EP48. 盤上干渉とガンビット
記録者 矢那瀬アスミ
勝負ごとというのは、いつだって誰かの退屈から生まれる。
そして天城総合学園の場合、その「誰か」はだいたい決まっている。
二階堂サツキ。
生徒会長。紅茶の消費量と校内イベントの発生率が完全相関している爆心地。
彼女が「面白そう」と言った瞬間、平穏は退避命令を受ける。
私たちN.O.X.は、その余波を定量化する係だ。
ユウマは沈黙で、ミサキは健康管理で、ミナトは理屈で、レイカは舞台で、トウタは実況で、私は観測で。
それぞれにやり方が違うけれど、最終的に“責任”はどこかで私が拾うことになる。
だからこの会議室に呼ばれた時点で、嫌な予感はしていた。
案の定、ティーカップが倒れていた。
——つまり、もう手遅れだ。
——天城総合学園・生徒会室。
午後の斜光が、倒れたティーカップを堂々と照らしていた。
紅茶はもう祈りの形で乾きかけ、紙束と焼き菓子の間で小さな地図を作っている。
地図の中心に立つのは、二階堂サツキ。笑顔が物理法則をわずかに曲げる人。
「また来てくれて、ありがとうございますですわ!!
というわけで!今年の双灯祭では“頭脳部門対抗戦”を新設いたしますのっ!」
語尾の“のっ”で部屋の心拍が跳ねるのが、私にも分かる。
私は目を閉じ、ノイズキャンセルを脳内でON。
ユウマは眉間を押さえ、ミサキはストレスチェックを起動。
立花ミナトは机の縁を指で叩く。0.68秒の周期。
お通夜テンポか。
「で、その“頭脳部門”って?」ユウマが代表質問。
「ずばりっ! 将棋ですわ!」
はい、紅茶がこぼれた。液体は真実を隠せない。
「また液体系……」私はため息で実況。
ミサキが無表情でナプキンを滑らせる。
「液体系災害レベル2、被害軽微」
——この部屋、日常的に非常事態。
サツキは胸を張る。
「影村学園に、“現役プロ棋士級”の生徒がいるらしいんですの!
去年は指導対局で観客を総詰ませにしたとか!」
隣で野々村ハザマが一礼。
声は低く、情報は氷みたいに透明。
「影村・葉暮ソウタ。奨励会三段。特別奨学生。まさに、双灯祭にふさわしい“盤上の看板”です」
看板。つまり、対外広報。
小学校時代の“自由研究頂上決戦”の亡霊が廊下の隅で手を振っている気配。
サツキにとって敗北は、次の演目のシード値だ。
強いのか、脆いのか、測りにくい。
「で!」サツキが手を叩く。
「天城代表は——立花ミナトさん、あなたですわ!」
紅茶の表面張力が音になりそうなくらいの静けさ。
ミナトが瞬き一回ぶんだけ考えて言う。
「……なぜ俺?」
「NOXの“情報班”でしょう? 盤上アルゴリズムの解析なんて朝飯前!」
「将棋はアルゴリズムではなく、人間の模倣実験。非再現性が高い」
「つまり、“観測者効果”が出やすいんですのね!」
「そうは言ってない」
ハザマが補綴する歯医者みたいに淡々と続ける。
「立花くんは学内最速の選択思考を持っている。演算ではなく、分岐への踏み込みが剃刀」
「その褒めは過大。そもそも、俺はプレイヤーでは——」
「だから面白い!」サツキは割り込み芸。
理論家を花道に上げる。
事故りやすいけど、美味しいのは確か。
ソファからトウタが缶を掲げる。
「いいじゃんミナト! 実況、俺がやる!」
「いらない」ミナト。
「いる! 棋譜だけじゃ客が寝る。俺が音圧で起こす!」
「お前の声はノイズだ」
「バカやろう!視聴率はノイズで上がる!」
——はい、その通り。認めたくないけど。
「決まり! 天城代表・立花ミナト、実況・亞村トウタ!」サツキがまとめる。
私が針で刺す。「その、勝てなかったら?」
「勝ちますわ!」
「根拠ゼロ……」
私は診断名“二階堂式前向き錯誤”をカルテに追記。
ミサキが紅茶を差し出す。
「勝敗より健康優先で。救護テントは私」
「敗者復活と医療は任せますわ!」
ハザマがスケジュール。
「学園祭二日目午後。観客投票と配信」
トウタ、瞬間点灯。
「俺MCで生配信!? タグは**#盤上干渉前夜**!」
「サツキ様を爆笑させないことがマナーです」
「ハードル高っ(笑)」
笑いが一巡。空気が整う。
このタイミングでミナトがさらっと言う。
「ひとつ条件。事前に野々村さんと一局」
「まあ!」サツキが幸せの擬音。
ハザマは微笑の角度を1°だけ上げる。
「光栄。盤、用意します」
■ 事前実験:野々村ハザマ vs 立花ミナト(平手・各10分)
会議室の隅に簡易盤。見守り役リスト——
・トウタ&レイカ:分からないことを分かった顔で盛り上げる係(重要)。
・ユウマ:遅れて理解に追いつく天才。
・ミサキ:脈と血糖を測る気満々。
・サツキ:分からないけどとりあえず幸福。
・私は——ギリギリ追いつく。認めるのは癪だけど。
初手が落ちる音が、私の鼓膜のノイズフロアを少し下げる。
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
教科書の図が、二人の手つきで立体化していく。
盤面情報量H≈9.7 bits。
——ミナトの目が、“観測者”から“操縦士”に切り替わる瞬間、嫌いじゃない。
「ここから崩す」と彼の指が言う。
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲8七歩 △8四飛
空気がひと段階“速くなる”。
ハザマの眉が0.5mm動く。
初めての感情。微笑をやめないのが逆に強い。
角がいなくなる。
△同角成 ▲同銀 △2二銀
高周波が抜けて、代わりに骨格が見える。
——私でも読める絵になってきた。助かる。
「いま何が凄いの?」
レイカが素直に訊く。
トウタが翻訳する。
「角っていう爆音楽器を外して、弦だけで交響曲やってる」
「分かんないけどカッコいい!」
分からないのに正しい反応ができる彼女、舞台向き。
ハザマの初長考。
▲5六銀。銀で匂わせ、実は金の連結を固める。
堅さの微分係数が上向く——ミナトの眼がそう言う。
(私の翻訳:**“守りが気持ちよくなってきた頃に壊す”**つもりだね?)
玉が動く。矢倉っぽい何かが育つ。
▲6八玉 △4二玉 ▲7八玉 △3二玉 ▲6八金上
観客を眠らせる連続写真。
でも、ここが勝ち筋の貯金箱。
トウタが声で温める。
「眠い時間ほど熱い! 布石の平均温度、上がってる!」
サツキが拍手。「まあ熱いのね!」
——あなたの熱は別の回路由来。
鍵の音。
△4五歩 ▲同歩 △同桂
歩という小銭を、時間と空間に両替。
▲4六銀。受けが正しい。
その瞬間、ハザマの視線が紙一枚ぶん逸れる。
**入る。**ミナトがわずかに笑ったの、見逃さない。
飛が吸って吐いて、吐いて吸う。
△8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲8七歩打 △8四飛
呼吸だけ一定。狙いは2筋へ。
▲2四歩 △同歩 ▲同飛
情報量Hが11.8まで上がる。
ハザマの速度が跳ねる。▲2一飛成。
観客サービスを切る速度。分かる、好き。
ミナトの手は静か。
△4九角。
背面への刃。評価関数+0.35。
こういう“わずか”を積むのが、この人の性分。
ハザマ、0.7秒で最善。▲5九金上。
うん、強い。守りが多項式時間で間に合ってる。
ここからだ、と私の肺が言う。
△4六歩打 ▲同金 △5五歩
金銀の連結が切れる。
自分の城の美しさが壊れた瞬間、人は自分で自分を観測する。
そこに錯誤が走る。
ハザマの人差し指が止まる。
▲5六金?(僅差の悪手)
最善は▲5六銀。前のめりが綺麗すぎた。
「いま何が?」とユウマ。
私は答えない。代わりに盤が答える。
△6七歩成。
最小の刃が、玉の呼吸を止める。評価関数+1.20。
「入った……」私の声が勝手に出る。
「入ったのね!」サツキの幸福回路は今日も健在。
さらに
▲同金 △5六歩打 ▲同金 △4七角成。
相関を最大化して、“誰が動かしているか”を曖昧にする。
(この人はいつもそう。相手に自分で詰ませたと思わせる)
ミナトが手を止め、静かに言う。
「いま、この手は“相手のあなた”が指している」
ハザマは目を細め、薄く笑う。
「……素晴らしい。詰まされる予感の気持ちよさがある」
最後の正解。▲7八玉。
△6七馬 ▲同玉 △5七金打 ▲7八玉 △77金。
帰り道を全部塞いで、会話を閉じる。
ハザマ、投了。美しい投了。投了は人格。
拍手が重なる。粒径の違う音。
レイカ「分かんないけど鳥肌!」
トウタ「“理論vs直感”でサムネ決定!」
ユウマ「観測で相手の評価関数を歪ませた」
——うん、追いついてきたね。
私は腕を解いて、口角をほんの少しだけ上げる。
「本番、勝てる」
言いながら、胸のどこかで“勝ち負けの次”を考えている自分がイヤになる。
サツキは両手を鳴らし、「すばらしゅうございますわ!」からの「詰将棋くださいまし!」
「まずは倒れた紅茶を詰めましょう」とハザマ。
「まあ!」(そして再びこぼす)
——この人の人生、永遠に未解決事件。
私は視界の端でミナトを観察する。
勝って嬉しい、という幸福の形ではない。
理解が進んだ顔。
それは、私がいちばん弱い種類の笑顔だ。
W1の記憶が疼く。勝つことは、何も救わない。
でも今は、救いの定義を保留してあげる。
彼にも、私にも。
配信だの、タグだの、世界を外に出す仕掛けが整っていく間、私は手帳に一行だけ書いた。
〈観測は干渉。干渉は責任。/双灯祭二日目:救護導線、盤側から確保〉
恋でも将棋でも、結局は“誰かの呼吸”の話になる。
だったら、私が守る。
勝敗の次を、誰かがちゃんと拾わないと
——世界はまた、崩れる。
ミサキが私の横に立ち、何も言わずに手の甲を軽く叩く。
“深呼吸”、の合図。
私は頷く。視界が少しだけ明るくなる。
負けても、勝っても、観測は続く。
それが私たちの仕事で、たぶん救い。
立花ミナトという人間は、勝つためではなく“理解を起こすため”に戦う。
彼の将棋は、相手を観測させるための装置。
勝利とは、その装置が動いた証拠でしかない。
——だからこそ、彼は危うい。
理解の先に、いつも孤独があるから。
私は彼を見ていると、かつてのW1を思い出す。
“観測”が人を壊したあの日。
あの崩壊の責任が、まだ胸の奥で冷たく呼吸している。
ユウマはその破片を拾って歩いている。
ミサキは優しさで縫合している。
でも私はまだ、赦せていない。私自身を。
双灯祭。光が二つ重なる日。
もし彼らの盤上に“干渉”が起きたとき、私はまた観測者になるのか、それとも加害者になるのか。
ティーカップが転んだ音を、今でも覚えている。
世界が倒れる時って、あんな風に小さく笑うのかもしれない。




