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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
残響達の午後編

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36/94

EP36. 氷砂糖とエントレインメント

 観測って、ほんとは残酷だと思う。

 対象を“見て”しまった瞬間、元の状態にはもう戻れない。

 それを知りながら、僕はずっと——彼女たちを観測してきた。

 ミサキも、アスミも。

 “誰かの痛みを記録する”ことでしか、自分を保てなかった。


 けれどこの夜は、記録ではなかった。

 彼女が泣きながら笑って、「居場所を失くした」と言ったとき、僕はただ“観測者”を降りた。

 選択する側に立った。

 それが正しいかどうかなんて、まだわからない。


 でも、あの夜の鼓動が重なった瞬間だけは、

 世界が静かに同期していた——そんな気がする。


 ——放課後。

 理科棟の廊下は既に余熱を冷まし、音はガラスと金属にだけ残響していた。

 実験室はひとつだけ灯っている。

 色温度5000Kの蛍光灯が、天井の反射板からわずかにフリッカーを降らせ、薬品棚のラベルが帯電した紙片みたいに見える。 静電気の匂いに、薄いイソプロパノール。


 ドアを引くと、影が一枚、棚と棚のあいだに縫いとめられていた。

 ミサキ。

 白衣の袖口は握り痕でしわが寄り、ボタンは上から二つ外れている。

 視線は一点凝視。視線の先にいるのは、俺。


 「……ユウマ。ちょっと、いい?」


 いつもの声帯の柔らかさに、微量の金属音。アルゴン・アークが遠くで鳴るみたいな冷たさ。

 笑顔は“貼る”動作の痕が見えるほど均一で、皮膚表面だけに成立している。


 「ねえ。昨日の夜、どこにいた?」


 喉頭が思わず嚥下運動を起こす。返事が一拍遅れる。

 その1.0秒弱の空白が、ミサキの内部の判定器に「はい」を打刻した。


 「……そう、返事に“間”があるんだね」


 ポケットから取り出されるのは指先脈拍計。クリップが少しきつい音で閉じる。

 ディスプレイに走る緑の数字——152 bpm。測定中のミサキ自身の脈。

 HRVは見なくても想像がつく。交感神経優位、迷走神経沈黙。


 「ねぇ、ねぇユウマ。普通ね、立ってるだけでこんなに脈、上がらないの。

 でも私、いま、“壊れそう”なの。ねぇ、どうして?」


 歩幅ひとつ分、近づく。瞳孔径はわずかに拡大。涙腺はまだ貯留段階。

 笑ってる。けどそれは、泣く直前の表情筋の震えを、笑いで蓋してるだけだ。


 「昨晩、アスミちゃんと一緒だったんでしょ?」


 「……どうして、そう思う」


 「簡単だよ」


 右手が白衣の裾を軽く弾く。指腹の先は、僕の胸の匂いに触れているつもりなのだろう。

 ミサキの嗅覚は異様に訓練されている。医療者の習性。


 「ユウマ、今日——プリンの香りがしてた。“試料プリン”。

  あれ、アスミちゃんが好きなやつ。ユウマの部屋の冷蔵庫にしか、ないはず」


 やられた。観測のプロは、匂いで証拠を拾いあげる。

 「ミサキ、落ち着いて」


 「落ち着いてるよ? ほら、声、静かでしょ?」


 静かだ。逆に怖い。


 「でも、心臓の音が耳の後ろまで響いてるんだ。——“ユウマの嘘”って、こんなに鮮明なんだね」


 距離、40センチ。もう半歩で肩が触れる。

 ミサキの虹彩の縁には水の線があるのに、角膜はよく乾いている。

 涙は落ちない。刃は光っている。


 「ねぇ、正直に言って。アスミは泊まったの?」


 沈黙。

 その無音が、彼女の世界線に「既遂」のハンコを押した。


 「……泊まったんだ」


 笑顔の形がカタリと壊れる。室温が2℃下がったように感じる。いや、下がったのは俺の皮膚温だ。


 「そっかぁ……へぇ……そうなんだ。ユウマの部屋って、そんな簡単に入れる場所なんだ。

  あたし、どれだけ一緒に実験してきたっけ? ねぇ、一回でも誘われたことあった? 

  一緒に夜通しデータ整理したときでさえ、“もう帰れ”って、言ったよね」


 声は震えない。だから余計に怖い。瞳だけが、濡れている。

 「……ミサキ、それは違う——」


 「違わないよ。私の中の世界線では、ユウマはもう、嘘つき」


 ポケットから取り出される黒。安全カバー付きの実験用ハサミ。

 かち、とカバーが外れる音は、想像より軽い。刃が蛍光灯の線を細くはね返した。


 「……ねぇ、ユウマ。あたしね、人の“心拍”を止める方法、知ってるんだ」


 知っているだろう。前胸部の圧迫、頸動脈洞反射、迷走神経の引き金、薬剤。方法はいくつもある。

 今ミサキが言ってるのは、そのどれでもなくて——“触る”ことの暴力。


 「心臓の外側を、優しく押すだけでいいの。ね、怖い? ……怖がって?」


 怖い。でも、その前に痛い。言葉が刃物より深く刺さる。


 「そんなに、アスミがいいんだ。あの子の冷たい目と、綺麗な声と、理屈ばっかの口。

  ユウマは、ああいう女が好きなんだ。 “観測者”とか“干渉者”とか言い訳して、結局、抱いたんでしょ?

  あの子の心拍、測った?」


 沈黙。

 沈黙はまた罪になる。

 ミサキの刃先が、今度は言葉の先端に見える。


 「……ねぇ、教えてよ。あたしの手の中のこのハサミ、どこを切れば、痛みが同じくらいになる?」


 「……そんなこと言うな」


 「言ってる間に、誰かが代わりに切るの。——ほら、今のあたしの顔、怖いでしょ? 

  それでもまだ、好きって言える?」


 笑顔が戻る。壊れたままの笑顔。

 このままでは、言葉がどこにも届かない。そう判断したとき——


 「やめなさい、ミサキ」


 アスミ。ドアが音をたてずに閉まる。正対。視線の高さは俺より2センチ低い。

 けれど、実験台の縁に指先を置くだけで、部屋の重心は移動した。


 空気は張り詰める。ミサキの瞳の表面張力が、音を立てて崩れる。


 「……来たんだ、アスミちゃん。いいよ、はっきり言って。——昨日、何があったか」


 「……何もしてない。でも、“一緒にいた”のは事実。それを隠したのは、私のミス。……その、ごめん」


 「ふぅん。一緒にいたのに、何もしてない。それ、一番性質悪い言い訳だよ?」


 ミサキが一歩踏む。アスミは下がらない。

 まるで対消滅の実験みたいに、二人の視線が重なり、互いの輪郭を焦がす。


 「あなた、ユウマを救えるの?」


 「救うつもりはない。ただ、“隣にいる”だけ」


 「——嘘。そんな顔で言えるわけない」


 アスミの横顔に、揺れはある。けれど崩壊はない。

 ミサキが俺の方へ顎で示す。


 「……ねぇ、ユウマ。見て。あの子の目、光ってる。

  あれ、あなたを観測してる目。あたしは、愛してる目」


 息を吸う音が震える。ハサミが指から滑り落ち、金属音が床に響く。

 刃が床の目地を浅く削り、細い銀の粉が舞う。


 「……ねぇ。どうして、あたしじゃ、だめだったの」


 彼女の声帯が、初めて“震え”を帯びた。言葉が線から面になり、重量が出る。

 涙が頬の軌道に沿って落ちる。アスミは唇を噛んで、言葉を失う。

 僕はまだ動けない。動けば、どちらかを切り捨てる動きになる気がした。


 ——その瞬間。ミサキは微笑んだ。泣きながら、微笑んだ。

 その笑顔は、諦めではなく、苦しい自己修復の笑顔。


 「……ごめん。泣きたかったのは、たぶん、あたしの方」


 白衣は彼女の手から静かに降り、俺の机に置かれる。体温の残った布が、わずかに蒸気を立てる。


 「少し、離れるね」


 出ていく足音は静かで、でも踵が床に触れる角度で、感情の残渣を置いていく。

 ドアが閉まったあと、蛍光灯のフリッカーだけが、上から小さく降りてくる。


 アスミが息を整え、呟く。


 「……私、彼女を傷つけたのかな」


 「違う。僕だ。僕が、どっちも守れなかった」


 「……じゃあ、これから守って。あの子も、私も。“観測”じゃなくて、“選択”で」


 選ぶ。

 世界線の分岐を、自分の足で踏み分ける。

 観測は安全だ。選択は痛む。——それでも。


 「……選ぶ」


 言葉にして、初めて内部の抵抗がほどける。

 僕は床のハサミを拾い上げる。まだ温い。握ると、指に刃の薄さが伝わる。

 無力な安全装置に、カバーを戻す。音は、さっきより確かだ。


 アスミがこちらに近づく。肩が触れない距離で止まり、まっすぐ言う。


 「ユウマ。彼女に“全部話す”の、あなたの役目。曖昧にせずに。

  私は彼女の“痛み”を否定しない。あなたも、否定しないで」


 「……わかってる。今日の夜、話しに行く」


 「行かないで」


 「え?」


 「今日は、行かないで。あなたが揺れてる状態で行くの、彼女を二度刺す。

  ——明日にして。今日のあなたは、“選ぶ”のを体に覚えさせる日」


 沈黙。

 正しさはいつも痛い。

 でも、痛さを抱く覚悟がないと、正しさは残酷になる。


 「……明日、話す。今日、決める」


 「うん」


 アスミは、床に落ちた水滴をハンカチで拭う。ケミカルな匂いが薄れていく。

 彼女は白衣を整えて机の角にかけ直し、残った脈拍計を丁寧に閉じた。


 「ねぇ、ユウマ。ひとつだけ、お願い。今ここで、“誰かを選んだ”って言わなくていい。

  だけど、“誰も選ばない”って言葉だけは、やめて」


 「……言わない。言い飽きた」


 「なら、十分」


 蛍光灯のスイッチに手が伸びる。

 「消すよ」


 「待って」


 僕はもう一度ハサミを握り直し、カバーの上から、静かに机の引き出しへ入れた。音が小さく閉じる。


 「これは、ぼくの“観測”の象徴みたいなものだ。今日は、引き出しにしまう。“選択”で話す」


 アスミは微笑まない。ただ、頷いた。

 カチン、と灯りが消える。

 暗闇に目が慣れる前、彼女の声だけが先に辿り着く。


 「——明日。彼女に、“ありがとう”って言って。“ごめん”より先に」


 「……ああ」


 廊下に出る。夕方と夜の境界は、物理的には薄明。心理的には崖。

 僕は、その縁に足を置いたまま、深呼吸をする。


 迷走神経、上がれ。

 罪悪感、逃げるな。

 選べ。

 守れ。

 どちらも。


 ——夜はまだ長い。

 僕は引き出しにしまったハサミの重さを、手のひらの記憶で測り直しながら、明日の言葉を準備する。

 観測ではなく、選択で。

 安全ではなく、責任で。

 そして、傷ではなく、縫合で。




 翌日——夜十時二十三分。

 湿度86%、南南東の微風1.8m/s。街灯の傘にまとわりつく微細な水霧が、光学的にはティンダル散乱で縁どられていた。

 ポアソン過程というより、焦りで乱れた洞房結節の拍動に近い。

 窓を見下ろすとミサキが外でしゃがんで待っていた。


 制服の襟は雨粒で濃度が変わり、傘はない。

 髪の先に水滴が三つ、ニーソの白の上に落ちて、点のグラデーションを作っていた。

 末梢血管が収縮しているのか、唇は少し青い。


 「……こんばんは、ユウマ」


 声は柔らかい。柔らかすぎる。昼間、実験室で彼女が見せた鋭さを、そのままガーゼで包んで押し殺したみたいな音色。


 「歩いてたら……ここに着いちゃった。ねぇ、今夜だけ、ここにいさせて」


 上目遣い。僕は、その視線に弱い。拒めない理由がある。 

 幼い夜に泣きじゃくる彼女の手を握って、朝まで離さなかった掌記憶——体性感覚のどこかに、まだ常在している。


 「……入れ。風邪ひくぞ」


 玄関をくぐる瞬間、白いニーソが灯りを拾ってやけに眩しく見えた。

 濡れている。毛細管現象で繊維の奥まで水が上がり、境界の色が濃くなるあの感じ。


 「手、貸して」


 タオルで手を包む。皮温が低い。俺は湯を沸かしながら、彼女にバスタオル、俺のパーカー、ドライヤーを並べた。

 いつもの“迷走神経リセット・キット”も、無言でテーブルに出す。

 角砂糖3g×2、常温の水、ピンクノイズの小型スピーカー。

 彼女はそれを見て、少しだけ息を吐いた。覚えのある手順が、安心の枠をつくる。


 「……ありがと。優しいね」


 「優しいというより、まず温める。糖、入れる。音、整える」


 「ね、そういう理屈で包むとこ、ずるい」


 笑う。けど、眼差しの奥のノイズは消えない。

 彼女は白衣をゆっくり脱ぎ、丁寧に畳んでソファの背に掛けた。

 制服に戻った肩が、雨で少しだけ重い。

 パーカーを差し出すと、ためらいがちに袖を通し、胸のあたりでジッパーを止める。


 「似合う」


 「……今、その言葉、効く」


 顔を背け、髪先から水がこぼれる。タオルでそっと受け止めると、彼女は自ら椅子に腰を下ろした。


 「乾かすよ。温度、熱かったら言え」


 ドライヤーの音は、1/fゆらぎに近い帯域で部屋を満たす。 

 茶色い髪は濡れた羽根のように肩に貼りついていて、温風でほどけるたび、ふわりと香りが立つ。

 彼女の肩甲骨のあたりにわずかな緊張がある。僕はドライヤーを少し離し、手ぐしでテンポを落とす。

 呼吸が合う。4秒吸って、7秒止めて、8秒吐く。

 ミサキは、意図を察したように同じリズムに乗った。胸郭の上下がゆっくり同期する。


 「……ね、落ち着いた?」


 「うん。ユウマの“説明”って、薬効ある」


 ドライが終わると、彼女は振り返らず、少しの間黙った。沈黙は不安ではなく、選ぶための待ち時間だった。


 「……聞いて。ずっと言いそびれてたこと。わたし、NOXでは“オーロラ”だった。

  タナトスの観測の外側、夜の光をつないで、データを磨いて、ユウマの“死と記録”を見守るのが仕事だった。

  でもアスミちゃんが来てから、私の役目が外部化された感覚があるの。

  まるで、気にも留めない広告みたいに、私の存在が費用対効果の欄に消えた」


 比喩が生々しい。彼女は自分の価値を“役割”で換算する癖がある。

 僕は彼女の指に、自分の指を軽く添えた。脈拍は速いが律動は保たれている。

 RMSSD低め。交感優位。——数字に変換してしまう自分に苦笑いしながら、言葉は変換せずに選ぶ。


 「ミサキ。お前は外側じゃない。俺の“内側にある外側”だ」


 「なにそれ」


 「境界面。接するほど目立たないけど、ないと形が崩れるところ」


 「……ずるい。そう言われると、泣けない」


 彼女は笑って、すぐ目を伏せた。笑いと伏し目の間で、唇が震えた。


 「怖かった。アスミちゃんに“視界”奪われるのがじゃない。

  “ユウマの脈の意味”が私の知らない別の意味に書き換わるのが。

  昨日わかった。もう書き換わってる。ユウマの基準心拍、私じゃない」


 言い切って、彼女は自分の手を俺の胸に置いた。指先は冷たいけど、触れ方はやさしい。

 胸骨の裏側で、自己意識が一瞬ためらう。この距離は、言葉より先に真実を運ぶ。


 「でもさ、心臓って二つの電位がぶつかって動くんだよ。

  ペースメーカー細胞同士の位相差がゼロに近づくと、同期する。片方だけが死んだら、もう動かない。

  だから今日だけ——“同じ鼓動”を探しに来た」


 懇願。祈り。僕の中の“優しさの擬態”がうずく。線を引くべきか、抱くべきか。

 どっちつかずの僕は、正直に告げることでしか、誰も守れない。


 「……ミサキ。今夜だけ、ここにいろ。抱きしめる。けど、“越えない”」


 彼女はわずかに肩を震わせ、うなずく。安堵と悔しさの両方を受け止めるみたいな仕草。


 「……ね、今夜だけ、恋人“みたいに”扱って。明日は、患者でも幼馴染でも何でもいいから」


 「みたいに、は得意だ」


 「知ってる。だから好き」


 まっすぐな言葉は、刃より鈍く、重く入る。


 僕はキッチンへ行き、彼女のマグ(“MISAKI”のラベル)に白湯と蜂蜜を落とした。

 プリンの在庫から角砂糖をひとつ。糖3g。彼女は受け取って、両手で包む。

 パーカーの袖が長くて手が隠れる。危険な可愛さだ。


 「これ飲んだら、データ取って。手短に。HRV 5分、SpO₂、呼吸数。——“二人で”」


 「二人で、ね」


 ソファに並んで座り、指先オキシメータを交互につける。

 安物だけど、相対値には十分。

 ピンクノイズを薄く流し、照明を1段落とす。画面の数字が、二人分の小さな海のように上下する。


 「Kuramotoモデルって知ってる?」


 「振動子の同期のやつでしょ。自然周波数の異なる個体が結合強度Kで相互引き込みを起こす」


 「それ。今の僕たちは、Kをゆっくり上げていく実験。触れ方、視線、呼吸。位相差θがゼロに寄るかどうかをただ観る」


 「……ね、そういう言い換え、ほんと卑怯だよ」


 卑怯でいい。説明は魔法だ。無力な優しさでも、境界を守る硬さになる。


 僕は彼女の肩を引き寄せ、頭を自分の肩に預けさせた。重さは羽。体温は確か。呼気に蜂蜜の匂い。

 彼女の指が、俺の手の甲をそっと探り当て、絡んだ。握力は弱いけれど、離す気はない力。


 「……ユウマ」


 「ん」


 「正直に言って。今、アスミちゃんのこと、好き?」


 逃げない。今夜は、逃げないと決めた。


 「——好きだ。人として。研究者として。俺の“残滓”を言語化してくれる唯一の相手として」


 彼女の指がピクリと動く。痛い。でも、もうひとつ重ねる。


 「でも、ミサキ。お前は俺の“日常の最短経路”だ。帰る場所。

  倒れ方を知ってるソファみたいな存在。無くしたら、僕は立て直し方を忘れる」


 しばらくの静寂。ピンクノイズの膜の上を、彼女の笑いが小さく滑った。


 「……最短経路、って言い方、初めて好きになれた」


 「“一番”と言い切る勇気が今の僕にはない。どっちつかずで、ほんと悪い。

  だけど、無風じゃない誠実さだけは、持ってたい」


 「ずるい。でも、嘘より100倍好き」


 彼女は僕の手をもう一度握り直し、言った。


 「じゃ、約束して。三つ。

  ① 今夜、私が“止めて”って言ったら即停止。合図は『氷砂糖』。

  ② 明日の朝、私のことを“オーロラ”じゃなく“ミサキ”と呼ぶ。

  ③ 今日のこと、“何もなかった”とは言わない」


 「約束する」


 「——好き」


 唐突で、破壊的に優しい。僕はただ、彼女の髪に手を置いた。

 撫でる。速度は遅く、圧は軽く。これで迷走神経は上がる。科学は、恋に使える。


 「ね、“恋人みたい”って、こう?」


 彼女が身体を寄せてくる。僕の胸に頬が当たる。鼓動が、皮膚接触で伝導する。

 二つの拍が、少しずつ寄っていく感覚。Kuramotoのθが縮む。呼吸がそろい、HRVがわずかに増える。

 僕は画面を見ない。見たら、言葉になる。今は、言葉じゃなくていい。


 「ユウマ。あのね、わたし、アスミちゃんみたいに賢くも綺麗でもない。

  嫉妬深くて、こじれてて、昼は刃物みたいなこと言っちゃう。

  でも、ユウマの一部になりたい。観測される側でも、いい。

  ——消えたくないの」


 「消えない。俺が忘れない。忘れるプロトコルを、最初から破棄しておく」


 「プロトコル破棄ね。わかった」


 彼女の声は、さっきより温かい。僕はテーブルの角砂糖をひとつ持ち上げて、彼女の掌に置いた。


 「糖追加。『氷砂糖』——合図の練習」


 「ふふ、練習で出すのずるい」


 笑って、角砂糖を舌で転がす。ショ糖の甘さが空気を変える。彼女の肩の力が、また少し抜けた。


 「……ね、ひとつお願い。“今夜だけ、恋人みたいな写真、撮っていい?”」


 「証跡、か」


 「うん。私の中の“なかったことにされる恐怖”を、上書きしたい」


 僕はスマホを自撮りモードにして、照明をさらに一段落とす。

 画面の中、パーカーのフードを少し被ったミサキが、俺の肩にもたれて微笑む。

 後ろに白衣。前に二人のマグ。手は、重なっている。シャッター音は小さく、でも確かに鳴った。


 「保存。ラベルは?」


 「“同調エントレインメント01”。タグ:#氷砂糖 #最短経路 #観測外」


 「過剰に理系」


 「君が好きなやつで補正かけてる」


 そのあと、俺たちは横になった。彼女はソファ、俺はラグに寝袋。距離は1.2m。

 危険域だが、守れる距離。ソファから伸びてくる指先を、俺は寝袋の縁で受け止める。手だけは、つないだまま。


 「ね、ユウマ。いびき、かく?」


 「計測上、かかない」


 「安心。じゃあ、今度は寝る前の確認三つ。

 ① 明日の朝、ちゃんと“おはよう”って言って。

 ② 今日は“ありがとう”って言われたい。

 ③ それから——“好き”って、もう一回」


 欲張りだ。けど、欲張っていい夜だ。


 「おはよう、の練習——おやすみ。

  ありがとう、ミサキ。来てくれて。

  ——好きだ」


 彼女は手をぎゅっと握って、小さく「ずるい」とだけ言った。それは、赦しの言い換えに聞こえた。


 ピンクノイズが、雨のない夜に雨の気配を混ぜる。秒針が1Hzで進む。

 スマホは伏せた。通知は切った。Kuramotoのθは、ゼロに近い。


 目を閉じる直前、ミサキが囁いた。


 「次に呼ぶときも、“ミサキ”って呼んで。オーロラは、仕事の私だから」


 「了解。呼ぶ。何度でも」


 「……ありがと」


 白衣も、昼のハサミも、ソファの背で静かに眠る。

 心拍は、同じリズムで。

 ただし、どちらの鼓動が先に夜明けを聞くのかは、誰にもわからない。


 ——そして、僕は思う。

 どっちつかずのまま優しくするのは、たぶん罪だ。

 でも今夜だけは、罪で世界を守る夜があってもいい。

 境界を守り、手を離さず、眠る。

 “救い”の定義は、明日の朝、もう一度更新すればいい。


 もしも“優しさ”という言葉に単位があるなら、

 僕のそれは、いつだって単位未定義のままだ。

 どっちも傷つけたくない——そう思って、

 結局、どっちの傷も深くしてきた。


 だけど、ミサキが言ったんだ。

 「心臓って二つの電位がぶつかって動く」って。

 誰かとぶつかることでしか、鼓動は意味を持たない。

 なら、僕たちは壊れてもいい。

 正しさの代わりに、同じ拍で呼吸できるなら。


 あの夜の“氷砂糖”は、甘くて、少しだけ苦かった。

 ——そして今もまだ、口の中で溶けきらないままだ。


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