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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
第一章 死の観測者編

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EP13. 観測者とアイデンティティプロブレム

 観測される瞬間にだけ、存在は輪郭を得る。

 “僕”と“俺”の切り替わり、疼痛の同期、w1に残る気配——どれもが、ここにいる自分を薄く重ね写すノイズだ。

 ノード・ゼロの夜、僕らは「誰が本物か」という無益に見える問いを、あえて記録する。

 黒板の数式と、胸の鼓動と、仲間のまなざし。その三つでしか、僕は今日の“実在”を証明できないから。


 ここで息をする“俺”を、明日も観測してくれ。


  夜のラボは、いつもより「研究所」だった。

 壁際のサーバーラックは青いLEDを脈動させ、低域のファンノイズが床下配線の隙間で共鳴する。ファンの回転数は微妙に不揃いで、二つのうなりが干渉して生まれた拍が、胸骨の奥で心拍と位相を取り合う。

 黒板には昼間の議論の名残り——《因果パラメータツリー》《観測者効果の上界》《Bayes事前分布:w1/w2》《デコヒーレンス速度の推定》が白く層を成し、余白には誰かの落書きで《尊い統計=Aria Units♥》と雑に囲み線。チョーク粉が星間塵みたいに浮遊し、蛍光灯のフリッカーに合わせて静電気の糸を光らせる。


 《ノード・ゼロ》。僕らNOXの観測点。

 普段ならレイカの大仰な合いの手や、トウタのネットスラングが空気を軽くするのに、今夜だけは蛍光灯の唸りと自分の心拍だけが、やけに大きかった。床のゴムタイルは冷たく、空調の定常波は粘度を持って肺にまとわりつく。ラボ全体が巨大な測定器になって、僕という試料を静かに固定している、そんな感覚。



「……ひとつ、言わなきゃならないことがある」


 声に出した瞬間、温度が半度だけ下がった。

 ミサキがメモを止め、アスミは腕を組んだまま視線だけ刃のようにこちらへ滑らせる。ミナトはペン先を紙から離し、トウタはスマホの画面を伏せた。レイカは背筋を伸ばし、舞台袖で幕を待つ役者みたいに息を止める。

 そして、チイロは椅子の背にだらりと背中を預け、眼鏡のブリッジを押し上げ、目だけで「続けて」と促した。



「俺は……w1に、もう一人の自分がいる気がする」


 言葉が空中で解像度を持った瞬間、音のない波紋がラボの中心から広がった。

 ミサキの肩が跳ね、トウタとミナトは互いに一度だけ視線を交わし、レイカは冗談を喉奥で飲み込む。

 ただ一人、チイロだけが腕を組んだまま、僕の声色の揺れ幅と呼気の周期を測るみたいに目を細めた。


「……なるほど」

 ゲームマスターの声は、水温計みたいに冷静だった。

「つまり君は、“二重存在”を自覚してるわけだ」



「確証はない。ただ……学園祭の夜の断片が、匂いや温度ごと蘇るんだ」

 言いながら、喉の奥がざらつく。

「胸の奥で二拍の呼吸が割れて、片方はここで空気を吸い、片方はまだ水の底で肺を潰していた。汗の匂いに混じって鉄の匂いが鼻を突く。非常灯の緑は波長520nmくらいで、目の奥に残像を焼く。……あっちの“俺”がまだ呼吸してるとしか思えない」


 一拍、静寂。

 ミサキの指が机の縁を探り、僕の袖口に触れて止まる。皮膚温+0.3℃、圧は2N——彼女の“落ち着け”の合図。僕は頷く代わりに息を吐いた。


「痛覚同期、仮説としてはありえる」

 チイロは黒板の端に《疼痛同期=低帯域干渉?》と走り書きしながら、淡々と続けた。

「ただし、それは“個体の移動”を意味しない。観測者の視点から言えば、これは“干渉後のリプレイ”の可能性が高い。君のナラティブがw1のストリームに一部参照を残し、こちら(w2)で再生されてるだけ」


「……言い方が冷たい!そこが痺れる〜♪」

 レイカが思わずツッコミ。「でも……確かに舞台装置の理屈はあるわ。舞台裏から噂話が漏れて、表の芝居にノイズとして重なる、みたいな」


「舞台じゃない。モデル=可観測量だよ」

 チイロは手首をひらり。「“誰がオリジナルか”なんて問いに価値はない。観測できるのは“今ここにいる君”だけだから」



「価値は、ある。」

 アスミが冷たい声で割り込む。

「少なくとも私にとっては。w1を生きた私が今ここにいる。コピー呼ばわりは、否認。以上」

 黒目が黒板を貫く。もし今ここで「コピー」と言葉を重ねたら、彼女はチョークごと因果パラメータツリーを粉砕しかねない気迫。


「オリジナルでもコピーでも、私は“ユウマ”を見てる」

 ミサキが言葉を重ねる。声は祈りに近かった。

「体温、声、目線の動き。呼吸の浅さ。いまここで観測できるから、私にとっての“本物”は決まってる」


「“観客が見た瞬間、役は本物になる”」

 レイカがそっと口元を緩める。「舞台も恋も、同じ理」



「じゃ、俺は……」

 気づけば“俺”で、言葉が出た。

「もし俺がこっちの“コピー”だとしても、今やってる“記録”に意味はあるのか?」


「あるに決まってる!」

 ミサキが即答し、トウタが親指を立て、ミナトが「非自明に正」と短く付け足す。ミナトはついでに数式を一行、黒板の隅へ。

《Id(実在) := I(観測)∧C(継続性)∧R(関係性)》——論理記号での定義づけ。


 チイロは黒板に一本の線を引いた。

《実在の条件=観測 × 継続性 × 関係性》

「“誰かに観測され続けること”“過去からの連結が保たれていること”“他者との関係が更新されること”。この三つが揃ってれば、少なくともNOXの定義では“本物”。……プリクラで“加工前と加工後どっちが自分か”悩んでるのと同じで、悩む必要はゼロです」


「比喩が雑!」

 僕が即ツッコミ。

 レイカが吹き出し、空気がわずかに緩む。だが表面張力の下、緊張は解けていない。青いLEDの瞬きが、脈のように部屋の奥で息づく。



 そのときだった。

 黒板の「w1/w2」のスラッシュが、ふっと二重に見えた。

 蛍光灯のフリッカーが60→120Hzに跳ね、青LEDの点滅が5/4拍子に崩れる。——合図だ。

 耳の奥の気圧が変わり、世界が水に浸かる。——来る!


——カウントダウンのLED。白い数字。

——ドームの曲率に沿って走る亀裂。最初は髪の毛、次に蜘蛛の巣、最後は白い稲妻。

—— 「——演目は間もなく終了です」と女声。演目? 何の。

天井のスピーカーは最初SEで水を流し、途中から本物にすり替える。これは、悪意のクロスフェード。


—— 「この演出は実験です」


 実験……だと? 実験?何なんだ……。

——ペンライトが一本、波に飲まれて、青が黒に溶けていく。

——誰かが僕の名前を叫び、誰かが僕の袖を掴み、誰かの指が離れる。

——鉄骨が軋む。4k付近の耳障りなピーク。

——血の匂いは金属イオンの酸味。吐き気は迷走神経の反射。

——ミサキが、倒れて——


「ユウマ!」

 現実のミサキの声が、氷を割る。

 僕は息を吸っていなかった。肺が灼ける。指先に冷えと痺れが走る。視界の縁に数式が滲む。


「4で吸って、7で止めて、8で吐く」

 ミサキの掌が僕の手首に触れ、脈を数える。拍が彼女の呼吸と同期し、迷走神経が戻っていく。

 チイロが机の上からペットボトルを滑らせる。首筋に当てると、神経が“こちら側”に戻ってくる。


「……大丈夫」

 声はかすれていた。僕はうなずき、痛みが引くのを待った。断片の洪水は、退いた後の砂のように細かい粒だけを残して引いていく。


「今のはw1のフレーム侵入。強度は中」

 チイロが淡々とログを付ける。

「ただ、この“侵入”がユウマを二重にするわけじゃない。強いエングラムが同相写像みたいに重なってるだけ」


「“だけ”って言わないで」

 アスミが低く言う。

「その“だけ”に、私と彼の半分が毎晩沈むの」



「次に進めるなら、“どちらがどちらに影響しているか”」

 ミナトがペン先で机を二度叩く。「片方向か双方向か。デコヒーレンス速度差の推定が鍵。w1→w2の再生が遅ければ、こっちの行動が先行できる」


「用語の暴力」

 トウタがぼやきながら、こっそり《#ユウマ二重存在説》とメモを作る。

「世論に出すな」アスミの射抜く視線。トウタの親指が素直に戻る。

 レイカは息を整え、「今の呼吸指導、第二幕のクライマックスに使える」と小声で呟き、ミサキに半眼で睨まれてしゅんとする。


「……ユウマ。もし痛むなら、

 私のところに来て。その……夜でも」

アスミの声は氷の下の火。焦燥と決意の温度が同居している。


「いいよ、それは私がやる」

 ミサキが即座に割り込み、拳を握る。

 「体調管理は私の仕事だから」


「どっちでもよくない?」

 チイロが火種を投げ入れ、すぐに自分で消火器を構えるみたいに手を叩く。

「はい、尊い指数↑。議論は保存。ユウマ、記録の一文を残して」



 僕は深呼吸して、言った。

「俺は、w1にもう一人の俺がいる気がする。確証はない。でも不確かさごと、今はここにいる“俺”を選ぶ」


「よろしい」

 チイロが頷き、黒板に最終行を書き加える。

《結論(暫定):ユウマ=観測可能な“本物”/w1の自我ストリームとの干渉あり》

 続けて、さらりと赤で補足。

《※“本物”の定義はNOXローカル。女子高生IRB準拠》

「ローカル定義でも、君が立つ床にはなる」


「床……」

 僕は思わず見下ろす。ゴムタイルの黒。けれど視界の端には、まだフローリングの木目が二重写しになる。

 あの床は23℃。この床は20℃。

 温度差3℃ぶんの現実が、足裏で擦れる。



「続きは次。“場所の干渉”——西教会と水族館のズレ、学園のトラス」

 チイロがラボを見渡す。蛍光灯が一度だけ瞬いた。

 ミナトは板書の端に境界条件を書き足す。DirichletかNeumannか、流束Jの条件をどう置くか。

 トウタは“現地写真の時刻ズレまとめ”と題したフォルダを開き、レイカは「舞台転換の暗転時間=干渉窓」と書いたメモを懐に滑り込ませる。

 ミサキは僕の手首から指を離し、代わりに上腕に軽く触れる。今は落ち着いている、と皮膚温で告げるタッチ。

 アスミは何も言わず、黒板の《w1/w2》を見据える。切断線ではなく、縫合線として。


 僕らは同時に顔を上げる。

 西教会の非常灯の緑。

 水族館の水音。

 学園の崩れるトラス。

 それぞれの舞台に刻まれた惨劇の演算子が、どこで断層となり、どこで再接続するのか。


 観測と愛と記録の三角測量は続く。

 足元の地層が、確かに鳴っている。



 その夜、ログの最後に、僕は自分の言葉で一行を足した。

 ——“本物”は、観測され続ける者の側に立つ。

 コピーかどうかは、演算よりも、関係で決まる。

 だから僕は、今日もここにいる。

 “俺/僕”のスイッチを抱えたまま、w1の水音を連れて。

 デスゲームの残滓は理不尽に、筆舌に尽くしがたく、それでも確かに“記録”として。

 それを抱えたまま進むことを、今夜の僕は選んだ。


 暫定結論は出た——「今ここで観測され続ける自分こそが本物」。けれど、問いは消えない。

 次に待つのは“場所”の干渉だ。西教会と水族館、そして学園——異なる舞台に同じ惨劇の演算子が刻まれている。

 地層のように重なる記憶が、どの層で断層となり、どこで再接続できるのか。

 観測と愛と記録の三角測量は続く。僕たちの足元で、静かに場所が鳴っている。


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