EP49. 幽霊の棋譜
退屈というのは、静かな暴力だ。
誰かを壊すほどの衝動じゃないのに、ゆっくりと思考を腐らせる。
だから俺は、盤に向かう。形が変わらない唯一の戦場。
勝ち負けより、理解の境界を測るために。
でも——あの夜、盤は呼吸していた。
俺の思考を“読む”手が、向こう側にいた。
あれはプログラムでも、人間でもない。
呼吸そのものが、対局していた。
そして、俺は初めて負けて、楽しかった。
きっかけは偶然ではない。退屈だ。
人は退屈から逃げようとして無駄な争いを起こすが、俺は盤上という安全な戦場に退屈を押し込める。
影村との合同イベントを来週に控えた深夜。
情報班の小部屋は校内のどの部屋よりも静かで、液晶の冷たい輝度だけが呼吸をしていた。
照明は切り、冷房は29℃で止め、指先の温度だけを指標にする。
指が冷えすぎると、思考の端点でノイズが走るからだ。
自作の評価器「観測AI_β」を起動する。
雑音除去、ログ照合、棋譜クラスタリング。
——そこで、一行の通知が浮いた。
〈対局希望:匿名ユーザー “@hak_sou”〉
知らないハンドルネーム。
履歴欄を開く。終局時刻が均一だ。
全戦10分切れ負け。
評価グラフは象徴的な水平線——“負けない将棋”ではない、“相手が勝てない将棋”。
定跡をなぞるAIの直線でも、素人の偶然でもない。
意図的な無風。
つまり、人だ。
承諾を押すのに、迷いはなかった。
――――
対局開始:21:03(各10分)
初手、▲7六歩。応手、△3四歩。
指し手の温度が伝わる。少し速い。けれど、“読んでから打つ速さ”だ。
AIは秒読みゼロでも走れるが、人間は呼吸で駒を持つ。
いまの相手の呼吸は、こちらの評価関数の脇から覗き込んでくる。
角換わり相腰掛け銀。実験に適した整地。
▲2六歩△8四歩▲7八銀△8五歩▲2五歩△7七角成▲同銀△7二銀
ここまで教科書。互いに腰掛け銀の骨格を置きにいく。玉はまだ居玉。
俺は、玉を囲わない選択を取る。評価関数上は危険だが、局面密度が高いほど“相手のリズム”が観測できる。
▲3六歩△4二玉▲3七銀△3二玉▲4六歩△6四歩
ここで評価器の針がわずかに揺れる。
(△6四歩のタイミングが、美しい——)
先手の▲4六歩と同時に突く△6四歩は定跡書にも載るが、端的に“殴り合い宣言”だ。
俺は▲4七銀と受けて角筋を通し、△6三銀▲6八玉△7四歩▲7九玉△8四飛。
角換わり早繰り銀の芽を匂わせながらも、相手の指し手は“誘う香り”がする。
攻めが香水のように漂い、こちらの鼻腔に“気持ちよく負ける形”の幻影をつくる。
▲9六歩△9四歩。呼吸の試し合い。
▲4五歩△同歩▲同銀に対し、相手は△4四銀を合わせてきた。
力学は対称。形は整う。評価値は+0.2から−0.4へ。許容範囲。
俺は▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛と深追いを避ける。
——ここで来た。
△7五歩。
定跡外すれすれの歩突き。軽手。評価値は“跳ねない”。
だが、俺の読む二手三手の先に“置かれている”。
(ここで▲同歩と取れば△同銀から△8六歩、▲同歩の瞬間△8五歩……)
評価器は“ほぼ互角”を示しながら、俺の肺だけが微かに酸欠を訴える。
理解の速度が、相手の“間”に遅れていく。
▲6八金寄。△8六歩▲同歩△8五歩。
“軽い歩”と“軽い歩”の交差。こちらが受けに回ると、相手の手の中でリズムが整う。
▲8六歩と止めると、△同飛▲8七歩△8四飛。
並の打ち回し。しかし、そこにほんの一拍の遊びがある。
俺は▲4六銀と立て替え、中央の圧を維持する。
相手は△2二玉——玉の温度を上げないまま、呼吸だけこちらに寄せてくる。
以降の十数手は速かった。
△4五歩▲同歩△同桂▲4六銀△5四銀▲3五歩△同歩▲同角△3四歩と絡まり、
中盤の入り口で評価値が−1.5へ落ちた瞬間、俺は初めて“負ける実感”を心地よいと思った。
理解が追い抜かれる、あの背筋の冷たさ。
(ああ、楽しいな——)
終盤は整然と、残酷に進む。
△7六歩成▲同金△5六歩▲同金△4七角成——手筋列。
受けの最善は▲7八玉、以下△6七馬▲同玉△5七金打▲7八玉△7七金。
形勢は戻らない。
投了を押す直前、囁きが画面の裏から漏れた錯覚がした。音ではない、呼吸だ。
〈あなたの“理解”は望外で綺麗だ〉
通信は切断。
アカウントは溶けるように、まるで幽霊のように消えた。
俺は椅子の背にもたれず、ただ盤の残像を見ていた。
“負けた”のではない。“連れていかれた”。
この感覚を、“祭り”の盤上まで持っていく。
――――
双灯祭準備の喧噪は校舎の外皮を温めていたが、情報班の部屋は相変わらず体温が低い。
ホログラム盤の上で、野々村ハザマが淡々と局面を再現する。
「これが、ミナトくんが負けた“幽霊戦”の棋譜だね?」
声の湿度は一定。彼の言葉は常に“擬音がない”。
「匿名対局“@hak_sou”実在は不明。通信経路は五重プロキシ」
アスミが即答する。「つまり人間」
雲越チイロが身を乗り出した。「で、つまり生きてる幽霊ってこと! 最高!」
「実況しないで。」
「実況してない。ナレーションしてる」
ホログラムはあの局面を塗り出す。△7五歩の軽手。
アスミがタブレットの縁を指で叩く。「評価値、跳ねない」
ハザマが静かに締める。「“評価不能”です。葉暮は相手のアルゴリズムを破壊した」
チイロの目つきが変わる。ふざけの膜が剥がれ、刃物の光沢が出る。
「いいねぇ、そういうタイプ。ロジックを解体して“呼吸”で勝つ奴」
“呼吸”という単語に、背骨が一拍だけ震えた。
——あの夜の酸欠が、戻ってくる。
――――
【放課後・雲越式訓練】
黒板にチョークで四文字。対葉暮対策。
チイロが宣言する。
「授業を始めます。先生はこの私、天才美女棋士の雲越チイロだッ!」
嫌な予感しかしない。だが俺は頷いた。
「ミナト、安心しろ、これは音楽の授業だ」
「いやいや、将棋の話をしてくれ」
「するする!将棋って“拍”でできてる。お前の弱点は拍が一定すぎる。
葉暮は“間”で呼吸を潰すタイプ。だから、音で鍛えるのさ!」
机をタン・タタン・タン・タタタ。
ビートの上に“指し手”を乗せろ、と言う。
アスミがストップウォッチを掲げる。「実験観測入る。脈とテンポ解析するね」
俺は盤に向き直る。駒音を一音ずつ、呼吸と同期させる。
最初の数分で、心拍がテンポに飲まれる感覚が出た。
「そうそう! “負けるリズム”を自覚しろ!」
チイロは容赦なくテンポを崩す。「お前は理論で呼吸してる。呼吸で理論を壊せ!」
俺は駒を持つ手を止め、肺を空にしてから吸う。
リズムで理屈を粉砕する。逆転の発想が、妙に馴染む。
負けた局面が音楽のモチーフに変わり、手が軽くなる。
――――
【廊下・野々村の補足】
チイロ特訓の後、廊下の涼しい端でハザマが端末を差し出す。
「葉暮ソウタの棋譜。奨励会データに一致するものが三局」
「やはり本人か」
「特徴は“封じ手の自己破壊と再構築”。端的に言えば意図的に負け筋を作る」
「……負け筋?」
「“勝ちの形”に相手を酔わせるための毒薬。あなたは飲んだ」
アスミが横から。「実験心理。安全な敗北を用意して観測者を呼び込むやり口」
「お前らの言語化、怖いな」
ハザマはわずかに笑う。「あなたもその実験に巻き込まれたんですよ、立花くん」
——なら、次は巻き込む側になる。
俺は端末の消える光を見届け、心の中で盤を開いた。
――――
【屋上スパー・チイロ模写戦(各5分・葉暮模倣モード)】
夕風が書道紙みたいに空を撫でる。
チイロが片手にコーラ、もう片手に折り盤。「葉暮対策スパー、いくぞ!」
アスミはPCを開き、非公式ライブ解析。
「開始。持ち時間各5分、補正ナシ。チイロ先輩は葉暮模写モード」
初手から互いに速い。
△3四歩 ▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △7二銀 ▲7八銀
標準形に見せかけて、チイロの“間”が違う。
駒を持つ指の止まり方が、こちらの読みに刺さる。
▲2五歩 △3三銀 ▲4八銀 △4二玉 ▲4六歩 △6四歩
「テンポ一定……まだ硬い!」チイロが笑う。
笑いの次フレームで目が変わる。闘犬の目。こちらを“測る”目。
その目つきの変化が、指し手より先に襲ってくる。
▲4七銀 △6三銀 ▲6八玉 △7四歩 ▲7九玉 △8四飛
中住まいのまま、チイロは△6五歩の匂いを帯びる。
俺は▲4五歩と先に突く。△同歩▲同銀に△4四銀。
ここでアスミの声。「ミナト、テンポずらして。意図的に評価値を壊す」
指先が走る。▲3五歩△同歩▲同角△3四歩。
角退路を△2三歩で塞ぐ筋も見えるが、チイロはやらない。こちらに“良い気分”を与え続ける。
▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛。
呼吸。
チイロは△7五歩。
——来た。
今度は取らない。▲7六歩と突き返し、△同歩に▲同金。
バランスが崩れれば、葉暮型は“間”を取り直す。案の定、△8六歩。
▲同歩に△同飛▲8七歩△8四飛。
僕は▲5六歩で角の利きを通し、△6五歩に▲同歩。
風が盤面を撫で、駒音が散る。
チイロの眉が一ミリ動いた。「いいね。リズムが壊れた」
ここから——勝ちに行く。
▲4六銀を▲5六銀に据え直し、△4五歩に▲同歩△同桂▲4六銀。
互いに腰掛け銀が絡む。
チイロの手が止まり、そして静かに——△7六歩成。
僕の視界が震える。
あの夜の“負けの音”と同質の、紙一重の割れ方。
▲同金△5六歩▲同金△4七角成。
知っている筋だ。理解している。
それでも、肺から空気が抜けていく。
「やっぱり、葉暮の間合いに入ると呼吸が奪われる」
チイロは息を吐き、盤を閉じない目で僕を見る。
「でもミナト、途中までいい筋してた。次は勝てる」
勝てる。
根拠の薄い言葉は嫌いだ。
けれど今は、筋道の先に細い橋が見えた気がした。
――――
【情報班サロン・準備会議】
夕方、N.O.X.が集まる小部屋で、ホログラム盤を囲む。
トウタが缶コーヒーを高々と掲げる。
「実況タイトル決定! “天城vs影村 盤上干渉戦!”」
「長い。」
「じゃ、“理解と酸欠”は?」チイロ。
「もっと嫌だ。」
「じゃあ“勝ち筋の残響”!」アスミが笑う。
「詩的すぎる」ハザマ。
笑いは、頭脳労働に必要な潤滑油だ。
俺は盤を見下ろし、幽霊の棋譜を脳裏から呼び戻す。
負けた理由は言語化できた。
次は“干渉”する番だ。相手の呼吸に手を差し込んで、評価不能域をこちらの器にする。
チイロが僕の背を軽く叩く。
「いい顔してんじゃん。“理解”って顔」
「……うるさい」
「そうやって照れる奴ほど、勝つんだよ」
アスミはノートPCを閉じ、やわらかく言う。
「次の練習は“封じ手”の読み崩し。観測は任せて」
ハザマが要点だけ告げる。「盤と健康、両立を」
風が窓を叩き、双灯祭の垂れ幕が遠くで揺れている。
祭りまで、あと七日。
騒がしい日常の下で、盤の上だけが静かに燃えている。
今度は——息を奪われる側じゃなく、奪う側として。
――――
【技術付記:対葉暮ソウタ仮説/立花ノート】
1.葉暮の特徴
・“封じ手”を意図的に腐らせ、相手の評価関数に甘い谷を作る。
・△7五歩型の軽手を“こちらの二手先の快感”に同期させる。
・時間配分:中盤で相手の読みに合わせて“間”を置く。ここが呼吸奪取点。
2.介入策
A. テンポ位相ずらし(雲越式)
—駒音と呼吸の位相を意図的に外す。評価値の“ほぼ互角”を嫌う。
B. 受けの矢倉化は避ける
—形の美が毒になる。中住まい〜舟囲いで“雑に固い”。
C. 勝ちにいく瞬間を“相手に説明しない”
—△7六歩成の当たり筋に入る前に、別地点で温度差を作る。
3.実戦課題
・屋上スパーの再現。△7五歩への▲7六歩突き返し→▲同金型の後手番反発に対し、
▲4七金〜▲5六歩の“金の連結”を切らない。
・終盤での△4七角成筋に備え、▲7八玉のタイミングは“早すぎず遅すぎず”。
・心理面:酸欠兆候(末梢冷感)が出たら30秒深呼吸。持ち時間配分で吸う。
――――
退屈から始まったが、もう退屈ではない。
俺は勝ち負けそのものに興味は薄い。
興味があるのは“理解が起こる瞬間”だ。
葉暮ソウタは、その瞬間をこちらに運んできた。
次は、運ばれない。こちらから運ぶ。
盤上の呼吸器官を、僕の側に引き寄せる。
双灯祭の二日目か。
ステージの照明が熱を持つころ、盤の中心だけは凍る。
そこに指を伸ばして——俺は自分の呼吸で、相手の理屈を壊す。
でもなチイロ、
俺は、お前が出ろよと少し思った。
敗北の記憶は、静かに熟成する。
勝ったときの手順はすぐに忘れるが、負けた局面は体内で化石になる。
あの“幽霊”との棋譜も、きっと消えない。
葉暮ソウタという名前が現実の人間だとしても、盤上ではもう神話に近い。
次に対局する時、俺は理論ではなく、呼吸で挑む。
理解は干渉だ。
だから、俺は理解を壊す側に回る。
盤上の沈黙を支配するまで。




