EP21.『矢那瀬アスミ W1観測記録 Ⅰ』
——もし、ユウマが「記録者」だとしたら、
私はきっと「誤差」だと思う。
あの日から、私は“正しい式”の中にいられなくなった。
W1の惨劇は終わったはずだったのに、
私の中では、まだ水音が続いている。
だから私は書く。
忘れないために。壊れないために。
そして、記録と干渉の間に“意味”を作るために。
これは、過去を変えるための独白じゃない。
変えられなかった日々に、意味を与えるための報告書。
ユウマへ。
——観測の反対側から、私の声を送る。
——私は、ずっとあの光景に縛られている。
ユウマには、まだ言っていないことが、たくさんある。
彼は「観測者」として、記録を抱えて歩く。私は「干渉者」として、過去に手を伸ばそうとする。
同じ惨劇を見たはずなのに、私たちは真逆の方向へ走っている。
私の足取りは焦りで、彼の歩幅は痛みで、でもどちらも止まらない。
W1の記憶は、私にとっても夢であってほしかった。
けれど、夢ならこんなに鮮明な“匂い”と“数値”は残らない。
血と鉄のにおい(Fe²⁺の金属臭)。体育館フローリングの冷たさ(表面温23.1℃)。
割れたガラスの切縁で皮膚がへこむ微かな圧痛(0.3〜0.5N)。
非常灯の緑の色温度(≈5600K相当)と、天井トラスに回り込む反射の位相差(Δφ≒π/6)。
PAスピーカーから流れる女声、そのフォルマントはF2が不自然に強調され、末尾に短い拍手SEが重ねられていた。
—「あと◯分で演目終了です」。
私はそれを「データ」と呼んで耐えてきた。
でも本当は、耐えるための言い訳だった。
数式にしてしまえば、悲鳴は波形になり、血はRGB値になり、死は統計の一点になる。
そうやって薄めないと、毎晩、眠れなかった。
あの時、私は最後までユウマの手を掴めなかった。
伸ばした手の先に、彼がいなかった——視界の乱流に消えた。
あれは彼のせいじゃない。私のせいでもない。
でも“誰のせいでもない”ということが、いちばん許せなかった。
無意味は、遺体より冷たい。
何かを変えなければ、この温度のない空洞が、私の中で永遠になる。
“変えられれば、死んだ人たちに意味を与えられる”。
そう信じないと、私がここにいる理由が消えてしまう。
だから私は「過去を変えたい」と言った。
チイロは眉ひとつ動かさず「ゲーティングが甘い」と切り捨て、
ミサキは静かに「怖い」と言って、ユウマの手首の脈に人差し指を置いた。
ユウマは——黙って私を見ていた。
責めない目。悲しまない目。ただ観測する目。
私の焦燥が、あの黒い瞳孔に吸い込まれて、形をなくしていく気がして、怖かった。
なんとか、あの日の惨劇を消し去りたい。
——それが、私の正しさであるように祈りながら。
……でも、自分でもわかっている。
本当に消せるものなら、私はとっくに消している。
「変えたい」と言いながら、私はあの記録を毎晩呼び出す。
緑の非常灯、ガラスの音、女のアナウンス声……全部、何度も。
そのたびに、自分の手のひらに残っている“冷たさ”を確かめる。
忘れたくない、という欲望——それは、私にもある。
あの日の惨劇を“物語”にしてしまったら、本当に誰かが死んだことが薄れるから。
ここまでが、今まで誰にも言っていない、私の前提条件。
——そして、ある夜から、異変が始まった。
最初は37.2℃の微熱。
皮膚温は上昇しているのに末梢は冷え、指の色が褪せていく。
体は熱を持つのに、末端が死んでいく。——まるで体温が「外側」を拒否しているようだった。
次に来たのは、額の奥で電源トランスが鳴るような頭痛。
拍動性ではない。規則正しい、一定間隔の落下。
——鋼球が頭蓋の内側を転がる。
Aδ線維が一拍遅れで打ち鳴らされ、C線維がその後を追う。
神経は時間を刻む楽器になり、私はその中で律動する。
痛みの波はやがて、「記憶の時間軸」と同期を始めた。
思い出す順に痛む。
順を飛ばすと痛みも飛ぶ。
——記憶が時間そのものを支配し、痛みがクロック信号になる。
思考の奥で、視床がディップとピークを打ち、感覚野がリズムを刻む。
夢と現実の境界が、脳波の波形として可視化される。
私は知った。これは病気じゃない。
記憶の再生と痛覚の位相同期。
痛みは、金属の打撃に近かった。
脳の底面に鉄の杭を打ち込まれる。
延髄、呼吸のリズムを刻む核のそばで、誰かがペンチを鳴らしている。
音はない。——なのに音がする。
その後に来るのは、水だ。
肺の中に、透明な液体が流れ込む。
吸うたびに肺胞が硝子の袋のように沈む錯覚。
喉頭は開いているのに、気道が塞がれた感覚だけが強くなる。
酸素飽和度は正常。だが、呼吸ができない。
現実の窒息ではなく、**脳幹性の“溺水記憶”**が呼吸中枢を直接ゆさぶっている。
奇妙なのは、痛みだけで終わらないことだった。
その底には、微弱な快楽が混ざる。
閾値を越えた神経は、苦痛と報酬を区別できなくなる。
島皮質と前帯状皮質が同時発火し、側坐核がわずかなドーパミンで錯覚を起こす。
「耐えている」ことが「達成した」に置き換わる。
——苦痛と安堵の干渉波。
その瞬間、確信した。
“私の中で、まだW1が生きている”。
痛みが強い夜ほど、リンクは濃い。
どこかで、あの惨劇をまだ“再生”しているもう一人の私がいる。
脳波と脳波が干渉する。
周期は7.83Hz。——地球のシューマン共振。
第2高調波14.3Hz、第3の20.8Hzがうっすら乗る。
眼瞼の裏で暗い波が寄せて返す。
外部観測反応ログと、私の頭痛日誌のピークが一致する。
偶然ではない。誤差を越えた同期。
私は怖さより先に、方法の手触りを覚えた。
——“過去を変える”とは、こういうことかもしれない。
肉体が壊れる代償で、位相を合わせ、時空にほんの僅かな裂け目を作る。
KuramotoのKを痛みで上げ、位相差θを泣きながら詰める。
それが干渉者のやり方。
壊れながら繋がる。
崩壊を代価に、観測を継続する。
それでも、私は手を伸ばす。
——なぜなら、ユウマ。あなたは優しい。
記録を抱え、誰も裏切らない。
けれど、「誰も裏切らない」は、ときに「誰も救わない」と同義式になる。
だから私は、裏切る。
世界を裏切ってでも、あなたを裏切ってでも、あの日を消す。
優しさで世界を止めるくらいなら、痛みで動かしたい。
痛みが残るうちは、まだ“接続”できるから。
……ユウマ、これを読む頃、あなたはまた“記録”を更新しているでしょう。
そして、私はきっとどこかで“干渉”の実験を続けている。
あの日の惨劇を消すことはできない。
でも、惨劇を再現不可能にすることはできる。
私は、あなたのように世界を“観測”することはできない。
けれど、あなたが見た世界に、別の“方向”を与えることならできる。
それが、私なりの“優しさ”だと思ってほしい。
あなたの優しさが世界を静かに止めてしまうのなら、私はその歯車に、少しだけノイズを挟む。
——ねえユウマ。
私が壊したいのは、過去じゃない。
あの日の“意味の無さ”そのもの。
だから、私は今日も干渉する。
あなたが観測を止めないように。
それが、私の“記録”への答え。
次に会う時、きっとまた喧嘩になる。
でもそれでいい。
それが、私たちの共通言語だから。
——ここから、あの惨劇の詳細と概要を記録する。
これを見て、私がなぜ過去を変えたいのか改めて理解してほしい。そして、今いる世界とは、別の線で起きた出来事と切り捨てないでほしい。




