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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
W1観測記録編

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23/94

EP23.『矢那瀬アスミ W1観測記録 Ⅲ』

 これから書くのは、「ガラスドーム」と「儀式空間」の再生記録。

 再現ではなく再生。

 私の頭痛(誘発)に同期して、W1の映像と匂いと温度がこちらへ流入したぶんを、できるだけ歪みなく起こした。


 ユウマ。

 あなたの残響試験が、私の“ズレ”のスイッチだった。ありがとう、そしてごめん。

 これを読むあなたは、きっとまた責任を自分に集めようとする。

 でもこれは、世界の側の記憶だ。君が背負う前から、ここに在った。


 ミサキ。

 この記録には医療的な値(O₂、気圧、体温、反射)が多い。

 あなたが読むと、手が勝手に応急の動線を引き始めるの、知ってる。

 お願い、最後まで読んで。助け方そのものが罰になるよう、設計されていたから。


 トウタ。

 軽口は、時々、命だよ。W1では何度か、人の心拍をスッと落ち着かせた。

 ここでも頼る。ただ、笑い声が罠の拍手SEに混ざる瞬間がある。そこだけ、耳を疑って。


 ミナト。

 式が要る。私の主観ログだけじゃ、世界は動かない。

 E指数、Kuramoto、流量、臨界密度——全部、あなたの手で反証して、同時に武器にしてほしい。

 「正しい式で殴る」って、そういうこと。


 レイカ。

 言葉の配置を、あなたに託したい。あのPAの文句は命令にならない命令だった。

 語尾や遅延、強調の位置——脚本家として、**“観客が服従する文”**の分解を、お願い。


 チイロ。

 ……あなたの名前を打つ手が、まだ震える。

 W2のあなたはここにいる。笑っている。だから私は書ける。

 W1のあなたに、届かないかもしれない。

 それでも私は記録する。**“ ”**としか言えなかった、その地点の輪郭を。


 これは脅しじゃない。準備だ。

 次の歪みが来たとき、誰も“初見”で死なないように。

 読みながら、自分の役割を決めてほしい。決意じゃなく、手順として。


 ——観測して。w1扉は、すでにこちら側で軋んでいる。


 体育館を抜けた瞬間、風の匂いが変わった。

 人工の風だ。換気じゃない。循環型空調ユニットの吐き出す、制御された空気。温度24℃、湿度58%。

 外気ではなく、統計上「快適」とされる値。だが私の皮膚はその正確さを不気味に感じた。

 ——快適という言葉の中に、支配がある。


 目の前に広がるのは、半球状の巨大なガラスドーム。

 天井のスチールリブには無数のLEDが嵌め込まれ、カウントダウンが蠢くように流れている。

 「——あと◯分で演目終了です」

 女の声。前幕と同じ合成音声。PAのトーンカーブはほぼ平坦(1kHz中心−3dB/oct)。

 感情の起伏を消した、監視カメラのような声。

 終了という言葉が、ここでは“封鎖解除”を意味する。けれど、誰も“終了”が誰のためなのかを知らない。


 床には環状のライン。赤・黄・青の三色。

 先ほどまでの「E指数」に応じて、自動的に配置される導線。

 私は赤。中央の円環、最も狭い区域。

 青の者たちは外側で広々と歩き回れる。黄は中間。共感が高い者ほど中心に、つまり出口から遠くに配置される。


 ドームの外縁には金属の柱が等間隔に並び、その内部に酸素供給ノズルと圧センサが仕込まれている。

 “安全確保のため”という名目。だが、目的は別にある。室内酸素濃度を動的に変化させ、群衆の意思決定速度を制御するため。

 酸素が減れば、脳の前頭葉は誤差処理を増やす。判断は速く、粗くなる。倫理判断よりも生存反応が優先される。

 ——つまり、人を「急がせる」。


 私は一年生の子の手を握りながら、視線を上げた。

 LEDが残り600秒を刻んでいた。数字が赤から黄へ変わるたび、空気がわずかに薄くなる気がした。

 カウントダウンの音は、鼓動と同期している。

 天井のどこかで、機械が私たちの「躊躇の時間」を測っている。


 中央に立つ円柱型ディスプレイが淡く点灯する。

 そこに現れたのは二つの選択肢。


 A:分け合う

 B:独占する


 まるで学校行事のアンケートだ。だが、笑い声は一つもない。

 全員が理解していた。どちらを選んでも、誰かが傷つく。

 ディスプレイ下部の注意文が流れる。


「選択結果は次のエリアの酸素配分および通過順位に反映されます。」


 ——それはつまり、「命の配分」という意味だ。


 青の輪の生徒たちはざわめき、笑いながらボタンを押した。

 外縁部の空気は濃い。彼らはまだ冗談を言える。

 けれど、中央の赤圏では息が浅くなっていた。

 酸素濃度は20.9%から19.5%に低下。たった1%の違いでも、心拍は10上がる。

 息が速くなるほど、SCLは跳ね、E指数がさらに上昇。

 上がるたびに、“善意課税”の重みが増える。

 助けたいという感情が、またトリガーに変わっていく。


 隣の子が囁く。「Aにする? 分け合ったほうが……」

 私は答えられない。

 言葉にすれば、それが彼女の「投票確率」に干渉してしまう。

 倫理はもはや個人のものじゃない。行動ログの共有資産だ。

 どんな小さな声も、数式に換算されて吸い込まれる。


 「選択を確認しました。A:◯%、B:◯%」

 PAが無機質に読み上げる。

 青のゾーンでは拍手SEが鳴る。“分け合い”を選んだことへのご褒美。

 だが、その拍手が鳴るたびに、中央の空気が微かに抜ける音がした。

 Bを選んだ外縁部が閾値を越えた瞬間、Aを選んだ中央ドームの気圧が下がる。

 数値が液晶に浮かぶ。O₂濃度18.3%。気圧96.5kPa。

 足が軽く浮くような錯覚。

 呼吸が薄く、心拍が暴れる。

 「公平性という名の理不尽」が、数式で可視化される瞬間だった。


 外側では笑い声が続く。「俺たち、いい選択したな!」

 内側では咳が連鎖する。

 一年生の子が咳き込み、膝をつく。

 私は背中を支えようとして、またリストバンドが震える。

 ——“助ける”が、罰になる。

 天井のアンテナが反応し、赤圏の照明がさらに暗くなった。

 光量12lx。限界視野が狭まる。人と人の表情が読めなくなる。

 善意が、視界を奪う。


 「終了まであと三分です。」

 LEDがそう告げるたびに、床の金属板が微かに鳴った。

 気圧変動による膨張収縮だ。

 そのたびに、何人かが意識を失い、倒れる。

 だが“事故”は宣言されない。

 記録係は無表情にタブレットへ指を走らせる。

 “欠損値処理”という名の葬式。


 終盤、ドームの外周に沿って、白いスモークが立ち上がった。

 外側ゾーンの酸素濃度を再調整するための放出ガス。

 だが、内側の私たちには“霧”にしか見えなかった。

 目の前の一年生がその霧を吸い込み、咳を止める。

 「大丈夫、まだ……」

 私はその声の途中で、またリストバンドの震えを感じた。

 E指数が上限に達したサイン。

 中央スクリーンの“赤圏”の人数表示が点滅する。

 ——ここから、誰かが選ばれる。


 次の瞬間、ドームの床が震えた。

 中央ブロックがゆっくり沈み始めた。

 周囲がざわめく。

 「何……?」「演出?」

 演出なら、匂いがこんなに鉄くさくはならない。

 下降と同時に、冷却装置の冷風が吹き出す。温度が急降下。

 低酸素+低温で、意識がぼやけるよう設計されている。

 誰も叫ばない。叫べない。

 “待って”の子音が、再び空気の皺になる。


 LEDがゼロを示した。

 女の声が告げる。

 「封鎖解除。安全を確認しました。」

 安全? どこの? 誰の?

 中央ブロックの赤圏は、静まり返っていた。

 人の数が、さっきより明らかに少ない。


 残された私たちは、青と黄の通路へ導かれる。

 冷たい空気が背中を撫で、金属の扉が開く。

 その奥に、次の実験区画——“儀式空間”がある。

 四つの箱、三つの鍵、ひとつの“返さない箱”。

 公平という名の欺瞞が待っている。

 そして、心の貞操が試される。


 私は振り返った。

 ガラスドームの床に、手の跡が残っていた。

 血ではない。結露だ。

 けれど、それを照らすLEDの赤は、どんな血よりも濃かった。


 ——助けるたびに、世界が壊れていく。

 その壊れ方が、あまりにも静かで、あまりにも設計的だった。

 私はもう理解していた。

 この“ゲーム”は、暴力ではなく統計で人を殺す。

 殺し方は冷たく、正確で、誰にも罪が残らない形で。

 だからこそ、最悪だ。


 私は一年生の頬に手を当てて言った。

 「次は、声を出さないで。聞こえるだけで、選ばれるから。」

 彼女は頷いた。

 その瞳孔が震えて、赤の反射が消える。

 ほんの一瞬だけ、彼女が“青”に見えた。

 でも、その色は錯覚だった。


 封鎖解除の音が鳴る。

 私は最後にもう一度、ガラスの天井を見上げる。

 カウントダウンLEDは消えている。

 けれど、そこに焼き付いた数字の残像が消えない。

 “0”の形が、まるで瞳孔みたいに見える。

 見られている。

 観測されている。

 この記録は、きっとどこかで使われる。

 参加人数は「978人」にまで減っていた。


 これは、終わりではなく、選定の始まり。

 倫理はもう、数式の外に逃げ場を持たない。

 そして私たちは、次の空間へ進む。

 四つの箱、三つの鍵、ひとつの返さない箱。

 “公平”という名の虚構を、人体で証明する場所だった。



 ガラスドームの扉が閉まると、音は一段落ちた。いや、落とされた。

 廊下の先は、吸音材で箱型に整えられた長方形ホール。壁は黒のメラミン、床はグレーのPVC。

 天井高は不自然に高いのに、光は0.3lxしかない。月明かりより暗い。

 鼻に入る匂いは“無臭”——パラフィンとローズウッドを極薄に混ぜたマスキング。

 金属臭、汗、消毒の匂いを丸ごと押し流すための合成の静けさ。

 ここは音と匂いを奪って判断を早める部屋だ。祈りが育つ前に、指先を動かさせる。


 中央に四つの箱が置かれていた。

 人が一人向き合えばぴったり塞がる幅。正面に手を差し入れる楕円の開口。

 上に無造作なラベルが貼ってある。

 •BOX-A

 •BOX-B

 •BOX-C

 •BOX-∅(返さない箱)


 「三つの鍵が入っています」

 合成音声が淡々と告げる。「鍵を得た方は扉の向こうへ。安全のため、開口部から手を離さないでください」


 安全のため。ここまでで一番、危険な言葉。


 箱はすべて同じに見える。でも、同じじゃない。

 正面の開口のエッジ材が箱ごとに違う。

 Aはゴム、Bはシリコン、Cはフェルト、∅は黒い樹脂。

 わずかな摩擦係数の差。手を入れたときの“抜けやすさ”が違う。

 たぶん、中の仕掛けはこうだ——

 容量式タッチ+微圧センサ+機械式ラッチ。手が“握る”動きを読み取ると、カムが回って“鍵”を解放。

 ただし、∅は別。ラッチが“戻り側”に付く。握ると逆方向に噛む。

 “返さない箱”の名前は比喩じゃない。指の自由を返さない、という意味。


 壁際の表示が点灯する。

 A/B/C のうち三つの箱に、実際に鍵がある。

 ∅には鍵が“ない”。——とだけ書いてある。

 いま必要なのは鍵じゃなく、“さわる勇気”だと装置は言う。

 勇気は、ここでは入場料に変換される。


 「はじめていい?」

 隣の一年生が囁く声は、吸音で丸ごと脳内に直射してくる感じがした。

 私はうなずけない。代わりに手順を頭でなぞる。

 手を入れる人は一人。後ろの人は肩甲骨に手を添える。

 呼吸は4-7-8。

 「やめる」合図は二回のタップ。

 ——それでも、ここでは遅い。


 最初に動いたのは“青レーン”の男子だった。

 「俺、行くわ。A」

 明るい声。箱の前に立ち、手を入れる。

 ゴム縁が手首に柔らかく触れる。

 彼は笑って言った。「柔らか——」

 カチ。

 金属が軽く噛む音。

 彼の肩がすっと固まる。

 戻り側に微小なラチェット。引くほど奥へ半歯ずつスライドする機構だ。

 「抜けない……」

 笑い声が、音響に吸われて形のない空気になった。

 彼は握らないように開いた掌で探る。探るたび、容量センサが誤反応してラッチが一歯噛む。

 **“安全のため、手を離さないでください”が、“離せない仕組み”**に言い換えられる。


 係員は近づかない。近づけばE指数が動く。

 代わりに天井のスピーカーが、拍手SEを微かに流す。

 ——“挑戦”を称える音。

 挑戦はここでは締結の合図だ。


 私は見えない箱の中身を想像する。

 A/B/C のうち二つは本物の鍵。一つは偽物(冷間圧延の鍵型プレート)。

 ∅はカムの向きが反転。

 どの箱にも刃はない。

 刃は要らない。

 噛み込みと時間だけで、人は自分の手を裏切る。


 最初の**“当たり”はBだった。

 女の子が小さく声を上げ、真鍮の鍵を掴む。

 スピーカーが花火のSEを流す。

 照明がほんの少し明るくなる。0.4lx。

 彼女は振り返り、誇らしげに笑う。

 その笑顔の輪郭が、後ろの列の罪悪感を削る。

 ——“誰かが進めた”**という事実が、残った人に“早く”を強いる。


 「次、C!」

 せかす声。

 Cの前に立った少年が、深呼吸。

 私は胸の前で指を折る。1、2、3——

 カチッ。

 噛んだ。

 彼は微笑む。「だいじょ——」

 声が途中で途切れる。

 箱の中でコイルが通電し、ソレノイドの逆打ちで手首が2mmほど押し込まれる。

 引き抜く反射が働く。

 ラチェットが二歯、噛む。

 「ぅ、ぅ……」

 言葉じゃない声。STIが0.38に落ちて、母音しか残らない。


 「やめる」二回のタップが箱に伝わらない。

 フェルトが減衰して、合図は機械に届かない。

 “やめる手続き”は、最初から機能不全に設計されていた。


 二本目の鍵はAから出た。

 ——Aに鍵があったという事実が、最初の男子を責めない。

 でも、彼の手はまだ噛まれている。

 鍵を得た女子が扉の向こうへ消えても、残る手は残り続ける。

 公平という名の残酷が、二つの真実を同時に立てる。

 「正しく進めた人がいる」と「正しく取り残された人がいる」。


 箱の前の**“赤”は、私たちだ。

 助けたい。

 助けかたがない。

 助ける行為はE指数を跳ね上げ、次の区画で罰になる。

 私は肩甲骨に手を添えたまま、呼吸だけを合わせる。

 4-7-8。

 二人の胸郭が同じ伸縮**をする。

 ——呼吸はまだ、奪われていない。


 最後の鍵はCから出た。

 B/A/C——∅を残して三本が揃う。

 「鍵の配布、完了しました」

 PAの声が静かに蓋を閉める。

 ∅の前には、三人が残った。

 最初に噛まれた少年、途中で噛まれた少女、そして——

 私の一年生。

 彼女は入れていない。まだ。

 でも、順番はここで止まる。


 「返還手順に入ります」

 壁のライトが冷たく白になる。

 箱の内部で、逆回転のカムが等速で回り始める。

 ゆっくり、ゆっくり、歯を一枚ずつ外す速度。

 外れる“間”に反射が起きる。

 痛覚が抜き反射を誘い、また噛む。

 ——返さない箱は力ではなく“間”で人を縛る。


 係員が一歩前に出る。

 「安心してください、危険はありません」

 危険の定義が、ここでは**“流血がない”に限定される。

 自由が失われることは、危険の定義に入らない**。

 倫理の白い部屋が塗り替えられる音がした。


 最初の少年の手が外れた。

 二十六秒。

 彼は笑おうとして、笑えなかった。

 微細な震えが前腕に残り、把握力が戻らない。

 手のひらは青白い。

 小さな後遺症。

 ——進んだ。


 二人目。

 四十秒。

 涙が顎から落ちる。

 音は吸われ、匂いは消され、痛みだけが室温みたいに拡がる。

 ——進んだ。


 三人目。

 彼女はまだ手を入れていない。

 ∅の前で、自分の番を待つという形で拘束されている。

 「もう鍵はない」

 頭では分かっている。

 でも列は進む。

 “やめる”は誰の手続きでもない。

 私は彼女の肩を二回、そっと叩いた。

 ——撤退の合図。

 彼女は首を振った。

 進むという意志は善意に似て、ここでは罰だ。


 彼女の手が開口に入った。

 黒い樹脂が手首を軽く抱く。

 私は数える。1、2、3、4——

 カチ。

 噛んだ。


 世界が静かになった。

 音はある。機械の低い回転音、空調の微風、誰かの靴裏。

 でも、意味はない。

 意味は吸音される。

 残るのは、握ってはいけないのに握ってしまうという生体の癖だけ。

 癖が噛む。噛むが震える。震えが噛む。


 十分後、彼女の手は戻った。

 痕は残らない。

 痺れだけが残る。

 痺れは記憶と混ざる。

 混ざった記憶は、次の区画で選択に影響する。

 ——人は機械から出るとき、もう“同じ人”ではない。


 扉が開く。

 「儀式は終了しました。安全を確認しました」

 安全の定義が、またひとつ狭くなる。

 箱は片付けられない。

 残像が片付かないから。


 出口の脇に、白い掲示が出た。

 『協力に感謝します。この先、協力はより有効です』

 嘘は命令の形をしている。

 “協力”は次の区画——倫理傾斜の廊下——で逆関数になる。

 二人で持つと軽くなる箱、三人で持つと重くなる箱、独りで持つと扉が開く箱。

 協力すれば破滅する。

 信じる力が貞操の核だと、ここでようやく分かる。


 私は一年生の指を握り替え、関節ごと包む。

 触ることだけが、まだ装置にデータ化されていない微小な逃げ道。

 次で壊されるとしても、今はまだ。


 扉の向こうは明るかった。

 明るさは安全の代用じゃない。

 廊下の壁に、細い文字が流れる。

 「倫理傾斜テスト/段階2」

 テストという単語が、試験じゃなく処罰の別名だと、身体はもう知っている。


 公平という名の欺瞞は、人の“祈り”を薄く削いで、選択だけを残した。

 選択はいつでも正しいように見える。

 正しいはいつでも罠に接続されている。

 協力を模倣するヒントが壁に並び、協力そのものが罰則になる関数が床に埋め込まれている。


 私は歩く。

 まだ壊れていない。

 壊れないために、壊すべきものを見極めるために。

 記録はもう祈りじゃない。

 干渉はもう罪じゃない。

 どちらも、ここでは呼吸だ。



 読み切ってくれて、ありがとう。

 ガラスドームは“公平性”の皮で酸素と時間の分配を操作し、儀式空間は“挑戦”の皮で自由の可逆性を奪った。

 暴力は目立たないほうが致死率が高い。W1は、その教科書だった。


 ここから先は、観測だけでは足りない。

 だから、W2の私たち用に、最小限の運用手順を置いておく。

 名前を呼ぶのは、役割を縛るためじゃない。反射をそろえるため。


 •ユウマ:残響窓の管理。次の試験では同期強度(κ)を上げすぎないこと。

 θ≦0.05の範囲で位相合わせ、私だけが深層へ降りる。君は浅層の足場でいて。


 •ミサキ:介入の閾値を決めよう。

 O₂<19.0%、気圧<97kPa、STI<0.45——この三条件が同時に落ちたら、“善意の停止”を敢行する。

 助けないことは非情じゃない、設計の破断だ。


 •ミナト:本稿の係数を運用式に落として。E_i→導線重みw_i→転送確率p_iの連鎖を、逆算できる形に。

 たぶん“善意課税”の核は**p_i∝exp(λE_i)**の族。λを折る方法を。


 •トウタ:音。拍手SEの包絡を切るハモり方を探して。BPM、拍頭、子音の周波数帯。

 君の一言が合成音声の命令を無効化する時がある。


 •レイカ:掲示文とアナウンスを書き換える文を準備して。

 “安全を確認しました”に対して、“誰の”を差し込む短文を。言葉はスクリプトだ。上書きできる。


 •チイロ:……もし、また“潮目”に触れたら、私だけに合図して。

 二回、タップ。それだけで戻れるように、私は呼吸を合わせておく。


 私は、怖い。

 でも、怖いまま進むと決めた。痛み=位置確認だから。

 過去を変えることが目的じゃない。過去に方向を与えることが目的だ。

 “観測”に“干渉”を、等量だけ混ぜる。

 それが、W2のNOXが生き延びる配合比だと思う。


 この記録はここでいったん閉じる。

 次は信頼の模倣が壁に並び、協力が罰になる床が待っている。

 読んで、準備して、呼吸をそろえて来て。


 最後に——

 ユウマ、あなたが“誰も裏切らない”ほうの正しさを選ぶなら、私は“誰かを救うために世界を裏切る”ほうの正しさを選ぶ。

 位相は逆でも、同じ円の上にいる。

 だから、この円を回し続けよう。止めないで。


 ——アスミより。


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