EP44. 初期条件依存性とテストベッド
雨の日の記憶には、たぶん、再生と上書きが同居している。
空が落ちてくるみたいな音の中では、みんな少しだけ過去に戻る。
でも私は、もう「戻る」じゃなく「観測し直す」側にいる。
——W1で失われたものを、W2の手順で拾い直す。
それが、私に残された仕事。
感情はノイズ。けれど、ノイズがなければ波形は生まれない。
雨は、私の中の“観測”をゆっくり再起動させる。
そして、あの日、傘の下で出会った少女——彼女は、私の世界に“別の周波数”を加えた。
彼女の声は、ノイズじゃなかった。
それは、干渉のはじまり。
この章は、その瞬間の記録。
——雨は、音を消す。
でも完全な無音じゃない。
空気の粒がぶつかる“さざめき”だけが校舎の軒下に残って、拍のないメトロノームみたいに世界を刻む。
傘の骨にたまった雫がぽとり、と落ちる。
その度、視界のホワイトバランスが“W1”の色温度に寄ろうとする(非常灯相当≈5600K)。
そこに、反射で脳が補正をかける。
やめて。
ここはW2。
ここは——“今”なんだ。
昇降口の陰に、小さな背中が見えた。肩のラインが雨で細く見える。
髪は黒、ツインの三つ編み。
おそらく、雨で立ち往生している。着ている制服は影村学園のもの。
濡れた毛先が規則正しく滴下していて、周期はだいたい0.7〜1.1秒。
生体信号ではないけれど、人のリズムはいつだって私の呼吸へ勝手につながる。
私は、彼女を通り過ぎる予定だった。
観測は最小限、干渉は必要時のみ。
チイロ先輩に言われた「感情で動くな、手順で動け」を、私はまだ握ってる。
だから視線だけ滑らせて、靴音の位相を乱さず——
見上げた彼女の瞳の奥で、反射光が血色に跳ねた。
光学的には、濡れた角膜・涙膜で増幅されたスペキュラ反射。
だけど、脳は偏頭痛と共に、別の名前を呼ぶ。
あの夜の赤。拍手SEの尾。水。
あのフラッシュバックが来る度に、強烈な吐き気がする。
足が止まる。膝の屈筋が“危険語”に反射するみたいに微かに張った。
おい私、落ち着け。4–7–8を——
「……一緒に帰らない?」
声が先にこぼれた。それは、頭痛と吐き気を誤魔化すためだったのか、わからない。
自分の声に、私がいちばん驚く。誰だ今の。観測者、どこいった。
ここは“干渉者”のターンじゃない。
けど、言葉は出てしまったし、もう水面に落ちた石は戻らない。
——彼女は一拍遅れて微笑んだ。
その“遅れ”が、妙に人間らしかった。
雨音のリズムに一瞬だけ迷って、次の拍で口角がゆるむ。
整いすぎた呼吸ではない、思考の間合い。
「私、御影シオン。影村学園の生徒会長です」
声は、驚くほど静かだった。そして、生徒会長という言葉にも驚いた。
水を含んだ紙のような柔らかさで、でも一語ずつが明確に輪郭を持っている。
添付の彼女——そのままだ。
小柄で、制服のジャケットは少し大きく見える。中学生にも見える。
赤いネクタイが喉の位置できっちり結ばれていて、動くたびに僅かに揺れる。
黒髪は短く切り揃えられ、光の粒を含むように艶やか。
濡れた前髪が額に貼りつき、眼鏡のレンズに小さな雫がかかっていた。
指先はそっと前で組まれていて、手の甲にわずかな緊張が残る。
——完璧に整っているのに、どこか“自分を守る姿勢”を感じた。
「え、あ、天城の——あ、私、矢那瀬アスミ」
思わず語尾がよろめく。
自己紹介の手順が遅れ、脳が“安全確認”の信号を出す。
4–7–8を起動。吸って4、止めて7、吐いて8。
迷走神経がようやく仕事を始め、呼吸の波形が平坦に戻る。
それでも視界の端では、彼女のスカートのチェック柄が微かに揺れていた。
紫と黒の格子。どの色も沈み込まず、雨の中でだけ少し光を返す。
視線を外そうとしても、なぜか引き寄せられる。
私は、なんで彼女に声をかけてしまったのか。
「一年生で会長って、すごいね」
相合傘で歩きながら、彼女から聞いた話を聞いて出た言葉。
その反射的に出た言葉が、雨音に混じって溶ける。
まるで傘越しに送ったメッセージが、途中でノイズに変わるみたいに。
シオンは、ほんの一瞬だけ眉を下げた。
それは照れではなく、呼吸を整える動きに見えた。
「たまたま人手が足りなくて。あと、背が低いと“お願い”しやすいらしいです」
その“らしいです”の言い方が、優しかった。
笑いながらも自分を俯瞰していて、そこに冷静な観測者の目がある。
冗談の角度が絶妙で、私の心拍が一拍だけ上がる。
思わず、傘越しに笑った。
その瞬間、雨が少し弱まった気がした。
傘の内側でこもる空気が、わずかに温度を帯びる。
声は小さい。
けれど、確かに胸郭の奥にあたたかさを残した。
(世界は地獄設計でも、会話は人間が守ってる。ここ、大事だよね)
しかし、シオンの笑顔は、観測上のどのパラメータにも分類できない“余白”だった。
静かで、鋭くなく、でも消えない。
雨粒が彼女の眼鏡を叩いても、その微笑みだけは曇らなかった。
私はその透明さに、少しだけ救われていた。
同じ方向に歩き出す。
アスファルトに跳ねる水が、オシロスコープのノイズみたいに視界の端をかすめる。
心拍は70台に降り、RMSSDは回復。
4–7–8はやっぱりリングロープだ。
ありがとう、ミサキ。
——「今度の合同学園祭、楽しみですね」
その一言で、世界がわずかに傾ぐ。
傘骨のテンションが1%だけ抜けたみたいに、視界の水平線がミリ単位でずれる。
双灯祭。
天城と影村、二つの灯りを並べる。
こちらの世界では、初の共同祭——
頭の裏側で、別の祭の設計図がガサリ、と紙の音を立てて開く。
紙の端は濡れていて、インクが“導線最適化”“識別”“観測値”の三語だけをにじませる。
女声が脳幹のどこかを掠める。
——「あと◯分で演目終了です」
反射で咽頭が狭まり、酸素摂取量がわずかに落ちる。
動悸が激しくなる。
やめろ。ここはW2。
——ここはW2。私は私に言い聞かせる。
KuramotoのKを痛みで上げて、位相差θを泣きながら詰めるのは“夜の私”の仕事。
昼の私は、呼吸と歩幅で世界を平坦化する担当だ。
今は昼。今は傘。今は、歩幅。
ふたりの踵の周期を合わせれば、世界の段差は一段低くなる。
歩幅は雨粒の打音に合わせて微調整と相手の息遣いで決める。
「出し物、決まりました?」
シオンが首をかしげる。
傘先から落ちる水滴が、拍子木みたいに時間を合わせてくる。
0.8秒間隔。たぶん彼女の安静時呼吸と同じリズム。
「私は、まだ。仲間と相談してから」
ある程度、いや、それこそ影村学園の綾白ひよりと夕咲メイのことを少し話そうとしたけど、やめた。
特に“NOX”という単語は舌の裏で丸めて飲み込む。ここで口に出すと、世界が寄ってくる。
経験則。寄ってくる世界はたいてい、礼儀正しく人を壊す。
「うち、生徒会企画で——」
彼女はまるで言葉を選ぶみたいに、視線を雨へ滑らせた。
「脱出ゲーム、やろうって話があって」
——
世界は、二度、傾いた。
耳の奥で天井水槽が割れる幻聴。
肺に、音の重さが沈む。音が肺を沈めるタイプ——
FRP水槽の落水音が110Hzで床の固有と噛み合い、内耳の底を撫でるあの嫌な“立ち上がる恐怖”。
ダメ。
いや、違う!これはシミュレーションじゃない。ここはW2だ。
落ち着けアスミ! 今は話を聞くだけ。
干渉のフリは、設計された地獄の得意技だ。
私は頷き、表情筋を“平常”に寄せながら、内側で手順を展開する。
——危険語の出現時は、解像度を上げすぎない。
——匂い・温度・圧の三点で現実を固定。
(Fe²⁺の匂い=0、皮膚温=手背31.2℃、気圧=101.4kPa。はい、ここはW2。ここは溺れない。大丈夫)
「でもまだ案で。怖くはしないつもりです。誰も置いていかない、をテーマに」
“置いていかない”の音素が、胸骨の裏を柔らかく叩く。
置いていかない。
違う——置いてきたじゃないか……。
未解決の音が鈍く鳴る。
けれどその痛みは、今は私の結合強度K。
Kが上がれば、同期は戻る。
痛みはノイズじゃない、結合媒体。
私はそれで世界を繋ぎ直す訓練をしている。
「だったら、案内は“命令文”じゃないほうがいいよ」
口が、仕事を始める。止めても遅い。
「“〜してください”より、“一緒に数えよう”のほうが群衆は割れない。あと、拍手SEは使わないこと」
「?……拍手が、ダメなんですか?」
首を傾げる角度が、雨の斜度と一致して可笑しい。
私は真顔で続ける。
「ご褒美のふりをした刃物。反射で歩幅が崩れる。
拍手は“行動の終わり”を脳に教えるから、次の手順に移るまでの隙ができる。
そこに“設計された段差”を置かれたら終わり」
言い切ってから、言葉の温度に自分で少し震える。
どこまで“知ってる顔”を出す? 私の“知ってる”は、時々、世界の裏書きだ。
レシートに“返金不可”って押してあるやつ。
「詳しいんですね。——先輩、もしかしてプロ?」
シオンは目を丸くして、すぐに笑う。
レンズに小さな水滴が二つ、ひかる。
「そっ……その、いいえ、ただの真面目なオタクかな」
私は肩をすくめる。
真面目なオタクはだいたい世界を救うか壊すかのどっちか。
今日は前者を目指す。明日は様子を見る。
彼女は興味深そうに身を乗り出した。
「“一緒に数えよう”って、具体的には?」
「例えば——“これから三つ深呼吸、吸って四、止めて七、吐いて八。
できたら次の教室へ”。命令じゃなく合図にする。
『できた? じゃあ行こう』って、同行の文法に変える。
『出口は内側』みたいな呪句は封印。
代わりに**出口=外部手順(空気/光/人)**を言語で固定する」
「外部手順……いい響きですね」
シオンは小さく復唱する。言葉の輪郭をまるで舌で確かめるみたいに。
「あとね、安全語彙の反転に注意。
“換気”“保護”“維持”は、文脈次第で“拘束”に変わる。
だから“空気は止めない”“ドアは人で開ける”“拍は数で決める”——この三つ、目に付くところに貼って」
「メモしていいですか?」
「もちろん」
彼女がスマホを出す間、私は息を整え直す。
4–7–8。
吸って、止めて、吐く。
雨脚は弱まり、軒先の水音が“カン、カン”から“トン、トン”に変わる。
人は天気で救われる。時々はね。
「でも、脱出って言葉自体は、変えたほうがいい?」
「うん!“双灯”に寄せればいい。“道を照らす”“合図を合わせる”“二つで一つを読む”。
“脱出”は“失敗したら閉じる”設計と相性が良すぎる。こっちは“失敗しても空気は止めない”設計にして」
「空気は止めない……」
彼女の顔に、ほんの一瞬だけ影が落ちて、すぐ戻る。
私は傘の柄を握り直す。
「それと、“誰も置いていかない”の定義を先に決めること。
“動けない人が出たらイベントは遅くなるが、止まらない。
その間の空気と光は増える”。これを可視化する。
画面でも、掲示でも、アナウンスでもいい。
見える正しさは、設計された“見せかけ”に勝てる」
「見える正しさ、ですね」
「うん。見えない正しさは、よく礼儀正しい地獄に負けるから」
「礼儀正しい地獄……ですか?」
言ってしまってから、私は小さく笑ってごまかす。
「……今のはちょっとオタクの早口」
「いえ、私、好きです。早口のやさしさ」
シオンは目を細める。冗談を拾う速さが、安心を生む。
人間の安全装置は、だいたいユーモアでできている。
沈黙。
悪い沈黙ではない。と思う。
傘と傘が時々触れて、小さく音を立てる。
その度に、彼女がほんの少し傘を引き、私も少し引く。
その譲り合いの微分が、世界をW2に固定する。
私は内ポケットのペンを指で撫でる。
夜になったら、今の会話を詩と手順に分解して、NOXのノートに落とすつもりだ。
詩は人を救い、手順は世界を救う。
両方いる。
「——先輩」
「ん?」
「今度、もし時間があったら、点検に来てください」
頼り方が、上手い。命令じゃなく、同行。
「行けたら行く。拍手なくても動く音、持っていくよ」
「そんな音があるんですか?」
「ある。数える音」
私は胸の中で、無音のカウントを三つ刻む。4、7、8。
雨粒がひとつ、彼女のレンズを滑り落ちて、地面で弾けた。破片のない、ただの水だ。
やっと、肺が軽くなった。
歩きながら、雑談が増える。
くだらない話題のほうが、呼吸はよく通る。
救命ボートは派手じゃないほうが沈まない。
まずはネクタイ問題。
「今日は一発で決まった。鏡の前、十五秒で勝利」
そう言うと、シオンは目を丸くしてから、くすっと笑った。
「いいですね。一発勝負の緊張感。私は二回目で“右だけ元気”になります」
“右だけ元気”——結び目の左右で張力が偏る現象。
専門用語にしようとして、やめる。
ここは昼。学会じゃない。
私は指で結び目をなぞる真似をする。
「今日の私、いけてる?」
「等号の真ん中って感じです」
等号の真ん中、か。いい表現。
結び目がほぐれた気がした。
次は購買プリン戦線。
「影村は?」
「日替わり三社ローテ、たまに限定。争奪は0分45秒勝負」
「強いな……勝率は?」
「八割です」
即答が清々しい。
「どうやって」
「店員さんの“どっちの手に持ってるか”の癖」
それはもうスポーツだ。
「天城は?」
「生存戦略:友だちを先行させる。私は受け取り係」
「役割分担、重要」
二人で頷く。くだらなさの密度が高いほど、心拍は落ち着く。冗談は酸素。
私はチイロ先輩の口癖を彼女に言ってみた。
私は咳払いして、声帯を“あのトーン”に合わせる。
『人生はネクタイと同じなの!最後に締まれば、まあ、たいてい大丈夫』
シオンが肩を震わせる。
「良い言葉……私も今度、誰かに言ってみます」
「ほんとに??」
「はい。生徒会で言ってみます」
そう言って、彼女は袖口でさりげなくレンズの雫をぬぐう。
仕草が小さくて、目立たない。
けれど、その小さなやさしさに、世界はよく救われる。
——軒を離れる頃には、雨脚が細くなっていた。
傘と傘が時々、コト、と当たる。
ぶつかったほうが、すぐに引く。引かれたほうも、すぐに引く。
譲り合いの微分は、私をW2へ結び直す。
たわいない沈黙が流れ、沈黙の中にだけ**“考える”**が生まれる。この贅沢は、W1には無かった。
沈黙は怖くない。怖いのは、沈黙を急いで埋める設計だ。
分かれ道。
影村へ折れる細い路地。空はまだ濃い灰色なのに、雲の縁が薄くほころんで、光が線で差す。
湿ったアスファルトに、細い銀のレール。
シオンは振り向いて、ふっと真顔になる。
「天城の生徒会長、二階堂サツキさんに会ったら、よろしく伝えてください」
「知り合い?」
「ええ、少し。——先輩の“灯し方”が好きで」
灯し方。
双灯祭という名が、胸の奥でコクンと鳴って、肚に落ちる。二つの灯りを並べる祭。
なら私は、等号の中央で火加減を見張る役だ。
燃えすぎると全部燃える。弱すぎると消える。
正しさ=生存手順の側に火を寄せる。
「今日はありがとう。——それと」
シオンは一歩だけ近づいた。雨上がりの匂いが傘の内側に滑り込み、嗅球に柔らかく触れる。
彼女は小さく、困ったように笑って言う。
「あなたの匂い、すごく不思議。とても、いいにおい」
世界が、一瞬だけ静止した。
匂いは、私の現実認識の閾値。
SCLがすこし跳ね、RMSSDは一段落ちる。
けれど呼吸は崩れない。崩さない。
私は鼻で短く笑い、わざと肩を抜く。緊張は、こちらから先にほどく。
「新しい柔軟剤かな?」
「じゃあ、今度、その柔軟剤教えてください」
「いいよ」
(香りの実験計画法?被験者n=私。倫理委員会は心の中に設置済。承認番号:W2-OK)
彼女は傘を軽く上げて、光に透かすようにこちらを見る。
虹色の薄膜がレンズの縁に走り、すぐ消える。
「先輩。また、ね」
足音が遠ざかる。水溜まりがリング波を描いて、すぐに平らになる。
その背中は小さい。けれど、設計の入口みたいに見えた。
誰かが意図的に作った“安全そうなドア”。
中は安全じゃないかもしれないのに——それでも、ドアはこちらから開けられる。
——静けさが戻る。
私はその場に立ったまま、空を一度だけ仰ぐ。4–7–8。
吸って、数える。止めて、数える。吐いて、数える。
声に出さない。出すと“祈り”になってしまうから。これは手順。
——大丈夫。ここはW2。
この呪文は、自己観測のオーバーフローを止める。夜の私に渡すまで、昼の私が持っておく。
視界の端で、双灯祭のポスターが風で一枚めくれる。
「脱出ゲーム」の四文字が、紙の裏に鉛筆の仮名で控えめに残っている。
まだ確定稿じゃない。設計は、始まる前に直せる。直さなきゃいけない。
私はポスターの端のテープを押さえ、紙のシワの方向を目で追う。人は、直し方でもの作りの心を知る。
スマホを取り出し、NOXのメモに短く書く。
〈拍手SE禁止/案内文を詩に/出口=外部手順(空気/光/人)〉
指がもう一行、うずく。
〈“誰も置いていかない”の定義=“誰かが止まっても空気は止めない”〉
送信はしない。今は、私の手の中で温めるだけ。未送信の覚悟は、時々、言葉より強い。
送らないうちに壊れるアイデアは、だいたい壊れてよかったものだ。
歩き出す。
傘の骨から落ちる最後の雫が、頬に触れた。
水ではない。——現実の温度。
それを拭わず、私は笑う練習を一回だけして、ネクタイを少し結び直した。
鏡がないので、窓ガラスの反射に目を細める。角度は悪くない。
うん、今日の“等号の顔”は、たぶん保てる。
角を曲がる直前、ポケットの中でスマホが小さく震えた。
〈雲越チイロ:双灯祭の出し物アイディア及び仕様、明日の放課後にNOX全員来れる?〉
——来れる。
返信画面を開き、指を止める。
言葉を少しだけ、命令文ではなく、合図。
〈行く。〉
送信。
小さな発射音が、雨上がりの空へ透明に溶けた。
——帰り道。
校門を抜けるころ、雲の切れ間が広がって、濡れたアスファルトに薄い光が走る。
さっき合わせた二人分の位相差。雨音の平均周期から外れ過ぎない値。
“誰かと一緒に歩く”という現象を数式に落とすと、不思議と孤独は薄まる。
式は冷たいのに、私の中でだけ体温を持つ。
——そうだった。いつも、そうやって私は自分を救急搬送してきた。
家までの途中、コンビニでプリンが目に入る。
棚の前で立ち止まり、思わず笑ってしまう。
購買プリン争奪戦の話が脳内で再生され、勝率八割の背中が頭の中を歩く。
「二個ください」
会計の音。袋のカサカサ。レジの人が「雨、上がりましたね」と言う。
「はい。少しだけ」
帰ったら冷蔵庫に入れて、ラベルに細いペンで**“W2の証拠”と書く。
馬鹿みたい。でも、こういう馬鹿さが、私を溺れさせない浮き**になる。
浮きは見た目より重い。沈まないための重さだ。
玄関の鍵を回す前、ふと立ち止まる。
匂い。
雨の残り香、コンビニの甘さ、そして——私自身の、柔軟剤の香り。
シオンの「不思議」を、たぶん私は少し理解している。
W1の水の匂いが消えないまま、W2の生活の匂いが上書きされていく。
二つの層の境界に、私は立っている。
境界は、時々、心地いい。時々、痛い。
人間は境界で生きる生き物だ。境界には、選べる余白がある。
鍵が回る。
ただいま、の代わりに、私はメモを机に並べる。
〈陽圧ラインのUPS直結を解除候補〉
〈CO₂逆流時の詩的アナウンス案:息を盗まれないための数え歌〉
〈“協力”の定義を再配線:二人で数える=開く、三人で笑う=止まる〉
詩と手順の混血。これが、私のやり方。観測を殺さず、干渉だけで殴らず、等号を正しい側へ引き寄せる。
プリンを冷蔵庫に入れ、スカートのしわを手のひらで伸ばす。
鏡の前に立つ。
笑顔の練習をもう一回。喉笑いではなく、鼻笑いでもなく、胸の奥がすこし温かくなるやつ。
「……はい、シュレディンガー。今日も猫箱の壁を手順で叩く」
声は小さい。けれど、壁は音を覚える。何度も叩けば、開く側が分かる。
窓の外、雲が流れ、薄い青が覗く。
双灯祭まで、もうすぐ。
**“脱出ゲーム”**の四文字は、まだ鉛筆の線。インクにするのは、私たちだ。
私は机に座り、ノートの一頁目に、今日の等式をもう一度、震えない手で書き足す。
正しさ=生存手順。
等号の中央に、私の指を差し込む。
体温で紙がわずかに柔らかくなる。
その温度を確かめてから、私はペン先を整え、次のページに小さな見出しを書く。
『双灯祭・前夜設計ログ:導線の詩化と拍手の禁止』。
息を吸う。数える。止める。吐く。
拍のないメトロノームは、もう怖くない。
だって、拍は私が決める。
そして、数えるのはみんなで。
——あの日の雨は、まだ続いている。
天気としては止んでいるのに、記録としては止まっていない。
私は“観測”と“記憶”の区別をつけようとするたびに、どちらも曖昧になる。
けれど、曖昧なままでいいのかもしれない。
双灯祭のポスターが一枚めくれるたびに、私は、少しずつ「正しさ」を“手順”として書き換えていく。
拍手のない世界で、誰も置いていかないために。
あの傘の下で交わした笑い声を、私はまだ座標として保持している。
——観測完了、干渉保留。
次の再生に備えて、私はペンを置いた。




