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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
W1観測記録編

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21/94

EP21.『矢那瀬アスミ W1観測記録 Ⅰ』

 ——もし、ユウマが「記録者」だとしたら、

 私はきっと「誤差」だと思う。


 あの日から、私は“正しい式”の中にいられなくなった。

 W1の惨劇は終わったはずだったのに、

 私の中では、まだ水音が続いている。


 だから私は書く。

 忘れないために。壊れないために。

 そして、記録と干渉の間に“意味”を作るために。


 これは、過去を変えるための独白じゃない。

 変えられなかった日々に、意味を与えるための報告書。


 ユウマへ。

 ——観測の反対側から、私の声を送る。


 ——私は、ずっとあの光景に縛られている。

 ユウマには、まだ言っていないことが、たくさんある。

 彼は「観測者」として、記録を抱えて歩く。私は「干渉者」として、過去に手を伸ばそうとする。

 同じ惨劇を見たはずなのに、私たちは真逆の方向へ走っている。

 私の足取りは焦りで、彼の歩幅は痛みで、でもどちらも止まらない。


 W1の記憶は、私にとっても夢であってほしかった。

 けれど、夢ならこんなに鮮明な“匂い”と“数値”は残らない。

 血と鉄のにおい(Fe²⁺の金属臭)。体育館フローリングの冷たさ(表面温23.1℃)。

 割れたガラスの切縁で皮膚がへこむ微かな圧痛(0.3〜0.5N)。

 非常灯の緑の色温度(≈5600K相当)と、天井トラスに回り込む反射の位相差(Δφ≒π/6)。

 PAスピーカーから流れる女声、そのフォルマントはF2が不自然に強調され、末尾に短い拍手SEが重ねられていた。

 —「あと◯分で演目終了です」。


 私はそれを「データ」と呼んで耐えてきた。

 でも本当は、耐えるための言い訳だった。

 数式にしてしまえば、悲鳴は波形になり、血はRGB値になり、死は統計の一点になる。

 そうやって薄めないと、毎晩、眠れなかった。


 あの時、私は最後までユウマの手を掴めなかった。

 伸ばした手の先に、彼がいなかった——視界の乱流に消えた。

 あれは彼のせいじゃない。私のせいでもない。

 でも“誰のせいでもない”ということが、いちばん許せなかった。

 無意味は、遺体より冷たい。

 何かを変えなければ、この温度のない空洞が、私の中で永遠になる。

 “変えられれば、死んだ人たちに意味を与えられる”。

 そう信じないと、私がここにいる理由が消えてしまう。


 だから私は「過去を変えたい」と言った。

 チイロは眉ひとつ動かさず「ゲーティングが甘い」と切り捨て、

 ミサキは静かに「怖い」と言って、ユウマの手首の脈に人差し指を置いた。

 ユウマは——黙って私を見ていた。

 責めない目。悲しまない目。ただ観測する目。

 私の焦燥が、あの黒い瞳孔に吸い込まれて、形をなくしていく気がして、怖かった。


 なんとか、あの日の惨劇を消し去りたい。

 ——それが、私の正しさであるように祈りながら。


 ……でも、自分でもわかっている。

 本当に消せるものなら、私はとっくに消している。

 「変えたい」と言いながら、私はあの記録を毎晩呼び出す。

 緑の非常灯、ガラスの音、女のアナウンス声……全部、何度も。

 そのたびに、自分の手のひらに残っている“冷たさ”を確かめる。

 忘れたくない、という欲望——それは、私にもある。

 あの日の惨劇を“物語”にしてしまったら、本当に誰かが死んだことが薄れるから。

 ここまでが、今まで誰にも言っていない、私の前提条件。


 ——そして、ある夜から、異変が始まった。


 最初は37.2℃の微熱。

 皮膚温は上昇しているのに末梢は冷え、指の色が褪せていく。

 体は熱を持つのに、末端が死んでいく。——まるで体温が「外側」を拒否しているようだった。


 次に来たのは、額の奥で電源トランスが鳴るような頭痛。

 拍動性ではない。規則正しい、一定間隔の落下。

 ——鋼球が頭蓋の内側を転がる。

 Aδ線維が一拍遅れで打ち鳴らされ、C線維がその後を追う。

 神経は時間を刻む楽器になり、私はその中で律動する。


 痛みの波はやがて、「記憶の時間軸」と同期を始めた。

 思い出す順に痛む。

 順を飛ばすと痛みも飛ぶ。

 ——記憶が時間そのものを支配し、痛みがクロック信号になる。


 思考の奥で、視床がディップとピークを打ち、感覚野がリズムを刻む。

 夢と現実の境界が、脳波の波形として可視化される。

 私は知った。これは病気じゃない。

 記憶の再生と痛覚の位相同期。


 痛みは、金属の打撃に近かった。

 脳の底面に鉄の杭を打ち込まれる。

 延髄、呼吸のリズムを刻む核のそばで、誰かがペンチを鳴らしている。

 音はない。——なのに音がする。

 その後に来るのは、水だ。


 肺の中に、透明な液体が流れ込む。

 吸うたびに肺胞が硝子の袋のように沈む錯覚。

 喉頭は開いているのに、気道が塞がれた感覚だけが強くなる。

 酸素飽和度は正常。だが、呼吸ができない。

 現実の窒息ではなく、**脳幹性の“溺水記憶”**が呼吸中枢を直接ゆさぶっている。


 奇妙なのは、痛みだけで終わらないことだった。

 その底には、微弱な快楽が混ざる。

 閾値を越えた神経は、苦痛と報酬を区別できなくなる。

 島皮質と前帯状皮質が同時発火し、側坐核がわずかなドーパミンで錯覚を起こす。

 「耐えている」ことが「達成した」に置き換わる。

 ——苦痛と安堵の干渉波。


 その瞬間、確信した。

 “私の中で、まだW1が生きている”。


 痛みが強い夜ほど、リンクは濃い。

 どこかで、あの惨劇をまだ“再生”しているもう一人の私がいる。

 脳波と脳波が干渉する。


 周期は7.83Hz。——地球のシューマン共振。

 第2高調波14.3Hz、第3の20.8Hzがうっすら乗る。

 眼瞼の裏で暗い波が寄せて返す。

 外部観測反応ログと、私の頭痛日誌のピークが一致する。

 偶然ではない。誤差を越えた同期。


 私は怖さより先に、方法の手触りを覚えた。

 ——“過去を変える”とは、こういうことかもしれない。


 肉体が壊れる代償で、位相を合わせ、時空にほんの僅かな裂け目を作る。

 KuramotoのKを痛みで上げ、位相差θを泣きながら詰める。

 それが干渉者のやり方。

 壊れながら繋がる。

 崩壊を代価に、観測を継続する。


 それでも、私は手を伸ばす。

 ——なぜなら、ユウマ。あなたは優しい。

 記録を抱え、誰も裏切らない。

 けれど、「誰も裏切らない」は、ときに「誰も救わない」と同義式になる。

 だから私は、裏切る。

 世界を裏切ってでも、あなたを裏切ってでも、あの日を消す。

 優しさで世界を止めるくらいなら、痛みで動かしたい。

 痛みが残るうちは、まだ“接続”できるから。


 ……ユウマ、これを読む頃、あなたはまた“記録”を更新しているでしょう。

 そして、私はきっとどこかで“干渉”の実験を続けている。


 あの日の惨劇を消すことはできない。

 でも、惨劇を再現不可能にすることはできる。


 私は、あなたのように世界を“観測”することはできない。

 けれど、あなたが見た世界に、別の“方向”を与えることならできる。


 それが、私なりの“優しさ”だと思ってほしい。

 あなたの優しさが世界を静かに止めてしまうのなら、私はその歯車に、少しだけノイズを挟む。


 ——ねえユウマ。

 私が壊したいのは、過去じゃない。

 あの日の“意味の無さ”そのもの。


 だから、私は今日も干渉する。

 あなたが観測を止めないように。


 それが、私の“記録”への答え。


 次に会う時、きっとまた喧嘩になる。

 でもそれでいい。

 それが、私たちの共通言語だから。


 ——ここから、あの惨劇の詳細と概要を記録する。

 これを見て、私がなぜ過去を変えたいのか改めて理解してほしい。そして、今いる世界とは、別の線で起きた出来事と切り捨てないでほしい。


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