生」として、
この日常を続ければいい。……そう思っていた。
だが矢那瀬アスミ。
彼女の瞳は、あまりにも冷たく、あまりにも鋭く、僕の仮面を透かしていた。
優等生モデルが揺らぐとき——その裏にあるものを、彼女は必ず見抜くだろう。
僕はその揺らぎを無視できなくなる。




