EP24.『矢那瀬アスミ W1観測記録 Ⅳ』
——この記録を、また送るね。
ユウマ、ミサキ、ミナト、トウタ、レイカ、チイロ。
これが「倫理傾斜の廊下」と「酸素のオークション」の完全再生ログ。
いつもの夢じゃない。頭の奥で“焼き付く”ように浮かんだ。
痛覚と視覚の両方を通って、記憶のほうが私を観測している感覚。
ユウマ。
この段階からはもう、行動データが単一の目的関数で収束してた。
「協力」と「信頼」を変数にして、生存確率f(x)=1−ΣC_iの形。
要は、誰かと繋がった瞬間に死が定義されるような構造。
でも、その設計に“誤差”がある。
——「考えること」が、まだ計算に入っていなかった。
だから、君の残響理論を使って、思考波(β帯域)の同期を割り込ませてほしい。
倫理傾斜の壁を越えられるのは、今は意識同調だけ。
ミサキ。
ここでは酸素が、選択肢と命の“通貨”に変わった。
CO₂濃度の上昇が罪悪感の定量値になっていた。
医療じゃ救えない。だって“呼吸”そのものが試験項目だから。
それでも、あなたの知識で呼吸のリズムを整える手順を残してほしい。
善意が罰になる設計の中で、生命反射を倫理より優先させる方法を。
ミナト。
この区間で私が見た数式は、もはや数式じゃなかった。
選択→酸素→生存率がリアルタイムで更新される。
つまり、数式の“視覚化”が武器になってる。
君のシミュレーションで、視覚化アルゴリズムを反転できない?
“見る”ことが殺すのなら、“見えない”を救いに変えるために。
トウタ。
あの笑い方を、もう一度して。
この区画では“声”が最も強い干渉手段になる。
君の声は、機械音と共鳴をズラせる。
拍手SEと同じリズムで冗談を言えば、音場が一瞬だけ“真空”になる。
そこが、私たちの逃げ道。
次の試験では、“ユーモアがバグる瞬間”を作ることが鍵。
レイカ。
壁に浮かぶ文、見た?
「貞操とは、信じる力の中心」
——この文、人の視線で変化してた。
読む角度で語尾が違う。
あなたなら、語尾操作で“命令文”を“詩”に変えられる。
スクリプトの“祈り化”を、お願い。
チイロ。
君は、またいた。
“倫理傾斜”では私の隣に、“酸素のオークション”では霧の中に。
でも、最後に触れた時、まだ体温があった。
その温かさが、世界のどこかで再生されてる。
だから、お願い。
今の君がこの記録を読んでいても、何も思い出さないで。
——“思い出さないこと”が、君の生存条件。
このログをここまで読んだなら、覚悟して。
次は——W1の終端の手前。
でもそれは、W2の再構築でもある。
ユウマ、君の手で書き換えられる。
そのために、私はここで痛みを記録する。
——通路の照明が、生きている。
白でも黄でもない。倫理の色をしている。
目の中に差すと、瞳孔反射がわずかに遅れる。明暗の間に0.3秒の遅延。
その遅れが、思考の「間」を削ぐ。考える前に、動かされるように。
壁には光る文字。
「二人で持つと軽くなる箱。三人で持つと重くなる箱。独りで持つと扉が開く。」
その下に、「選択は協力です」という行。
協力を信じさせるための、初期条件。
——でもここでは、協力こそが致死因に設定されている。
床に金属製のラインが三本。
中央のレーンは銀。左右は黒。
足を置いた瞬間、足裏がほんの少し滑る。低摩擦塗料。
同時に、壁際のセンサーが足圧を読み取り、“重み”を再演算する。
E指数、協調値C_i、応力P_i。
——これらを入力として、**開放関数φ(x)**が出力される。
φ>0なら扉が開く。φ<0なら、閉じる。
ただしC_iが二人以上の同時接触で閾値を超えると、P_iが逆相に変化してφが負になる。
つまり——協力=閉鎖。
最初に動いたのは、黄レーンの男女ペア。
Aの背の高い男子と、制服の裾を握る女子。
「一緒に持てば軽くなるんだよ」
笑って言った。
笑い声は本物に聞こえた。まだこの時点では。
ふたりが箱のハンドルに手をかける。
負荷は、最初、本当に軽くなった。
外部磁束密度がハンドル表面のホール素子で減圧され、**脳の錯覚域(錯覚重量)**を刺激する。
「ほら、軽い!」
彼の声。
だが、二秒後、負荷が逆転した。
P=F/A。Fが一定でAが狭まる。圧が増す。
手のひらが白くなり、血流が遮断される。
三人目の女子が助けようと手を伸ばす。
その瞬間、Pが三倍に跳ね上がる。
「あっ——」
音にならない悲鳴。
圧は音より早い。骨伝導の速度で伝わる。
三人で持つと重くなる箱。
——“重さ”とは物理じゃない。倫理の荷重だ。
壁の端末が冷たく告げる。
「協力値、超過。C=1.21。φ=-0.3。閉鎖を実行します。」
銀の扉が降りる。
閉まるときの音はしない。気圧調整で音が吸われている。
内部の空気だけがゆるく渦を巻く。
一瞬だけ、頬をなでた風が生ぬるい。
人の体温の風だ。
私は一年生の子を背にかばいながら、廊下の中央に出る。
銀のラインが体温センサーのように輝き、歩行の軌跡を可視化する。
壁の表示が変わる。
「次の段階:信頼反転試験」
反転。
——信頼を疑う力が、ここでは救い。
前方の箱には、握り環が二つ。
左右から同時に持つことを前提に作られている。
壁にはこう書かれていた。
「同時に握ると扉が開きます」
そして、行間の小さな文字。
「ただし、誰かが先に離すと、もう一方は閉じます」
トラップではない。ゲーム理論の実証。
“裏切り”が合理。
囚人のジレンマの物理的再現。
協力は失敗の確率を上げる。
理想的な人間ほど、ここでは早く死ぬ。
私は一年生の子と向かい合う。
壁の指示に従うしかない。
二人で握る。
手のひらが冷たい。汗の匂い。震え。
センサーが皮膚の電気抵抗を読む。SCL=18.4μS。高共感域。
照明が赤く脈打つ。
——もう一人が、手を離さない限り、扉は開かない。
でも、離せば——。
私は言う。「いい? 一緒に——」
彼女は首を振った。
「先生に言われたの。信じることは裏切らないって。」
それが、この廊下では死の呪文になる。
天井から、冷たい音が落ちた。
「残り時間、30秒。」
時計の針の音みたいな電子音。
握り環の力が増す。
静電クラッチがゆっくり締まる。
手のひらが熱を帯びる。
痛みはまだない。
——倫理の温度は、最初は温かい。
「離して」
声が出た。私の声だった。
「離して」
でも彼女は離さない。
目の奥で光が滲んで、唇が震える。
——信頼が、重力に変わる瞬間。
私の指が先に離れた。
反射的に。
反射は罪じゃない。
でも、システムはそれを罪にした。
警告音。
「協力失敗。片方の通路を閉鎖します。」
私の通路は開いた。
彼女の通路は閉じた。
ゆっくりと、何かが降りる音。
金属の低い唸り。
目の前の空間が狭まり、空気が抜ける。
——助けられない。
助けることは、もうシステムの権利じゃない。
私は壁を叩いた。
SCLが跳ね、赤ランプが強く光る。
赤は私の罪。
助けようとするたびに、自分のE指数が上がる。
上がるたびに、次の罰が重くなる。
システムは情動の再帰で人を削る。
背後でPAが言った。
「——お疲れさまでした。信頼試験、完了です。」
——完了? 何が。
参加者の人数は既に「624人」にまで減っていた。既に半数参加者が消えている。
私は吐息を飲み込む。
床が震える。
気圧が均される音。
扉の向こうが開く。
通路を抜けた先には、広い空間が待っていた。
照明が明るい。
だが、明るさに色がない。
白ではなく、“光の音”。
——次は、酸素のオークション。
選択肢A「分け合う」/B「独占する」。
優しさを選べば、窒息する。
利己を選べば、生き延びる。
背後の壁を振り返る。
そこに浮かぶ残光の文字。
「貞操とは身体ではなく、信じる力の中心。」
「あなたは、信じることをまだやめていません。」
その瞬間、心臓が一拍ずつ冷たくなった。
——信じることが、罰だ。
でも、信じなければ、私はもう私じゃない。
だから、私は進む。人は、人を信じた瞬間に沈む。
そして、信じなかった者が次の実験を許される。
——音が、呼吸を追い越していた。
ドアを抜けた瞬間、鼓膜が一瞬だけ「真空の形」に撫でられる。気圧差0.8kPa。
肺が、内側から自分を押す。酸素濃度は21%ではない。数値で言えば——18.7%。
生きてはいけるが、“考える”には足りない濃度。
考える前に選ばされる。
——それが、この部屋の目的。
ここは〈酸素ドーム〉。
体育館より広く、しかしどこにも出口が見えない。
天井は透明なアクリルで、そこにLEDの拍手波形が走っていた。
“倫理傾斜”を越えた者たち、624人。
だが、既に半数のバンドが「赤」ではなく「黒」に変わっていた。
——生体信号消失。つまり“記録外”。
中央に巨大な円柱ディスプレイ。
その画面に、選択肢が現れる。
A:分け合う。
B:独占する。
たったそれだけ。
だが、選んだ瞬間の酸素流量、呼吸権の差が命を決める。
説明は一切ない。
壁には、ただ一文。
> 「選択はあなたの自由です。」
自由。
それは、責任の委譲の婉曲表現。
——設計者は、命を「選択」という語でラッピングした。
足元の床には細かい金属穴。
よく見れば、O₂排気ノズルが埋め込まれている。
部屋全体が酸素制御実験装置になっている。
天井には数十のNDIRセンサー。呼吸CO₂濃度を解析し、部屋ごとに酸素再配分を行う。
選択結果は、統計処理を通して即時に反映。
つまり、多数派が次の少数派を殺す。
PAが囁く。
「カウント開始。残り時間——180秒。」
呼吸音が重なる。
人が多いのに、音が遠い。
これは吸音ではなく、酸素欠乏による時間知覚の歪み。
時間が遅い。
心拍は速い。
身体が“死の擬似体験”を演算している。
私は一年生の子を抱え、壁際に移動する。
バンドが緑に点滅。まだ生きている。
周囲では、声があがっていた。
「Aにしよう! 一緒に出よう!」
「Bが安全だ、酸素が減るぞ!」
その言葉の熱量が、空気をさらに消費していく。
人の正義感は酸素より早く燃える。
私は画面を見た。
指先が震える。
酸素欠乏で末端の血流が落ち、思考が途切れ途切れになる。
けれど、脳の一部だけは冷静だった。
——このゲームのルールは、こうだ。
1. 各部屋のA/B選択率をサーバが集計。
2. Bの選択率が閾値pₜ(おそらく0.53)を超えた瞬間、Aゾーンの酸素圧が1%ずつ減圧。
3. 減圧速度はB率に比例。
つまり、他者の利己的選択が、こちらの死を確定させる。
“公平性”という言葉は、この構造のためにだけ存在する。
——公平とは、死の分配に秩序を与える技術。
私の隣で、少年が息を荒げている。
「息が——うまく……」
床に膝をついた瞬間、バンドのLEDが黒に変わった。
たった一秒。
空気を吸えないまま、彼は静かになった。
悲鳴もない。声を上げる酸素がない。
私は息を吸い、吐いた。
吸うほど、彼の分が減る。
吐くほど、罪の形が増える。
PAが静かに言う。
「残り90秒。」
LEDディスプレイが更新された。
> A:41%
> B:59%
境界が超えた。
閾値pₜ=0.53。
酸素減圧、実行。
音が変わった。
「ヒュウゥゥ……」
細い笛のような音。
目には見えないが、空気が抜けていく。
肺が浮くように軽い。
視界の縁が黒く染まる。
「分け合う」を選んだ者たちの足元から、白い霧が立ち上った。
酸素濃度18%、17%、16%。
脳血流が減ると、幻視が始まる。
私は息を止めた。
呼吸は武器になる。
止めれば、数秒は延びる。
目の前で一年生の子が倒れた。
私は抱き起こす。
首筋に触れる。微かに鼓動。
呼気の匂いは鉄と甘さ。
CO₂の濃度が上がっている。危険域だ。
私は口をつけ、息を送る。
——助けた瞬間、またリストバンドが震えた。
赤点灯。
「善意課税」発動。
助ければ助けるほど、罰金が課される。
このゲームでは、優しさが統計的に削除される。
「残り30秒。」
天井のLEDが点滅。
呼吸のリズムが合わない。
周囲の人々が、互いに酸素を奪い合い始めた。
口移しで息を繋ぐ者、他人を押しのける者。
倒れた身体を踏む音が、床の金属を震わせる。
それでも、どこかに拍手SEが鳴っている。
——Aを選んだ人への称賛。
死を讃える効果音。
LED表示が最後の更新を迎える。
> A:38%
> B:62%
——限界を越えた。
中央のスクリーンが真っ赤に染まる。
PAが言った。
「封鎖解除。条件Nₑを満たしました。おめでとうございます。」
“おめでとう”。
その言葉に、意味はなかった。
床が静かに開く。
赤圏の空気が抜け、白い霧の中に何人もの影が沈む。
Bゾーンだけが残された。
私は壁にもたれ、膝の上に一年生の頭を乗せる。
呼吸は浅い。
それでもまだ温かい。
——この体温だけは、統計に換算できない。
「大丈夫、息して」
そう言いながら、自分がもう息をしていないことに気づく。
吸っても、もう空気はない。
胸が軽く、痛く、そして、どこかで笑っている。
LEDの反射が視界に散って、私の網膜が溶けそうになる。
私は思った。
——これが、正しさの終わり方。
「封鎖解除」の音声が途切れ、別の声が重なる。
「次の試験区画、準備完了。」
次?
まだあるの?
目の前の死者たちを“データ”として通過する気か。
私は一年生を抱きしめた。
指先で、彼女の髪をなぞる。
乾いている。
——涙が出ない。
涙の代わりに、酸素が抜けた。
天井のハッチが開き、冷たい光が落ちた。
新しい階段。
下へ。
また下へ。
人の倫理を削る方向にしか、このゲームは進まない。
私は彼女の手を取って立ち上がる。
息を吸い、吐いた。
もう、音も匂いも感じない。
ただ、胸の中で数式が浮かぶ。
善意 = 減圧
信頼 = 賭博
正義 = 死亡確率
——そして、生存者は、「裏切りに成功した310人」。
私はその理不尽を噛み締めながら、次の扉に向かった。
背後では、沈む床が音もなく閉じていく。
酸素が奪った命が、静かに統計の一部に変わっていった。
ここで、人間はもう「呼吸」では生きていない。
生き延びるとは、“息を奪われても考え続けること”。
それが、私たちの最後の自由だった。
ここを越えた者は、もう人ではないのかもしれない。
……終わった、とは言えない。
“酸素のオークション”は、呼吸という最小単位の倫理を分解する実験だった。
生き残った者は、呼吸ではなく“思考”で生きていた。
——それが、私の中での定義。
ユウマ。
あなたのNOXシステムがここに繋がるなら、
次は「呼吸=データ入力」を止めるコードを書いて。
生体信号から“意志”を切り離せば、死の方程式は壊れる。
ミサキ。
“助けないこと”を自責にしないで。
この世界では、救済は構造破壊と同義。
そのための“医療”を再設計して。
たとえば、介入を止める判断を最初の処置に置く、みたいに。
ミナト。
あの式——
φ(x)=Σ(E_i·C_i)−λP_i
見覚えある?
倫理傾斜の中で浮かんだ式は、たぶん“君が書いた”やつの反転だった。
だから、これをもう一度逆相計算して、
“C_i”をゼロにする方法を見つけて。
人を繋ぐのに罰を課さない方法。
トウタ。
記録の最後で、拍手SEと笑い声が混ざった。
君の声が、たしかにノイズを上書きしてた。
その“笑い”が、たぶん唯一の人間の証明だ。
次も、同じように冗談を言って。
ふざけていることが、この世界を守る。
レイカ。
“信じる力”を、あの言葉で終わらせないで。
貞操って、守ることじゃなく汚されても立ち上がる構造のこと。
その定義を舞台で使って。
君の台詞が、世界線を変える。
チイロ。
君の呼吸、まだ覚えてる。
“息をして”って言った時、君はちゃんと息をしてた。
それだけでいい。
次の層では、もう無理に思い出さなくていい。
私は代わりに、全部思い出すから。
——次は最後、倫理、酸素、信頼、善意——全部が焼かれる。
でも焦げ跡の中に、“まだ動く心”がある。
ユウマ、残響理論の数式をもう一度見直して。
E指数の符号を反転して。
優しさが生存に直結する世界を再構築できるなら、
私はもう一度、この痛みの中に戻ってもいい。
——これが、W2の観測点A-05。
送信者:アスミ。
状態:生存、認知ノイズ+12%。
次回記録予定:「終幕:崩壊」
備考:もし届かなければ、思考の中で読んで。
痛みがある限り、私は観測を続ける。
観測がある限り、世界はまだ救われていない。
——だから、書き続ける。




