EP16. 演目再演とプレリュード
影村学園に音はなかった。
音は消され、残響すら冷たく凍っていた。
俺たちはただ調べに入っただけのはずだ。
けれど床の染みが呼吸を始めた時点で、もう舞台は始まっていた。
「次の演目」――その言葉がネットに現れた瞬間から、俺は覚悟していた。
w1の惨劇が、w2に浸透してきている。
それを拒むのがタナトスの役目だ。
拳と数式と黒の粒子で、俺は“告知”を潰す。
影村学園は音が無かった。
校門の錆びた蝶番は、押しても軋まない。潤滑油じゃない、湿気が音を吸っている。イレイザーのコート裾が夜気を裂くたび、繊維内の吸音層が微振動を呑み込み、足音はゴムタイルに落ちる前に場へ拡散した。
旧校舎は廃墟同然だった。割れた窓。剥離した漆喰。錆の縞。
ライトは使わない。ゴーグルHUDが月光と赤外を重ね、廊下の埃の粒まで立体化する。酸素濃度は20.7%、相対湿度78%。カビと鉄の匂いに、微量の塩素系が混じる。清掃じゃない、偽装の匂いだ。
『西側棟、監視カメラは全部“目潰し”した。イレイザーの熱陰影は背景ノイズに置換済み。進め』
ルート――ミナトの声は、冷たい演算結果そのものだ。
『怪談スレは今、“首無し七不思議”で燃焼中。火を移した。現地に向かう噂好きは逆方向へ誘導できてる』
スペクター――トウタ。いつもの軽口は消え、情報の刃だけが残っている。
「サイレン、位置」
『東側の渡り廊下。非常口の誤誘導音声、ループ準備OK。群衆が来たら“逆に”散らす』
レイカの声は低めのアルト。舞台のベルベット幕みたいに、静かに空気を重くする。
体育館へ向かう通路の途中、俺は立ち止まった。床が鳴る。いや、鳴らない。鳴らないはずの床が冷たい。靴底の圧電素子が微少な水膜を検知する。温度は16.9℃。ここだけ低い。
扉に手をかける。イレイザーの手袋が金属音を吸って、把手は音もなく回る。
中は――異様に静かだった。
体育館の空間は通常RT60=1.8s(この規模なら)だが、今は2.4s。空気が粘る。吸音材の代わりに水がいる。床板の隙間から黒い線が広がって、染みが呼吸しているみたいに見える。水はまだ薄い。だが匂いは過去の濃度だ。
非常灯が緑を落とす。片方はわずかにフリッカー。もう片方は安定。
俺の喉が、自動的に乾く。
耳の底で、水が走った。心拍計と同期する。
視界の端に、ペンライトが一本、沈む。底無しの黒へ。
頭上、天井トラスの角度が一瞬変わった気がして、
《あと◯分で終了です》――女声の温度で、空気が一段下がった。
『ユウマ、戻って!今はw2だよ!』
オーロラ――ミサキの声が、脈拍と呼吸を再同期させる。
4で吸って、7で止めて、8で吐く。視界の重ね合わせが剥がれる。
『ログ通りだ……あの夜の再演だよ』
スペクターが、画面の向こうで苦く笑う。
『文言、時間、構造。全部、同じ設計図で組み上がってる』
『話は後だ。生体反応を検知。数十……位置は周囲。囲まれている』
ルートの音声に抑揚はない。だからこそ、緊張は正確に伝わる。
HUDが赤点を増殖させる。最初は散発、次に輪を描く。半径14〜18m。体育館の周縁、客席、器材倉庫の影、舞台袖――死角で構成された理性的な包囲。
「……来るぞ」
床下の水が小さく震え、それに合わせて影が立った。
最初に出てきたのは、人間の形だった。
制服。ジャージ。マスク。顔の情報は乏しいのに、動きだけがやけに整っている。歩幅、荷重、同期。メトロノームに合わせた群舞のような足取りだ。
『呼吸波形、均質すぎ。歩行周期0.86sで完全一致。人間のばらつきがない』
ルートが計測で人ならざるを告げる。
『“人間のふり”がうますぎるやつは、大抵機械より冷たい』
スペクターの皮肉は、今夜だけは祈りに近い。
輪が縮む。呼吸は聞こえない。靴音もない。俺とサイレン以外、音を出していないからだ。
観測のために、彼らは音を失っている。
だが、相手がただの人間でないのであれば丁度いい。
「やるぞ」
俺は前に出た。
イレイザーの人工筋肉が収縮して、踏み込みの出力を倍化する。0→8m/sへ、0.14s。床板の反発と位相を合わせ、荷重を弾く。
一人目。
右前方、頸動脈狙いの直線。視線は俺の肩。癖を読んだ。
刃の進行角17°。供回りを避けるため、俺は肩甲骨から肘を打つ。
肘先速度 12m/s。接触時間 0.03s。J=FΔtで衝撃量を叩き込み、橈骨の外側へ逸らす。金属音はイレイザーが吸う。
そのまま手首を極める。141°超。関節が悲鳴を上げる前に神経が落ちる。
沈。
二人目。
背面に3.2m。圧電素子が床の波で距離を教える。
踵を軸に反転、膝の角速度 780°/sで回し蹴り。
足甲の加速度 28G。鳩尾に衝突。呼吸を奪い、壁へ投げる。石粉が雪のように降る。
三人目。
踏み込みの周期が他と半拍ズレ。合図だ。
俺は前に出ず、引く。相手のCM(重心)が前に落ちた瞬間、袖を少し引くだけ。向こうから転ぶ。
倒れ込む首筋に掌底。角速度 520°/sで顎を跳ね、延髄のスイッチを切る。
『左段差、二。右上、器材棚の影に三。天井梁の上に一——なに?』
ルートの音が一瞬揺れる。
『重量分布が軽すぎる。人間じゃない比重』
『“踊り子型ボット”の噂、当たり。関節で刻む“人間”だ』
スペクターが吐く。
俺の前で、十人目が笑った。いや、表情筋が笑いを模倣しただけだ。目は揺れない。
「――どけ」
俺は走る。直線は危険だ。蛇行で相手の予測フィルタを壊す。イレイザーの姿勢制御がCMを前後に刻み、滑るようなステップで敵の懐へ飛ぶ。
肘、膝、肩。
てこの原理、衝撃の合成、軸の奪取。
少年漫画みたいに派手だが、中身は数式だ。
一撃につき一体、四秒で三体。
首に入れば停止、膝に入れば移動不能。
喉頭は避ける。死なせない。壊すだけ。
『ユウマ、呼吸!』
オーロラの声が紐になる。4-7-8。肺が広がる。鉄の匂いがそこから先に行かない。
「サイレン、ディレイ入れろ。0.2秒」
『入れた。体育館の反響に偽足音を混ぜる。相手の予測モデルが崩れる』
足元で、生体兵のリズムが乱れる。足音が二重に聞こえ、誰の足かがわからなくなる。同期で動く奴らに、ズレは毒だ。
七体目が、音を追って空を切る。
俺は滑る。腰の回転だけでカウンターの掌底。鼻梁が鳴る。
視界の端で、非常灯が瞬く。緑の温度が0.3℃落ちる錯覚。
ペンライトが沈むイメージが戻る。
HUDが一瞬ノイズを噛んだ。
『ユウマ』
ミサキの声が呼吸に変換される。戻る。
十体目。
統率者がいる。こいつが僅かに遅らせ、他が合わせる。
俺はそれを前に出させ、前に出た瞬間の踵を踏む。アキレス腱が悲鳴。体が落ちる。
肘で側頭、膝でみぞおち。終。
『カウント――二十七。残り二十。クリアリング角、右90°に八』
ルートの波形が早口になる。俺も早くなる。
三連コンビネーション。フェイントを二回挟み、最短距離で急所へ。
少年漫画なら擬音が出るやつ。ドゴッ、ガン、ズシャ。
現実では音は出ない。イレイザーが吸っている。
出るのは呼吸と床の軋みだけ。
『ミナト、観測。敵の同期信号、ソースは?』
『——無し。局所的相互観測だけで群行動。視覚と足音。そして残響』
残響。鐘の代わり。西の鐘は、体育館だ。
『ユウマ、左上! 梁の上から降下!』
スペクターの叫びとほぼ同時、影が落ちた。
俺は前へ半歩。落下のベクトルを後へ変える。背で受け、回転で投げる。硬いものが折れる音。無音の中の無音。
二十五、二十六。
膝と肘で時間を刻む。
汗が額を伝い、HUDの縁を濡らす。
手はまだ震えない。震えたら負けだ。
『生体反応、減少。……待て、増加。体育館外周に新規。数、十数。囲まれ直し』
ルートが冷静に最悪を告げる。
『波形、人間じゃない。ノイズの塊。パルスじゃなく連続音』
「連続音?」
『呼吸じゃない。機械の風に近い』
俺は前へ一歩。敵が引く。輪が広がる。
そこに――蜘蛛の巣状のひびが、空間に入った。
体育館の中央の空気が割れる。
音は無い。水面に投げた石が見えないだけだ。
ひびは放射し、空間の張力が変わる。
非常灯の緑が違う波長で揺れ、床の染みが呼吸を早める。
俺は構えを変えた。
拳を軽く握る。指節の角度を5°落とす。肘を脇へ寄せ、重心を低く。
黒が、手の周りに集まる。
イレイザーの界面で散逸していた環境ノイズが、収束する。
渦の中心に、冷たい粒子が浮き始めた。
『ユウマ、それは――』
ミサキの声が驚きを帯びる。
俺は答えない。
視界が開く。
ひびの中心から、人影が出た。
小柄。女性のシルエット。顔が——拡声器。
金属の花のように口が開き、音が出る前に、俺の体内の血が冷える。
女声が鳴る。
《——あと◯分で演目終了です》
その時——
蜘蛛の巣状のひびから現れた拡声器、
その声は俺の記憶を抉る。
《あと◯分で演目終了です》
あの夜、数百の命を終わらせたのと同じ音色。
観測された時点で、演目は始まりを告げる。
観測を拒み、記録を潰す。それが俺の選んだ道だ。
だが――“再演”のカウントは、まだ続いている。




