EP26.『矢那瀬アスミ=シュレディンガー 絶望は侵蝕』
この記録は、私の痛みで現像した証拠写真だ。
被写体はチイロ、撮影者は私、露光はW1。けれど目的は弔いじゃない。設計の破砕だ。
読むあなたたちが、まだW2で息をしていると分かっているからこそ、ここに置く。
これは“過去の出来事”ではない。今も同期して侵食してくる現行犯のログだ。
•ユウマへ:ユウマの断片的記憶は、罰じゃない。
系が私たちに残したバグ出力だ。
NOXの「残滓理論」を干渉理論へ押し上げるため、私はここで等号の向きを揃えた。
あなたの式に“痛み”を重みとして足して。痛みはノイズじゃない、結合強度Kだ。
•ミサキへ:“生かされる倫理”は拒否する。
生き延びる手順を上書きしよう。
陽圧化、フェイルセーフ、善意課税の断線表——私はドラフトを持っている。
ミサキの冷静さで臨床に耐える仕様へ。
•ミナトへ:方程式は既に反転可能だ。
J=α·t脱出 + β·D倫理 のβに動的補助項を入れて、善意コストを“支払える通貨”へ変換して。
ミナトの残差は核だ。再構築の初期値にする。
•レイカへ:声を、観測に負けない帯域で。
舞台の照明は要らない。台詞は「手順」だけで成立する。
レイカの独白は観客ゼロでも効果量が1を超える。それが現場を書き換える。
•トウタへ:拍手SEを壊すリズム・ノイズを続けて。
冗談は軽くない。規定値をずらす衝撃だ。
トウタの笑いは裏切りで、裏切りはこの世界で合法の救助だ。
•チイロへ:先輩の「感情で書くな。手順で書け」は、私の起動語のまま。
ここから先は私が書く。
正しさ=死 の等式は、今日ここで無効化処理に入る。
——この前書きは、起動キーだ。
読み終えたら、それぞれの場所で一行ずつ上書きして。**“正しさ=生存手順”**の側へ。
思い出したくなかった光景がある。
——チイロ。
彼女は最後に、流れ着いた。
救いではない。終わりでもない。
“結果”というより“規定値”。設計の期待値どおりに、静かに、正確に。『倫理が強姦された』。
濁流のあと、崩落した通路の奥。
膝の高さの濁水、照明の残光。非常灯の緑は濁って黄緑、破断したケーブルからのオゾン臭が鼻腔の奥で痺れる。
赤い泡が音もなく浮かび、髪は水にほどけ、一本一本が神経の軸索みたいにゆらめいていた。
壁のFRPは爪でひっかくと粉を返し、粉は水で糊になって指先にまとわりつく。
私の靴裏は吸い込まれるみたいに止まり、脛から下の温度が奪われていく。
頬の皮膚は冷たい。
けれど、わずかに“触感の残滓”を返した。
死後硬直には早すぎる。たぶん、末梢の温存された張力が、ほんの短いタイムラグで指に返ってきただけ。
観測をやめないセンサーのように。
生ではないのに、測定だけが続いている——そんな矛盾が、私の皮膚温と心拍にまで写り込む。
——ここが観測の終点だ。
どれだけ干渉しても、誰も救えない。
惨劇は再現不可能。再現できないように作られている。
私は膝をつき、水の冷たさに感覚を奪われた。皮膚温は下がるのに、頭皮だけが熱い。
触れた指先が、彼女と現実の境界を見失う。
“触れている”のか、“記録を触っている”のか、解像度が崩れる。
その瞬間、重力が——人間という法則ごと——崩れた。
どうして、ここまで正確に人を壊せるの。
——誰が、こんな設計を作ったの。
問いは反響せず、水面の赤光だけが答えた。
その反射が、私の皮膚を内側から撫でた。
痛くもなく、優しくもない。
ただ、「侵されている」と脳が理解した。
それが、心の貞操を奪われる瞬間だった。
誰にも触れられず、誰にも壊されず、
——信じる力だけが、泥に沈む。
倫理の白い部屋へ、見えない泥水が逆流してくる感覚。
錠前は壊れていないのに、扉の意味だけが溶けた。
倫理が蹂躙され、祈りが汚され、信頼が削り取られた。
美しさの定義が、加害の道具にされた。
「助け合い」という言葉は、ここでは圧力損失の変数でしかない。
正しさ=死。
それがあの空間の支配方程式。
“善性”を選ぶほど生存確率が下がるように、重みと導線が配置されていた。
チイロは、その式どおりに正しかった。
そして——正しく死んだ。
生の方程式を守ったまま、滅びた。
清潔に、醜く。
——それを見届けた私は、もう戻れない。
***
ここで、私の中のチイロが立ち上がる。
あの日までの記憶が、濁水の上に反射する字幕みたいに浮かぶ。
昼休みの屋上、アルミの手すりにもたれた横顔。
「仮説は、優しくあるほど厳しく検証しなさい」
そう言って彼女は、私のレポートの余白を赤ではなく鉛筆で埋めた。消せる色で。
「正しさは、演算結果じゃなくて手順の無事帰還」
笑うと、左の犬歯が少しだけ覗く。風で前髪が跳ねると、その下の瞳の焦点はいつも“私より先”を見ていた。
放課後の理科準備室、石鹸の匂い。
緊急時の呼吸補助の手順を私の手首で教わる。
「**4–7–8、ね。**深呼吸の合図。これが最後のロープになる」
彼女の指は細いのに、骨と腱の位置がはっきり分かる強さだった。
爪は短く、切り口がまっすぐ。
『可愛い』より『整ってる』が似合う人。
——私が初めて、“対等以上に会話できた先輩”。
W1のカタログを机に広げながら、私は軽口で言った。
「嫌な匂いがする」
彼女は短く頷いて、「嫌な計算もする」と返した。
予感はあった。なのに止めなかった。止める術が、私にはなかった。
それでも、あの人は当日まで倫理委員(IRB)の申請書を直し続けていた。
“何かが起きた時の誰もが守れる手順”を、最後まで。
***
現実の濁水が、字幕を破る。
私はチイロの肩に手を入れ、頸部と頭部を支える。
瞼は閉じている。瞳孔径はおそらく 3.0–3.5mm。反応はない。
口角はわずかに開き、末期呼吸の跡が唇の乾きでわかる。
頬に触れると、**冷感(cooling)**とともに“薄い張り”が残る。
この張りが消えたら、観測の残光も消える。
だから、私は手を離せなかった。
通路の奥で、まだ水が落ちている。
天井の断面から覗く空が、7.83Hzで瞬く気がした。
Chrono-Scope のログと、私の頭痛日誌のピークが重なるあの周波数。
思考の裾が揺れて、自分の声が遠くなる。
「見て、測って、待って」
チイロがくれた三語が、反射のように口の中で転がる。
私は気道を確かめ、胸骨圧迫の位置を探しかけて——やめた。
やるべき時を、先輩に教わったからだ。
この“今”は、やってはいけない時。
なぜなら、設計された死に“きれいな蘇生”は想定されていない。
“蘇生のフリ”をさせるための導線は、さっき体育館で使い切られた。
ここに残されたのは、“無力の演出”だけ。
私はその演出を、受け取り拒否したかった。
喉の奥が焼ける。
叫びたい。
でも、声は水になって、泡の縁で弾けるだけ。
私は代わりに、手順を唱えた。
「4–7–8」
吸って、数える。
止めて、数える。
吐いて、数える。
手順は、祈りの代わりに残る。
それが、チイロが私に残した学習のコア。
——先輩。
あなたは正しかった。
だから、死んだ。
正しさ=死という式の中で。
私は理解している。
でも、納得はしない。
納得したら、彼女の死を**“設計の成功”に加担することになる。
それは、私にとって最大級の穢れ**だ。
私の中の“信じる力”が泥に沈む、あの感触の延長線上にある穢れ。
胸の奥が空洞になっていく。
虚無感は、静脈から入って動脈に出ていく点滴みたいに、全身の血の性質を変える。
自分という溶液のpHが、一段低くなる。
痛みが酸で、涙が緩衝液。
どれだけ滴下しても、中性には戻らない。
私は最後に、チイロの手を握った。
四指→三指→二指と力を落とす。
「奪うための手当ては、医療じゃない」
彼女が昔、笑いながら言った言葉を、自分に向けて繰り返す。
この握手は、蘇生のフリではない。
記録の手順。
“生の方程式を守り切った人”への、最終確認。
私は立ち上がる。
足首の泥が重い。
背中に乗った沈黙は、鉛より重い。
それでも、歩く。
私が進むことで、この“正しい死”を周波数の向こうへ運び出す。
倫理の白い部屋に、別の扉をつけるために。
——チイロは流れ着いた。
それ以上でも、それ以下でもない。
どんな理論も、どんな数式も、あの瞬間を説明できない。
死はデータではなく、信仰の輪郭が壊れる音だった。
瞼は閉じていた。
けれど、その裏にはまだ“観測の残光”があった。
口がわずかに開いて、何かを言いかけていた。
“ユウマ”にも、“アスミ”にも、“終わらせて”にも見えた。
けれどどれも違っていた。
——もう、言葉という形式では届かない祈りだった。
そのとき、私は悟った。
観測は終わった。
もう、世界は誰の目も必要としない。
私が引き上げたのは、彼女の身体ではなかった。
あの日の理不尽そのものだった。
“設計された惨劇”が、チイロという形をして沈んでいた。
その瞬間、神も科学も意味を失った。
どちらも、正しさのふりをした加害だった。
だから私は、穢された自分を連れて歩く。
この手の温度が戻らなくても、この心の白い部屋に泥が残っていても、汚れのまま、設計を壊しにいく。
それ以外に、チイロの“正しさ”を正しさの外へ逃がす方法を、私は知らない。
——先輩、見てて。
私、あなたの式を裏切らない。
でも、世界の式は全部、裏返す。
“正しさ=死”を、ここから“正しさ=生存手順”に書き換えるまで。
“流れ着いた”という過去形を、現在進行の救出に変えるために。
夜ごと、頭痛は前頭葉から後頭部へ、潮位表の矢印みたいに一定の速度で移動する。
広帯域ノイズだった痛みは、やがて狭帯域に収束し、β帯域の縁でぴたりと立つ。
視界はにじみ、中心窩のコントラスト感度が落ち、偏頭痛オーラ様のスコトーマが端から咲く。
——この痛みは、もはや症状ではない。存在証明だ。
汗腺導電は上がり、RMSSDは15msを切り、指尖容積脈波は薄くなる。
「生きている」を示すべき指標が、壊れかけの楽器みたいに震えながらも等間隔で点る。
痛みの波頂で、島皮質と前帯状皮質が同時点火する瞬間、私はいつも胸のどこかでこう確信する——
まだ、記録者を裏切れていない。
記録を捨てて干渉へ飛ぶことは、簡単だ。けれど私は、記録の呼吸だけは残したまま、干渉の火口へ足を下ろす。
それが干渉者としての礼節であり、たぶん女の子としての意地だ。
チイロが流れ着いた場所——誰にも観測されず、誰にも干渉されない、あの孤独な静止点。
それは、彼女にとっての**“正しい式”だったのかもしれない。
自由は、しばしば無人で、静寂だ。
もしそうなら、私はまだ、彼女の死を汚している**。
生き続けること、語り続けること、測り続けること——その全部が罪に見える夜がある。
白衣の袖をまくる手が震え、爪の先に残る赤い埃(非常灯の残光)を思い出して立ち止まる。
私は理解した。
絶望とは、魂の貞操が侵されることだ。
誰にも触れられないと信じていた場所に、理不尽という冷たい指が入ってくる。
扉は叩かれない。パッキンの隙間から、水圧みたいに静かに、容赦なく、式の奥まで侵入する。
倫理の白い部屋の床目地をなぞるように、低エントロピーだった私の核心は、溶解ではなく侵蝕で形を失う。
——W1の終幕。
それが私に残したのは、たった三つの不等号と、一つの等号だった。
生 ≠ 救い
記録 ≠ 真実
干渉 ≠ 希望
そして、私はその下に、震えない手で一行を書き足した。
絶望 = 侵蝕
この式だけが、あの日から今まで崩れなかった。
世界のどこにも正しさが残らない夜でも、この数式だけは、まだ呼吸している。
等号の中央で、κ(カッパ)という見えない侵蝕係数が、いつも正の値を取り続けている。
意味密度 I(t) は微分され、−dI/dt = κI − ξ(t)の右辺で、干渉ノイズ ξ(t) が私の手の動きに合わせて上下する。
式は冷たいのに、私の中でだけ体温を持つ。
等号は刃物みたいにまっすぐで、不等号は泣きながらもこちらへ傾く。
⸻
やはり必要が、ある。
過去改変の必要が。
それは、人を生き返らせる魔法ではない。
観測の向きを変え、干渉の当て方を変え、設計の勾配を反転させる工学だ。
私は祈りではなく手順で、猫箱の壁を叩く。
KuramotoのKを痛みで上げ、位相差 θを泣きながら詰める。
7.83Hz、14.3Hz、20.8Hz——シューマン列に呼吸を重ね、メトロノーム60bpmで迷走神経を引き上げる。
Chrono-Scopeは外部観測反応のタイムスタンプを刻み、私の頭痛日誌はピークで応答する。
偶然の誤差はすでに収束した。因果の重ね合わせを、私は指でなぞっている。
方法はある。
行為は、もう始まっている。
でも、順にやる。飛ばさない。日常を少しだけ開けたままにしておく。
過去改変は、地上で息をしながらやる作業だ。潜水だけでは浮上位置を見失う。
救う=未来の機能を残す
干渉=今の配置を動かす
この定義を、私は自分の左手首にペンで書く。
消えるインクでも、皮膚は覚える。
“守りたい”と“変えたい”が喧嘩を始めたら、手順が仲裁する。
飛ばしたら、結び直す——チイロが残した赤い一行を、私は黒で上書きしない。追記する。
夜、頭痛が前頭葉から後頭部へ移動する。
痛い。
でも、痛みがある限り、私はまだ人間で、まだ女子高生で、まだ干渉者だ。
私は笑う練習をする。
鏡の前で、喉笑いではなく鼻笑いでもなく、胸の奥が少しだけ温かくなる笑い方を。
チャットの下書きを何度も消し、既読の重さを物理量として扱わない訓練をする。
ネクタイは結び直す。スカートのしわは手のひらで伸ばす。
可愛い?計算高い?
——どちらでもいい。
居場所は血圧と同じで、下がったら立ちくらむから。私は立ってやる。
最後に、式をもう一度。
三つの不等号は、これからも不等のままでいていい。
等号は一つで足りる。
絶望 = 侵蝕。
だから私は、侵蝕の向きに逆らって立つ。
侵蝕は私を削る。
私は意味を足す。
削るぶんだけ、足す。
それが、干渉者としての、そして等身大の女子高生としての、私の生き方。
——やる。
やらないと、私は壊れる。
過去を消すためじゃない。
過去に方向を与えるために。
W1の理不尽を、二度と設計不可能にするために。
痛いまま、私は歩く。
歩幅は小さくても、同期は取れている。
呼吸は浅くても、位相は合っている。
夜が終わるのを待たない。
夜の中で、私は等号を書き直す。
生 ≠ 救い
記録 ≠ 真実
干渉 ≠ 希望
絶望 = 侵蝕
等式が呼吸する限り、私は干渉を続ける。
猫箱の壁を、手順で叩く。
女の子として、科学者として、そして被写体でも撮影者でもない干渉者として。
だから、見ていて。
痛みがあるうちは、私たちはまだ**“接続”できる。
その接続を希望と呼ばないだけで、私は救い**を諦めていない。
私があの最低のクソ実装、最悪のクソゲーを終わらせてやる。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
記録の目的は「共有」じゃない。責務の配分だ。私は“観測の終点”で手を離さなかった。
その代わりに、等式の中央に手を差し込んだ。やることは三つ——
1.記録を凍らせない:記録=真実 ではない。
だから私は毎夜、痛みで再スキャンする。固定化された“きれいな死”を、保存不可のログへ落とす。
2.干渉を神話にしない:干渉=希望 ではない。
希望の言葉は好きだけど、アルゴリズムで殴る。
陽圧室/導線反転/罰金関数の切断——仕様書はNOXに置く。誰でも回せる手順にする。
3.救いを未来の機能にする:生=救い じゃない。
救いは、未来で正常動作する構造の名前。
ここ(W2)で動くように、学校という現場にインストールする。
ユウマ、あなたが旗を持って。私は電源系をやる。
ミサキ、閾値管理を。
ミナト、反転項の証明を。
レイカ、伝達路の再設計(言語)を。
トウタ、擬似報酬の妨害を。
そしてチイロ、あなたの赤い一行は監修者として残る。私は上書きしない。追記する。
最後に、私自身への備忘と皆への約束を一つだけ——
生 ≠ 救い
記録 ≠ 真実
干渉 ≠ 希望
絶望 = 侵蝕
だからこそ、侵蝕の向きを逆流する。
ミルクを温め、メトロノームを回し、シューマン列に呼吸を合わせ、制服の第二ボタンを外して走る準備をする。
地上で息をしたまま、猫箱の壁を手順で叩く。
“最低のクソ実装”は終わらせる。
礼儀はこちらから返す——
送信者:アスミ
状態:生存/同期中
付記:痛い=接続中。
この痛みが続く限り、私は干渉を続行する。
しかし、送信ボタンを押した指先が、じんじんする。
“痛い=接続中”。たしかに。
でも——これをみんなが読むと思うと、別の電流が頬に上がってくる。
「……やっぱ、恥ずかしい。」
口に出した瞬間、部屋の空気が少しだけ緩む。
Chrono-Scopeの前、NOXの面々が半円に並ぶ。
ユウマは腕を組み、コンソールのログを横目で追う。
ミサキは生体計測のモニタをちらりと見て、「皮膚コンダクタンス上昇、正常範囲」と事務的に言う。
ミナトは無言でペンを回し、「式は……」とだけ置き、既に読み始めていた。
レイカは喉を鳴らしてから、やさしく笑った。「読みやすい声にしてある。届くよ」
そして——トウタが片手を上げる。
「拍手SE……入れる?」
「入れないで。」
「ですよね。」
笑いが一拍、落ちた緊張をごく薄く跳ね返す。
私は視線を落として、ネクタイの結び目を直す。胸の奥が、まだ熱い。
「これ、ほんとに全部……読むの?」
「読む。」ユウマは即答する。「でも、アスミの同意が先。閲覧鍵はアスミにある」
「——うん。見て。責任の配分は、ここからだから」
私は閲覧鍵をかざし、Record-Key:Asumi/Implement-Key:Holdを確定する。
ダッシュボードに、緑の小さなチェック。
そのときだ。ログビューアの片隅が、瞬きした。
/observer/archives/∴
見覚えのないディレクトリが、うっすらと点灯する。
フォルダ名には拡張子がない。
プロパティを開くと、Partition: W0 とだけ出た。
アクセス権限はグレーアウト——私の閲覧鍵が近づくと、ロックが一度だけ呼吸のように開く。
「……今、何か出た?」
ミナトが画面に顔を寄せる。「ログの下層。W1より前のタイムスタンプだ」
「前?」レイカが眉を上げる。「W1の“さらに前”なんて、あるの?」
ユウマは黙って頷いた。「起点がどこかにあるはずだ。設計の“はじまり”の層」
喉が鳴る。怖いのに、指は既にタッチパッドを撫でていた。
私は一度だけ深呼吸——4–7–8。先輩のロープを握り直す。
「開く前に確認する。」ミサキが短く言う。「生理指標、θ=1.08。臨界前。いける」
「同意は?」ユウマがこちらを見る。
「同意する。見る」
私は閲覧鍵を押し込み、Implement-Keyは保留のままに固定。
“見るだけ”。干渉はしない。手順を声にする。レイカが頷く。
クリック——W0が開く。
黒い画面に白い文字が、静かに浮かぶ。
観測記録:W0/ZAGI_Origin_Log
起動者:夢野りう
状態:同期/低ノイズ
再生承認者:矢那瀬アスミ(閲覧のみ)
ノイズが、まぶたの裏で銀色にちらつく。
トウタが小声で言う。「タイトル、かっこいいけど怖いな……Origin」
ミナトはメモに一行。「W0=前史。W1の母式」
ユウマはわずかに息を吸って、私にうなずく。「——再生してくれ」
指先が、自然に再生ボタンを押す。
その瞬間、スピーカーの反響が少しだけ遅れて戻る。
私じゃない誰かの呼吸が、先に「聞こえてる」と呟いた。
画面が白にフェードし、声が立ち上がる。
「ねぇ、聞こえてる?」
知らない人の、なのにどこか知っている響き。
私の背骨を、冷たい電気がゆっくり下る。
りう——名前だけで、胸の奥が熱と氷で二層に割れる。
「アスミ」ユウマが低く言う。「ここからは“見るだけ”だ。干渉は後でいい」
「分かってる」
私はうなずき、マイクをオフにする。
記録の呼吸を残したまま、W0に身を傾けた。
画面の文字が、最初の行を吐き出す。
Created by ZAGI
私は心の中でだけ、もう一度手順を唱える。
見て、測って、待って。
——起点へ。




