EP4. 歪曲侵入とファンタズマル
廃墟に足を踏み入れた瞬間、俺は悟っていた。
ここはもう「建築物」ではない。
石の壁も、ガラス片も、時間すらも——すべてが異常の演算装置として組み替えられている。
浮遊する残骸、19Hzの恐怖波、そして“噂が自律的に増殖する”という情報現象。
それは都市伝説でも超常現象でもない。
世界の基準座標そのものが揺さぶられ、外からの干渉が自己複製を始めた結果だ。
俺はタナトス。
優等生の仮面を脱ぎ捨て、観測されない刃として歩む。
そして今夜、俺たちのチームはついに——世界の外側の意思と対面する。
制圧した三人を表広場に吊し上げ、その後警察が三人を発見するのを見送り、俺は奥へと進む。
廊下の空気は湿って重い。石灰岩が水分を吸い込み、壁一面に褐色のシミが広がっている。
祭壇は半壊し、装飾は煤けて崩落し、床にはステンドグラスの残骸が散乱していた。
だが——異様な現象が視界を支配する。
ガラス片が浮いていた。
数ミリだけ宙に浮遊し、周期的に震えている。
HUDが自動的に数値を算出する。浮遊高度4.7mm、振動数2.1Hz。
ただの静電気では説明できない。周囲の電場強度は通常の0.04V/mに過ぎない。
これは物理法則の逸脱。空間の基準座標そのものが揺らいでいる。
「ルート、空間解析」
『重力加速度が0.8Gに低下。重力場そのものが“引き延ばされて”いる……いや、もっと異常だ。座標系が揺れてる。』
ミナトの声が、淡々としながらもわずかに硬い。彼ですら言語化できない未知の現象。
床石のひび割れが、じわじわと伸びていく。
まるで生き物の血管が成長するように、暗い筋が縦横無尽に広がっていく。
圧電素子が床からの振動を拾う。数値がHUDに流れる。周波数=19Hz。
低周波の振動。人間が本能的に恐怖を覚える“インフラサウンド”領域。
これは建築物の共鳴ではない。人間の神経系を直接叩くための周波数だ。
「スペクター」
『……待て。怪談スレが一斉に“首なし怪物を見た”って騒ぎ出してる。俺、そんなデータ流してないぞ』
トウタの声が震える。
**噂が独立して増殖している。**ネットに存在しないはずの怪物情報が、自律的に拡散している。
誰かが流したのではない。現象そのものが情報として“自己生成”している。
心拍数が一段跳ね上がる。オーロラの端末からアラート音が重なる。
『ユウマ、心拍上昇137。交感神経が過負荷よ。無理に耐えると血管が破裂する!』
ミサキの声が悲鳴に近づく。
だが、俺の視界はさらに異様な変化を捉えていた。
ステンドグラス片が、一斉に宙で回転を始めたのだ。
まるで“見えない渦”に飲み込まれるように、回転数が指数関数的に加速していく。1Hz → 5Hz → 22Hz。
HUDの数値が急上昇するたびに、頭蓋内に直接叩き込まれるような圧迫感が強まる。
次の瞬間——音が消えた。
反響に満ちていたはずの空間が、真空のように沈黙する。
外界の音はすべて奪われ、残ったのは心臓の鼓動だけ。
だがその鼓動すら、やがて空間に吸い込まれるように希薄化していく。
音が死んだ空間。
耳の鼓膜が内側から圧迫され、平衡感覚が崩れる。
歯を食いしばって耐える。だが脳裏に浮かぶのはただ一つの直感——
——ここは、既に世界の外側に触れている。
沈黙が続いた。
教会という巨大な石の共鳴箱が、完全な真空のように音を失っていた。
残響も、外界のざわめきも、呼吸音さえも——ここから排除されている。
生物の存在条件そのものが剥奪された空間。
祭壇の中央に、ひと筋の線が走る。
最初はただのひび割れ。だがHUDのセンサー群が異常値を叩き出した。
「おいおい……嘘だろ?」
時空間歪曲率:+3.7×10⁻²。
通常ならブラックホール周縁でしか観測されない数値。
それが今、半壊した教会の中で現れている。
「ルート!」
『なんだこれ?……亀裂が……動いてるんじゃない。中から押し広げられてる! “外”の何かが、この世界をこじ開けてる!』
ミナトの声に冷徹さはなかった。天才の言葉が震えを帯びる瞬間。
裂け目が広がる。
石壁が紙のようにめくれ上がり、そこから——
巨大な顔が押し出された。
縦横五メートルを超える異形の顔。
白磁のように蒼白な肌。黒い糸束のような髪。眼窩は漆黒で、光を拒絶していた。
首から下は存在しない。否、それ以上を“設計する意思”がこの世界に存在しないか、もしくは許さなかったかのようだった。
「嘘っ!まさか……俺の怪談が……現実に!?」
スペクターが絶叫する。
噂と虚構を武器にしてきた彼が、その境界を踏み越えられた瞬間だった。
怪物が口を開く。
——祭壇全体を呑み込むほどの口腔。
咆哮は存在しない。だがHUDが示す。
周波数:22〜26kHz、出力:128dB。
可聴域を超えた衝撃波。
耳ではなく脳そのものを破壊する。
「ぐっ……!」
俺の視界が赤黒く滲む。平衡感覚が崩れ、血管が破裂しそうになる。
「サイレン!」
『逆位相、発射! “舞台”は私が支配する!』
レイカの声と同時に、拡声器群が逆相の波を放ち、衝撃波を一時的に中和する。
だが怪物は周波数をずらし、再び圧力をかけてきた。
拡声器が火花を散らし、装置が次々に沈黙する。
「オーロラ!」
『ユウマ、血圧214! 脳血管が破裂する! これ以上は——』
「わかった黙ってろ。俺はまだ戦える!」
血の味が喉を焼く。それでも、倒れるわけにはいかない。
怪物の眼窩が赤黒く明滅する。
次の瞬間、祭壇の柱が砂のように崩れ落ちる。
位相崩壊——物質をこの世界の座標から切り離す攻撃。
イレイザーのコートが触れただけで灰と化す。
「スペクター!」
『やるしかねえ……! “怪物は笑うと弱る”って噂を全チャンネルに流した!』
次の瞬間、怪物の口が一瞬だけ痙攣し、不自然に歪む。
噂が現実を侵食し、虚構が干渉を揺さぶった。
「ルート!」
『右眼内部に温度差あり! ただし補正まで1.2秒!』
「サイレン、今だ!」
『残りのスピーカーを全部焼き切る! 覚悟して!』
耳を裂く轟音が炸裂し、教会全体が逆相で震えた。
「今しかない!」
俺は跳躍する。脚部アクチュエーターが悲鳴を上げ、加速度6.8G。
だが怪物が衝撃波で俺を叩き落とす。石壁に激突し、HUDに「肋骨骨折」の警告が点滅する。
「ユウマ!」
オーロラの悲鳴。
「——大丈夫だッ!」
血反吐を吐きながら立ち上がり、再び跳躍する。
スペクターの噂が虚構を揺さぶり、
サイレンの逆相が衝撃波を中和し、
ルートの解析が弱点を示し、
オーロラの警告が俺を生へと繋ぎ止める。
全員の力が重なり合った、その一瞬。
拳を握る。ナノファイバーが骨格を補強し、拳速はマッハ1.3を突破。
衝撃波を伴い、俺の拳が怪物の右眼に叩き込まれる。
——空間が絶叫した。
壁が波打ち、天井が剥がれ落ち、ステンドグラスの破片が光学ノイズのように舞う。
怪物の顔は歪みながらも、こちらを睨みつけながら裂け目の縁へと引きずり込まれていく。
その姿は敗北ではなかった。
干渉そのものが、矛盾に耐えられず破綻したのだ。
⸻
静寂。粉塵。
俺はなんとか立っていた。
だが勝ったとは言えない。
これは——おそらく……。
並行世界からの“侵入実験”が失敗しただけ。
敵は姿を消したのではない。
次はもっと深く、もっと確実に。
現れる瞬間を、あの化け物は選んでいるのだ。
怪物が裂け目へと引きずり込まれた直後、祭壇の石材がきしみ、金属を爪で引っ掻いたような耳障りな高周波音を発した。
それは音ではなく、石そのものの分子配列が共鳴している異常振動だった。
床に散らばったステンドグラスの破片が、青白い光を帯びる。
ただ反射しているのではない。発光している。
ガラス成分に含まれる鉛の電子軌道が、異常なエネルギー注入で励起され、微細な光子を放出していた。
破片はふわりと浮き上がり、微小なプラズマの尾を引きながら空中を漂う。
「ルート!」
『数値が跳ね上がってる……重力値が0.92Gまで低下、座標系が揺らいでる! 石材に“歪曲エネルギー”が残留してる。この教会、構造として保持できない!』
ミナトの声は早口で、普段の冷徹さを欠いていた。
HUDには膨大な数値が走る。
今回二度目の二度見だ。
残留エネルギー密度=1.8MJ/㎥。RT60(残響時間)=∞。
——残響が“無限”という数値は、音がどこにも逃げず閉じ込められていることを意味していた。
この教会そのものが、異常の格納庫に変質している。
「退避準備!」
俺は声を張る。
だが、その直後。
床石がバラバラに砕けた。
まるで内側から爆薬を仕込まれたかのように。
祭壇が一瞬浮き上がり、そのまま轟音と共に沈み込む。
——次の瞬間、閃光。
目が焼けるほどの白光が祭壇を中心に炸裂した。
だが熱はない。衝撃波はあるのに、燃焼反応が存在しない。
爆発ではなく、存在そのものが“消去”される現象。
床石も、祭壇も、ステンドグラスも、そこにあった“物”の記録ごと削ぎ落とされるように消滅していく。
崩壊は教会内部に限定され、外壁の一部だけが残されて崩れ落ちる。
「ユウマ! 走って!」
オーロラの声が飛ぶ。
俺は仲間を庇い、崩れかけた梁を飛び越え、半壊した扉を蹴破って外へ飛び出した。
⸻
夜気が肺に流れ込む。
次の瞬間、背後で轟音。尖塔が途中から折れ、砂塵を撒き散らして崩落する。
粉塵が噴き上がり、街灯の光を遮った。
だが不思議なほど被害は狭い。
周囲の街路樹はそのまま、街灯も消えない。
異常は、教会という「舞台」内部だけに閉じ込められていた。
⸻
「……これ、まるで“証拠を消した”みたいだな」
スペクターが息を荒げ、呟く。
瓦礫の中に、怪物の痕跡も、裂け目の残骸も、熱線の焼け跡すらも存在しない。
残ったのは、灰色の粉末と均一な砂だけ。
それは「建材が劣化して崩れた」ようにしか見えなかった。
「違う……これは、誰かが意図的に“干渉を打ち切った”んだ」
ルートが声を絞る。
彼の眼差しは冷たさを装っていたが、指先は小刻みに震えていた。
天才ですら言語化を拒む現象。
「ユウマ……」
オーロラが僕を見つめ、首を振った。
「本当に無茶ばかりするんだから。次に同じことをしたら、あなたは……」
「……俺はまだ壊れてない」
血の味を噛みしめながら、息を吐き出す。
だが自分の声がわずかに震えていたことに、誰よりも早く気づいていた。
⸻
教会は終わった。
だが、それは**実験に失敗した施設が“切り捨てられた”**だけに過ぎない。
消されたのは“事故の痕跡”ではなく、“何かが世界に触れた記録”そのものと言える。
それは、俺の理論を
ある意味証明してくれたとも言える。
怪物は裂け目へと引きずり込まれた。
だが、それは敗北ではなく、ただ「試験の終了」にすぎない。
俺たちの攻撃で倒れたのではない。
干渉が、矛盾に耐えられず一時的に自己を切断しただけだ。
つまりこれは——侵入の予行演習。
次はもっと深く、もっと確実に。
あの“顔”は俺たちの世界を測定し、再び現れる瞬間を選んでいる。
優等生ユウマではなく、タナトスとして。
俺はそれを迎え撃つ覚悟を刻み込む。
仲間たちと、観測の外で。
——これは、始まりにすぎない。




