EP45. 美しいくらいに不幸な構造
記録者:御影シオン
——“正しさ”は、たいてい誰かの偶然から始まる。
たとえば、会議。
たとえば、放課後の生徒会室。
たとえば、誰かの思いつきを、誰も否定しなかった瞬間。
私は知っている。
“偶然の同意”は、やがて“必然の構造”になる。
だから今日の議題はただ一つ。
——「双灯祭の展示を決める」。
でも私にとって、それはもっと別の意味を持っていた。
信頼の構造を、実験できる舞台をつくるということだ。
放課後の光が、ガラス越しにゆっくり傾いていく。
窓の外では、雨。
粒が小さく、軽い。
それでも、蛍光灯の唸りと混ざると、部屋全体が静電気を帯びたように感じる。
私はノートパソコンを閉じ、二人の顔を見る。
玖条リリ——理論の壁みたいな人。
黒沼カイト——熱の塊。
この二人の間で、私の思考はいつも中庸を保つ。
「——では、双灯祭の企画について話し合いましょう」
声を出すと、空気の密度が少し上がる。
それは私にとって、呼吸と同じリズムだ。
リリはため息をついた。
「正直、合同祭なんて、面倒の塊よ。
天城と意見を合わせるなんて、効率悪すぎる」
私はうなずいた。
「確かに。けれど“非効率”を観測することには価値があります。
祭というものは、合理性の外側にしか存在できませんから」
リリが眉をひそめる。
「また“構造”の話?」
「ええ。二つの灯りを並べる、というテーマですから。
——つまり、矛盾の並列運転です」
言葉の余韻が空気に溶けるころ、
カイトが手元のスマホをくるくる回しながら、わずかに笑みを浮かべた。
彼の目の奥は、すでにどこか別の“シミュレーション空間”を見ている。
「並列って言葉、いいっすね。
あ、じゃあさ——脱出ゲームどうですか?」
一拍置いて、彼は言葉をつないだ。
「ただの“謎解き”じゃなくて、心理と構造が絡むタイプのやつ。
二つの校舎を繋いで、同時に動かないと解けない仕組みとか。
俺、そういう“共同型閉鎖空間”ものに詳しいんですよ」
リリが半分あきれたように眉を上げた。
「また始まった……」
だがカイトは止まらない。
もう説明モードに入っていた。
「ほら、映画とかであるじゃないですか。“Survive Chamber”とか“Project Eden”みたいな。
閉鎖空間に複数人が閉じ込められて、“誰かが嘘をつかないと全員死ぬ”みたいなやつ。
あれ、構造としてめっちゃ完成されてるんですよ。
ルールがシンプルなほど、人間関係のノイズが浮き彫りになる。
それを、ゲームとして安全にやる。俺たちなら再現できると思うんすよ」
彼は指で机を軽く叩きながら、呼吸のテンポで言葉を刻む。
「たとえば、参加者は班ごとに部屋に入る。
それぞれの部屋に“出口スイッチ”があるけど、押すと別の班の扉が閉まる。
だから、押すかどうかの判断は“他人を信じられるかどうか”で決まる。
時間制限も入れて、焦燥感を出す。
ただし、罰はあくまでフェイクだけど、プレイヤーには“何かが起きた”と思わせる。
——そういう演出を入れると、人間の行動が極端に出るんですよ」
私は黙って聞いていた。
彼の説明の中に、倫理的な危うさと、妙な整合性が同居している。
その**“破滅の再現性”**は、科学的とも言えた。
「で、エンディングを二種類用意するんです」
カイトの指が空中をなぞる。
「一つは、全員が協力して出られる“完全一致ルート”。
もう一つは、誰かが自分を犠牲にして開く“代償ルート”。
後者は、誰も本当に死なないけど、“それを誰も知らない”ように見せる。
この仕組み、心理学的には“集団同調圧力の再現”って言うんすけど……
それを体験として組み込むことで、“信頼って何か”を感じられる展示になる」
リリが椅子の背もたれに寄りかかる。
「……要は、デスゲームごっこね。名前を変えただけ」
「違いますって!」
カイトは慌てて手を振った。
「本物のデスゲームじゃないですよ。**“死の構造を模倣する安全な箱庭”**です。
だって、ほら、“死ぬ”って概念を仮想化できたら、それって究極のエンタメじゃないですか?」
リリは鼻で笑った。
「あなたの言うエンタメって、倫理ギリギリのとこばっかね」
「ギリギリだから、リアルなんすよ。
安全に“恐怖”を設計する。それが、脱出ゲームの本質でしょ?」
私はその瞬間、理解した。
彼の語る“脱出”は、娯楽ではなく模擬された生存システムだ。
人が自分の正義を試される瞬間を、構造にして再現しようとしている。
——構造と感情の交差点。
そこに、確かに“光”があった。
だがそれは同時に、倫理の外側へ伸びる導線でもあった。
カイトは気づかずに続ける。
「鬼役とかも作りたいっすね。
アニマトロニクスで“間違った案内人”を配置するんです。
AI制御で、誰かの心拍や声のトーンを読んで、あえて嘘をつく。
“信じると負けるNPC”ってやつ。
それだけで、プレイヤーの行動がガラッと変わるんですよ」
リリが小さく息を吐く。
「本当に人を観察するの、好きね。
……でも、シオンがこの話を面白いと思ってる顔をしてるのが、いちばん怖いわ」
——私は小さく笑った。
その瞬間、自分でもわかった。
怖がっているのではなく、構造の美しさに惹かれているのだと。
「カイトくん、それ、採用します。
“信頼によって閉ざされる出口”——構造として、非常に純粋です。」
カイトの目が輝いた。
「マジっすか!」
リリが頭を抱えた。
「ほんとにやるのね……」
リリが指を鳴らす音が、生徒会室の空気をわずかに切った。
「なら、いっそ“エアロック式”の構造にすれば?」
そう言って彼女は、ボードに近づきながらペンを手に取った。
いつものように無表情、けれど思考は鋭く跳ねている。
「“エアロック”って、わかる?宇宙船とか研究施設で使われるやつ。
——二重扉構造で、どちらかが開いている間はもう一方が絶対に開かない。
密閉環境を保つための安全設計。
でもね、それを“安全”じゃなく“心理構造”として置き換えると、とんでもなく恐ろしいデザインになるの」
カイトが目を丸くする。
「恐ろしいって?」
リリは淡々と、しかしどこか嬉しそうに言葉を並べる。
「例えば、AルームとBルーム。
プレイヤーが十人いて、半分ずつに分かれる。
片方の部屋が“開く”には、もう一方の部屋が完全に“閉じる”必要がある。
Aが開けば、Bは閉じる。
つまり、誰かの“脱出”は、誰かの“閉鎖”を意味するの。
選択のたびに、他者の存在が“気圧”として感じられる構造。
生理的な圧迫をデザインに組み込むの」
私は無言のまま、マーカーを指先で転がしていた。
リリは気にせず続ける。
「しかも、エアロックには“時間遅延”を入れるべきね。
片方が閉じてから、もう片方が開くまで数十秒のラグを作る。
それだけで“誰かが閉じ込められた”という錯覚が発生する。
扉のロック音とか、圧縮空気の排気音。
そういう“物理的リアリティ”が、人間の不安を自動で呼び起こすのよ。
脳は、閉鎖音を“孤立の予告”として認識するらしいから」
カイトが興奮して身を乗り出す。
「ヤバい……それ、めっちゃ映画っぽいっす!
“ダブルルーム・デスリンク”とかそんなタイトルありましたよね!?
片方が外に出ようとするたび、もう片方が酸欠になっていくやつ!」
リリは片手を上げて遮った。
「酸素濃度は、まあ、少し体調が悪くなるくらいの濃度に調整するとかね。
ただ、私は“実際にやる”とは言ってない。
構造の存在を“示唆”することに意味があるの。
ポスターに“エアロック方式採用”って一文を入れるだけでいい。
それだけで、見た人は“閉じ込められる前提”で世界を見る。
情報を流すこと自体が、もう心理実験になるのよ」
彼女はペンを走らせながら、さらりと書く。
〈A室⇄B室/一方が開くと他方が閉鎖〉
〈気圧=信頼度/減圧=孤立〉
「ね、これが“光”よ。酸素を薄めつつ、ゆっくりと。
直接照らすんじゃなくて、“光が差し込まない構造”を意識させる。
照明じゃなくて、欠落によって光を感じさせる仕組み。
人間って、明るさより“閉じ込められる予感”に強く反応するの。
それが一番“実験的”で、“影村らしい”展示になる」
カイトが感嘆の息を漏らした。
「……リリ先輩、言ってることデスゲームの脚本家ですよ」
「違うわよ」
リリは冷ややかに笑う。
「私が興味あるのは“構造が感情を生む瞬間”だけ。
死ぬか生きるかは、その副産物。
——構造が完璧なら、人は勝手に怖がってくれるし、死んでくれるのよ」
私はその言葉に、静かに頷いた。
「“光が差し込まない構造”……いいですね。
存在しない“出口”を、想像だけで生成させる。
それこそが観測の原点です」
リリはペンを置き、席に戻る。
「やるかやらないかは、あんたが決めなさい。
でも、これは一度“出す”価値がある案よ。
——“情報の重力”を利用する。
人はその構造の周囲に集まる。
それが、いちばん美しい“閉鎖空間”の作り方。」
その言葉のあとの沈黙を、雨音がゆっくりと埋めた。
私はペン先を止めたまま、ホワイトボードの黒い線を見つめる。
光が当たらない部分が、いちばん鮮明だった。
雨の音が、天井を一定のリズムで叩いていた。
リリが描いた「エアロック」の図と、カイトの「アニマトロニクス案」がホワイトボードの上で並んでいる。
どちらも、“出口”を題材にしているのに、どちらにも出口がない。
美しい。
私はしばらく二人を見てから、マーカーを置き、静かに言った。
「……実は、もうひとつ試したい構造があるんです」
リリが顔を上げる。
カイトはスマホをいじる手を止めた。
雨音が一段、静かになる。
「名前は、“狼椅子”」
その響きに、リリの眉が動く。
私は、机に両手を置きながら続けた。
「以前、私が別の環境で実施した小規模な実験です。
五人の参加者が椅子に座って、“信頼”を試す。
電流を流す仕掛けでしたが、罰のためではなく——確かめるためのもの」
リリの眼差しがわずかに鋭くなる。
カイトは、軽い調子のままも、明らかに興味を引かれていた。
「電流って……本物?」
「ええ。ただし、痛みではなく“反応値”としての刺激です。
誰かが“狼”と判定されるたびに、電流が走る。
でも、実際には“誰が狼か”なんて存在しない。
最も信頼された人に、電流が流れるように設定してある」
リリが呆れたように笑った。
「あなた、ほんとに狂ってるわね。信頼された人が罰を受ける構造?」
私は頷いた。
「そう。信頼が行き過ぎると、必ず痛みが発生する。
それを“構造の欠陥”ではなく、“構造の完成形”として設計したいんです」
カイトがゆっくりと前のめりになる。
「……それ、プレイヤーのリアクション、相当リアルになりますね。
“信じた瞬間に裏切られる”感覚って、他じゃ作れないですもん。
でも、倫理的にギリギリっすね」
「ギリギリだからこそ成立するんです」
私は、声を少しだけ低くした。
「“狼椅子”は、誰も悪くない構造。
——全員が正しくて、全員が傷つく。
それを、光として可視化できたら、
“信頼”という概念をもう一段深く観測できると思うんです」
リリが小さく笑った。
「あなたの言う“観測”って、つまり“介入”でしょ。
見てるんじゃなくて、壊してるのよ。人を」
私はその言葉に、すぐには返さなかった。
蛍光灯の光が、ホワイトボードに反射して私の顔に当たる。
光は白い。けれど、その中心には微細なノイズが混じっている。
「……壊すことも、ひとつの観測ですよ。
構造が脆いほど、光の散乱は綺麗ですから」
カイトが苦笑した。
「いやあ、シオン会長、マジで怖いっす。
でも、見たい。やってみたい。
“全員正しいのに痛い”って、どう感じるのか。
それ、観測者の立場からでも、きっと震えますよ」
リリが机を指で叩く。
「私は反対。でも——」
少し間を置いて、目を閉じた。
「でも、見たい気持ちは、正直わかる。
その構造、美しいくらいに不幸だもの」
私は微笑んだ。
その笑みが、どんな感情から生まれたのか、自分でもよくわからなかった。
「じゃあ、これも候補に入れましょう。
“EXIT:Consensus”の中核構造として、信頼=電流=光。
“誰も間違っていないのに痛い”展示」
雨が強くなり、窓を叩く音が重くなる。
その音の中で、リリとカイトの視線が交差した。
そして、どちらからともなく頷いた。
——その瞬間、私は確信した。
この二人も、すでに構造の中に取り込まれている。
彼らはまだ気づかない。
でも、“出口”はもう閉じ始めている。
それでも私は静かに言った。
「光を流しましょう。
痛みを、照明に変えるんです」
雨が落ち着き、蛍光灯の光が白く室内を均す。
三人の前に置かれたホワイトボードには、まだ「EXIT:Consensus」の文字が残っている。
その下に〈エアロック構造〉〈アニマトロニクス誘導員〉〈信頼=光〉。
——思考の残骸。けれど、私にはそれが設計図に見えた。
私はマーカーを置き、ゆっくりと息を整える。
リリとカイトが同時にこちらを見た。
二人ともまだ議論の余熱が残っていて、呼吸が早い。
「……この案、次の段階に進めます」
私が言うと、カイトが椅子を軋ませた。
「え、もう動かすんすか? 会長、早くないっすか」
「早いほうがいい。構造は熱いうちに固めるべきです」
私は手帳を開く。矢那瀬アスミ。
天城総合学園の生徒。双灯祭の合同準備委員。
「……天城側の子?」とリリ。
「ええ。双灯祭の共同調整員でもあります。
彼女に、“光と信頼の実験”について相談しようと思います。
昨日、偶然会って、一緒に帰りました。相合傘で」
カイトが目を瞬かせる。
「えっ??……もう接触済みなんですか?……相談って……会長、あの天城の“観測班”の人ですよね?
聞いたことあります。“記録魔”とか“数式で呼吸する女”とか」
「ふふ、評判はいろいろあるみたいですね」
私は淡々と笑った。
「でも、彼女の分析能力は確か。頭も良いし、綺麗だし、私の好きなにおい。
あの人に“見られる”ということ自体が、構造の精度を上げるんです」
リリがやや呆れた調子で、小さく息をついた。
「えっと、つまり、観測者を巻き込むのね」
「ええ。外側の目を内側に引き込む。
——それが、今回の展示を“実験”に変える最短経路です」
「……シオン」
リリはペンを回しながら、静かに言った。
「あなた、本気でやるつもりね。“信頼の光”とか“痛みの照明”とか、比喩で言ってるうちは綺麗だけど、
実際に人を関わらせたら、もう後戻りできないわよ」
私は頷いた。
「構造というのは、もともと“戻る”ことを前提にしていません。
一度設計したら、あとは観測するだけです。アスミ先輩は、観測の専門家。
彼女にこの構造を見せれば、きっと何か——境界の手触りを教えてくれるはずです」
カイトが机に両肘を乗せて、少し身を乗り出す。
「……会長、ひとつだけ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「その“相談”って、どんな感じに話すつもりなんすか?
普通に“手伝ってください”じゃ、きっと乗ってこないっすよ」
私は視線を窓の外に向けた。
雨の名残が硝子を伝い、街灯の光を分解していた。
「……“信頼の構造を見てほしい”とだけ言います。観測者には、それで充分通じます」
リリが皮肉を含んだ笑みを浮かべた。
「まるで罠ね」
「罠ではありません。対称性の検証です。
私たち影村が作る“出口”を、天城の観測者がどう認識するか。
それを知りたいんです」
カイトが腕を組み、少し笑った。
「……会長、ほんとブレないっすね。
じゃあその子がどう反応するか、記録取ってきてくださいよ。
データ、俺らでも解析したいんで」
「もちろん」
私は微笑む。
「信頼の温度がどこで上がり、どこで冷えるか。
彼女の言葉ひとつで、この“EXIT”の形が決まるかもしれません」
リリが小さく首を振った。
「……あなたの“信頼”って、いつも温度がないわね」
「温度は要りません。構造が崩れない程度の誠実さがあれば、それでいい」
沈黙。
誰もそれ以上何も言わなかった。
その静寂の中、蛍光灯の唸りだけが、まるで部屋全体の呼吸のように続いていた。
私は立ち上がり、ホワイトボードの端に新しい行を書き加える。
〈外部観測者:矢那瀬アスミ〉
〈目的:光の構造における倫理限界の検証〉
マーカーを置く音が、小さく響いた。
「——では、次は天城です」
そう告げると、リリもカイトも、しばらく黙ったまま頷いた。
その頷きの意味を、私は分析しなかった。
すでに構造は閉じている。
出口を探す必要は、もうない。
会議が終わってから、私はひとりで教室を回った。
生徒たちが去った後の廊下は、どこか温度のない水槽みたいに静かだった。
リリは帰り際に「危ういね」と言った。
カイトは「最高っす」と言った。
どちらも正しい。どちらも出口。
私はその両方を、記録する。
——信頼と危うさは同義だ。
窓の外、街灯がひとつ点いた。
その光が床に長く落ちて、まるで導線のように見えた。
あれは光でもなく、影でもない。
あの線の上を歩くこと。
それが、私の役目。
〈EXIT:Consensus〉——あれは展示ではない。
“世界の縮図”を、わかりやすく置き換えただけ。
いつか、誰かがそこから出ようとして、その瞬間にまた、出口が閉じる。
それでいい。
——出口は、信じる者の数だけ、閉じられる。
この話を誰かに聞いてほしいな。




