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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
W1観測記録編

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26/95

EP26.『矢那瀬アスミ=シュレディンガー 絶望は侵蝕』

 この記録は、私の痛みで現像した証拠写真だ。

 被写体はチイロ、撮影者は私、露光はW1。けれど目的は弔いじゃない。設計の破砕だ。

 読むあなたたちが、まだW2で息をしていると分かっているからこそ、ここに置く。

 これは“過去の出来事”ではない。今も同期して侵食してくる現行犯のログだ。


 •ユウマへ:ユウマの断片的記憶は、罰じゃない。

 系が私たちに残したバグ出力だ。

 NOXの「残滓理論」を干渉理論へ押し上げるため、私はここで等号の向きを揃えた。

 あなたの式に“痛み”を重みとして足して。痛みはノイズじゃない、結合強度Kだ。


 •ミサキへ:“生かされる倫理”は拒否する。

 生き延びる手順を上書きしよう。

 陽圧化、フェイルセーフ、善意課税の断線表——私はドラフトを持っている。

 ミサキの冷静さで臨床に耐える仕様へ。


 •ミナトへ:方程式は既に反転可能だ。

 J=α·t脱出 + β·D倫理 のβに動的補助項を入れて、善意コストを“支払える通貨”へ変換して。

 ミナトの残差は核だ。再構築の初期値にする。


 •レイカへ:声を、観測に負けない帯域で。

 舞台の照明は要らない。台詞は「手順」だけで成立する。

 レイカの独白は観客ゼロでも効果量が1を超える。それが現場を書き換える。


 •トウタへ:拍手SEを壊すリズム・ノイズを続けて。

 冗談は軽くない。規定値をずらす衝撃だ。

 トウタの笑いは裏切りで、裏切りはこの世界で合法の救助だ。


 •チイロへ:先輩の「感情で書くな。手順で書け」は、私の起動語のまま。

 ここから先は私が書く。

 正しさ=死 の等式は、今日ここで無効化処理に入る。


 ——この前書きは、起動キーだ。

 読み終えたら、それぞれの場所で一行ずつ上書きして。**“正しさ=生存手順”**の側へ。


  思い出したくなかった光景がある。

 ——チイロ。


 彼女は最後に、流れ着いた。

 救いではない。終わりでもない。

 “結果”というより“規定値”。設計の期待値どおりに、静かに、正確に。『倫理が強姦された』。


 濁流のあと、崩落した通路の奥。

 膝の高さの濁水、照明の残光。非常灯の緑は濁って黄緑、破断したケーブルからのオゾン臭が鼻腔の奥で痺れる。

 赤い泡が音もなく浮かび、髪は水にほどけ、一本一本が神経の軸索みたいにゆらめいていた。

 壁のFRPは爪でひっかくと粉を返し、粉は水で糊になって指先にまとわりつく。

 私の靴裏は吸い込まれるみたいに止まり、脛から下の温度が奪われていく。


 頬の皮膚は冷たい。

 けれど、わずかに“触感の残滓”を返した。

 死後硬直には早すぎる。たぶん、末梢の温存された張力が、ほんの短いタイムラグで指に返ってきただけ。

 観測をやめないセンサーのように。

 生ではないのに、測定だけが続いている——そんな矛盾が、私の皮膚温と心拍にまで写り込む。


 ——ここが観測の終点だ。

 どれだけ干渉しても、誰も救えない。

 惨劇は再現不可能。再現できないように作られている。


 私は膝をつき、水の冷たさに感覚を奪われた。皮膚温は下がるのに、頭皮だけが熱い。

 触れた指先が、彼女と現実の境界を見失う。

 “触れている”のか、“記録を触っている”のか、解像度が崩れる。

 その瞬間、重力が——人間という法則ごと——崩れた。


 どうして、ここまで正確に人を壊せるの。

 ——誰が、こんな設計を作ったの。

 問いは反響せず、水面の赤光だけが答えた。

 その反射が、私の皮膚を内側から撫でた。

 痛くもなく、優しくもない。

 ただ、「侵されている」と脳が理解した。


 それが、心の貞操を奪われる瞬間だった。

 誰にも触れられず、誰にも壊されず、

 ——信じる力だけが、泥に沈む。

 倫理の白い部屋へ、見えない泥水が逆流してくる感覚。

 錠前は壊れていないのに、扉の意味だけが溶けた。


 倫理が蹂躙され、祈りが汚され、信頼が削り取られた。

 美しさの定義が、加害の道具にされた。

 「助け合い」という言葉は、ここでは圧力損失の変数でしかない。


 正しさ=死。

 それがあの空間の支配方程式。

 “善性”を選ぶほど生存確率が下がるように、重みと導線が配置されていた。

 チイロは、その式どおりに正しかった。

 そして——正しく死んだ。


 生の方程式を守ったまま、滅びた。

 清潔に、醜く。

 ——それを見届けた私は、もう戻れない。


 ***


 ここで、私の中のチイロが立ち上がる。

 あの日までの記憶が、濁水の上に反射する字幕みたいに浮かぶ。


 昼休みの屋上、アルミの手すりにもたれた横顔。

 「仮説は、優しくあるほど厳しく検証しなさい」

 そう言って彼女は、私のレポートの余白を赤ではなく鉛筆で埋めた。消せる色で。

 「正しさは、演算結果じゃなくて手順の無事帰還」

 笑うと、左の犬歯が少しだけ覗く。風で前髪が跳ねると、その下の瞳の焦点はいつも“私より先”を見ていた。


 放課後の理科準備室、石鹸の匂い。

 緊急時の呼吸補助の手順を私の手首で教わる。

 「**4–7–8、ね。**深呼吸の合図。これが最後のロープになる」

 彼女の指は細いのに、骨と腱の位置がはっきり分かる強さだった。

 爪は短く、切り口がまっすぐ。

 『可愛い』より『整ってる』が似合う人。

 ——私が初めて、“対等以上に会話できた先輩”。


 W1のカタログを机に広げながら、私は軽口で言った。

 「嫌な匂いがする」

 彼女は短く頷いて、「嫌な計算もする」と返した。

 予感はあった。なのに止めなかった。止める術が、私にはなかった。

 それでも、あの人は当日まで倫理委員(IRB)の申請書を直し続けていた。

 “何かが起きた時の誰もが守れる手順”を、最後まで。


 ***


 現実の濁水が、字幕を破る。

 私はチイロの肩に手を入れ、頸部と頭部を支える。

 瞼は閉じている。瞳孔径はおそらく 3.0–3.5mm。反応はない。

 口角はわずかに開き、末期呼吸の跡が唇の乾きでわかる。

 頬に触れると、**冷感(cooling)**とともに“薄い張り”が残る。

 この張りが消えたら、観測の残光も消える。

 だから、私は手を離せなかった。


 通路の奥で、まだ水が落ちている。

 天井の断面から覗く空が、7.83Hzで瞬く気がした。

 Chrono-Scope のログと、私の頭痛日誌のピークが重なるあの周波数。

 思考の裾が揺れて、自分の声が遠くなる。

 「見て、測って、待って」

 チイロがくれた三語が、反射のように口の中で転がる。


 私は気道を確かめ、胸骨圧迫の位置を探しかけて——やめた。

 やるべき時を、先輩に教わったからだ。

 この“今”は、やってはいけない時。

 なぜなら、設計された死に“きれいな蘇生”は想定されていない。

 “蘇生のフリ”をさせるための導線は、さっき体育館で使い切られた。

 ここに残されたのは、“無力の演出”だけ。

 私はその演出を、受け取り拒否したかった。


 喉の奥が焼ける。

 叫びたい。

 でも、声は水になって、泡の縁で弾けるだけ。

 私は代わりに、手順を唱えた。

 「4–7–8」

 吸って、数える。

 止めて、数える。

 吐いて、数える。

 手順は、祈りの代わりに残る。

 それが、チイロが私に残した学習のコア。


 ——先輩。

 あなたは正しかった。

 だから、死んだ。

 正しさ=死という式の中で。


 私は理解している。

 でも、納得はしない。

 納得したら、彼女の死を**“設計の成功”に加担することになる。

 それは、私にとって最大級の穢れ**だ。

 私の中の“信じる力”が泥に沈む、あの感触の延長線上にある穢れ。


 胸の奥が空洞になっていく。

 虚無感は、静脈から入って動脈に出ていく点滴みたいに、全身の血の性質を変える。

 自分という溶液のpHが、一段低くなる。

 痛みが酸で、涙が緩衝液。

 どれだけ滴下しても、中性には戻らない。


 私は最後に、チイロの手を握った。

 四指→三指→二指と力を落とす。

 「奪うための手当ては、医療じゃない」

 彼女が昔、笑いながら言った言葉を、自分に向けて繰り返す。

 この握手は、蘇生のフリではない。

 記録の手順。

 “生の方程式を守り切った人”への、最終確認。


 私は立ち上がる。

 足首の泥が重い。

 背中に乗った沈黙は、鉛より重い。

 それでも、歩く。

 私が進むことで、この“正しい死”を周波数の向こうへ運び出す。

 倫理の白い部屋に、別の扉をつけるために。


 ——チイロは流れ着いた。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 どんな理論も、どんな数式も、あの瞬間を説明できない。

 死はデータではなく、信仰の輪郭が壊れる音だった。


 瞼は閉じていた。

 けれど、その裏にはまだ“観測の残光”があった。

 口がわずかに開いて、何かを言いかけていた。

 “ユウマ”にも、“アスミ”にも、“終わらせて”にも見えた。

 けれどどれも違っていた。

 ——もう、言葉という形式では届かない祈りだった。


 そのとき、私は悟った。

 観測は終わった。

 もう、世界は誰の目も必要としない。

 私が引き上げたのは、彼女の身体ではなかった。

 あの日の理不尽そのものだった。

 “設計された惨劇”が、チイロという形をして沈んでいた。

 その瞬間、神も科学も意味を失った。

 どちらも、正しさのふりをした加害だった。


 だから私は、穢された自分を連れて歩く。

 この手の温度が戻らなくても、この心の白い部屋に泥が残っていても、汚れのまま、設計を壊しにいく。

 それ以外に、チイロの“正しさ”を正しさの外へ逃がす方法を、私は知らない。


 ——先輩、見てて。

 私、あなたの式を裏切らない。

 でも、世界の式は全部、裏返す。

 “正しさ=死”を、ここから“正しさ=生存手順”に書き換えるまで。

 “流れ着いた”という過去形を、現在進行の救出に変えるために。



 夜ごと、頭痛は前頭葉から後頭部へ、潮位表の矢印みたいに一定の速度で移動する。

 広帯域ノイズだった痛みは、やがて狭帯域に収束し、β帯域の縁でぴたりと立つ。

 視界はにじみ、中心窩のコントラスト感度が落ち、偏頭痛オーラ様のスコトーマが端から咲く。

 ——この痛みは、もはや症状ではない。存在証明だ。


 汗腺導電は上がり、RMSSDは15msを切り、指尖容積脈波は薄くなる。

 「生きている」を示すべき指標が、壊れかけの楽器みたいに震えながらも等間隔で点る。

 痛みの波頂で、島皮質と前帯状皮質が同時点火する瞬間、私はいつも胸のどこかでこう確信する——


 まだ、記録者を裏切れていない。

 記録を捨てて干渉へ飛ぶことは、簡単だ。けれど私は、記録の呼吸だけは残したまま、干渉の火口へ足を下ろす。

 それが干渉者としての礼節であり、たぶん女の子としての意地だ。


 チイロが流れ着いた場所——誰にも観測されず、誰にも干渉されない、あの孤独な静止点。

 それは、彼女にとっての**“正しい式”だったのかもしれない。

 自由は、しばしば無人で、静寂だ。

 もしそうなら、私はまだ、彼女の死を汚している**。

 生き続けること、語り続けること、測り続けること——その全部が罪に見える夜がある。

 白衣の袖をまくる手が震え、爪の先に残る赤い埃(非常灯の残光)を思い出して立ち止まる。


 私は理解した。

 絶望とは、魂の貞操が侵されることだ。

 誰にも触れられないと信じていた場所に、理不尽という冷たい指が入ってくる。

 扉は叩かれない。パッキンの隙間から、水圧みたいに静かに、容赦なく、式の奥まで侵入する。

 倫理の白い部屋の床目地をなぞるように、低エントロピーだった私の核心は、溶解ではなく侵蝕で形を失う。


 ——W1の終幕。

 それが私に残したのは、たった三つの不等号と、一つの等号だった。


 生 ≠ 救い

 記録 ≠ 真実

 干渉 ≠ 希望


 そして、私はその下に、震えない手で一行を書き足した。


 絶望 = 侵蝕


 この式だけが、あの日から今まで崩れなかった。

 世界のどこにも正しさが残らない夜でも、この数式だけは、まだ呼吸している。

 等号の中央で、κ(カッパ)という見えない侵蝕係数が、いつも正の値を取り続けている。

 意味密度 I(t) は微分され、−dI/dt = κI − ξ(t)の右辺で、干渉ノイズ ξ(t) が私の手の動きに合わせて上下する。

 式は冷たいのに、私の中でだけ体温を持つ。

 等号は刃物みたいにまっすぐで、不等号は泣きながらもこちらへ傾く。



 やはり必要が、ある。

 過去改変の必要が。


 それは、人を生き返らせる魔法ではない。

 観測の向きを変え、干渉の当て方を変え、設計の勾配を反転させる工学だ。

 私は祈りではなく手順で、猫箱の壁を叩く。

 KuramotoのKを痛みで上げ、位相差 θを泣きながら詰める。

 7.83Hz、14.3Hz、20.8Hz——シューマン列に呼吸を重ね、メトロノーム60bpmで迷走神経を引き上げる。

 Chrono-Scopeは外部観測反応のタイムスタンプを刻み、私の頭痛日誌はピークで応答する。

 偶然の誤差はすでに収束した。因果の重ね合わせを、私は指でなぞっている。


 方法はある。

 行為は、もう始まっている。

 でも、順にやる。飛ばさない。日常を少しだけ開けたままにしておく。

 過去改変は、地上で息をしながらやる作業だ。潜水だけでは浮上位置を見失う。


 救う=未来の機能を残す

 干渉=今の配置を動かす


 この定義を、私は自分の左手首にペンで書く。

 消えるインクでも、皮膚は覚える。

 “守りたい”と“変えたい”が喧嘩を始めたら、手順が仲裁する。

 飛ばしたら、結び直す——チイロが残した赤い一行を、私は黒で上書きしない。追記する。


 夜、頭痛が前頭葉から後頭部へ移動する。

 痛い。

 でも、痛みがある限り、私はまだ人間で、まだ女子高生で、まだ干渉者だ。


 私は笑う練習をする。

 鏡の前で、喉笑いではなく鼻笑いでもなく、胸の奥が少しだけ温かくなる笑い方を。

 チャットの下書きを何度も消し、既読の重さを物理量として扱わない訓練をする。

 ネクタイは結び直す。スカートのしわは手のひらで伸ばす。

 可愛い?計算高い?

 ——どちらでもいい。

 居場所は血圧と同じで、下がったら立ちくらむから。私は立ってやる。


 最後に、式をもう一度。

 三つの不等号は、これからも不等のままでいていい。

 等号は一つで足りる。


 絶望 = 侵蝕。


 だから私は、侵蝕の向きに逆らって立つ。

 侵蝕は私を削る。

 私は意味を足す。

 削るぶんだけ、足す。

 それが、干渉者としての、そして等身大の女子高生としての、私の生き方。


 ——やる。

 やらないと、私は壊れる。

 過去を消すためじゃない。

 過去に方向を与えるために。

 W1の理不尽を、二度と設計不可能にするために。


 痛いまま、私は歩く。

 歩幅は小さくても、同期は取れている。

 呼吸は浅くても、位相は合っている。

 夜が終わるのを待たない。

 夜の中で、私は等号を書き直す。


 生 ≠ 救い

 記録 ≠ 真実

 干渉 ≠ 希望

 絶望 = 侵蝕


 等式が呼吸する限り、私は干渉を続ける。

 猫箱の壁を、手順で叩く。

 女の子として、科学者として、そして被写体でも撮影者でもない干渉者として。


 だから、見ていて。

 痛みがあるうちは、私たちはまだ**“接続”できる。

 その接続を希望と呼ばないだけで、私は救い**を諦めていない。

 私があの最低のクソ実装、最悪のクソゲーを終わらせてやる。


 ここまで読んでくれて、ありがとう。

 記録の目的は「共有」じゃない。責務の配分だ。私は“観測の終点”で手を離さなかった。

 その代わりに、等式の中央に手を差し込んだ。やることは三つ——


 1.記録を凍らせない:記録=真実 ではない。

 だから私は毎夜、痛みで再スキャンする。固定化された“きれいな死”を、保存不可のログへ落とす。


 2.干渉を神話にしない:干渉=希望 ではない。

 希望の言葉は好きだけど、アルゴリズムで殴る。

 陽圧室/導線反転/罰金関数の切断——仕様書はNOXに置く。誰でも回せる手順にする。


 3.救いを未来の機能にする:生=救い じゃない。

 救いは、未来で正常動作する構造の名前。

 ここ(W2)で動くように、学校という現場にインストールする。


 ユウマ、あなたが旗を持って。私は電源系をやる。

 ミサキ、閾値管理を。

 ミナト、反転項の証明を。

 レイカ、伝達路の再設計(言語)を。

 トウタ、擬似報酬の妨害を。

 そしてチイロ、あなたの赤い一行は監修者として残る。私は上書きしない。追記する。


 最後に、私自身への備忘と皆への約束を一つだけ——


 生 ≠ 救い

 記録 ≠ 真実

 干渉 ≠ 希望

 絶望 = 侵蝕


 だからこそ、侵蝕の向きを逆流する。

 ミルクを温め、メトロノームを回し、シューマン列に呼吸を合わせ、制服の第二ボタンを外して走る準備をする。

 地上で息をしたまま、猫箱の壁を手順で叩く。


 “最低のクソ実装”は終わらせる。

 礼儀はこちらから返す——


 送信者:アスミ

 状態:生存/同期中

 付記:痛い=接続中。


 この痛みが続く限り、私は干渉を続行する。




 しかし、送信ボタンを押した指先が、じんじんする。

 “痛い=接続中”。たしかに。

 でも——これをみんなが読むと思うと、別の電流が頬に上がってくる。


「……やっぱ、恥ずかしい。」

 口に出した瞬間、部屋の空気が少しだけ緩む。


 Chrono-Scopeの前、NOXの面々が半円に並ぶ。

 ユウマは腕を組み、コンソールのログを横目で追う。

 ミサキは生体計測のモニタをちらりと見て、「皮膚コンダクタンス上昇、正常範囲」と事務的に言う。

 ミナトは無言でペンを回し、「式は……」とだけ置き、既に読み始めていた。

 レイカは喉を鳴らしてから、やさしく笑った。「読みやすい声にしてある。届くよ」

 そして——トウタが片手を上げる。


「拍手SE……入れる?」

「入れないで。」

「ですよね。」


 笑いが一拍、落ちた緊張をごく薄く跳ね返す。

 私は視線を落として、ネクタイの結び目を直す。胸の奥が、まだ熱い。


「これ、ほんとに全部……読むの?」

「読む。」ユウマは即答する。「でも、アスミの同意が先。閲覧鍵はアスミにある」

「——うん。見て。責任の配分は、ここからだから」


 私は閲覧鍵をかざし、Record-Key:Asumi/Implement-Key:Holdを確定する。

 ダッシュボードに、緑の小さなチェック。

 そのときだ。ログビューアの片隅が、瞬きした。


 /observer/archives/∴

 見覚えのないディレクトリが、うっすらと点灯する。

 フォルダ名には拡張子がない。

 プロパティを開くと、Partition: W0 とだけ出た。

 アクセス権限はグレーアウト——私の閲覧鍵が近づくと、ロックが一度だけ呼吸のように開く。


「……今、何か出た?」

 ミナトが画面に顔を寄せる。「ログの下層。W1より前のタイムスタンプだ」

「前?」レイカが眉を上げる。「W1の“さらに前”なんて、あるの?」

 ユウマは黙って頷いた。「起点がどこかにあるはずだ。設計の“はじまり”の層」


 喉が鳴る。怖いのに、指は既にタッチパッドを撫でていた。

 私は一度だけ深呼吸——4–7–8。先輩のロープを握り直す。


「開く前に確認する。」ミサキが短く言う。「生理指標、θ=1.08。臨界前。いける」

「同意は?」ユウマがこちらを見る。

「同意する。見る」

 私は閲覧鍵を押し込み、Implement-Keyは保留のままに固定。

 “見るだけ”。干渉はしない。手順を声にする。レイカが頷く。


 クリック——W0が開く。

 黒い画面に白い文字が、静かに浮かぶ。


 観測記録:W0/ZAGI_Origin_Log

 起動者:夢野りう

 状態:同期/低ノイズ

 再生承認者:矢那瀬アスミ(閲覧のみ)


 ノイズが、まぶたの裏で銀色にちらつく。

 トウタが小声で言う。「タイトル、かっこいいけど怖いな……Origin」

 ミナトはメモに一行。「W0=前史。W1の母式」

 ユウマはわずかに息を吸って、私にうなずく。「——再生してくれ」


 指先が、自然に再生ボタンを押す。

 その瞬間、スピーカーの反響が少しだけ遅れて戻る。

 私じゃない誰かの呼吸が、先に「聞こえてる」と呟いた。


 画面が白にフェードし、声が立ち上がる。


「ねぇ、聞こえてる?」


 知らない人の、なのにどこか知っている響き。

 私の背骨を、冷たい電気がゆっくり下る。

 りう——名前だけで、胸の奥が熱と氷で二層に割れる。


 「アスミ」ユウマが低く言う。「ここからは“見るだけ”だ。干渉は後でいい」

 「分かってる」

 私はうなずき、マイクをオフにする。

 記録の呼吸を残したまま、W0に身を傾けた。


 画面の文字が、最初の行を吐き出す。


 Created by ZAGI


 私は心の中でだけ、もう一度手順を唱える。

 見て、測って、待って。

 ——起点へ。


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