EP2. 時間非対称性とタナトスプロトコル
教室のざわめきは変わらないのに、僕の内側だけが静かに軋んでいる。
転校生——矢那瀬アスミの言葉がまだ胸に残ってる。
「歩幅も視線も、他人に合わせすぎます」
ただの指摘であるはずなのに、それは僕の仮面にひびを入れるように鋭かった。
僕は“優等生”として誰かに求められる像に合わせること、笑顔の角度を計算すること。観測者がいるから僕は存在できる。
けれど、その外側にあるものを見てしまったとき……僕はどうあるべきなのか。
けど、この日の夜は選ばざるを得なかった。
優等生ユウマとしてではなく、もう一つの顔を。
夕闇が街を沈ませる。車の排気ガスは熱を失い、湿気と混じって地表に沈降する。人通りが途切れた路地を抜け、僕は錆びた鉄扉を押し開けた。
廃ビルの地下へ降りる階段はコンクリートが剥落し、壁には無数の落書き。だが奥へ進むにつれ、異質な光景が現れる。
配管を覆う断熱材の隙間から極細の光ファイバーが蛇のように這い、蛍光塗料でマーキングされたケーブルが縦横に交差している。金属ラックのファンが低周波を唸らせ、耳の奥を揺らす。空気はわずかに冷たく、液体窒素を循環させる配管の匂いが鼻を刺した。
——ここが僕らの拠点、ノード・ゼロ。
放課後の遊び場であり、学術的な研究施設であり、そして何より僕たち五人の裏の舞台だ。
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「犯罪予告、掲示板に来てる」
最初に声を上げたのはスペクター。亞村トウタ。
長い前髪に隠された片目は光の反射で鈍く輝き、モニターの青白い光に照らされている。回転椅子を揺らしながら、彼は匿名掲示板のログを次々とスクロールする。
表の顔は噂好きのクラスメイト。しかし裏では、都市伝説と怪談の収集を「データマイニング」として昇華させた男だ。嘘と真実の境界を嗅ぎ分け、ノイズの中から有効な信号を抜き出す。
「時刻指定は二十二時。“西の鐘”。……文言は古臭いけど、座標を指すには十分。旧教会だな」
彼は文章の言い回しに含まれるメタデータまで解析している。嘘のために書かれた嘘と、真実を隠すための嘘を分けて読むことに長けていた。
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「座標解析済み」
淡々と告げたのはルート。立花ミナト。
タブレット三枚を同時に操作しながら、彼は監視カメラの映像と衛星写真を組み合わせる。指の動きは演奏者のように滑らかで、複数のOSを跨いで処理を走らせていた。
「赤外カメラの映像に、不審人物三。行動パターンが不自然で、移動速度も揃いすぎている。残り四十七分」
その声は、冷却装置の規則正しい低音のように、感情を混ぜない。
表では物静かな天才。裏の顔では、システム設計と制御のすべてを担う。彼の解析がなければ、僕らはただの無謀な集団に過ぎない。
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「ユウマ……本当に行くの?」
小さな声を重ねたのはオーロラ。霧島ミサキ。
心配性の幼馴染。だが裏では、安全管理と救護を担う。
彼女の端末には僕の心拍数、体温、血中酸素濃度がリアルタイムで並び、過去の出動時に負った傷の履歴までもがグラフ化されている。
「……このまま警察に任せる選択肢だってあるでしょ。あなたが危険を背負う理由なんて、どこにもない」
声は震えているが、その震えは恐怖ではなく抑止力。彼女の存在はNOXが暴走しないための制動装置だった。
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「救世主様のお出まし、ですね!」
高らかに叫んだのはサイレン。火宮レイカ。
両手を広げ、演劇部顔負けの声量で地下室を震わせる。だがその芝居がかった声色は、次の瞬間、冷静な低音へと変わった。
「私がSNSに偽情報を流します。交通事故の目撃談、火災のデマ、救急要請の誤配信……警察も一般人も旧教会から遠ざける。舞台は空にしておきます」
彼女は“痛い子”として日常を演じている。だが裏の顔は、群衆心理を操作するプロ。芝居がかりすぎた日常も、裏ではすべて訓練だった。
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——そして僕、いや俺はタナトス。
岡崎ユウマ。表の顔は天城総合学園の優等生。誰からも信頼されるモデルケース。
だが裏の顔では、この四人を束ね、実際に現場に立つ役割を担っている。
優等生としての僕は観測者に最適化された仮面。タナトスとしての俺は——観測を拒絶する存在だ。
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四人の視線が集まる。冷却ファンの唸りが室内の低音を満たし、液体窒素の蒸発音が小さなパルスのように空気を震わせる。
時間が圧縮され、選択の瞬間が迫る。
俺は一歩、前へ出る。コンクリートに靴音が響き、空調音すら一瞬止まったように感じられる。
「止める。俺が行く」
その言葉が落ちた瞬間、空気の温度が変わる。
優等生の仮面は剥がれ落ち、タナトスが立ち上がる。
メンバーはそれぞれの役割を理解している。
スペクターは噂を掘り、ルートは制御を担い、オーロラは安全を守り、サイレンは群衆を欺く。
そして俺は——実行者。最前線で現実を変える刃だ。
ルート——立花ミナトが無言でハンガーラックを引き出す。そこには、漆黒のスーツ、床まで垂れるロングコート、そして多層レンズの高感度ゴーグルが整然と吊り下げられていた。
表面はナノメートル単位で加工されたメタマテリアル。可視光も赤外も、一定角度からは存在を“反射せず”に逃がす。
「イレイザー。痕跡を消すための装備だ」
ミナトの声は冷ややかで、説明以上の感情を含まない。
袖を通す瞬間、繊維に組み込まれた人工筋肉が収縮し、身体の動きに同期する。繊維が吸音材のように音圧を拡散し、自分の呼吸音すら小さくなる。
コートの裾が揺れるたび、視界の周囲が微かに歪む。光が撓み、影が飲み込まれる。
ゴーグルを装着すると、視界は即座にHUDへと塗り替えられた。酸素濃度、電磁波強度、建物の構造スキャン。赤外域の人影が数秒単位で更新されていく。
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「ルート、ナビを」
「座標、転送済み。進入経路は三通り、第一経路が最短」
「スペクター、雑音を拾え」
「おうよ。旧教会の怪談を十件ばらまいてやる。噂で奴らの足を鈍らせる」
「サイレン、群衆を散らせ」
「了解。SNSに火災報知と交通障害を流す。舞台はあなたのために整えます、救世主様」
「オーロラ、ここを頼む」
ミサキの指がわずかに震えている。
「……必ず帰ってきて」
その言葉はデータでも計算でもない。だが、僕の中で一番強いプロトコルとして刻まれる。
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イレイザーのコートを翻し、暗闇に身を溶かす。
足音は拡散吸収され、熱源は環境ノイズに埋没する。
監視カメラには影すら残らない。
観測から消える存在。
イレイザーを纏った俺は、ノード・ゼロから夜の街へと歩み出した。
HUDは外界の情報を再編成し、光学ノイズを抑制する。街灯の明滅、車のテールランプ、煙草の火——雑音はすべてフィルタリングされ、暗闇は昼のように構造化されていた。
赤外域では猫が塀を跳び越える瞬間の筋肉の収縮までもが見える。音声センサーは空気の微振動をスペクトログラム化し、靴底に仕込まれた圧電素子は接地ごとに地形データを更新する。地面のわずかな傾斜も数値化され、歩幅が自動補正される。
「ルート、経路確認」
『第一経路で確定。北側の路地は死角が多いが、最短だ。監視カメラは既にノイズを挿入済み。視線に捕まることはない』
ミナトの声は冷たく研ぎ澄まされ、演算結果のように響いた。
「スペクター、外の雑音は?」
『投下済み。“首なし怪物が出た”ってスレが炎上中。アクセス数は一時間で二千超え。やつらは今、幽霊を想像するのに忙しいさ』
トウタの軽口の裏で、匿名掲示板は既に制御下にあった。群衆心理を操ることこそ、彼の本領だ。
「サイレン」
『はいはい、任せて。SNSに“交通事故による通行止め”を拡散済み。ハッシュタグも仕込んだから、トレンド入りは確実。警察のリソースは別方向に吸われる。舞台はあなたのために空っぽよ』
レイカの芝居がかった声色は、次の瞬間冷静な業務口調へ変わる。虚構と現実を自在に往復する。それが彼女の武器だった。
「オーロラ」
『……心拍数、上がってる。ユウマ、焦らないで。あなたの身体は計算機じゃない』
ミサキの声は唯一、人間の温度を帯びていた。センサーが示す数値以上に、彼女の声は俺を現実へと繋ぎ止める。
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HUDの地図上で、旧教会の輪郭が浮かび上がる。
石造りの外壁は風雨に侵食され、亀裂の角度から計算すると耐震強度は既に危険域。尖塔は夜空を裂くように屹立し、砕け散ったステンドグラスの破片が街灯の光を微細なスペクトルへと散らす。
鐘楼の残響特性はRT60=3.4秒。一度音を発せば、数倍に増幅されて返ってくる。——まさに「西の鐘」。
赤外スキャンで三つの熱源が浮かぶ。
動線は不規則。しかし配置は入口を塞ぐ形に収束している。迎撃の布陣。
彼らは罠を張ったのか、それとも「ここにいる」と見せるための見せ札なのか。
イレイザーの内部は、外界の雑音を遮断する。残るのは心臓の鼓動。骨伝導で増幅されたその音は、唯一敵に知られる雑音であり、生きている証拠でもあった。
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通信が静かに重なった。
『ユウマ——』
オーロラの声。幼馴染としての心配と、NOXの抑止装置としての冷静さ。その両方を宿す声。
「安心しろ。俺は壊れない」
HUDに赤く強調された教会の門が目前に迫る。石畳が濡れ、外灯の下で破片が鈍く光る。
そこから先は闇。だが、闇こそが俺の舞台だ。
都市の夜は、何も知らない顔で眠り続ける。
だが、その下で夜が始まる。
観測されない場所で動き、
世界の裏に触れる夜のチームと共に。
——闇に身を沈め、イレイザーを纏った瞬間、俺はユウマではなくなる。
観測者の視線に縛られた仮面は剥がれ落ち、残るのはただ一つ。
消去の名を持つ影、タナトス。
西の鐘が鳴り響く前に、仕掛けられた異常を止めなければならない。
俺たちの存在は記録されない。噂とノイズに埋もれ、誰の目にも触れない。
だからこそ、俺が動く意味がある。
観測されない領域で、世界を揺らす。
次回、教会の奥で待つのは三つの影。
試験のように並べられた人間の形を、俺は叩き潰す。
これはまだ序章に過ぎない。
——夜は、確実に深まっていく。