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Chron0//≠BreakerS  作者: 時任 理人
固定点1981編

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EP125. 眩しい座標の代用品

 これは、報告書じゃない。

 提出先も、承認者もいない。

 だからこそ、ここに書く。


 この世界線は、私を殴らない。

 殴らない代わりに、撫でてくる。

 湯気、畳、味噌汁、笑い声、通学路――生活の柔らかさで、私の輪郭を薄めてくる。


 怖いのは、矛盾や異常じゃない。

 怖いのは“自然”だ。

 自然は固定で、固定は逃げ道を削る。


 私はいま、三日目の朝にいる。

 最悪なはずの状況なのに、最悪に慣れてしまう匂いがする。

 その匂いに、私の神経が「懐かしい」と反応してしまう。

 ――その瞬間が、いちばん危険だ。


 だから、記録する。

 感情を、生活を、言葉の針を、全部。

 私は「ここに馴染んでいく自分」を観測して、拒否しないといけない。


 矢那瀬ヒカル。紙の上の若き父親。

 眩しい名前で、私の血縁を差し替える装置。

 私はまだ彼に会っていない。

 会っていないのに、もう生活が彼の形を先に作り始めている。


 今日、私は学校へ行く。

 ――行く、という動詞が、すでに固定点だ。


 だからこのログは、三日目の朝から始める。

 “明日”を当たり前にしないために。

 当たり前にした瞬間、私はここで生きてしまうから。


 三日目の朝は、最悪なはずなのに――最悪に慣れてしまう匂いがする。

 その匂いが、いちばん怖い。



 目が覚めた瞬間、私はまず「どこだ」と思う。


 天井。畳。襖。障子の向こうの白い光。

 玖条家の“広すぎる安全”じゃない。

 匂いが違う。湿気の質が違う。味噌汁の残り香が近い。


 (……ああ。リツコの家だ)


 “家”という単語が、私の内側で引っかかる。

 ここは私の家じゃない。

 でも、昨日の夜に「寝ろ」と言われて、布団を用意されて、襖が閉じて。

 その流れが、あまりに生活として自然だった。


 自然は固定だ。


 私は布団の中で息を整える。

 吸う、二拍。吐く、三拍。


 (まだ、三日目。まだ、馴染むな)


 起き上がると、畳が冷たい。冷たいのに、それが「季節」だと分かってしまう。

 分かる、という感覚が危険だ。

 この時代の手触りが、私の神経に入り込んでくる。


 枕元に時計がある。丸い。針。

 秒針が刻む音が、やけに大きい。


 カチ。カチ。カチ。


 昨日は、秒針が頭の中で鳴っていた。

 今日は、本当に鳴っている。


 (……世界が私をからかってるのか、それとも私が弱ってるのか)


 どちらでも同じだ。

 結論が出る前に、生活が進む。


 襖の向こうで、軽い足音。


 「起きた?」


 リツコの声。

 昨日の“説き伏せる声”じゃない。

 いつもの温度。朝の温度。


 私は、返事が一拍遅れる。


 「……起きた」


 襖が少し開いて、リツコが顔だけ出す。

 寝癖がある。寝癖があるのに、可愛いとか思った自分が腹立たしい。

 感情は定着の接着剤だ。


 「昨日、眠れた?」


 気にしてる。

 気にするという行為が、関係を作る。


 「……まあ。途中で目は覚めた」


 嘘ではない。

 目を開けると確定するから、開けない努力をした。

 でも努力って、睡眠の敵だ。


 リツコはふうん、と短く息を吐いて、視線を少し逸らした。


 「……よかった」


 “よかった”の言い方が、妙に照れている。


 私は眉をひそめる。


 「なに、それ」


 リツコは少しだけ頬を掻いて、言った。

 そこで言うのか、というタイミングで言った。


 「……なんかさ。昨日から」


 一拍。

 この一拍が、嫌に丁寧だ。

 放送部の間じゃない。本人の間だ。


 「同い年の姉妹ができたみたいで。ちょっと、嬉しかった」


 姉妹。

 その単語が胸の奥を軽く叩く。


 私は固まる。

 固まったくせに、頭だけが高速回転する。


 姉妹。家族。生活。

 固定。固定。固定。


 (……やめて。そんな言葉、今の私には毒)


 でも、リツコの言い方は軽い。

 重くしないための照れ。

 照れは、誠実の形をしている。


 私は、昨日の自分を思い出す。

 名簿に食いついて、理屈を振り回して、彼女に当たり散らした。

 あれは検証じゃない。否定だ。

 私の恐怖を、彼女に投げつけただけだ。


 (……最低)


 反省が先に来るのが、さらに腹立たしい。

 反省は“この生活を続ける前提”の感情だから。


 私は目を逸らして、乾いた声で言う。

 「……昨日、ごめん。質問、やりすぎた」


 リツコは、あっさり言う。

 「うん、やりすぎ」


 即答。

 救われる。

 救われるのが、怖い。


 「でも」


 リツコが続ける。

 その“でも”が、怖い。


 「やりすぎるのって、怖いときでしょ。分かる」


 分かる。

 その言葉が、私の背中を少しだけ支える。


 支えるな。支えるな。

 支えられたら、立てなくなる。


 私は布団を畳む。

 動作に集中する。

 動作は固定点になりにくい。

 言葉より安全だ。


 「朝ごはん、あるよ」


 「……ありがとう」


 言ってしまう。

 ありがとうは固定だ。

 でも言わないと、ここでは不自然になる。


 私は立ち上がって、制服――じゃない。

 リツコが貸すと言った“影村”の制服を思い出す。


 (制服を着る=学園に入る=生活が続く)


 胃がきゅっと縮む。

 縮む胃の感覚が、現実すぎて嫌だ。


 洗面所へ行くと、水が冷たい。

 冷たい水は嘘をつかない。

 嘘をつかないものほど、世界を本物にしてしまう。


 鏡の中の自分は、私だ。

 顔だけは私だ。

 でも戸籍は矢那瀬だ。

 父はヒカルだ。

 養子だ。


 (……私、どこまで“私”なんだろう)


 台所で味噌汁の湯気。

 湯気は優しい。

 優しいものは罠だ。


 リツコは普通に箸を持ってる。

 箸を使うのが当たり前の世界。

 私の世界と重なる部分が、いちばん危険だ。


 「今日、緊張してる?」


 「してない」


 「してる」


 くそっ、腹立つ。

 でも、当たってる。


 私はお椀を両手で持つ。

 両手が温かい。

 温かいと、心が緩む。

 緩むと固定が進む。


 (……この世界、ほんとに性格悪い)


 朝ごはんを食べ終える頃には、時間が勝手に前へ進んでいる。

 進む時間が、私を置いていく。


 リツコが鞄を肩にかける。

 その仕草が“通学”の仕草だ。

 自然に見える仕草が怖い。


 「行こ」


 「……うん」


 “行こ”が、命令じゃない。

 誘いだ。

 誘いは拒否しにくい。

 拒否すると、自分が悪者になるから。


 玄関を出ると、空気が違う。

 朝の冷たさ。車の音の古さ。

 街が角ばっている。


 通学路。

 通学路という概念が、私を縛る。


 (今日から私は、“影村学園の生徒”として歩く)


 歩くだけなのに、重い。

 歩くって、世界に足跡を残すから。


 リツコは横を歩きながら、少し声を落とす。


 「……ヒカルさんのこと」


 その名前が出た瞬間、背中が冷える。

 体が勝手に反応する。

 血じゃないのに、反応する。

 それが悔しい。


 「うん」


 「なるべく早めに調べておく」


 “調べる”という言葉が、私には救いだ。

 でも、調べる=固定点を増やす、でもある。


 「住所も、名簿のままじゃないかもしれないし」


 「……転勤、あり得るって言ってたね」


 「そう。技術職って、動く」


 昨日の夜と同じ言い回し。

 でも朝の光の中だと、妙に現実味が増す。


 リツコは、わざと軽い調子で付け足す。

 「だからアスミさんは、今日は学校に集中。余計なこと考えない」


 「無理」


 即答してしまう。


 リツコは笑う。

 「無理って言うな。ほら、顔」


 「なに」


 「眉間」


 また眉間。

 私は反射で眉間を押さえる。

 押さえた瞬間、ちょっとだけ笑いそうになる。


 笑ったら固定される。

 でも、笑わないと壊れる。


 「……分かった。今日は、学校」


 「うん。今日は、学校」


 リツコの声が、妙に優しい。


 私は、その優しさを拒否したい。

 でも拒否できない。


 なぜなら――今の私は、誰かの優しさがないと、前に進めないから。


 通学路の角を曲がると、遠くに校舎が見える。

 影村学園。

 昨日までは“固有名詞”だった。

 今日は“行き先”だ。


 行き先は固定点だ。


 リツコがさらっと言う。

 「昨日も話だけど、クラス、同じにしたから。キョウジとシズクもいる」


 その言葉の安心感に、私は一瞬だけ救われてしまう。


 (……最悪)


 救われた瞬間、背中の視線が濃くなる気がした。

 嫉妬。所有。祝福みたいな圧。


 ――ほら。悪くないって思った。


 私は歯を食いしばる。

 でも、心の奥のどこかで、否定できない。


 “悪くない”は、固定の入口。

 だけど今は、入口がないと息ができない。


 私は、校門に向かって歩く。

 三日目の朝。

 生活が、また一歩進む。


 (……明日を当たり前にするな)


 自分に命令する。

 命令しながら、足は止まらない。


 止まれない。


 そしてそれが――この世界のいちばん怖いところだ。


――


 教室の前に立たされた瞬間、私はまず「音」を数えた。


 廊下の床板が鳴る、きし。

 教室の中のざわめきが、波みたいにうねる。

 チョークが黒板を擦る音。窓の外の運動部の掛け声。

 ――ぜんぶが、“学校”という現実の周波数で揃っている。


 揃っているのが、怖い。


 ここは、私のいた世界じゃない。

 なのに「学校の朝」だけは、どこまでも同じ顔をしている。

 同じ顔をしているものほど、固定が早い。


 (落ち着け。いまは検証じゃない。生存だ)


 隣にいるリツコが、私の袖を軽く引いた。

 「大丈夫。変に構えなくていい。……たぶん」


 “たぶん”がつくのが、彼女らしい。

 根拠のない励ましじゃなくて、現実と折り合う言い方。


 そのまま教室の引き戸が開く。


 ざわっ。


 空気が一段、軽くなる。

 ――視線が集まる。視線は固定点だ。固定点は針だ。

 針が刺さると、糸が通る。


 (糸で縫われるな。縫われるな)


 なのに、前に出される。

 生活はいつも、こちらの準備を待ってくれない。


 黒板の前に立ったのは、担任だった。


 女性。若い。

 若いというより、“新人”の匂いが露骨にする。


 髪は明るめで、動きがやたら大きい。

 腕を振るたびにチョークの粉が舞いそうで、舞ってないのに私の脳が「舞った」と処理する。

 処理落ちは私の特技じゃない。…いや、今は特技になりつつある。最悪。


 「えーっと! みんな、おはよー! 今日ね、すっごく嬉しいことがあります!」


 こっ、声が明るい。明るすぎる。

 明るさは、現実の接着剤だ。

 暗いと剥がれるけど、明るいと貼り付く。


 「転校生――じゃなくて、編入生? えっと、言い方…あれ? どっちだっけ?」


 教室が笑った。

 “笑い”は共同体の合図だ。共同体は固定装置だ。


 担任は、黒板の端に名前を書いた。


 西野あかね。


 字が丸い。丸い字は、性格が丸い。

 丸い性格は、厳密さが弱い。

 弱い厳密さは、今の私には脅威と救いの両方になる。


 「西野あかねです! みんなからは……あかねちゃんって呼ばれてます!」


 それ、自分で言うんだ。

 その図太さと素直さが、逆に清々しい。


 「ね、ね! 今日は新しい生徒が来てくれて、ほんとに嬉しいの! 先生、昨日から…えへへ、緊張してた!」


 緊張してたのは私の方だ。

 でも教師が緊張してると、場の緊張が散る。

 散った緊張は、私の逃げ道にもなる。


 西野先生が、ぱっと横を向いた。


 「リッさん! あ、リッさん! ちょっとこっち来てもらっていい?」


 ……リッさん。


 私は反射でリツコを見る。

 リツコは「やめてほしい」と言わない。

 言わない代わりに、眉だけがほんの少し動く。

 うん、あれは耐えてる眉だ。


 「……はい」


 リツコの返事は淡い。淡いのに、教室の空気が一瞬だけ整う。

 “理事の娘”という権限が、ここでも静かに効いてる。


 西野先生が私の方を向き直る。


 「じゃあ改めて! みんな、新しいクラスメート! 矢那瀬アスミさんです!」


 喉の奥に引っかかる。

 私はこの状況を、まだ飲み込めてない。


 (矢那瀬アスミ、って呼ばれるたび、私は固定される)


 固定されるな、と思う。

 でも名前を呼ばれないと、存在できない。

 存在すること自体が、今の私の罠。


 私は一歩前に出る。

 足音が教室の床を叩く。

 叩いた瞬間、全員の視線が“私”という一点に収束する。


 収束は条件だ。

 あの砂場の少年の声が、喉の奥で再生される。


 「“同じ”って言える基準がないと、帰ったって言えない」


 やめろ。いまは学校だ。

 学校は、世界線の狩場だ。


 「矢那瀬アスミです」


 声が少し硬い。

 硬い声は“新しい人間”の声だ。新しい人間は守られる。

 守られると、定着が進む。

 (守られるな。守られるな)


 「えっと……」


 言葉を選ぶ。

 選ぶこと自体が危険だ。選んだ言葉は世界に刺さる。刺さると固定される。


 「……突然の編入で、ご迷惑を――」


 ……硬い。硬すぎた……。

 ここは学園。昭和五十六年。

 令和の会釈は、浮く。浮くと目立つ。目立つと固定される。


 私が言葉を修正しようとした、その瞬間。


 キョウジは、腕を組んで軽く笑っている。

 でも、昨日の“空白”を責める顔じゃない。


 「やっと来たな」


 小声。

 からかいじゃない。


 「二日目サボりは、ちょっと心配した」


 軽い言い方。でも目は軽くない。


 私は視線を逸らしながら答える。


 「……事情があったの」


 「そりゃあるよな」


 それ以上は踏み込まない。

 軽さはある。でも無神経じゃない。

 その一言で、私は少しだけ肩の力が抜ける。

 (……ちゃんと、待ってたんだ)


 待たれるという事実が、胸を温める。

 温めるな。


 シズクは、相変わらず距離が近い。

 「アスミちゃんおかえり!」


 おかえりって、大げさ過ぎる……。

 そして、その単語が危険すぎる。


 「昨日、来ないからさ! 風邪かと思ってさ! キョウジと“様子見に行く?”って話してたんだよ!」


 「家知らないだろ」


 キョウジが淡々と突っ込む。

 シズクがさらに踏み込む。


 「えっ?キョウジは知らないの?アスミちゃんはリッさんの家に泊まったんだよ?

  いいな〜! 私も泊まりたい!」


 リツコが咳払いする。

 「泊まらなくていい」


 シズクが笑う。


 そして西野先生が

 「あ、リッさん。ありがとね昨日!」


 ……リッさん。

 リツコが小さくため息をつく。

 「どういたしまして」


 西野先生はにこにこしながら私を見る。


 明るい。

 空気が明るくなる。


 私は、少しだけ笑ってしまう。

 「……大げさ」


 「大げさじゃないよ! クラスの人数って、ひとり違うだけで全然違うんだから!」


 正論。

 正論が、優しい。


 キョウジが机に肘をついて言う。

 「で? アスミは、科目何得意なんだよ」


 「……何って」


 「理数っぽい顔してる」


 「顔で決めるな……!」


 教室が少し笑う。

 キョウジは肩をすくめる。

 「まあ、二日目飛ばす奴はだいたい事情持ちだ。深掘りしないから安心しろ」


 安心しろ。

 軽い言い方。でも、配慮がある。


 私は赤面する。

 からかわれてるのか、守られてるのか分からない。

 「……別に、守られなくていい」


 「守ってない。ただのクラスメイトだ」


 その距離感が、絶妙だ。


 近すぎない。

 遠すぎない。

 固定されすぎない。



 「席こっちだよ!」


 シズクが私の腕を引く。


 近い。でも押し付けがましくない。


 「ね、放課後さ、校舎案内もう一回する? 一日目ちゃんと見てないでしょ?」


 一日目。

 確かに、あの日はまともに見ていない。

 「……たぶん、見てない」


 「でしょ! じゃ決まり!」


 決まり、が早い。

 でも嫌じゃない。



 「あ、席説明する前に出席簿! えっと……あれ? どこ置いたっけ?」


 教室がざわつく。


 「あかねちゃん、机の上」


 「ほんとだー! ありがと!」


 笑いが起きる。

 西野先生は、赤くなりながら笑っている。


 未熟。

 でも、嘘がない。

 私はその様子を見て、ふと思う。

 (……この世界、作り込みが甘い)


 もし誰かが設計しているなら、こんな無駄なドジを入れるだろうか。


 いや、入れる奴もいる。

 人間らしさは、最強の擬態だから。



 私は席に座る。


 机の木目。

 窓からの光。

 キョウジの横顔。

 シズクの明るい声。

 リツコの静かな視線。


 昨日まで“観測対象”だった教室が、今日は“居場所”になりかけている。

 それが、いちばん怖い。


 キョウジが小声で言う。

 「まあ、改めて。よろしくな、アスミ」


 私は答える。

 「……よろしく」


 シズクが笑う。

 「これでみんなそろったね!」


 揃った……。

 人数が揃うと、安定する。

 安定は固定。

 そして、固定は、帰還を遠ざける。


 でも、私はほんの少しだけ思ってしまう。

 (……悪くない)


 その瞬間、背中の奥がぬるくなる。

 視線。

 祝福みたいな圧。


 ――ほら、三日目。


 私は机の下で、そっと拳を握る。

 (まだ、飲まれるな)


 でも、呼吸は昨日より楽だ。


 それが、三日目のいちばんの裏切りだった。


 三日目の朝は、私を殺さなかった。

 むしろ、私を“生かす”方向に整えてきた。


 リツコの気遣い。

 姉妹という言葉。

 眉間をからかう軽口。

 通学路の冷たさ。

 教室の笑い。

 新人担任のドジ。

 キョウジの軽い心配。

 シズクの距離の近さ。


 ――全部、優しい。

 優しいからこそ、残酷だ。


 優しさは、ここで生きる理由を増やす。

 理由が増えれば増えるほど、帰る理由は薄くなる。

 私はそれを分かっているのに、分かっているだけでは止められない。


 今日、私は少しだけ笑ってしまった。

 少しだけ救われてしまった。

 その瞬間、背中の奥がぬるくなった。

 視線――祝福みたいな圧が、確かにあった。


 最悪なのは、その“ぬるさ”が嫌いじゃないことだ。

 嫌いじゃないという感情は、定着のサインだ。

 私が恐れているのは、敵意じゃない。

 私が恐れているのは、受け入れてしまう自分だ。


 でも、ここで一つだけ、結論を残す。


 私はまだ、飲まれていない。

 拳を握れた。

 音を数えた。

 呼吸を刻んだ。

 危険を危険として認識できた。


 それだけで、今日は勝ちにしていい。

 勝ちにしないと、次がない。


 明日は、もっと自然になる。

 もっと馴染む。

 もっと笑うかもしれない。

 そして、そのぶん戻れなくなる。


 だから私は、今日の最後にもう一度だけ命令する。


 ――“普通”を信じるな。

 ――“優しさ”に溺れるな。


 信じて溺れた瞬間、私は紙に負ける。

 生活に負ける。

 帰還座標を、自分の手で捨てる。


 それでも明日、私はまた学校へ行く。

 行ってしまう。


 止まれない自分を、止めるために。


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