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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第二章 双灯祭準備編

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EP41. 呼吸とスレッショルドシンク

 実験は静けさでできている。

 数式は骨、機材は筋肉、そして静けさが血だ。

 沈黙を満たせば満たすほど、世界は“同じ”を装ってくれる。 

 その表面から1ミリだけめくれた角を、僕はピンセットで持ち上げて測る——それが今日の当番。

 ただし、人が見るという行為には、必ず温度が出る。

 科学はそれをノイズと呼ぶが、僕はそれを生活と呼びたい。

 今夜、静けさの底が1ピクセルだけやわらいだ。

 呼ばれた気がした。呼んだ気もした。

 たぶん、そこからが物語だ。


 —同時刻、天城総合学園・実験棟地下室。


 扉を閉じる。

 パッキンの圧が指先に返り、地上の喧騒が丸ごと無音にフェードアウトする。

 残るのは、冷却ファンの層状ノイズ(200Hz/400Hz/800Hzの倍音が素直)と、ラボ空調の一定拍。

 ハニカムテーブルに人差し指をそっと置けば、金属と空気の接触音が存在しないという事実だけが触覚に残る。

 温度20.0℃、湿度45%。

 床を這うケーブルは白い碍子で直角に束ねられ、一本だけ14°ズレているのが気になる(犯人は昨日の僕)。

 ——ここは、世界から余計な呼吸を抜くために作られた場所だ。


 定盤の中央、Chrono-Scope。

 黒い直方体が肺のように静かに膨らんでは萎む。

 ポンプレーザー/BBO結晶(SPDC)/マッハ–ツェンダー干渉計/偏光子/遅延線/

 超伝導ナノワイヤ単一光子検出器(SNSPD)×2/タイムタグガー(10 ps分解能)/Rb原子時計。

 この行列は全て、観測(測定操作)が結果に与える微小なズレを可視化する。

 それは、「誰かが見ていると、ほんとうに同じ世界が再現されるのか?」という、面倒で愛おしい問い。

 これらは、そんな面倒に対して、答えを得るために呼び集められている。


 理屈は完璧だ。数式の背骨も一直線に通っている。

 それでも、データには必ず人間のノイズが混ざる。

 観測者がそこに居るだけで、結果の端が1ミリめくれる。

 僕の仕事は、そのめくれをピンセットで持ち上げ、めくれ量Δをミリで書くこと——今日も変わらない手順。


 ——今夜も、波形はわずかに揺れていた。


 規準パルス列(1 kHz)の周期が、理論値より0.23 %短い。

 アラン分散を評価しても、機器側ノイズで説明できない長い尾が残る。

 Rbのロックは盤石、温調誤差は±0.02℃。それでも揺れる。

 ラボ全体が背伸びをしているような、そんな人間臭いブレだ。


 ——誰かが、見ている。


 干渉計の視野孔で、白色LEDの拡散板が一瞬だけ虹いろを吐いた。

 CIE座標で置き換えられない、薄膜干渉みたいなうすい赤。

 コンソールに赤文字がピンと立つ。


 [Chrono-Scope / ALERT]

 EXTERNAL OBSERVATION RESPONSE DETECTED

 Source: Unknown

 Time deviation: −0.0024 s

 Entropy dip: ΔH = −0.013 bit


 「外部観測反応?」

 そんなフラグ、設計書にはない。

 ログを掘り直す。タイムタグの生波形を重ねて、ヒルベルト変換で包絡を取る。

 ノイズの底に拍がある。不整だけど、生きている拍。


 トン、トン、トン……

 ——心臓に似ていた。


 「ミサキ、これ……」

 白衣の裾を整えていた彼女が振り向く。

 「どうしたの?」

 「この実験を**“見てる”ログが出た」

 「見てる? 誰が?」

 「わからない。でも、どこかの“同時刻”**にいる」


 ミサキは1秒だけ考えて、肩をすくめる。

 「じゃ、挨拶しとけば? こんばんは、観測者さん——って」

 「冗談言うな」

 「冗談じゃないかも」


 彼女の笑いが空気の表面張力を0.01ほど緩めた——その瞬間。

 装置の中央に、淡い光が浮いた。

 モニターではなく、実体の干渉縞にノイズが乗る。

 波長分布が夕方寄りにスライド。

 赤いベール、ぼやける輪郭。風に揺れる黒髪。

 そして、一瞬だけ、世界がまばたきを忘れる。


 ——瞳が、こっちを見た。


 錯覚じゃない。

 ディスプレイの向こうじゃない。像面そのもので。

 視線には温度がある。

 感情には波形がある。


 「……誰だ」

 声が零れる。

 隣でミサキの呼吸が1拍跳ねた。

 「今、一瞬……目が合った」

 「スクリーン越しに?」

 「スクリーンじゃない。装置そのもの」


 彼女は即座にポケットからパルスオキシメータを取り出し、僕の指に滑らせる。

 「SpO₂ 98。心拍……92。上がってる」

 「お前は何でも測るな」

 「あなたが測らない時だけは、ね」

 白衣の袖口が光を撫でる。

 「——で、その相手に挨拶は?」


 乗せられて、僕はからかい半分で囁く。

 「……こんばんは、観測者さん」


 ピッ。

 1ピクセル沈む。応答。

 ミサキが目を細める。

 「……ね?」


 笑っているが、瞳孔は本気。

 嫉妬と研究熱が同居する、あの目。

 (恋愛感情の観測は倫理審査外——だが、彼女はいつだって非破壊検査だ)


 波形を再解析。

 相互相関で鼓動に似たリズム。

 ゆらぎはKuramotoモデルで言えば同調過程の初期値。

 呼吸が合い始める時の、あの気まずい美しさ。


 ——向こうも、生きている。


 定盤の上で、また色が揺れた。

 赤味。黒髪。頬のライン。

 ピントは像面から半歩ずれている。

 それでも“懐かしい”と思ってしまう形。

 会った記憶はないのに、既知の痛みが胸骨の内側を小突く。


 ミサキが低く問う。

 「観測、干渉された?」

 「たぶん」


 僕は指先でキーボードを二回叩く。保存。

 filename: Threshold_of_Interference

 Enterの軽音が、部屋の重心を1mm戻す。

 光は消え、冷却ファンが**“いつもの世界”を塗り直す。

 ただ、胸の底にはまだ生活の温度**が残っている。


 ——誰だった?

 知らないはずなのに、懐かしい。

 観測記号では表せない、体温のある視線。


 「……もしこれが“観測”じゃなく、“感情”だったら——」

 独り言。

 ミサキが首を傾げる。

 「ユウマ?」

 「いや、なんでもない」


 彼女はそれ以上追わない。

 代わりに、僕の手の上に親指を一度だけ押し当てる。

 “ここ”に戻すための、合図。

 ——縫合の手つきだ。


 装置を再起動。

 SNSPDの冷却温度、安定。タイムタグガー、ドリフト補正OK。Rbクロック、ロック。

 波形は無音。

 ……のはずが、バッファの末尾に1行のノイズが残った。


 [BUFFER TRACE] … 48 49 59 4F 52 49


 ASCII変換。

 ——HIYORI。


 打鍵ログ空白。自動スクリプト該当なし。

 誰も入力していないはずの文字列が、観測の底に沈んでいる。


 ミサキが読み上げる。

 「……ヒヨリ?」

 音に出した瞬間、空気が一滴だけ赤を帯びた。

 喉の奥で固唾が溶ける。

 名は、干渉の最初の形。

 呼んだ瞬間、世界に切れ込みが入る。


 「……新しい観測者。あるいは——干渉者」

 そう言うと、ミサキは微笑む。

 笑って、僕の肩に顎をのせる寸前でやめ、白衣の裾を整える。

 線を越えない優しさ。越えさせない意地。


 「選んでね、ユウマ。 観測で逃げないで。言葉で」

 「わかってる」


 新しいフォルダを作る。

 /interference/HIYORI/

 今夜の全ログを流し込み、SHA256でハッシュ。チェックサム、OK。

 保存クリック。静寂に小さな爪痕が残る。


 定盤の端を指で撫でる。

 冷たい金属。現実の基準線。

 観測は安全。選択は痛い。

 ——でも、閾値は越えた。越えてしまったなら、進むしかない。


 照明を一段落とす。

 眼の奥に、あの瞳が浮かぶ。遅延線の向こうからこちらを覗く。

 懐かしさはまだ、名前の形をとらない。


 それでも、口の中で呼んでみる。

 「——ひより」


 名は闇に出ていき、音もなく消える。

 けれど、Chrono-Scopeの奥の黒が1ピクセル柔らかくなった。

 観測の底に、生活の色が混ざる。


 ——それが、今夜、僕が見た世界の再現性の破れ。

 そして、きっと祝福だった。



 付記:実験室の小さな笑い(ログ外・雑記)

 •ケーブルの14°ズレ、後で直そうと思って忘れる(未来の僕へ:床は世界だ。直せ)。

 •ミサキ、パルスオキシメータを“恥ずかしさ”にも当てようとして怒られる(計測不能)。

 •アラート音のビープを猫の喉鳴り(24Hz)に寄せたいと言ったら、倫理委員から優先度:最低をもらう。つらい。

 •Threshold_of_Interference の綴りを一度ミス。

 Intereference表記でミサキに5秒笑われる。痛い。

 将来の自分も笑うだろうから二重に痛い。


 実験はうまくいったか?と聞かれたら、うまくいきすぎた、と答える。

 “同じ”は退屈だと思っていたけど、今夜わかった。退屈は、守られた日常の別名だ。

 そこへ名前が落ちてきた——HIYORI。

 観測が生活に触れ、生活が観測を揺らす。

 その1ピクセルのやわらぎのために、たぶん僕は、また明日もハニカムテーブルを撫で、ログに余白を残す。

 選ぶのはいつだって痛い。でも、選ばない観測はもっと痛い。

 Threshold Sync。

 閾値は確かに越えられた。越えさせられた、とも言う。

 ——さて、次は言葉の番だ。


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