EP18. 過去改変とモラトリアムプロトコル
救うためなら、間を飛ばしてもいいのか。
問いはついに宣言のかたちを取り、
《ノード・ゼロ》の夜に置かれたのは、砂と石灰と黒土の“地層”。
アスミは言う――上書きすると。
ミサキは守る――生体を。
チイロは止める――手続きで。
科学も恋も、勇気だけでは動かない。
いま必要なのは、門と鍵と合意だ。
そして、火を囲うための〈保留〉という名のプロトコル。
夜の《ノード・ゼロ》は、いつもより乾いていた。
拭き残したステンレス台からエタノールが微かに揮発し、サーバーファンの低音が空調の定常波に溶ける。天井の蛍光灯は周期的にフリッカーして、黒板上のチョーク粉を星間塵みたいにきらめかせていた。昼の議論が残した円と矢印は、地図のない航路のように絡まり合い、世界と世界をつなぎっぱなしにしている。
「——宣言します」
最初に空気を切り裂いたのは、アスミの声だった。
無駄のない動きで彼女は机上へ透明なアクリル箱をぽんと置く。箱の中には砂(fine sand)、黒土(humus)、白い石灰層(calcareous layer)がミルフィーユ状に重なる層状模型。斜交層理のラインが指紋みたいに走り、ところどころに黒曜質の小片(テフラの比喩)が時間の痕跡として点在している。端には小さく**「試料:w1/w2 stratigraphy(仮)」のラベル。手書きの(仮)が、むしろ彼女の本気**を強調していた。
「私は過去を改変する。」
アスミは層面を指腹で軽くなぞり、次の語を選ぶように置く。
「地層みたいに、層を掘って、層を載せ替える。w1に戻って、学園祭の惨劇の層を別の堆積で置き換える。」
——その言葉に、視界が一瞬だけ二重写しになった。
《開会式》のLEDパネルが、ラボの蛍光灯のフリッカーに重なる。
体育館の床は23℃、表面のワックスが足裏の汗でわずかに粘る。
非常灯の緑(≈5600K相当)が天井トラスで位相ずれし、PAの女声はF2が強すぎる合成音で言った。
——「ようこそ、共催の皆さん。START」
最初の“謎”は非常灯の色の数。でも二系統配線の切替が拍と同期していて、観測者の立ち位置で答えが跳ぶ。
分断は、演出ではなく初期条件だった。
床面プロジェクションの矢印が片方向に流れ、QRは“謎解き”の顔で人員再編を実行する。
ドライアイスの薄い霧——低域が持ち上がり、RT60は2.1→2.7秒。音が重くなると、人も遅くなる。
「あと◯分で演目は終了です」。
——終了って、何の?
エタノールの匂いが戻る。ラボだ。だが喉の奥に、鉄の味だけが遅れて残った。
息が止まる。
ミサキの指が、わずかに僕の袖口をつまんだ。温度でいうと**+0.3℃**、圧でいうと2Nくらいの優しい牽制。
トウタは反射的に親指をスワイプさせ——「#過去改変宣言」と打ちかけた画面は、ミナトの無言の視線(効果量d=0.9)で静かに裏返る。
レイカは舞台袖から出る代わりに椅子の上で背筋を伸ばし、観客席モードで目を輝かせた。
「——やめて」
最初に言葉になったのは、ミサキだった。
「それは、ユウマを壊す。オーロラはビーコンを守る役。
患者に、無麻酔で開頭するみたいなこと、させない」
「開頭手術ではないわ」
アスミは即答。アクリル箱の側面を爪先でトンと叩き、音速で説明へ移行する。
「これは地層の再調整。地層の整形外科。断層をほどき、不整合を埋め、転位した石を正しい層位に戻す。除圧と整復。神経は温存」
「語彙がきれいでも危険度は全然変わらないのだが」
チイロが腕を組み、ホワイトボードへ太マーカーで式を叩きつける。
《ΔW(改変量) → P(破綻)》
右肩にシグモイド、左に指数のラクガキ、おまけにLyapunov指数のλ>0まで書き添える。
「上書きはせん断歪みを産む。古いエングラムは消えない。うかつに引っ張れば断層。臨界を踏めば一斉すべり、指数で跳ねるやつ」
「指数で跳ねるって、どのくらい?」
トウタが恐る恐る。配信者の顔ではなく、友達の顔で。
「“笑ってる間に地球が終わる”くらい」
チイロはさらり。
「でも止め切れないとも言える。w1とw2はすでに結合してる。干渉は止水じゃなく流量制御でしかない。蛇口をひねる話」
「……止められない?」
僕は思わず反芻していた。喉の内側が乾いていく。
「止められない」
三人目の同意は、意外にもミナトから来た。
黒板の左隅、彼は静かな筆圧で小さな式を書く。
∂Ψ/∂t = κ∇²Ψ + ξ(t,x)
「結合項 κ≠0。ノード間の流束Jは、境界条件でゼロにならない。ならば最適化すべきはゲーティング——門の作り方。Dirichletで塞げないなら、Neumannで流線を曲げる」
「門なら、私が作る」
アスミはアクリル箱の蓋を外す。ピンセットで上部の石灰層をミクロン単位で動かし、黒土の薄い亀裂へ白砂を差し替える。粒子がサラサラと移動し、層の色相が一段淡くなる。
「写像の操作。同相は無理でも、準等長で痛みを減らすやり方はある。演算子は『閉鎖大空間/儀式性/群集』。——条件反射の起点を別地点に刺し直す」
「具体は?」
チイロの目が獲物を見つけた猫の焦点距離になる。
獰猛じゃない、学術的に。
「西教会。水族館。学園。」
アスミは三点を正確に打ち抜く。
「同相クラスの中で、最小エネルギーで層位を変えられる点。境界条件をいじって、『同じ惨劇』の別の起動に分散。一極集中を複数小波へ」
「“惨劇を薄める”ってこと?」
ミサキの声が震える。
「誰かの痛みをみんなの痛みに薄めるの?
あなたの倫理、どこ?」
「……倫理は、夕方の街角じゃ答えが出ない」
アスミの表情は真っすぐで、無装飾。
「でも——私にはまだ救える生がある。地層の話をするなら、上に住む人たちの生活を守るのが改変よ。居住層を崩さないための整形」
「じゃあ下に眠る声は?」
僕は、喉の奥の砂を吐くみたいに言った。
「タナトスとして言う。
記録は、嘘をつかない……。
だが、上書きは、嘘をつく。
……それでも、やるのか?」
短い沈黙。
レイカが息を飲み、舞台装置のレバーを握る手を想像上で握り直す。トウタは膝の上で拳を一度だけゆるめ、握る。ミナトはペン先を黒板から一ミリ浮かせたまま動かさない。
世界が傾ぐ前の半拍。
アスミは、はっきり頷いた。
「やる。やらないと、私が……私が壊れるから」
その言葉は、彼女の盾でもあり、棘でもあり、点火済みの導線だった。
エタノールの匂いが一段濃くなった気がして、僕は無意識に息を止めた。
「救うためなら、間なんて……飛ばしてもいい」
とアスミが言い切った瞬間――
チイロの瞳孔が、ほんの一目盛だけ絞られた。反射じゃない、判断の収縮。
「……その台詞、いちばん危ないやつだよって、前にも言ったはずなんだが?」
彼女はホワイトボードにマーカーをドン。インクが走る速度は会話より速い。
《死者数 N ≈ 100+α × 痕跡量 L ≈ ∞ × 相互依存度 I ≈ ∞ ⇒ 矛盾コスト C ≫ 人間界の計算資源》
数式が塗り重なり、チョーク粉(※今日はマーカーだった)の微塵が空気を淡く濁す。
「アスミ、君がやろうとしてるのは“地層リライト”なんかじゃない。やってることは――数百人分の“存在ログ”を同時に消去して、しかも矛盾ゼロで整合しろっていう、史上最悪のバグ修正なのわかってる??」
「ログ……?」
アスミは低く繰り返す。視線は逸らさない。黒土の層を貫く態度だ。
「そう、存在証明ログ。ひとりにつき数千。
通学の足跡(防犯カメラ・ビーコン)、友達とのLINE、食堂の決済履歴、図書館の貸出、出席簿の乱れ、心電図に刻まれた拍動、誰かの記憶に残った“笑い”まで。
それをN人ぶん同時に“なかったこと”にして、周辺の因果グラフに波及矛盾を出さない?
――量子計算機を地球の海岸線ぶん直列に積んでも、ログ整合中に熱死する。これは比喩じゃなく熱設計的に!」
僕は思わず息を呑む。
理屈は過剰に専門的なのに、直感に重い。胸骨の裏を現実が殴る。
「しかも“過去改変”には帳尻合わせが必ず発生する」
チイロは指でDAG(因果有向グラフ)のノードを描き、エッジに赤い×印を落とす。
「“死んだはずの人が生きている世界”と、“そもそも死ななかった世界”を同時に整合しなきゃならない。
つまり――“死者を二度生かす”ことになる。
死者を二度殺すよりタチが悪い。感情の保存則を二重借金するから。」
「感情に保存則はない」ミナトがぼそり。
「でもエントロピーバジェットはある」チイロが被せる。黒でΔS_history ≥ ΔS_editと書く。
「世界の履歴CRCを偽造するための複雑度が、君ひとりの熱と脳と時間では支払えないって話」
チイロはペンを回して一拍、そして比喩の斉射に切り替える。
「イメージつけるね:
•コミケの列を“3分でゼロにしろ”。しかも列に並んでた事実を誰の写真にも残さない。
•ポ◯◯ン図鑑を全書き換え、進化先・特性・相性表まで整合、既存の対戦ログと齟齬ゼロに。
•保存してなかった3年分のEx◯◯lを『今すぐ完全復元』、しかもバージョン違いのマクロまで動かす。
•ついでにママチャリで富士山を下りで登る。
――それが“過去改変”。ミーム的要約:バグ票#99999『歴史がバグってる』にP0で対応しろ。」
「……笑えない比喩を笑顔で言わないで」
ミサキが小さく眉を寄せる(でも口角は少し上がってる)。
レイカは「ポスター映えする例え!」と小声で拍手。
トウタは「スレタイ:【悲報】世界、P0起票」とか打ちかけてミナトの視線ビームで親指停止(d=0.9)。
アスミは、動じない。
黒曜質の欠片みたいな瞳が、黒土の奥を見ている。
「話は終わり?――私はやる」
声は硬い、でも震えてない。「無謀でも、不可能でも。あの日の惨劇を“なかったこと”にしなきゃ、私が壊れる」
チイロはため息。キャップをカチと閉じ、次の板書。
《必要計算量 ≈ 事故の相互情報量 I(人間, 世界)
≒ O(N·L·I) / ヒト一名の人生燃料 < これ》
「個人の人生燃料(寿命・睡眠・グルコース・後悔耐性)で払える額じゃない。
プロトコルと分散合意で分割しないと、君ひとりが焼ける」
「……だから“私一人でやる”とは言ってない」
アスミの反撃は短く鋭い。「写像で十分。同相写像は無理でも準等長で痛みを拡散できる。演算子は閉鎖大空間/儀式性/群集。境界条件を変えて、一極集中を複数小波へ――相転移の閾値を下げるだけでも死者は減る」
「“惨劇を薄める”の言い換え」
ミサキが即答し、手首で僕の脈をとる。「さっきからさぁ。誰かの痛みを均すって、一体誰の痛みで?」
「居住層を守る整形」とアスミ。「上に住む人の生活を崩さない改変。下に眠る声は、記録で残す」
「はい、出た出た。そこで出た、“記録で残す”」
チイロが僕を見る。僕は無意識に喉が鳴った。
「タナトス(=君)が全部抱える案。人柱を役職名で言い換えるの、学術的ブラックジョークとしては満点だけど人間には赤点」
板書がさらに増える。
要求:
・歴史CRCの再計算 → 失敗
・感情エントロピーの再配分 → 借入超過
・因果DAGの再配線 → ループ発生
副作用:
・REM侵入↑ ・HRV低下 ・“俺/僕”スイッチ遷移頻度↑
結論:
→ プロトコルなき改変は【世界ごとクラッシュ】
しかし、アスミは――目を逸らさない。
黒曜石の奥で、熱が揺れずに燃える。
「もう一度言う。救うためなら、間なんて飛ばしても――」
アスミが言葉を出した瞬間――
椅子脚が床を削る。キイ――乾いた摩擦音がサーバーの低音と逆相で干渉し、室内の空気を鋭く裂いた。チイロが立つ。動きは最短軌道、無駄がない。
「――ダメ」
短い。強い。命令形。
チイロはアスミの正面へ滑り込み、アスミのネクタイの結び目を人差し指と中指で摘まむと、一気に引く。
カチ、小さな金具が鳴り、額と額が“こつん”。
距離、ゼロ。角度、45°。
接触圧(dForehead)、計測不能。
——額がぶつかった“箱”の感触で、別の箱の記憶が破裂した。
西教会を模した儀式空間。長いヴォールト、羽音に化けるフラッターエコー。
舞台中央に四つの箱。「この中に鍵があります。見つけた人は先に進めます」
三つは鍵。一つは、手を返さない。
内張りは吸音材で、悲鳴の中域を殺す。嗅覚はロウでマスクされ、金属臭は数秒遅れて脳に届く。
「公平なゲームです」
——公平って、誰に対して?
僕は手を伸ばした。皮膚温が奪われ、筋紡錘が微振動して握力の信号が通らない。
僕の指先は、箱の闇の向こうで1cmだけ足りなかった。
その瞬間、PAが律義に告げる。
「あと◯分で演目終了です」。
だから、演目?って何なんだよ!
ラボへ戻る。
額圧だけが、いまの“現実”を確かめる触覚になっていた。
「矢那瀬、聞け」
チイロのミーム混じりの軽さを全部削った声。
言葉の刃だけが残る。
「女子高生IRB(倫理委)は全会一致が原則。被験者Y――ユウマの心身負荷が未知の段階で、単独開封は禁止。
猫箱は、みんなで叩いてから開けるの」
「……離して……手を離せ……」
アスミは囁く。だが退かない。瞳は揺れて、折れない。
「離さない」
チイロはさらに額圧を上げ、ぴたりと焦点距離を詰める。 まつ毛が触れそうな距離で、低く、滑らかに続けた。
「科学は勇気だけじゃ動かない。手続きと順序で動く。
あなたは昔から――答えが見えると、間を飛ばす」
アスミの喉仏が、小さく上下する。
「だから――間を飛ばなきゃ救えない命があるの!」
「だから、その言い方が危ないって言ってるの!」
チイロの目が、氷点の透明度で光る。
「“救うためなら”は魔法の言葉。
ルールを焼く呪文。――焼け跡に、人は残らない。
まだ、わからないの?」
ぱし、とミサキの手が割って入る。
医療者の無駄のない手。
「二人ともやめて。チイロ、額、赤い」
「演出効果」
ようやくチイロはネクタイから指を離し、三センチだけ距離を空けた。蛍光灯のフリッカーが額の赤みを淡くディザする。
アスミは一度目を閉じ、ゆっくり開く。
冷たい瞳の底に、にじむ熱源。
「……いいわ。今は、保留にする」
静寂。
言葉が落ちた瞬間、ラボ全員の肺が同時に脱気する。
緊張膜に小孔が穿たれ、圧が一段下がった。
「助かった……」
トウタが胸に手。「スレタイ:【速報】女子高生IRB、ネクタイ制裁(物理)」と打ちかけて、ミナトの無言の視線でスマホを静かに伏せる。
「舞台袖から見てても心拍が持たないわ」
レイカが胸に手を当て、息を整え――でも、口角は上がる。
「でも今の額ゴッツン、第二幕のポスターにしたいくらい名場面」
「ポスターにしないで!」
ミサキと僕のハモり。教室で鍛えたツッコミ反射弓が、
ここでも勝手に動く。
笑いが一粒ぶん、空気に糖分を戻した。
⸻
「――保留って言ったわね」
チイロは業務顔に復帰し、ホワイトボード上端へ赤マーカーで大書する。
MOR-Δ(Moratorium / Defer)規程 発動
その下に、箇条書きが整然と並んだ。
フォントは太字、行頭はスクエア黒。
•M1:過去改変理論(Strata-Rewrite仮説)は凍結。議題棚番 SR-α/LOCK。
•M2:単独検証/外部発信/実地試行を全面禁止。違反時はGM強制排除(※ネクタイ発動含む/ネクタイ制裁プロトコルv1.1)。
•M3:解除条件=三条件同時充足
① 被験者Y耐性指標≥θ_Y(HRV・PVT・REM侵入指数の複合)
② 境界条件安定性 κ≤κ*(24h連続観測)
③ 倫理委(Aurora/GM/Root/Siren/Recorder/Specter)6/6 一致
「6/6って、全会一致じゃねーか」
トウタが髪をくしゃっと掻く。
「まあ、異議なしってことで!」
「全会一致よ」
チイロ、即答。口元だけが笑う。
「女子高生IRBは、民主主義に対してえげつない」
「異議なし」
ミナトが簡潔に挙手。
「未収束の結合項下での書換操作は、破綻の第一主因。
数学は賛成しない」
「私も異議なし」
ミサキは僕の手首をとり、脈と皮膚温を親指で確認してから頷く。
「ビーコン優先。患者は生かす」
「演出部、異議――なし!」
レイカは華やか敬礼。
「幕はまだ下ろさない。次のライトがつくまで、台本を書き直す」
最後に視線がアスミへ集まる。
彼女はアクリル箱の層を一瞥し――短く頷く。
「……MOR-Δ、承認。保留にする。
ただし――火は消さない」
火という語の温度が、エタノールの匂いに混じり、ラボの空気をわずかに上振れさせた。
⸻
封印作業は、もはや儀式だった。
——儀式。そう、終幕の儀式を思い出す。
中庭の仮設ガラスドーム。曲率半径は体育館の半分。
天蓋のLEDはカウントダウン。
残り時間の数字が顔に映る。
亀裂は最初、髪の毛ほど。次に蜘蛛の巣。
最後は白い稲妻。
水が落ちた。
重い。冷たい。低域が鼓膜の背面から押してくる。
浮力で足裏の温度が失われ、ペンライトが一本だけ波に飲まれて沈む。
「ご来場ありがとうございました」
——ふざけるな。
ミサキが濡れた床に倒れ、アスミが名前を叫ぶ(4k付近に耳障りなピーク)。
僕は走る。**走れない。**導線は片方向、戻り坂には赤い「逆走注意」が投射される。
選択肢という名の無選択。
ラボへ復帰。スチールの冷たさが皮膚温を引き戻す。
今度の箱は、手を返す。
それだけで、少しだけ空気が薄くなった。
ミナトがスチールケース(VAULT-03)を引き出し、内張りの遮蔽材とシリカゲルを点検。
レイカが「厳かBGM!」と囁き、スマホから極小音量でコーラスを流す(誰の許可もない)。
チイロは赤い耐熱テープに太字で書き殴る。
SR-α/保留
開封条件:M1〜M3 充足
開けるな危険(※ドラマ的には最高)
「最後の行いらんだろ!」
僕の素直なツッコミに、レイカは無邪気に両手を広げる。
「“開けるな危険”って書いてある箱ほど、舞台は開けるものなの」
「だから舞台じゃないって」
ミサキが自販機の水を僕に渡しながら、半眼で刺す。
「医療的には貼り紙が実害を招くパターン」
アクリル箱は厚布で包まれ、VAULT-03に収められる。
カチン――重い錠が確定音を打つ。
火種は鉄の中で息を止めた。消えないまま、静まる。
⸻
「……ありが…とう」
アスミが小さく言う。誰に、でもあり、
空気に、でもある。
「止めてくれて。私は時々、走りすぎる」
「知ってる」
チイロが肩をすくめ、目を細める。
「だから女子高生IRBがある。走りすぎは紐で止める」
「ネーミングやめて」
ミサキが眉を寄せる。「真面目に聞こえない」
「真面目なものはちょっとふざけてないと、長続きしないの」
チイロはウィンクして、ホワイトボードの端に猫を描く。
箱からひょこっと顔を出し、『まだだよ』の吹き出し。
僕は思わず笑った。
――それでも胸のどこかで、水音は続く。西教会、水族館、学園、積もった地層は、まだ湿って重い。
⸻
解散間際。
ミナトが端末の可視化グラフを見て言う。
「κ(結合係数)、今夜は低下傾向。
遮蔽で押さえ込めた。
J(流束)もゼロ近傍」
「世論の波も一旦鎮静」
トウタが親指を立てる。
「“#女子高生IRBって何”が微バズしてるけど、ローファイ動画で中和しといた」
「広報ありがとう」
レイカが親指を返し、「明日の朝、空を明るくしとく」。何をどう、は聞かないでほしいタイプ。
それぞれが荷をまとめ、帰り支度。
――その刹那、アスミが僕を見る。
「ユウマ」
呼び声は、昼の鋼ではなく、夜の綾。
「私、壊れないようにする。
でも、壊れてでも――救いたい日が来たら、
その時は一緒に……叩いて」
箱を。
猫を。
過去を。
喉の奥で、二つの声が渦を巻く。
タナトスとしての答えと、ユウマとしての答え。
両方が必要だった。
「――その日が来る前に、別の道を探そう」
「――その日が来たら、一緒に行く」
アスミの目が、一瞬だけ笑う。
それは和解でも勝利でもない。
猶予――火種に手をかざす距離での、猶予。
⸻
最後にチイロが、天井の蛍光灯を一灯落とす。
夜の《ノード・ゼロ》は、乾いていて、生きていた。
エタノールの匂い、サーバーファンの低音、フリッカーの微かな網目。
棚奥のVAULT-03に眠る小さな箱が、ラボ全体の温度をほんの0.3℃下げる。
保留は、撤回じゃない。
火は、消火でなく囲いでうまく燃える。
干渉は今夜、止まったふりをしただけだ。
――次に鳴る扉音が開封の合図でないことを祈りながら。
鍵の形を全員が覚えてしまった事実は、もう消せないから。
箱は閉じられた。だが、火は消えていない。
VAULT-03の金属の冷たさが、夜の温度を下げても、
鍵の形は全員の指に残ったままだ。
“その日が来たら一緒に叩いて”――
約束は、宣戦布告にも、誓約書にも変わりうる。
保留は撤回ではない。
停止は間であって、終わりではない。
次に鳴る扉音が開封の合図でないことを祈りつつ、
それでも僕らは知っている。
干渉は止まったふりをするだけだ、と。




