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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
残響達の午後編

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35/94

EP35. 雨宿りとスペシメン

  ——観測と干渉は両立しない。

 教科書の一行で片づけられる真理なのに、今日はずっと脚が勝手に干渉側へ傾いていた。


 正門のベンチで、アスミは待っていた。

 どこか、緊張の温度。

 「標本採集」と言えば心は安全圏に居座れるのに、「デート」と呟いた瞬間に統計の外へ弾き出される。

 そんな脆いバランスの午後一時。


 今日くらいは、せめて誰か一人の手を離さない。

 観測臨界を越えた先で、手触りのある世界を確かめたい。


 ——午後一時。

 天城総合学園、正門前。


 春の陽射しがアスファルトに溶け、街の空気を金色に染めていた。

 待ち合わせ場所のベンチには——アスミがいた。


 制服のネクタイを結び直す姿。

 それが“気合い”だと気づくのに、時間はかからなかった。


 「……ユウマ。遅刻、±0秒ね。さすが」

 「観測誤差は許されないタイプだからな」


 冗談めかして言うと、アスミがわずかに笑った。

 けれどその笑顔の奥に、どこか緊張が残っている。


 「……出発前に確認。ミサキから、まだ監視信号、届いてる?」

 「……うん。GPS共有ON。心拍ログ自動送信。

  “観測恋愛安全保障協定”だってさ」

 「協定て……国家レベルの監視じゃん!!」

 「彼女、そういうタイプだから……」


 ふたり同時に溜め息を吐いた。


 画面には、ミサキからの新着メッセージが並ぶ。


 ミサキ:「出発確認。安全第一。ユウマ、脈拍安定してる?♡」

 ミサキ:「あとアスミちゃん、変なフェロモン出さないでね♡」

 ミサキ:「帰ってきたら“手首の色”チェックするから」


 ……怖い。

 優しい言葉に刃が混じっている。

 俺たちは、暗黙のうちにスマホを同時にポケットへしまった。



 展示フロアにはクラシックが流れ、観客の足音が床に吸い込まれていく。

 空調22℃、湿度55%。

 だが僕の心拍は、それを超えていた。


 隣を歩くアスミ。

 彼女は、ただ立っているだけで絵画の一部みたいだった。


 「ねえ、ユウマ。最初の展示、《印象・日の出》——モネのやつ。

  あれ、知ってる?」


 「もちろん。印象派の原点だろ」


 彼女は絵の前で足を止め、指先を顎に添える。

 説明パネルの文字より、光の粒を見つめるように。


 「モネって、“朝の光”を描いたんじゃなくて、“目が覚める瞬間”を描いたの。

  網膜に残る残像、温度、時間の濃度。

  つまり、“観測者の内部”を絵にした最初の人」


 声は静かで、でも芯がある。

 周囲の観客がいなくなるほど、空間が彼女の説明で埋まっていく。


 「——“記録”じゃなくて、“再生”。それが芸術の根本だと思う」


 そう言って、こちらを見る。

 瞳の中に、絵と僕が同時に映っていた。


 「……なんか、アスミが話すと、絵より説得力あるな」

 「褒めても何も出ない」

 「いや、もう充分出てる。存在感とか」

 「存在感を単位で語らないの」

 「でも、もし僕がモネだったら、確実に君を描いてた」


 「っ!? ——な、何言って……!」

 耳まで一瞬で赤くなる。

 「そ、そういうの、展示室で言わないのっ! 音響反射率、高いんだから!」

 「つまり残響するってこと?」

 「だからその理系変換やめてぇぇぇっ!」


 周囲の空気が一瞬ゆるみ、アスミは慌てて咳払い。

 「と、とにかく! 次の作品に行こ!」



 次の部屋。

 《記憶の固執》――サルバドール・ダリ。

 溶けた時計が砂漠の上で時間を捨てていた。


 「ダリは“時間”を嫌った人。

  観測って、時間を固定するでしょ? でもダリは、流れる時間そのものを形にした。

  ……ちょっと、ユウマに似てるかも」


 「俺が? 時間を溶かしてるタイプ?」

 「ううん、“固定しない観測者”」

 その言葉の響きが、どこか優しかった。


 「でも……溶ける時間って、怖くない?」

 「怖いけど、美しい。……だって、“ずっと一緒にいられる”って錯覚をくれるから」


 言ってから気づいたらしく、アスミの肩がピクリと跳ねた。

 「い、今のは違う意味でっ」

 「うん、違う意味ね」

 「確認するなぁぁぁぁ!!」


 僕は笑いをこらえきれず、彼女の横顔を盗み見た。

 頬が、ダリの夕焼けみたいに紅い。



 三つ目の展示室。

 鏡を使った現代アート。

 巨大な円形の鏡面が壁一面に設置され、観客自身が作品に映り込む仕組み。


 アスミが立ち止まる。

 彼女のシルエットが幾重にも反射して、空間が彼女で満たされた。


 「……これ、すごいね」

 「“観測者が観測される”作品。タイトル《誰が見ている?》」

  

 僕は、どことなくりうの存在を思い浮かべてしまった。


 僕は彼女の隣に立つ。

 鏡の中、二人分の姿。

 距離20センチ。反射の中では、たった5。


 「……なんか、近いね」

 「鏡の歪み。焦点距離が短い」

 「理屈で逃げるな」

 「な、逃げてない!」

 「ほら、目合わせてみ」


 彼女がほんの少しだけ顔を上げた瞬間、視線が重なった。

 鏡の中の僕らは、まるで手を伸ばせば触れ合いそうな距離にいた。


 アスミが小さく息を飲む。

 声を落とすように言った。


 「……こうやって見ると、私、“観測される側”になるの苦手かも」

 「なら、僕が代わりに観測する」

 「それ、余計にダメ……」


 彼女の肩が震え、笑いが混じる。

 その横顔に、僕もつられて笑ってしまった。



 展示を一巡し、カフェスペースへ。

 白いテーブルに、ティーセットとチーズケーキ。

 窓の外には、青空。……だったはずなのに。


 パラリ。

 ポツリ。


 雨が落ち始めた。

 気づけば雲は鉛色。外の音がどんどん強くなっていく。


 「え、嘘でしょ……?」

 アスミがスマホを開く。

 「“豪雨警報・運転見合わせ”……」

 「……テンプレだな」

 「なにそれ……フラグ管理しなさいよっ!」


 ガラス越しに雷光が走る。

 カフェの客がざわつく。

 その中で、僕らだけ取り残されたような静寂が落ちた。


 「……どうする?」

 「電車は止まってる。バスもたぶんダメ。タクシー呼んでも多分、渋滞」

 「……つまり?」

 「つまり……」


 アスミの唇が小さく震えた。

 僕の心臓が跳ねた。

 雨音よりも早く、内部の鼓動が聞こえる気がする。


 「……僕の部屋、近いけど」

 「っ!! ……その言い方ぁぁ!!!」

 「いや、言い方っていうか、事実で」

 「事実が一番危険なのよ!!!」


 テーブルの下、アスミの足先が小さく震えている。

 でも、それは恐怖じゃなくて、たぶん期待と緊張の混ざった震えだ。彼女の頬はほんの少し笑っていた。



 外に出る。

 傘は一つ。黒。

 自然と、二人で肩を寄せる形になる。


 夜の街は、街灯の光が雨粒を反射して、無数の白い線を描いていた。

 アスミの髪が肩に触れ、シャンプーの香りが微かに混ざる。


 「……この距離、近すぎない?」

 「傘の半径、有限だから」

 「物理で誤魔化さないの」

 「観測的には、これが最適解」

 「観測じゃなくて恋愛って言いなさいよ……バカ」

 小さく呟いた最後の一言は、雨音にかき消された。


 僕の脳は急速に計算を始める。

 (※ユウマ・脳内演算:確率的に誤解を生む単語を避け、ここは慎重な発言を要す)


 「いや、まあ……その……僕の家、近いけど……電車も運転してないんなら……泊まってく?」

 「っ!? ま、待って、今のこの流れはつまり“泊めてくれる”っていう前提の発話……?」

 「いや、違う違う、別にやましい意味は——」

 「い、意味は!? え、やましくないって強調した時点で逆に怪しいでしょ!?!」


 アスミの声が跳ねる。

 冷静な彼女が、今は完全に混線していた。


 「そ、そもそも! 女子を一人で帰らせないっていう倫理的判断は正しいけど! でも! でもでもっ!」

 「落ち着けアスミ主任」

 「主任は関係ない!!」

 彼女は両手で頬を押さえた。


 「……心拍、ヤバい……」

 「計測する?」

 「しない!!!」


 そこに落雷と更に強まる雨……。

 「……これ、もう完全に帰れないな」

 「うううう……観測史上最大の困惑中……!」



 僕の部屋。

 1LDK。本棚とモニターと研究資料と、観測機材の数々。

 アスミは玄関で立ち尽くしていた。


 部屋に着いたころには、二人ともびしょ濡れだった。

 アスミのスカートの裾から雫が落ちて、床に小さな水紋を作る。


 「……え、まじで入るの……?」

 「他にどこ泊まるの?制服もずぶ濡れだしさ」

 「……データの整理が終わるまでってことで」

 「そういうことにしとこう」


 「その……お邪魔します……」

 アスミは靴を脱ぎ、部屋に入った瞬間——


 「うわ、ひどい!ひどすぎる!……これは、理系男子の巣……!」

 彼女の第一声。

 「コンセントが“観測点”って書かれてるし、冷蔵庫に“試料プリン”ってラベル貼ってあるし!」

 「分類は大事」

 「このラベル管理、私のラボより厳密……!」


 呆れ半分、笑い半分。

 でも、その笑いに救われる。



 「とりあえず、シャワー使っていいよ」

 「……っ!? し、シャワーって……! なに、いきなり言ってんのよ!」

 「いや、普通に……服も濡れてるし」

 「服が濡れてるのは確かにそうだけど……でもその提案は乙女の心拍を破壊するからね!?」

 「乙女」

 「言うな!!」


 言葉とは裏腹に、アスミの頬は真っ赤だった。

 結局、タオルを渡して僕は別室に引っ込んだ。



 シャワー音。

 水が流れるリズムに、妙な静けさが混ざる。

 彼女はフラッシュバックに弱い。——水の音は、トリガーにもなる。


 心配でノックしようとしたその瞬間。


 「ユウマ!? シャンプーの種類が多すぎるんだけど!? “思考再起動用”って何!?」

 「香りで気分を変えるやつ!」

 「どんな理屈だそれ!!!」

 「“再起動用”と“幸福感ブースト”って、分類が理系の狂気なんだけど……。あと、覗かないで!」

 「あっ……ごめん!」


 笑い声が混じる。安堵する。



 湯気の音、カップの湯、雨のリズム。

 外の嵐とは裏腹に、室内は静かだった。しかし……。


 「……ゆ、ユウマっ」

 声がして、振り向いた。


 そこには、僕のTシャツを着たアスミがいた。

 肩が少し余って、裾が太ももまで届いている。

 髪は濡れたままタオルで押さえられ、頬が火照って赤い。


 「……なんか、ごめん。服、これしか乾いてなくて」

 「うん……」

 声が出ない。脳がフリーズする。


 「こ、これ、サイズが……大きいから……肩ずり落ちるのよ!これは衣服の設計上の誤差であって、別に……っ!」

 「うん、誤差……誤差すごい可愛い」

 「言葉の使い方間違ってる!!」


 アスミは慌てて袖を引き上げ、裾を押さえ、頬をさらに赤くする。

 「ま、間違っても見ないでよ!? ほら、視線の干渉は禁止!」

 「でも僕、観測者だから」

 「今だけ観測者権限剥奪っ!!!」


 手に持ったタオルを僕の顔に投げつけてきた。

 ふわっと石鹸の匂いがする。

 柑橘とシャンプーの中間みたいな香り。


 「……っ」

 その匂いが、部屋の空気を一瞬で塗り替えた。

 アスミはタオルを拾い上げて、そっぽを向く。


 「……ほら、乾かして」

 「え?」

 「髪。……ドライヤー、片手じゃやりにくいから」

  言いながらも、声が少し震えている。


 僕は黙って頷き、ドライヤーを手に取った。

 アスミはソファに座って、背を向ける。

 黒髪が、濡れた羽根みたいに肩に張りついている。


 「……温度、熱くない?」

 「平気。……ていうか、心臓の方が熱い」

 「なに?」

 「何でもないっ!!!」


 髪を乾かす風の音だけが部屋に流れる。

 そのあいだ、彼女は小さく身をすくめながら、でも逃げようとはしなかった。


 乾ききった髪がふわりと揺れたとき、アスミが振り返る。

 目が合う。近い。


 「……ありがとう」

 「どういたしまして」

 「観測者、戻していい」

 「再承認、了解」


 言葉のテンポが元に戻る。

 でも、空気はもう“普通”じゃなかった。



 しばらくして、アスミが毛布を肩に掛けながら言った。

 「ユウマ、これ……借りていい?」

 「いいよ。似合ってるし」

 「っ……そういうの、簡単に言うなぁぁぁ!」

 毛布で顔まで隠しながら、彼女はソファに沈んだ。



 夜。

 リビングに二人。

 僕は床に寝袋、アスミはソファに毛布。

 距離、1.4メートル。統計的に危険域。


 「……眠れない」

 「やっぱり、緊張?」

 「違う。……ユウマの心拍が近くて、変な意味じゃなくて落ち着かない」

 「変な意味じゃない、ね」

 「言葉尻拾うな!!」


 照れながら毛布を被るアスミ。

 天井の照明がゆっくり暗転していく。


 「……あのね」

 彼女の声が、毛布越しに落ちてくる。

 「今日、楽しかった」

 「僕も」


 少し間を置いて、アスミが小さく言った。

 「ねえ……また、行こう?」


 返事をする代わりに、僕は手を伸ばして、そっと彼女の手の上に自分の手を重ねた。

 彼女は一瞬だけ息を呑み、でも引かない。


 「観測と干渉、両立実験」

 「今日は成功」


 毛布の中で、笑い合う。

 それだけで、夜がやわらかく光を持った。


 ——これが、僕たちの“泊まり実験”の初回ログだ。

 有意差は、たぶん∞。




 ——朝の光が、まるで何かの観測データみたいにゆっくりとカーテンの隙間を這っていた。

 オレンジと白のグラデーション。

 空気は静かで、時計の秒針の音が世界の唯一のリズムになっている。


 目を開けると、視界の先に――アスミがいた。


 ソファの上。

 毛布にくるまって、寝息がリズムを刻む。

 いつものクールな研究者の顔はどこにもなくて、ただ“女の子”だった。

 頬に落ちた前髪。唇のわずかな動き。

 僕の心拍数は、計測したくないレベルで跳ね上がる。


 「……すごい。RT60(残響時間)より心拍回復時間の方が長い……」


 ぼそっと独り言が漏れた瞬間、アスミが小さく眉を動かした。


 「ん……ユウマ……主任……」


 寝言だった。

 寝言で肩書きを混ぜるな。夢の中でもラボか。


 ——が、次の瞬間。


 「……主任の許可なく……寝袋で……距離1.4mは……倫理違反……」


 寝言のくせに妙にリアルなクレームだ。

 僕は思わず苦笑して、静かに立ち上がった。

 台所で湯を沸かし、プリンの残りと角砂糖をテーブルに並べる。



 お湯の音。

 目覚めたアスミが、ぼんやりしたまま毛布の中から顔を出した。


 「……ここ、どこ……って、あっ、ユウマの部屋……っ!」


 一瞬で覚醒。

 そして赤面フルスロットル。


 「ま、待って待って!! なんで私ソファ!? なんでユウマエプロン!? なにこの朝食!?!?」

 「いや普通に朝ごはんだけど」

 「普通にって何!? これどう見ても“同棲の朝”の絵面でしょ!!」

 「観測上はただの実験延長です」

 「延長でこの甘さ!?!?」


 混乱の極みのアスミ。

 髪が少し乱れていて、それがまた危険なほど可愛い。

 本人はまったく自覚していないらしいが。


 「落ち着け。ほら、コーヒー。糖分足りてないだろ」

 「糖分とか問題じゃなくて……って、あ、いい香り……」


 一口飲んだ瞬間、肩から力が抜けていった。

 やっぱり現象学的に“カフェインは心の安定剤”らしい。


 「……ありがと」

 小さく呟いて、マグを両手で包む。

 カップの縁越しに見える目は、いつもの研究者の冷たさじゃなくて、やわらかかった。


 「……昨日のこと、夢みたいだね」

 「夢でもデータは残る」

 「そういうとこが好き、って言ったら統計に入る?」

 「……どんな統計?」


 危険な言葉を軽く笑って流す。

 でも胸のどこかで、データでは処理できない“なにか”が確かに動いた。



 「……あのね」

 アスミが、マグを置いてこちらを見た。

 視線の温度がいつもより高い。


 「昨日、“泊まる”って決めたとき、ちょっと自分を試した」

 「試す?」

 「うん。私がどれだけ“ユウマといたい”のか、ちゃんと自分で確認したかった」


 心臓が跳ねる。

 アスミは照れ隠しのように続けた。


 「で、結果。観測値が予想の三倍。誤差じゃ説明できない。……つまり」

 「つまり?」

 「その……好き、なんだと思う」


 言った瞬間、両手で顔を覆った。

 その耳まで真っ赤になっていくのが見える。


 僕は、笑うしかなかった。

 でも、ちゃんと答えた。


 「僕も。観測者としてじゃなくて、人として、アスミが好きだ」


 「——っ!!」

 アスミは毛布の中に潜り込んだ。

 完全に消えた。

 小さな声だけが毛布越しに聞こえる。


 「観測中止……データ過多……心拍、上限突破……」


 しばらくして、毛布の端から黒髪だけがのぞいた。

 「……顔、見たら、死ぬ」

 「死なない。むしろ生きる」

 「うるさいっ!」



 少し時間が経って、ようやく毛布の中から出てきたアスミは、まだ顔が赤いまま、頬を膨らませて言った。


 「……ねえ、今日さ、午後からまた“標本採集”しない?」

 「デートの続き?」

 「ち、違うっ! “相関実験第二回”!」

 「はいはい」

 「笑うなぁぁぁ!!」


 結局、アスミはプリンをもうひとつ食べ、靴を履きながら小声で言った。


 「……昨晩の泊まり、観測史上、最高値」

 「何の単位?」

 「教えない」


 ドアの向こう、朝の光が白く広がっていた。

 アスミの背中が小さく手を振り、角を曲がって消える。


 僕は、テーブルの上のマグを見つめる。

 唇の跡がほんの少しだけ残っていた。



 次の観測は、きっと、過酷になる。

 この世界のどの実験よりも。


 朝の光は、どの展示よりも正直だった。

 毛布の山からのぞく黒髪、寝言の「主任」、そしてマグの縁の淡い跡。

 あの小さな記号たちは、統計処理できないのに、僕の現実を確定させる。


 「夢でもデータは残る」と言ったのは僕だ。

 けれど今日残ったのは、波形じゃなくて、体温と笑いのだった。

 アスミの「好き」は、残滓じゃない。これから増殖していく“前処理”だ。

 そして、ミサキの「壊れそう」は、僕の曖昧さが作った系統誤差だ。


 選ぶことは、裏切ることに似ている。

 でも、選ばないことは、もっと静かに誰かを傷つける。

 僕はようやく、自分の“記録”に“方向”を与える必要があると認めた。


 次のNOXでの観測は、もっとも過酷で、同時に、もっとも痛くなる。

 それでも——黒い傘の下で学んだ通り、有限の半径のなかで守れるものは、思っていたより多い。


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