EP17. 黒葬とレクイエム
俺の胸にあの“水音”が戻ってきた。
あの夜の演目。
終了を告げた女声。沈むペンライト。冷たい水。
俺は現場に立つ。観測するためじゃない。潰すためだ。
タナトスとして。
これは、その記録だ。
天井に走った“ひび”は、音もなく増殖した。
石膏でもガラスでもない。空気そのものの屈折率が狂って、蜘蛛の巣状の応力線が格子みたいに交差していく。フレーム間の揺らぎ――HUDがフレネル縞を拾い、干渉パターンとして可視化する。
中心が割れた。
そこから、小柄な影が落ちる。
ヒールは履いていないのに、着地は舞台のそれ。
顔は、拡声器。金属の花弁が幾層にも折り重なって、花弁の代わりにホーンが咲いている。
身体は女のシルエット。肩幅、骨盤のライン、指の長さ――女性平均値にきれいに収束するプロポーション。
顔だけが装置で、身体だけが人間だ。
《——次の演目を、開始します》
女声が、体育館の空気を一段冷やした。
同じ声だ。あの夜、ドームの下で終了を宣告した女。
喉を通らず、金属の口から直接空間へ埋め込まれる声。波形はアナウンスのそれ。母音だけがほんの少し長い。
『波形一致。w1のアナウンス音声と一致率 0.997……』
ルートの声が、かすかに濁った。感情じゃない。演算が嫌悪を学習した音。
「てめぇが——」
考えるより先に、俺は出ていた。
一歩で間合いを詰め、肘を落とす。
角速度 620°/s、衝撃量 J = 350N·s。顎のつもりの金属に、斜めから。
手応えがない。
感触はゼロではない。空気を殴った時のひずみ、それに近い。
イレイザーの拳が沈み、戻る。反発がない。
衝撃が散らされている。ベクトルが解体され、位相がずらされ、熱に逃がされる。
ダメージが通らない。
『場が折りたたまれてる。周囲の音響メタと同じ機構、力学版。……スカラーポテンシャルの谷に拳を落とした』
ルートの解釈は簡潔だ。正しい。
女は、そこに**“いる”のに、そこが“ここ”**ではない。
《観客の皆さま、ご着席を》
声が笑う。音程はそのまま、意味だけが侮蔑を足される。
女は踵を返し、金属の顔を空に向ける。
《前座、入場》
床が、鳴った。
下から。
体育館の床板が爆ぜ、梁が折れ、土がせり上がる。
鉄と石の混合装甲。接合はリベットと樹脂、継ぎ目から水蒸気が吐息みたいに白い。
巨像が、腹から地上へ生まれた。
身長 6.3m。推定質量 8t。慣性モーメントの桁が違う。
顔は仮面。目は窓。中に空洞。人がいる空洞じゃない。空だ。
右腕に鉄骨、左手に破風板。舞台装置の残骸を武器にしている。
『嫌な一致を言っていい? あいつの動き、舞台演出の再現だ。学園祭、第二部の転換と同じルーチン』
スペクターの声に苦笑が混じる。「舞監の呪い版」
『動線解析開始。歩幅一定、膝の可動域が狭い。転回やや鈍。右上段の振り下ろし、予備動作 0.7s。回避窓、0.23s』
ルートが角を描いていく。HUDに白線のベクトルが展開される。
サイレンの低い声が、外を撹乱している。非常口の疑似アナウンス、巡回車の偽無線、学内放送の残響。警告の声が別方向から響く。
巨像の頭がわずかにそっちを向く。効いてる。
一撃目。
鉄骨が、斜めに落ちる。音は遅れてくる。
床が沈む前に、俺は梁へ跳ぶ。指が埃を掴む。靭帯が伸びる。
振り下ろしの余波。風が背中を切る。皮膚が薄く剥がれるくらいの圧。
『次、左。腰から水平。回避角 37°。膝を柔らかく』
ルートのナビが骨に入る。
俺は地を滑り、足で摩擦を作って、寸前で消える。
鉄が空気を裂き、残響が体育館を満たす。RT60がまた伸びる。水が震える。
殴り合いじゃ勝てない。
翻弄する。
俺は舞台袖に回る。柱に足をかけ、滑車みたいに回転して肩から落ちる。肩を落とすのは嘘。膝で蹴る。膝蓋のセンサーがGを拾う。13G。効かない。鉄と石だ。
二撃三撃と避け、叩き、避ける。
動きを派手に見せるのは、相手の注意を引くため。
実は小細工だ。梁を切る角度、煙の流れ、床の水の跡。視界の端で全部****拾い、繋ぐ。
『外、第三波を誤誘導。広報の誤配信で校門封鎖。“工事中”タグがバズ。警察もこっちに来れない。時間、稼げる』
サイレンの声は、舞台に風を起こす。
風が起これば、幕はめくれる。巨像の仮面の隙間から、配線の影が見える。
標的、顎裏。柔い。
『でも決定打がない。内部構造が見えない』
スペクターが歯噛みする。「“観客の見えないところは物理法則が適用されない”ってやつかよ」
巨像が、両腕を広げた。
抱擁の構え。逃げ道を塞ぐ。床の水が波を立て、非常灯が緑に滲む。
あの夜と同じだ。
世界が、閉じる寸前の匂い。
決めるしかない。
「——ルート。圧壊窓、最短の空隙を出せ」
『体育館中央、梁と梁の間。空気柱が立ってる。水分子密度が局所最大。カスプが二つ。……そこ』
右手を開く。空気から熱を奪う。イレイザーの表層に織り込まれたメタが波を折り、室内ノイズを吸い上げる。
黒い粒子が、浮いた。
煤じゃない。空隙に沈む、光の死骸。
左手にも同じものを生む。両掌へゆっくり集め、距離を詰めていく。
渦が二つ。
それぞれが対消滅を探すみたいに、微小な叫びを上げる。
『ユウマ、代償が出る。迷走神経だけじゃ止まらない』
オーロラの声が震える。
わかってる。わかってるけど、間は飛ばせない。ここは飛ばすべき間だ。
「虚数の地に座標を刻む。
光沈。音潰。全ての波動を位相を零へ——
重力反転、音響崩壊確認。
閉じよ、虚空の積分面——
記録の地層に沈み、ΔE=ΣΩに還れ。
……黒葬、ブラックレクイエム……発動」
両掌を合わせた。
音が抜けた。
体育館から**“音”が消えた。RT60は無限大に見え、実はゼロに落ちた。全帯域の逃げ場がない**。
重力子をいじってるわけじゃない。音響的な負の密度、等価質量の再配分、場のしぼみ。局所の圧が跳ね、空気が内側へ走る。
床の水が先に潰れた。微小空洞が一斉に崩壊して、白い泡が黒に変わる。
巨像の装甲が鳴る。内部の空隙が見つかって、そこから内側へ崩れる。
鉄は撓み、石は粉になり、関節は自重で潰れる。
巨像は外から壊れない。内から無になって崩れる。
視界に黒が咲いた。
黒は光じゃない。情報だ。過去の残響と未来の揺らぎが相殺して、何も残さない色。
黒葬は、物を壊す技じゃない。事象を埋める手だ。ここで起きたことが世界に書かれないように、墓を掘る動作。
『——っ! 圧、下がり過ぎ! ユウマ離れろ!』
ルートが叫ぶ。珍しい。
手を解いた。
黒がほどけ、音が戻る。床が泣き、梁が悲鳴を上げ、粉塵が雨になる。
巨像は、跡形もなく崩れた。器材だけが残った。舞台が片付いた後みたいに、すっきりと。
膝が落ちる。
視界の端が暗い。血圧。脳が酸素を欲しがってる。内耳が回る。
呼吸が浅い。4-7-8が組めない。4までに黒が逆流してくる。
『ユウマ! 戻ってきて。……まだ壊れないで!』
オーロラの声が紐になって、俺の胸に結ばれる。
胸骨の奥で、何かが割れて、やっと空気が入った。
粉塵が降る。水は薄く広がる。非常灯は緑で疲れている。
静けさは帰ってこない。耳の奥で、まだ水が走っている。
w1の音だ。終わってない。
《——観測しました。次の演目で、会いましょう》
拡声器の女の声が、残響だけを置いていった。
どこにもいないのに、どこにでもいる。アナウンスの声は姿を持たない。姿を持たないものは、消せない。
『位置特定、不能。反射と屈折の地獄。……逃した』
ルートが淡々と敗北を告げる。
敗北じゃない。開演のベルだ。
『ユウマ、数値回復しない。糖、投下。呼吸、私の声に合わせて』
オーロラが、秒針になる。俺は従う。従うことが生き延びることだ。
『写真、撮っ……いや、やめとく。これはバズらせる写真じゃないわよね』
サイレンが冗談で空気を持ち上げ、自分で下ろす。
珍しく、舞台の言葉を使わない。
『“次の演目”ね。スケジュール出しとくよ。……嘘だよ、気休め』
スペクターが笑い、誰も責めない。
手のひらに、黒が残っている。
粒というより、残光。視覚じゃない。触覚に近い光。砂ほどの重さで、宇宙ほどの冷たさ。
黒葬は、実戦で初めて使用した。
俺の中の何かも一緒に燃えた感覚。多様するものではないことが痛いほど理解できた。
「だが……壊れても、止める」
声が出た。俺の声だ。中にもう一人がいても、これは俺の台詞だ。
タナトスとしての宣誓。ユウマとしての約束。
誰かのアナウンスじゃない。俺の発声。
体育館の奥で、水音が微かに鳴った。
排水溝じゃない。記憶の水だ。w1の残滓。
終わっていない。
終わらせるまで、終わらない。
非常灯の緑がまた一回だけ瞬き、消えない。
次の演目までの暗転**。
幕は降りない。照明だけが落ちる。
俺たちは立ち上がる。瓦礫の匂い、鉄の酸味、カラメルの苦味みたいな敗北。
ノード・ゼロへ戻ろう。記録を残す。黒を洗い落とさず、残したまま。
観測と愛と記録の三角測量は、ここから続く。
水音がそれを催促するみたいに、足元で鳴っていた。
巨像は崩れた。だが、崩れたのはあいつの身体だけで、演目そのものじゃない。
体育館に残る水音は、w1の残滓そのものだ。
女声はまだ響いている。《次の演目で、会いましょう》。
俺は黒い鎮魂歌を歌った。
視界が暗くなるたび、タナトスとユウマの境界が消える。
それでも俺は止まらない。
壊れても、止める。
この記録は“勝利”じゃなく“開演”だ。
次の幕がどこで上がるかはまだ分からない。
観測と愛と記録の三角測量の先に。
終わらせるための“本当の”黒葬を見つけるまで。




