表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第二章 双灯祭準備編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/94

EP39. 夕闇とオイラーキャット

 ——放課後。

 西日の角度が32度くらいに傾いて、校門から出た空気はアスファルトの熱容量をゆっくり放出していた。

 ミサキと肩を並べる。彼女は畳んだ白衣を胸に抱え、僕は紙パックのココアをストローで攪拌(回数7回、習慣)。

 話題は“明日ぜんぶ話す”の段取りから、いつのまにか「猫は流体か固体か」へ——


 「相転移の臨界点は温度じゃなくて箱で決まるの。箱があれば猫は流れる」

 「粘性率どうすんだよ」

 「可愛いで補正」

 「強引だな、可愛い学派」


 ミサキの口角は 3mm だけ上がっている。

 医療者の“余白笑い”。彼女は顎で前方を示した。

 住宅街の乾いた生垣、その向こうに低い石垣。

 紫色のスクールカーディガンの女子が、スカートの絶対領域を死守しつつ、黒猫を塀の上で追っている。

 黒猫は——見事な非ニュートン流体で曲面を滑走、たぶんストレス応答で擬似的に粘度が下がるタイプ。


 女子は—— 足、滑った。


 重心が剥がれる音は、たしかに“聞こえる”。

 靴底と石の接触が静電気みたいに切れて、空気の膜が 1 枚入る瞬間の音。

 落下開始。観測者の脳は勝手に式を走らせる。

 これは、——間に合う。


 「ミサキ、下がって!」


 踏み切り、一歩。骨盤をロック。

 脊柱は S→J 字でショック吸収、前腕は“受け”の角度へ 42°。

 ——来た。

 体重×速度のベクトルを胸と腕で分散、膝で減衰、地面へ逃がす。

 揺れは一回で収束。良い波形。二次減衰まで出ない。

 僕の胸骨は軽く疼くが、許容。


 お姫様抱っこ。

 視界いっぱいに、ぱちくりした紫の瞳。

 虹彩の外環に薄いラベンダーのリング。

 健康な驚きの瞳孔径。


 「わ、わっ——」


 軽い。けどちゃんと“人”の重さ。

 髪は夜の手前の藍。制服の襟は影村学園のチェックで、天城の配色を反転コピーしたみたいな補色バランス。

 舞台照明が一段上がる瞬間を、素肌で見た感じ——肌色のガンマが 0.95→1.05 に上がる、そんな印象。


 「……セーフ」


 反動がゼロ付近へ落ちるのを触覚で確認してから声を出す。


 「大丈夫?」


 「……っ、だ、だいじょうぶ、です……!」

 瞬き二回。そこから頬に血色が追いついて、考えるより先に笑う。

 声の終止に星がひとつ跳ねるタイプの発声。舞台慣れ。


 「す、すごい……! お姫様みたいにキャッチされちゃった……!」


 “お姫様”。本人指示か状況比喩か。どっちでも心拍に効く名詞。

 腕の中の彼女が胸の前で手を揃え、呼吸が整う。呼気の温度は 33℃くらい。健康域。


 「助けてくれて、ありがとう。私、夕咲メイ。影村学園の一年」

 名乗りが完全に舞台挨拶。シラバスに“客席との対話”が入ってる学科の子みたいだ。

 そっと地面に降ろす。メイは足首を回す。距骨の動きは滑らか、痛覚評価ゼロ。歩行良好。捻挫なし。


 その時、塀上の黒猫が「ニャ」と短く鳴いた。

 くるんと尾を立てて、僕の肩へひらり。着地。慣れてる。

 ——なんだこの流れ作業。今日の世界は段取りが良い。


 「こら、ユーラー!」

 「Euler? オイラー?」

 「はい、曲線の天才です。よく曲がるから」

 「命名が完全に理系……」


 黒猫は肩でゴロ。体表温 38℃。

 喉鳴りの周波数は 24Hz 付近。心地よい低周波。

 横でミサキが静かに観測。笑ってはいる。けれど“笑顔の校則違反”の下に、うっすら恋愛的青色申告の影。

 「ユウマ、反射よかったね。抱え方も。……いつ練習したの?」

 「いや、普通に運動エネルギーの分散を——」

 「——ふうん(にっこり)」

 その“にっこり”は税務署より怖い。追徴課税の香り。源泉徴収、逃れられない。


 メイは姿勢を正して、ぺこりと深めのお辞儀。

 近くで見ると、制服トリミングの縫い目がきれいに揃っていて、ネクタイ柄は天城の反転配色。

 ちゃんと“対”を意識している。

 指先は傷ひとつないけど、ローファーのつま先には泥跳ね。努力の証跡。


 「メイさん、危ないから、次からは——」

 「はい、次は落ちません! ……でも、また落ちたら——お願いしてもいい?」

 「いや、落ちる前提を——」

 「予告落下やめて」ミサキの即ツッコミ。

 メイは舌を出して笑い、ポケットから小さなカードを差し出す。

 丸い字で〈夕咲メイ/影村学園映画研究会〉。

 裏は手書きの QR。

 余白に「救助者特別」の判子風スタンプ。

 カードの繊維密度が高い。舞台小道具に強い部の紙選び。


 「今度、お礼させてください。映画研、試写会があるんです。“救助者ご招待”で」

 「救助者って肩書き、初めて見た」

 「ヒーローは肩書きが多いほど映えるんですよ」

 言い切って、眩しい笑顔。自分で照明を持ち歩くタイプ。リムライト内蔵。


 メイが胸元を押さえ、ふと真顔。

 「さっきの落下、シャッター 1/100 で切ったら絶対ブレてました……。でも、あなたの動き、スタビライザーいらない——」

 「褒め方が映画部」

 「はい。**“Save the Cat”**って、脚本術では“猫を助ける行為で主人公に好感を”って意味なんです。今日のは……猫も人もでした」

 ユーラーが肩でドヤ顔。

 いやお前は滑走してただけだろ。


 角から、コンビニ袋を手にアスミ登場。

 銀のイヤーカフが夕陽を一粒だけ返す。

 僕とメイ——お姫様抱っこ解散直後の残滓配置を一瞬で解析。

 そして目だけで小さく**「は?」**と発音。

 こういう時の母音は薄い。


 「状況説明して、三行」

 「黒猫・落下・救助」

 「は?——で、そのヒロインみたいな子は?」

 「夕咲メイです! お姫様抱っこの被験者です!」

 「被験って言った。強い」アスミが呆れ笑い。

 ミサキはにこやかに追撃。

 「メイちゃん、お姫様抱っこは予約制だよ?」

 「今日のは当日券でした!」

 「即答……」

 その後、アスミに事情を説明して、なんとか収集。


 アスミが猫を一瞥して、すぐメイへ。

 「黒猫、ベジェ曲線の挙動。あなた、追い方は良いけど、重心の管理が甘い。次から踵から落ちないで」

 「アドバイスが理論派すぎる……! でもありがとうございます!」

 シーンの物理監修がいきなりついた。

 ミサキは手際よく医療者モードへスライド。

 「念のため評価するね。痛み 0/10、めまいなし、Glasgow 15、歩行可能。——救助者さんは?」

 「心拍 88、アドレナリン上昇、でも後遺症:恥ずかしさ」

 「処方:飴。はい」

 飴玉が僕の掌にドスンと落ちる。

 包み紙のカサ音。医療はやさしい。あと地味に効く。


 メイはカードのもう一枚をアスミとミサキにも配る。

 「よかったら、お二人も。『影村×天城 交流特別』って名目、どうですか?」

 

 メイは配ったカードの角を親指でトントンと揃えてから、ふっと顔を上げた。

 「それで——今度の合同学園祭、一緒にやりませんか?」

 空気の表面張力が一段だけ高くなる。僕の心拍は+4。


 「合同?」アスミの眉が一ミリだけ跳ねる。

 「はい。影村×天城コラボ企画。映画研の短編と、そっちの……えっと、みなさんの何かすごいの、連動させたいんです」

 ユーラーが僕の肩でゴロ。24Hzが25Hzに上がる。猫も前のめり。


 メイは指で小さな長方形を空に描いた。

 「例えば、短編Aパートを影村で上映、Bパートを天城で同時上映。

 エンディングは二会場の観客の選択で同時に書き換わる……相互干渉型上映。

 Save the Catの拡張版。“観客同士が互いを助けて、物語が助かる”ってやつ」

 口調は明るいのに、企画の密度は高い。舞台照明を持ち歩く人、たまにプロジェクターも入ってる。


 アスミは腕を組み、思考の姿勢。

 「通信遅延が最大の敵ね。会場間の同期誤差、±150ms以内に収めたい」

 「あと安全動線。二会場連動は浮かれると危ない」ミサキが医療者モードで刺す。

 「患者……じゃなかった、観客の安全、最優先」

 「IRB(倫理委員会)通す書類、多めにいるけど?」

 「可愛いで補正」メイが即答。

 「そこは可愛くない」アスミとミサキ、ハモる。強い。


 メイは怯まず、さらに手札を切る。

 「予告編は天城で撮って、メイキングは影村で公開。

 お互いの校章がエンドロールで並ぶカット、絶対エモいです。

 あと、例えば、脱出ゲームのラストキーを、上映後のQRに仕込めませんか?

 “映画を見終えた人のひと押しで、向こうの扉が開く”みたいな」

 アスミの睫毛が一拍だけ長く伏せられる。W1の影が半径小さく揺れて、すぐ消える。

 「……技術的にはできる。やるかどうかは別。安全設計と感情設計が両方必要」


 僕はホログラム端末に短くメモ。〈相互救助=次シーン解放〉

 これは僕らの草案とも、危うい橋とも、同じ形をしている。

 「検討はする。倫理と動線を通して、両校の承認が取れたら——」

 「——やる」メイが僕の言葉を笑顔で継ぐ。

 リムライトが一段明るくなる。ユーラーが「ニャ」と拍手みたいに鳴いた。


 アスミはため息混じりに口角を上げる。

 「暫定承認:条件付き。同期、誘導、救急、三点クリアが前提」

 「担当医の許可も必要」ミサキが追い打ち。

 「だから可愛いで補正」

 「可愛いは提出書類じゃない」二人、再びハモる。今日いちばんの和音。


 メイは深くお辞儀して、カードの余白を指でトントン。

 「企画名は——『交流特別/Save the Us』。

 二校の“私”じゃなくて、“私たち”を助ける、って意味で」

 いいタイトルだ。等号じゃなく、連結子音みたいにつながっている。


 僕の脳内テロップが自動で更新される。

 •提案:〈影村×天城 相互干渉上映+脱出連動〉

 •条件:同期±150ms、動線密度≤2.5/m²、IRB二重承認

 •鍵:観客の相互救助=次のフレームを開ける行為


 世界がまた、続編の姿勢になる。



 ユーラーがメイの肩へ帰投。身のこなしが最短経路。

 メイは軽く会釈。

 「それじゃ、また。救助者さん、次は映画館で」

 夕日の方へ二歩ステップ。背中のブレザーがふわり。

 最後にユーラーだけが振り返り「ニャ」と一鳴き。

 カチンコの音に聞こえた。

 ——テイク 2 の予告。


 残された僕ら。

 アスミが静かにまとめる。

 「新規変数、投入」

 「しかも高照度」

 ミサキは猫の抜け毛をつまみ、親指で弾く。

 「ユウマ……救助者へのお礼は、担当医を通してください」

 「医療監修ついた……」


 歩き出す。

 風が、ほんの少しだけ映画館の冷房みたい。

 予告編の前の温度。

 ミサキが前髪を押さえ、横目で僕を刺す。

 「ねぇ、ユウマ。今の抱え方、フォーム教えて?」

 「いいけど、被験者いないと——」

 「予約制って言ったよね?」

 にっこり。税務署、再臨。納付期限、即日。


 アスミがコンビニ袋からプリンを 1 個取り出し、僕に押しつける。

 「加算要求。今日はこれで相殺」

 「何の簿記だよ」

 「恋愛複式。貸方“救助”、借方“動揺”。残高はのちほど」

 ——差引残高、こっちが赤字か。


 住宅街のブロック塀が僕らの足音を跳ね返す。反射音の遅延は 18ms。

 世界は録音スタジオみたいに素直。

 “次のフレーム”に何が写るのか。僕は脳内でテロップを打つ。


 •事象:夕咲メイ(影村 1 年)落下 → プリンセスキャッチ

 •付随:黒猫“ユーラー”=流体/ベジェ曲線挙動、命名センス=理系

 •反応:ミサキ=笑顔で税務調査/アスミ=三行要約→承認

 ・補遺:観測者(僕)=心拍 88→72→78、羞恥係数は逓減後に再上昇

 •招待:映画研試写会「救助者ご招待」→新規交差点生成

 •タグ:#SaveTheCatの物理 #救助者肩書き #予約制抱っこ #恋愛複式簿記 #新規変数投入


 ——ここからは“余白”のログ。


 プリンのフィルムを剥がす音が小さく鳴る。

 アスミがスプーンで 1/π くらいの角度で表面を抉り、僕に押しつけた理由をもう一度主張する。

 「相殺。今日は“動揺”が赤字」

 僕は無言で食べる。うまい。負けた。

 カラメルの苦味が、妙に現実的。糖と現実はいつも等式で繋がらない。


 夕陽が電柱の影を斜めに伸ばす。影の先端は、僕らの少し先を歩く。

 ミサキがぽつり。

 「映画、行く?」

 「IRBに通るなら」

 「倫理委員会って、デートの口実にはならないよ?」

 「じゃあ“共同研究”で」

 「それはもっと怪しい」

 三人で笑う。笑いは短いが、波形は綺麗。歪み率が低い。


 アスミがポケットから小さな付箋を出して、僕の手の甲に貼った。

 〈抱え方のフォーム:明日 16:30 実地検証〉

 「予約制」

 ミサキが親指を立てる。

 僕の心拍がまた 4 だけ上がる。数字は正直。

 僕もだいたい正直。半分だけ。


 帰路。家々の夕餉の匂い、出窓の観葉植物、洗い立てのシャツの糊の匂い。

 平和の組成式はシンプルなのに、再現は難しい。

 僕は今日の 0.57 秒を、同じだけのテキストで上塗りするみたいに、ゆっくり思い返す。


 落ちてくる人を受け止める動作は、救助というより“針の手入れ”に似ている。

 鈍い力で押し込まない。細い角度で入れて、面で支える。

 物理と優しさの両立は、やればできる。

 でも、やったら“関係”も生成される。

 それが世界の仕様。嬉しくて、面倒くさい。


 メイの「救助者ご招待」は、明るいフォントで書かれた新しい分岐点だ。

 カードの角は丸く落とされ、指に優しい。

 優しさは刃にならない——はず。

 刃物みたいな等号を何度も見てきたせいで、僕はつい、フォントの太さで未来の強度を見積もってしまう。

 悪癖。職業病。観測者病。


 西日の色温度は 4800K。

 空気の粘度は、恋愛の予兆を含むと仮定しても、まだ歩ける程度に低い。

 猫は流体。人もまあ、だいたい流体。

 可愛い学派のミサキは「可愛いで補正」と笑っていた。

 僕は、可愛いの単位をいまだに SI に落とせていない。

 落とした瞬間に、たぶん何かを壊す。

 だから、式は式のまま、心は心のままで置いておく。

 両方を同じ机に並べて、プリンでつないでおく。

 それが今の、僕の“生存手順”。


 角を曲がる前、空気が少し冷えた。映画館の空調に似ている。

 予告編が始まる前の、あの“沈黙の明るさ”。

 世界は今日も、続編の気配を隠しきれない。


 僕は最後に、ログを一行でまとめる。


 観測結語:

 “落下は、物理で受けられる。関係は、笑いで受ける。”


 ——記録者、岡崎ユウマ。


 あの日の夕暮れは、やけに“静電容量”が高かった。

 触れるもの全部に、微妙な電位差があって、誰の感情も少しだけ火花を散らす。


 夕咲メイ。

 名前の語感からして、舞台照明を前提に生きてるタイプ。

 出会いが落下イベントってあたり、すでに物語的にはアウトラインが整ってる。

 でも、現実はそんなにドラマチックじゃない。

 腕の中の温度と、救ったあとの気まずさと、ミサキの視線の圧力。

 それだけで充分“観測値”は振れる。


 アスミはたぶん、すぐにこの出来事を演算する。

 「新規変数」として。

 ミサキは臨床的に評価する。

 「心拍・表情・沈黙」。

 ——どっちも正しい。けど、どっちも僕じゃない。


 僕はただ、反射で動いた。

 その一瞬のベクトルが、これから先の世界線をまた少し傾けるなら、それも観測の一部なんだろう。


 夕闇の色温度、約4800K。

 空気の粘度、恋愛の予兆、猫の流体性。

 全部まとめて、今日のログに記録しておく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ