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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
幕間

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19/97

EP19. 観測残滓とベイズ

 W1の記憶は、ただの夢なら良かった。

 何度もそう思った。

 けれど――そうじゃない。


 断片は、あまりにも現実的すぎる。温度がある。匂いがある。音響パラメータが測れる。

 ミサキが倒れていた床の冷たさ(体育館フローリング、表面23℃)。

 アスミの叫び(4k付近に突き刺さるフォルマント)。

 水の奔流がコンクリートを叩く鈍い音、鋼材がたわむ金属疲労の悲鳴、鼻腔の奥に刺さる鉄臭。

 天井トラスに反射する非常灯の緑。

 「あと◯分で終了です」と告げる合成女声――

 終了って、何の?


 それは「記録」であって、「幻」じゃない。

 たとえ曖昧でも、僕の中で生き延びてしまった“出来事”だ。


 あの日、校章の並んだ横断幕には《共催:影村×天城》の文字。

 入場QRは「謎解きの鍵」に置換され、通路の導線は片方向。

 床の矢印は意図的に迷いを作る配置で、戻ろうとすると天井スピーカーが「逆走警告」を発する。

 スタッフは顔をフェイスシールドで隠し、声は全員同じ加工音。

 人と対話できない空間。問いが届かない儀式。

 選択肢が提示され、選ばされ、けれどどれを選んでも同じ“詰み筋”に落ちるよう設計されていた。


 最初の“謎”は非常灯の色数。実は二系統配線で、数が固定しない。

 次は「水族館ゾーン」――中庭の仮設ガラスドーム。

 天井に取り付けられた光ファイバの演出は、拍手の強度で色が変わる仕掛けだったらしい。

 だが、拍手は群衆密度の代理変数になり、演出の増幅は退路の封鎖へと最短距離で繋がった。

 誰かが盛り上げる。空気が煽られる。

 音圧は上がり、非常口の前に人の壁ができる。

 「参加者の皆さまは一方向にお進みください」

 女声の穏やかさだけが、世界から意味を剥いでいく。


 その奥で、カウントダウンのLEDが点滅を始めた。

 ドームの曲率に沿って、白い亀裂が髪の毛ほどの細さで走る。

 最初の一音は、低いクラック。

 二音目は、蜘蛛の巣の広がり。

 三音目で、白い稲妻に変わる。

 水が下りてくる。

 重く、冷たい質量が、空気の位置を押しのけて、肺の場所に入ってこようとする。


 スプリンクラーは“演出”名目で外されていた。

 排水は想定されていない。

 非常電源は暗転を“ショー”に見せかけるために遅延し、アナウンスは律儀に「ご来場ありがとうございました」を繰り返す。

 ありがとう、は、誰に向けられていたのか。

 生き残った者か。設計した者か。

 それとも――死ぬことを割り当てられた人間たちか。


 群衆は一瞬で群体になる。

 合理は消え、波が走る。

 前列の悲鳴が、後列の足を凍らせ、中央の押圧が、側壁の圧死を呼ぶ。

 「ゲームの続きは?」「出口は?」「子どもが――」

 質問は、音の渦に溶けた。

 僕は、伸ばした手の先で、誰かの指先に触れ損ねた。

 指の温度だけが、救いの速度で消えていく。


 ミサキが崩れ落ちたのは、光の反射が一瞬だけ強くなった直後だった。

 白い掌、広がる赤、床に散る細かいガラス片――

 僕の脳はその並びを、何度でも再生できる。

 アスミの叫びは、僕の名を呼んだのだろう。

 けれど濁流が子音を千切り、母音を遠くへ運んだ。

 彼女の声は、届かない現実の最短距離に、ずっといた。


 ――理不尽、という言葉は、優しすぎる。

 これは、設計された不在だ。

 助ける手段を最初から取り外し、「選べ」と言った。

 選択肢という名の無選択。

 人間の行動心理を、恐ろしい精度で逆手に取るゲームデザイン。

 誰かの卒業制作にしては、完成度がよすぎた。



 ……本当は、消したい。

 なかったことにして、普通の毎日に戻りたい。

 だってそうしなきゃ、僕は前に進めないから。


 でも、もし消したら――僕自身まで“なかったこと”になってしまう気がする。

 W1で死んでいたのが僕自身だとしたら、

 その残滓を抱いている今の僕は、いったい誰なんだ。


 忘れたら、僕が消える。

 覚えていたら、惨劇が蘇る。

 ハミルトニアンが違う二つの世界線を、僕の海馬は勝手に重ね合わせる。

 天井高、残響(RT60)、群集密度、儀式性――閾値が揃えば、CA3のアトラクタが点火する。

 蛍光灯のフリッカーひとつで、ガラスドームは立ち上がる。

 空調のドレンに過ぎない滴下が、あの日の奔流の前奏に聞こえる。

 風切り音が、悲鳴の第一フォルマントへ変換される。

 ――わかってる。これは再生だ。干渉後のリプレイ。けれど、再生もまた現実を傷つける。


 記録は残酷だけど、嘘はつかない。

 改変は甘いけど、世界に嘘をつく。

(チイロ談――統計的に有意。彼女は笑わない時、刃物みたいに正しい。)


 アスミは「変えたい」と言う。

 ――地層を掘り、層を載せ替える。惨劇の層を別の堆積で置き換える。

 その声音には震えがある。焦燥の熱だ。プリンの糖で誤魔化せない種類の熱。


 チイロは「止めろ」と言う。

 ――女子高生IRBは全会一致。猫箱は、みんなで叩いてから開ける。

 ネクタイ制裁(物理)の圧は、論理の代わりではない。論理を守る最後の実力行使だ。


 ミサキは「守りたい」と言う。

 ――呼吸、4で吸って7で止めて8で吐く。脈は、私が見る。

 小さな手の圧に、僕の現実は留め具を得る。心拍は正しい位置へ戻り、視野は色を取り戻す。


 僕は……何も選べない。

 選んだ瞬間、誰かを裏切るから。

 W1を「無かったこと」にすれば、アスミの“生き延びた意味”を折る。

 W1へ「戻る」を選べば、ミサキの“今、ここ”を手放す。

 手続きを飛ばせば、チイロの盤上を壊す。

 なら――僕に許された安全戦略は一つ。記録を抱えること。抱えるだけで、まだ選ばないこと。


 だから僕は“タナトス”。

 死と記録を背負う観測者。

 選べないまま、ただ残滓を抱き続ける。

 それが僕に許された唯一の――生き方なんだ。



 ……と言っている傍から、また来る。

 フラッシュバックは、演奏会のアンコールみたいに図々しい。


 視界が二重写しになる。

 ノード・ゼロの黒板のチョーク粉が、いつの間にか中庭のガラス粉にすり替わる。

 「共催:影村×天城」の横断幕。

 カウントダウンのLED。

 ドームの曲率に沿って走る亀裂――最初は髪の毛、次に蜘蛛の巣、そして白い稲妻。

 水が落ちる。

 重い。冷たい。耳の中で世界が水没する。

 浮力で足が切り離され、足裏の温度が消える。

 視界の端で、一本のペンライトが波に飲まれて沈む。

 誰かの手が伸びて、届かない。

 アスミが何かを叫ぶ(僕の名だ)。

 ミサキが倒れる(僕の責かもしれない)。

 スピーカーは律儀に言う――「ご来場ありがとうございました」。ふざけるな。


 吸え、ユウマ。4で吸って7で止めて8で吐け。

 (ミサキの声は、最短経路でいつも帰ってくる。不思議だ。)

 角砂糖一個。首筋に冷たいペットボトル。

 「迷走神経リセット」――チイロの乾いた声。

 冷却、完了。ノイズ、減衰。RT60、日常値へ。


 僕は、まだここにいる。

 ガラスは割れず、水は来ない。

 でも、W1の残滓は“死なない”。

 死なない記録を、どう生きるのか。

 ベイズの事前分布は血の上書きで固着し、更新が効かない。

 デコヒーレンスは進むのに、僕の内側だけ干渉縞が消えない。

 猫箱は閉じたまま、叩く手の数だけ増えていく。



 ――それでも。

 もし僕が、すべてを「保存」した先で、誰か一人でも救えるなら。

 もし僕の記録が、アスミの“掘りたい層”に正確な地質図を、ミサキの“守りたい今”に正しい避難路を、チイロの“回したい盤面”に合法手を与えるなら。

 選べないまま、抱えて歩く価値はある。


 いつか僕が選ぶ日が来るなら、

 その時は――

 女子高生IRBの全会一致で、猫箱を叩き割ってやる。

 (ただしネクタイ制裁は免除してほしい。額が弱い。)


 それまでは、記録者でいよう。

 泣きたい夜はプリンを食べ、笑える昼は人を笑わせ、手続きは守って、ミームには最小限だけ乗る。

 そして――W1の声が、もう誰も殺さない形で残るように、書き続けよう。


 だって僕は“タナトス”。

 死因は「記録不足」――そんな行を、二度と書きたくない。

 選べないまま、選び続ける。

 その矛盾を抱いた姿こそ、僕に与えられたオリジナルだと、信じたい。



 ――ぱちん、と音がした。

 網膜の露出が一段、切り替わる。闇から光へ、スコトピックからフォトピックへ――

 生理学の教科書みたいに、世界の感度が可変絞りで開く。


 僕はベッドの中で、浅く速い呼吸を繰り返していた。

 胸郭の上下が短い。横隔膜はきちんと降りていない。心拍はたぶん110前後、RRIは乱れ、迷走神経は黙秘権を行使中。


 白い天井。

 ノード・ゼロの黒板でも、体育館のトラスでもない、ただの天井。

 繊維クロスの微細な凹凸、右隅に貼りっぱなしの養生テープ(いつからだ)。

 壁の時計の秒針が、規則正しく時を刻む――1Hzの安心。

 鼻の奥に金属臭はない。汗とシャンプー(シトラス系)と洗い立てのタオルの匂いだけ。

 耳の奥に悲鳴はない。換気扇の低い回転音(おそらく1200rpm)と、冷蔵庫のコンプレッサが時々鳴らすコトンだけ。


 手のひらが湿っている。

 指先には、まだ“水の重さ”が残っている気がする(錯覚だ。わかってる)。

 心臓のリズムが、あのカウントダウンLEDと同期している錯覚――3、2、1……(ここで止めるな)


 「……はぁ、はぁ……」


 声がかすれる。リファレンスの“僕”と、あっちの“俺”が混線してる感じ。

 自分の声が、誰かの声に似ている気がして、怖い。


 ベッド脇には、チイロが置いていった《迷走神経リセット・キット》が相変わらず雑に鎮座していた。

 中身:冷たいペットボトル×1、角砂糖×2、耳栓(ピンクノイズ推奨)×1、ブルーライトカット眼鏡×1、謎の付箋メモ×多。

 付箋にはちいさな猫の落書きと、**「まだだよ」**の吹き出し。

 あと太字で「※夜間の一人反省会は禁止(女子高生IRB条項M-5)」。


 僕はペットボトルを首筋に当てる。

 後頸部の冷点がスイッチの位置を思い出し、迷走神経がようやく居留守をやめる。

 角砂糖を口に放り込む。ショ糖3g、舌背から正気へ。

 ――冷たい。甘い。ここは、こっちだ。


 スマホが震えた。

 画面にはミサキからの短いメッセージ。


 《息してる? 4–7–8呼吸 ×4セット。水200mlも》

 **“医療文体”**だ。句読点の置き方に心拍数が落ち着く魔法が仕込まれている。


 もう一件、アスミからのメッセージ。


 《ユウマ、また“向こう”見てた? プリン持っていく(固めCV=0.85)。》

 タイムスタンプが微妙にズレていた。世界線の時差、ではなく、彼女が打って消して打って消して迷った痕跡。

 追伸がすぐ重なる。

 《……いや今は夜だから行かない。女子高生IRBに怒られる。明日。》

 えらい(そして可愛い)。IRBは効く。


 僕はスマホを握りしめ、深く息を吸った。

 4で吸って、7で止めて、8で吐く。

 吸気で肋骨が横に、止息で肩が下がり、呼気でみぞおちが柔らかく沈む。

 視界の隅に、まだペンライトが一本だけ浮かんでいたけれど、息といっしょに溶けていく。

 ――光は光。蛍光灯は蛍光灯。あの青いドームじゃない。


 「……ここは、こっちだ」


 声に出す。空気が震える。この部屋の空気の密度は、僕の声で決まる。

 呟くと、口の中にカラメルの苦味が残っている気がした。

 あの日のプリンか、今日のプリンか、わからない(たぶん錯誤合成)。

 でも味覚は、嘘がつけない。生きている証拠としては、十分に頑固だ。


 スマホの画面がもう一度光る。

 チイロから。


 《被験者Y、目覚め確認。尊い統計、リセット開始♡》

 続けて、追伸が連投される。

 《HRVアプリ、5分計測→スクショ→スプレッドシートに貼って》

《今日のトリガ:①水音?②残響?③アナウンス女声?(複数選択可)》

《角砂糖摂取ログ:Yes/No/もっと寄こせ》

 そして最後に、《ネクタイ制裁は就寝時無効》(誰に向けた保険か)。


 胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。

 くだらない。けれど、このくだらなさは、現実の手触りだ。


 僕は言われたとおりにHRVを計測する。

 センサーに指を当て、5分。数値は徐々に持ち直す。RMSSDが少し上がり、LF/HFのバランスが日常域に戻る。

 “こっち側”は、ちゃんと戻れる。手順さえ守れば。


 ふと、壁際の棚に視線がいく。

 NOXの共有端末からプリントした**《フラッシュバック・一次記録票》**が綴じてある。

 【発生時刻】 02:14

 【強度(0–1)】 0.72

 【主要タグ】 #ガラスドーム #水音 #女声アナウンス #非常灯緑

 【対処】 4–7–8×4、冷却、糖3g、猫落書きを見る(有意差あり、らしい)

 今日の行を増やして、ペンを置く。記録は、僕の味方だ(残酷だけど)。


 ――そのとき。

 部屋の外で、雨が窓を叩き始めた。

 タップ、タタタ、タップ。

 反射的に、背筋が強張る。滴下音は危険音だ。W1のアーカイブが勝手に開く。


 「待て」


 僕はベッドサイドの引き出しから耳栓を取り出し、片耳だけにそっと差す。

 両耳を塞ぐと自分の体内音が増幅して、かえって“向こう”が寄ってくる。

 片耳だけが、こっちとそっちの境界を保ってくれるのだ(経験則)。


 スマホがまた震えた。

 今度は通話。ミサキだ。

 「……ユウマ? 起きてる?」

 耳に入る声の帯域は、200Hz〜3kHzの安心。

 「うん。今は大丈夫」

 「4–7–8は?」

 「やった」

 「えらい」

 言葉少なでも、評価は即時。僕の心拍は、さらにひとつ落ちる。

 「明るさ下げて、画面は5分で切って。水、飲んで。……それと」

 「それと?」

「明日のプリンは固めでいい?」

 電話越しに、微かに笑う声。

 「(……おい、アスミと連携してるな)」

 「医療連携です」

 そんなやり取りだけで、部屋の湿度が1%軽くなる。


 通話を切ると、すぐにアスミからメッセージが入っていた。

 《固めで提出予定。カラメル苦め。甘さは調整可。》

 《“提出”て》と返すと、

 《実験試料です。》と来る。

 言い換えの硬さが、逆にやさしい。


 最後に、チイロ。

 《雨の音、バイノーラルフィルタ効かせたホワイトノイズ送った。20分タイマー》

 ファイル名は**nox_pinkRain_mix_v3.wav。こういうところだけ迅速でプロ。

 《ついでに。》

 《夢の中でも、女子高生IRBは有効。》

 スタンプ:箱から顔を出す猫が「まだだよ」**。


 笑う。ここまで手が回っているなら、世界はまだ壊れていない。


 僕は部屋の照明を一段落とし、スマホのタイマーを20分にセットする。

 耳には薄い雨音と、ノイズの膜。

 ベッドサイドの本を手に取り、三つの現実確認をルーチンで行う。

 ①ページ番号を読む(214)。

 ②頭の中で素因数分解(……2×107、よし)

 ③空いている手でベッドの木口を触り、ささくれの位置を確かめる(右下角から3cm、変わらず)。

 ――“こっち側”の地図は、これでいい。


 眼を閉じる。

 まぶたの裏の青は、もうドームの青じゃない。

 水の重さは、換気の風に置き換わる。

 アナウンスの女声は、時計のカチ、と入れ替わる。

 非常灯の緑は、目を凝らさなければ見えないルーターのステータスLEDになった。


 W1の残滓は、まだ僕の中で死なない。

 でも、いま僕が息をしているのは、こっち側だ。

 それを確認するために、僕はログを取り、冗談を受け取り、プリンの予約を受け取る。

 手順。連絡。糖。


 ――それでも、不意に来る。

 フレーム落ちした映像の角が、意識の縁を擦る。

 水が落ちる。

 誰かの手が伸びる。

 届かない。

 (届かせられなかった、のは、たぶん僕だ)

 喉の奥が詰まる。声にならない声が、胸骨の裏で跳ねる。


 「……大丈夫」


 小さく言う。

 ここには、**“叩ける”**箱しかない。猫はまだ出ない。

 そして、叩く順番は、みんなで決める。


 タイマーの小さなベルが、遠くで鳴った。

 目を開けると、窓の雨は弱まり、時計は2:41を指している。

 RMSSDはさっきより上、指先の震えは閾値以下。

 僕はログの最後に一行を足す。


 【備考】 「こっちだ」と口に出すと、戻りが速い(p<0.05、n=僕)。


 スマホを伏せ、枕を整える。

 布団の端に、猫の付箋がはみ出している。「まだだよ」。

 はいはい、まだだ。まだ叩かない。


 ――W1の声は、死なない。

 でも、僕もまた、簡単には死なない。

 “タナトス”は、今日も目を覚まし、そして眠る。

 明日の観測のために。誰かのプリンのために。女子高生IRBの議事録のために。


 かすかに笑って、もう一度だけ、息を整える。

 4で吸って、7で止めて、8で吐く。

 部屋は静かで、現実はやわらかい。

 次に目を開ける時も、まずは同じ確認から始めよう。


 ――ここは、こっちだ。


 今夜もまた、僕は選べなかった。

 “変える”アスミ、“守る”ミサキ、“盤面を正す”チイロ。

 それぞれの正しさは互いに矛盾するのに、どれも等しく必要だ。

 その間に立って、僕は結局“抱える”しかできない。

 抱えて、測って、書き残す。臆病に見えても、それが僕に許された唯一の前進だ。


 フラッシュバックは治らないだろう。

 天井のフリッカー、排水の滴下、非常灯の緑——

 どれもトリガーで、どれも僕をW1へ連れ戻す。

 でも、戻されるたびに一つだけ増えたものがある。手順だ。

 4–7–8、角砂糖3g、後頸部冷却、HRV5分、ログ記入。

 儀式みたいで滑稽だけど、この滑稽さが“こっち側”の手触りだ。

 笑える間は、僕はまだ壊れていない。


 それでも、約束は残る。

 ——壊れても、止める。

 この一句は、格好つけたスローガンじゃなく、明日の作業指示だ。

 スペクターが空気のノイズを洗い、ルートが動線を引き、サイレンが群衆を遠ざけ、オーロラが僕の脈を繋ぎ止める。

 皆の“役”が噛み合う限り、僕は前へ出る。

 選ぶ時が来たら、逃げずに叩く。箱を。門を。

 ただし、鍵は一人では回さない。


 最後に、未来の僕へメモ。

 ・夜中の一人反省会は5分だけ(M-5条、順守)。

 ・「ここは、こっちだ」を声に出す(p<0.05)。

 ・プリンは固め、カラメルは苦め(CV=0.85)。

 ・ログは嘘をつかない。つくのは、だいたい恐怖だ。

 ・もし迷ったら、誰かの手を借りろ。君は“観測者”であって“孤立者”ではない。


 ——ここまで書いて、窓の雨はもう止んでいた。

 非常灯は緑のまま、ルーターは点滅を続ける。

 次に暗転が来ても、幕はまだ降ろさない。

 僕が目を開けている限り、舞台は続く。


 記録を閉じる。

 次の開演まで、少し眠る。また“こっち側”で。


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