EP14. 空間交差とストラティグラフィ
惨劇の記憶は、一つの場所に縛られない。
体育館でも、聖堂でも、水槽でも――
“閉じられた空間”という共通条件が、同じ痛みを呼び覚ます。
今夜の《ノード・ゼロ》で、フラッシュバックは
“場所そのものが引き金になる”ことを証明し始める。
これはもう、記憶ではなく――干渉の物理そのもの
頭の奥が、ノイズで満たされる。
サーバーの低音(50/60Hzのうねり)と、蛍光灯の唸り(安定器が不規則に鳴く金属音)と、誰かの声が重なって――。
暗い天井。血の匂い。割れたガラス。
耳をつんざく悲鳴のあとに続くのは、沈黙じゃない。水音だった。床を引っかくような、冷たい水の走る音。
「――ユウマ! 大丈夫?」
ミサキの声で、意識が強制的に戻される。
ノード・ゼロの黒板の前。僕は膝に手をつき、呼吸が荒く、掌は汗でびっしょりだ。うっすらと埃とアルコールの匂いが混ざるラボの空気が、やけに重い。
「今の……」
アスミが鋭い目でこちらを射抜く。「また“フラッシュバック”?」
「……ああ」喉が焼ける。「学園祭の惨劇のはずが……別の光景に変わる。あれは“西教会”。崩れた祭壇、ステンドグラスの光。それと――水族館のガラスドーム。……なんでだ。なんでズレてるんだ」
額に手を押し当てる。脳裏の映像は、場所の混線だ。
学園祭/教会/水族館――それぞれの断片が互いに溶け、ひとつの惨劇へ合成されようとしている。
⸻
「場所の記憶の重なり……」
ミナトが無言で黒板へ歩き、チョークを走らせる。三つの円――学校、教会、水族館――をヴェン図のように重ね、交点を赤で塗る。さらに余白に小さく「Σ(閉曲面)」「境界条件:閉鎖空間/群集密度↑」とメモを添える。
「w1での惨劇は学園祭だった。でもユウマの海馬(場所細胞・格子細胞)は“教会”や“水族館”を同一クラスのコンテクストとしてタグ付けしている。おそらく観測の揺らぎだ」
いつもの平板な声で、しかし迷いはない。
「つまり?」
トウタが眉間を寄せる。
「惨劇の演算子は、場所の固有名詞ではなく構造に依存している――『閉じられた大空間/儀式性/群集の自己増幅』。それが教会でも水族館でも学園でも成立条件を満たすなら、脳は**同じ“事象”**として再構成する」
「……それだとまるで」僕は口が勝手に動いた。「**場所そのものが“引き金”**になってるみたいじゃないか」
言った瞬間、背筋に冷えが走る。
西教会。水族館。学園。
僕の奥底では、みんな同じ波長で鳴っている。
⸻
「空間は記録媒体よ」
アスミが机をトン、と指で叩く。
「土地は人の記憶を吸い、時間を地層にする。私は過去改変を“地層掘削と上書き”だと考えてる。古い堆積面を剥ぎ、別の地層を載せられれば、惨劇は“別の歴史”に置換できる」
「……地層の比喩、ね」
チイロが頷き、ホワイトボードにでかく《地層モデル》と書く。
「ただし上書きにはせん断歪みが出る。古い地層は消えないし、強引にずらせば断層になる。破綻確率は指数関数的。**ΔW(改変量)**が大きいほど、**P(崩壊)**は跳ね上がる」
「わかってる」
アスミは即答した。声は揺れない。
「でも、あの日をなかったことにできるなら――私は掘り進めたい」
「だから危険だってば!」
ミサキが思わず一歩、僕の前に出る。
「ユウマをこれ以上削らないで」
「違う。救いたいのよ」
アスミの声が鋭く跳ね、ラボの空気を震わせた。
脇でレイカがそっと手を挙げる。「えっと、舞台的に言うと――同じ脚本を違う舞台装置で上演してる感じ? 教会も水族館も学園もセット替え。だから主演(=ユウマ)の体は、どの舞台でも同じ台詞を言わされるの――」
「例えのセンスは好き」チイロが即座に乗る。「でも今は笑いの比率を落として」
「はい……(舞台は間が命なんだけどなぁ)」
レイカは小さく引っ込み、客席(=僕ら)にだけ聞こえる声量でぼやく。ちょっと救われる。
⸻
議論が熱を帯びるほど、頭の残響も増幅していく。
ステンドグラスの破片が床に散らばり、照明のハロゲンが跳ね、冷たい水槽の水が足首を這い上がってくる。――ここはラボのはずなのに。
「やめろ……」
僕の呟きは、ファンノイズに呑まれる。
それでも、止まらない。
「観測者が二人いるから世界が分岐するんだ!」(アスミ)
「だから記録者が必要なんだよ!」(トウタ)
「過去改変は地層の再構築!」(アスミ)
「干渉の代償は指数的に!」(チイロ)
「境界条件を見直せ」(ミナト)
声が重なり、頭のノイズと溶け合う。
視界が歪む。ラボの天井が西教会の天蓋に変わり、隣のモニターは水族館の巨大水槽へ揺らぐ。蛍光灯のフリッカーが水面の反射と同期し、滴下音が配管から……いや、聖水盤から……。
「ユウマ、見て」
ミサキが僕の前にしゃがみ、視線を合わせる。
「4で吸って/7で止めて/8で吐く。……そう。もう一回。手、貸して」
体温のある小さな手が、僕の冷たい指を包む。脈が、少し落ち着く。
「呼吸、再同期。OK」
アスミは僕の手首で脈拍を測る。視線は真剣だ。
「瞳孔径、過拡大から縮瞳へ。……落ちてきた」
「糖、投与」
チイロが無言で角砂糖をひとつ差し出し、次いで冷たいペットボトルを首筋に押し当てる。「迷走神経リセット」
「こういう時のまとめサイトのアドバイスは“深呼吸して推しの画像を見る”だが……」
トウタが立ち上がってスマホを掲げ、すぐ四方から無言の圧を受けて座る。
「……はい、場違いミームでした」
少しだけ笑いが生まれ、空気圧が下がる。
でも、水音はまだ、僕の耳の底に残っていた。
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「メカニズムを言葉にする」
ミナトが新しい図を描く。
海馬HPCの模式図、場所細胞(place cells)と格子細胞(grid cells)。
「場所記憶のエングラムは意味的近傍で再活性化されやすい。教会の天井高、水族館のドーム、体育館の講堂――アーチ構造/残響時間RT60の延長。音響と光の幾何学が閾値を超えると、同じ記憶束が点火する」
「音でも揺らぐ」チイロが補足する。「さっきから鳴ってるフラッターエコーがスイッチ。羽音に近い帯域。――虫の群れに聞こえるの、わかる?」
僕は小さく頷いた。まさに今、それに襲われている。
水の反響と、羽音が、ラボの空間を別の場所へと変換してしまう。
「だから私は地層を掘る」
アスミは静かに、しかし強い眼で続ける。
「同相写像みたいに、出来事の位相を保ったまま別の地平に写し直す。惨劇の写像先を変えられれば――」
「ほら出た、甘い変換」
チイロがすっと割って入る。
「トポロジーは距離を守らない。痛みの密度が偏る。あなたが抱えるって言うなら、私は止めない。でもユウマの負荷が上がるなら、私はゲームマスターとして拒否する」
二人の視線が正面衝突する。空気が再び帯電する前に、レイカがそっと手を差し入れた。
「――ここで幕、一旦暗転ね。主演の呼吸が整うまで照明落とす。舞台監督権限、発動」
言いながら照明の一灯を落とすレイカ。蛍光灯のフリッカーが止まり、羽音の幻聴が少し遠のく。彼女、こういう時の動きは本職だ。
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息が入る。出る。
ようやく、言葉が出た。
「……俺は、どっちなんだ」
声が自分のものじゃないみたいに低く響く。
「w1の俺か。w2の俺か。……それとも、どっちもコピーか」
黒板の前で、チョークの粉が光る。
答えは誰も持っていない。けれど、それぞれが自分の言葉で近づこうとする。
「コピーの定義を疑うべき」ミナト。
「連続性をどうみるかよ」アスミ。
「選び続ける主体が“オリジナル”でしょ」ミサキ。
「群衆が認めた役が“主役”だぜ」トウタ。
「――舞台に立ってる人が“本物”」レイカ。
チイロは、最後に一行だけ黒板へ書いた。
《場所=惨劇の記録媒体/干渉因子》
そして、静かにマーカー(いや、今日はチョークだ)を置く。
「ユウマ。ここから先は潰す」
短く、それだけ言って、蛍光灯のもう一灯も落とした。
ノード・ゼロに夜の青が戻る。
ラボの空気は落ち着いた――ように見えた。
でも僕の胸の底では、水音がまだ鳴っている。
西教会の滴下。水族館の循環ポンプ。学園の体育館に溜まる、あの湿った暗さ。
あの日の惨劇は、まだ終わっていない。
場所という地層のどこかで、今も鳴り続けている。
西教会の滴下音も、水族館の循環ポンプも、
学園の体育館にこもった湿気も――
どれも俺の中で“惨劇”を呼ぶ同じノイズだった。
アスミの『地層改変』、チイロの『干渉拒否』、ミサキの『救済願望』。
三者三様の答えが交錯し、論争は苛烈になる。
だが、いちばんの問題はまだ先だ。
――惨劇が“終わっていない”なら、どこかでまた始まる。
その場所は、まだ選ばれていない。




